傷に手を当てると悪化する
「きゃあ、泥が!」
男が宣言したとおりに、目に見えないが確かに存在する泥土に、僕の体は巻き付かれて引き込まれて底なしの底へと沈んでいくのだ。
「あぶ!いや!死んじゃうよ!助けて!」
僕を蹴りつける足、僕にかかる水、穴の開いた僕の右手。
「ぎゃあ、あああ、ああああ!」
体は現実と同化し、僕は痛みと、痛みだけでなく窒息という恐怖にまで落としこまれたのである。
体育座りだった体はまっすぐに、空気を求めるかのように両手を上へ上へと伸ばし、声を出そうにも口の中は汚泥が流れ込んでくる。
「使いなさい。」
泥土の中と言う真っ暗闇でも、僕の耳には白い男の声がはっきりと聞き取れた。
「使うんだ。」
「嫌だ!助けて!」
そう叫ぼうとしても、ごぼり、と、泥土につかりきった僕は、叫ぶことも、呼吸さえも出来ないのである。
僕は苦しみの中で空気を求めて上を見上げた。
透明な水面がきらきら瞬き、僕がいるのはプールの底。
上へと手を伸ばしていたはずの僕は、手足を大の字に貼り付けられて仰臥していた。
僕の手足を踏みつけるのは、子供達の足、足、足。
「もうやめて!お前らなんか、みんな、みんな、死んでしまえ!」
これは武本玄人が息を引き取った時の最期の言葉だ。
僕が怖がるだけで恨みを持たないのは、僕が武本玄人ではない証拠そのものではないかと、僕は玄人の叫びを叫んで気が付いた。
そして、あの時の武本玄人が叫んだ時、その時に生まれて初めて抱いた殺気に、叫べないはずの彼の代りに胸がぱっくりと開き、真っ黒い蜘蛛達がそこから次々に溢れ出して、そこら中に広がっていったのである。
僕は泥の中で、この状況は玄人が作り出したものだと、これは仕方が無いんだと、ゆっくりと目を瞑った。
みんなが不幸になるのは、僕を憎むのは、全部、全部、玄人のせいなのだ。
あの子が、あの「里桜」という子は、あのプールにいた同級生の姉ではないか。
妹で僕の加害者の一人である安藤夕映子は、意地悪な三人組の一人だ。
友人の二人の少女と一緒になって僕の不幸を笑っている。
僕から出た真っ黒な蜘蛛を顔に貼りつかせて。
エントランスの壁に、部屋の前のポーチにと、僕の名前を書き殴り汚す青年達の背中にも僕の術具が、黒い蜘蛛が貼り付いていた。
青年達の脇で笑うのは、指が二本足りないロングコート姿の若い男。
里桜の婚約者だった、立松に殺されたはずの、彼、だ。
「あぁ。」
憎しみは不幸を呼ぶ。
夕映子も僕の望み通りに、僕のように窒息させられて殺されたのか。
僕が術具を放ったから。
「かえっておいで。帰ってきて。もう、玄人の代りに人を恨まなくてもいいから。復讐もしなくていいから、だから、戻っておいで。一緒にあの世界に行こう。生きている人がいない、僕達しかいないあの世界へ。」
僕から吐き出された黒い蜘蛛達は一斉に僕の体に戻ってきたが、僕は彼らを体に受け入れた事で完全ではないが変異をしてしまったのだと認めるしかなかった。
僕は生きられる。
体に入った蜘蛛達が僕の頭に壊れた僕の体の内部を見せ、僕は反射的にそれが元通りになることを望んだのだ。
僕の体は蜘蛛達によって修繕され、僕の命は繋がれた。
怪我をしたら無意識に手で怪我した場所を押さえる、それと同じ行為だから仕方が無いと思っても、手で押さえたからこそ悪化する火傷のようなものなのだ。
「嘘つき、さいてい。」
ごぼり。
僕は今までの僕であった最後の息を吐きだした。