展望室の内と外で
「君の今のサイズがわからないからね、咲ちゃんに電話したの。そうしたら服の事なら和君だって。初めて話したけど、あの子はいい子だね。フランスまで飛んで来てくれてさぁ。彼が有名なタケヒサってデザイナーだって知って二度驚いたよ。咲ちゃんも、もう自分が花房だってバラしてもいいと思うけどね。バラしたら蔵人さんが完全にこの世にいないって認めると思っているのかな。あの人は純粋すぎて極端だよねぇ。」
そう言う事だったのかと、僕は和久にすまなく思った。
僕の記憶喪失の直ぐ後に祖父は亡くなり、だから、祖母は和久を自分の知り合いに紹介したくなかったのだろう。
和久の外見は祖父にそっくりだ。
必ず亡くなった祖父の話となるだろう。
……いや、和久は良純和尚と同い年で、僕の十は上の人間だから、違う理由があった?
「和君は蔵人さんそっくりだったねえ。あの人はプライドが高い人だったからね。花房の名で商売をしたくなかったのはわかるけど、そっくりな孫まで隠すなんてさ。僕は和君が小さい時に会ってみたかったよ。」
「ふふ。ええと、実は、祖母はとうとうばらしましたよ。横浜で大々的なパーティを打ち上げたそうです。」
「おや、まぁ。」
正太郎はおどけた表情を見せ、展望窓側のスツールに腰掛けた。
あぁ、展望室の向こうでナポレオンフィッシュが泳いでいる。
その名前は瘤状の額がナポレオンが好んだという軍帽の形によく似ている事に由来する。
スズキ目のベラ科のその大きな魚は、青緑に黄色の混ざった鱗を輝かせてゆったりと展望室に向かって泳いで来るではないか。
「さぁ、君の大好きなあの子にご飯をあげようか。」
僕の耳元であの人の優しい声が囁いた。
「どうしたの?玄人?」
「ナポレオンフィッシュが。」
「え?」
正太郎は驚いて展望窓に再び振り向き、僕は自分の頬を触り、そこに涙の後がある事に驚き、そして、海の中にはナポレオンフィッシュなど泳いでいないことにも気がついた。
小さな海亀がぱたぱたと泳いでいるだけだ。
ここはあの水族館などではなく、僕の父だと笑う孝継など隣にいない。
僕は彼に久しぶりに出会い、でも、僕はあの頃の僕ではないと知られた。
彼は僕を見て、作り笑顔を僕に向ける前に、目元をぎゅうっと歪めたではないか。
「どうしたんだい?玄人?」
「あ、ああ。ごめんなさい。目が乾燥しちゃったみたい。」
僕は自分自身を情けないと、急いで両手の手の甲やら手の平で顔に残る涙を拭い、心配して顔を覗き込む正太郎に応えようとした。
急いで笑い返さねば、と。
「おじいちゃんに延々付き合って疲れたのかな。ごめんね、君が金魚すくいが好きだったからって、君の意見も聞くべきだったのにね。」
「ふふ。艦内の生け簀での魚釣りは楽しかったですよ。僕はお日様は苦手だもの。」
「お船は好きなのにね。」
「船って芸術品でしょう。」
「全く君は武本だ。」
僕達は笑いあい、そして僕は再び正太郎心配させる挙動に陥らないように、僕の思い出した残念な記憶を振り払えるようにと、もう一度室内を見回した。
見回し、見通せ、あの錯覚はこの部屋の過去のせいなのだ、きっと。
再び部屋は過去の映像を纏った二重の輪郭となる。
「そんなものより、僕達が受けた仕打ちを見直そうよ。」
ひゅっと隣に来た何かが僕に囁くと、僕は水の底に一人仰臥して、透明な水を透して太陽の揺らめきを浴びていた。
水を通した世界は青く歪んで、僕の手足を踏んで水の上から見下ろして僕を笑う子供達は、口を大きく開けたお面のような同じ顔をしている。
「どうして僕を殺すの?お前達こそ死んでしまえばいいのに。」
「え?」
僕のものとも言えないどす黒い思念を受けたからか、僕の瞼はパッと開き、すると、開眼した眼によって部屋の中を完全に見通せた。
数人の男達がへこんだ壁を修繕する時に隠し棚までも作っている映像だ。
映像に促された僕は、気付けば引き寄せられるように隠し棚があるはずの壁に向かって歩いており、目的の壁に辿り着くや壁に掛かっている垂れ幕の引綱を、映像の男の動作に重なるようにして引いた。
シャッと衣擦れの音を響かせて垂れ幕は開いたが、幻影の中で見えた隠し棚の跡形も見えはしない。
確かに化粧板の継ぎ目がそこかしこにあるのだが、そこはただの光沢のある壁でしかないのだ。
「どうした?玄人。」
「ここに、隠し戸棚があるようなんです。」
どうやって開けるのかと壁の上下に目線を這わすと、僕の黒い蜘蛛の一匹がひゅいっと垂れ幕の引き綱のあった場所へと潜り込んだ。
蜘蛛を追うようにそこに手を伸ばすと、先程には気付かなかった小さなレバーのような突起が指先に当たった。
「ええと、もしかして、これかな。」
小型のレバーをかちりと下げると、僕の腰から下側の一枚の壁板が僕の方に倒れ掛かり、僕はそれを支えながら外して脇に立てかけてから隠し棚の中を覗いた。
そこは幾つかの金塊と、おそらく日本では違法の錠剤や大麻が少量納まっていた。
「玄人、何を。それは、どうしたんだ?そんな隠し棚、彰久が作っていたのか?彰久がそんなものを?」
心配そうに棚を覗き込む正太郎に僕は微笑んだ。
「彰久さんではありません。船のスタッフに造反者がいます。犯人捜しの前に、ひとまず警察官達と合流しませんか?」
両眉を上下に動かした正太郎は、驚く顔から期待を込めた顔付きとなった。
「本当に玄人が傍にいると面白い事が一杯だ。」
僕達は展望室の隠し戸棚を元通りにすると、展望室を出て第一甲板へと急いで向かった。
すると、エレベーターの扉が開いて僕達が最初に目にした第一甲板では、遊びを放り出して何やら真剣な顔つきで談合をしているという本当の警察官がおり、そんな警察官達の脇に立つ良純和尚は、僕を認めて、魔王のような微笑を顔に浮かべた。