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お前を失うのならば鬼になろう(馬4)  作者: 蔵前
九 僕には何もわからない この先の事も
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手に入らないもの

 目の前にはホットケーキ。

 食べろと言われても拘束されている僕が動けるわけもない。


 僕の声は絶え絶えだが、それでも目の前の男の機嫌を損ねたくないという脅えにより、一語一語、なんとか相手に聞こえる様に、食べられないと、発音をした。


 空っぽの胃は熱を帯びるほどに痛みを訴えており、食欲どころか息をするたびに軋んで、痛む胸によって僕は酸素すら不足しているのだ。


「安心して、俺が食べさせてあげるから。」


 丸テーブルを挟んだ向かいには、派手なスカーフを首に巻いた黒いシルクシャツに黒パンツ姿の立松がおり、彼は僕に微笑むと僕のために用意したというホットケーキにナイフを入れた。


 立松が両手に持つカトラリーは、普通のカトラリーではなかった。


 左手には三本爪の熊手のような物が握られ、右手に持つナイフなどは、柄が象牙のようなもので装飾されているが、刃先はそれはもう切れ味が良さそうだ。

 ナイフはくしゅっと音をさせてホットケーキの生地に沈んでいき、僕はぎゅうっと自分の目を閉じた。

 ホットケーキを切っている男が、女の子の柔らかい腹部にそのナイフを差し込んだ映像が目の前で展開されたからだ。


 正太郎の船で経験した時と同じ、二重の映像。


「さぁ、目を開けて。」


 甘いが狂気の籠った声に脅えた僕は閉じていた瞼を反射的に開け、目の前に差し出されていたナイフの切っ先に刺さっているケーキの一欠けらから眼が逸らせなくなった。


「さぁ、口を開けて。」


 口を開けたらお終いだ。

 彼は僕の口を内部からそのナイフで切り裂くつもりなのだ。


「言うことを聞けない子は、お仕置きだね。」


 わざとらしくため息を吐いた彼は、僕の口元からナイフを遠ざけ、しかしその代わりというように僕の右手の甲を切り裂いた。

 ナイフの刃は甲の真ん中にある骨までも削り、中指の先どころか激痛が脳天をつんざいていた。


「くあぁあああああ!」


「ほら、あーんしないから。」


 ホットケーキの一欠けらは、僕の血という赤いソースが追加されている。


「あぁあああ。」


 涙どころか鼻水と、情けないことに口からは涎までも垂れている。

 僕は痛みに歯を食いしばりながらも、体中の水分が体中の穴から流れ出そうとしているかのように、眼だろうが鼻の穴だろうが、情けないことに下までも、僕は体液の放出を止めることができないのである。


「汚ねぇな!漏らしやがって。」


「ぐほ。」


 蹴られた反動で僕は再び横に崩れ落ち、落ちた僕を吹き飛ばすような水流を浴びた。

 僕が横たわる床がびっしょりと濡れており、僕が吐いた吐瀉物や体から垂れ流された排泄物が水によって粉々にされ排水溝へと流されていく様をぼんやりと眺めながら、僕自身ぐちゃぐちゃになって水と共に流されたいと目を瞑った。


「どうして、どうして。」


 僕が葉子の家から飛び出したのは、僕が責任を果たさなければいけないという、ただそれだけの話である。

 葉子の家に届いた電話は、僕の自宅マンションの管理組合の理事長からのもので、僕の家のポーチにある粗大ごみを僕が放置しているがために大変に迷惑しているというものだった。


 とうとう祖母が買ってくれたデスクトップが捨てられたのだと僕は考え、僕はその最後の僕の品を引き取りにと世田谷に向かったのだ。

 情けないことに電車の中で僕はとうとう両親が武本玄人の死を受け入れたのだと受け入れ、僕が両親に受け入れられることは一生無いのだと、一駅ごとに自分に思い知らせながら涙を流していたのである。


 とうに自分で諦めていながらも、どうして僕は辛いのだろう。


「いつか家族になれるかもしれないね。」


 山口の言葉が脳裏に浮かび、冗談めかした彼の言葉が、彼にとってどんなに慟哭をもたらしていた切望だったのかと僕はようやく理解をした。

 彼が自分と同じだと、僕がどれほど家族を求めていたのかについて、僕がどれだけ目を逸らしていたのかと思い知ったのだ。


 僕は良純和尚が怖いから好きなのではない。

 揺るがない、絶対に縋っていられる存在だから縋るのだ。


 何も持たない僕だからこそ。


「次は親指を切り落とそうか。どの指にする?全部?指は両方で十本もあるから大変だよ。このクリームをつければ、一本ぐらいは食べられるかなぁ。」


 はっと目を開けると、僕は再び椅子に座らせられており、僕のテーブルには若い男性が上半身を押さえつけられて、僕を必死な目で見つめているのだ。

 僕は、僕の胸は、僕のものでない人の感情で満たされていた。


 絶望と、愛情。

 いや、僕が抱く感情と同じものかもしれない。

 この青年を愛しているのに、この青年との未来は自分には無いと認める絶望なのだから。

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