永遠の香りと永遠ともいえる罪業
次に意識が戻った時、僕はベッドに横になっているらしく、僕の左手は誰かに握られていた。
これも、あの白い男だろうかと一瞬脅えたのだが、違うとわかっても僕は瞼を開けることなく真っ暗な状態に身を置いていた。
目を開けたく無かったというのが真実だ。
僕の左手を握る人物からは「エタニティ」の香りが漂い、僕は目を開けてその人の手を放す事をしたく無かったのだ。
それに、未だにその香水を使っている彼に、再び縋りつきたい自分を抑えるには目を閉じていた方がいいだろう。
あれは親子ごっこを始めてから半年は経った、玄人が五歳の二月の頃だ。
それまでも玄人は彼の頼みで、「彼の本当の弟」を探すべくいろいろなところに連れまわされていた。
その日はチョコが好きな玄人に、土産だとデパートで催されていたチョコレートフェアに寄り道をしたのだが、玄人はチョコを買ったら彼と別れて家に帰らなければならないからと、あえてチョコを選ばずに別の売り場に彼の手を引いていった。
陶磁器の好きな玄人はガラス瓶も大好きだから、様々な形のある香水の瓶に玄人が魅了されても孝継が不思議に思わないだろうと、子供のくせに打算をもしていたのである。
「あれは、何?」
指をさして孝継に尋ねたが、玄人はそれが何か知っており、知っていても必ず何かを孝継に尋ねることにしていた。
少しでも孝継と会話をしたかったからかもしれない。
香水の瓶を指さした玄人を孝継抱き上げると、香水の瓶の棚の上段の右端に近づけた。
四角いだけの透明な瓶で面白みは無かったが、瓶の脇に置かれた栞のような紙から漂うかすかな香りから、それがその日に孝継がつけていた香りだという事はわかった。
「パパの香りだね。でも、パパの匂いの方がいい匂いだ。」
玄人は彼の首に抱き着いて、幼稚園の他の子が父親にするように、孝継の肩に頭を持たれかけさせたのだ。
孝継が一瞬体を強張らせたのはわかり、やはり自分は父親に愛されないのだと子供心に理解した時、玄人は生まれて初めて他所の子供が父親にされるように、偽物だけど、玄人の父親だと自称している男に抱き締め返されたのである。
そしてあの日から本当に玄人と孝継は本気で親子ごっこをはじめ、あの日以来孝継の香りは「エタニティ」で、「本当の弟」を探す目的以外の時間を玄人にも割くようになったのである。
孝継の子供となった玄人のために。
これも幻影なのかもしれないが、今までと違って温かく懐かしい安心感を僕にもたらしているのは、手の感触に現実味を帯びた温かさと確かさがあるからだろう。
僕を玄人と思って僕の手を我が子のように握りしめる彼を騙していると僕はわかってはいたが、僕に孝継の手が縋りついても振り払えるはずもなく、自然に左手がその手を握り返そうと指先に力を籠めた。
指先の動きに連動したのかびくりと体が動き、僕は動きによって引き起こされた痛みにあえいだ。
腹と胸から軋む痛みが急激に僕を襲い、痛みに僕の全身に力が入り、力が入った事で右手の甲が鋭い痛みで爆発したかのようだった。
それはもう、金づちで手の甲を砕かれたような。
「あぁ!」
「目覚めたのか!玄人!」
僕の左手を掴む手は力を増し、僕も命綱のように彼の手を握り返そうとしたが、再び体に力を込めてしまった事で全身が悲鳴を上げたのだ。
「あぁ!」
「あぁ、握られると痛いのか!痛いんだな!可哀想に!」
彼は僕の手を放って、どこかへと駆け出してしまった。
どうして僕は瞼を開けなかったのだろうと、彼がいなくなった部屋、彼以外のいない空っぽの空間に身を置きながら、いつのまにか涙を両目から流していたが、それでも僕は目を開けなかった。
開けられるわけはない。
僕は玄人の記憶を覗いて、玄人が彼と彼の弟の仲を裂いた事を知っている。
僕が実の弟の真を見つけ出しても、孝継は彼を父である橋場善之助と血が繋がっていない母親の浮気の子であるからと、橋場の家には連れ帰らなかった。
けれども実の弟と公表できない真を孝継は可愛がり、自宅に住まわせて面倒を見ていたのである。
だからこそ玄人はその弟、真を表に出したのだ。
目論見通り、玄人が表に出したからこそ真は孝継の家から追い出され、偽物だと表ざたになったがために偽物の子供であった峰雄も橋場の家から追い出され、追い出された峰雄は真のせいだと恨み、ついには真が峰雄に惨殺されたのだ。
「玄人が術具を使わなくても、玄人によって連鎖した不幸が起きている。それなのに、僕が玄人でいたいからと何もしなくてごめんなさい。見ない振りばかりしてごめんなさい。」
「これからも起きるよ。僕はもう八人も殺している。」
僕はぱっと目を見開いた。
僕を見下ろしているのは十二歳のころの僕の顔をした、それ以外は真っ黒な人影だ。
正太郎の船の中で僕に囁いた、あの、影。
「君は?」
「しー。今は眠ろう。もうちょっと体力が必要でしょう。」
黒い影の隣に真っ白な影。
気付けば、怖い夢を見た子供のように、僕は甲高い叫び声をあげていた。