展望室は二重となって凍えている
正太郎に連れられて海中展望室に入った時、僕はゾワッとしたものを感じた。
僕の周りを蜘蛛のような影が一斉にザザっと走る。
この影たちは僕の家来であり動物の霊だ。
胴体のない足だけの蜘蛛のような形の彼らは、今までは僕の夢の中にしか存在しなかったが、その夢の中という観念を払ってみれば、彼等はそこかしこにブクブクと現れて存在していた。
先日僕がこん睡状態に陥った時に、僕を助けて守ろうとしたのが彼等であり、僕は今では彼らの動きによって「危険」「安全」を測れるほどにもなっている。
島田に案内された展望室は一見王様のサロンでしかなかったが、彼等の動きによると、汚れた、危険な、場所、だ。
まぁ、それを理由にこの部屋からこの装飾を取り除けるならば、その不幸のシグナルは僕にも島田にも福音であろう。
展望室は海色と反対の砂漠の王国を思わせる絨毯が敷き詰められ、置かれたスツールやソファなどの家具は少々成金趣味の現代風なのだ。
両壁には軍艦の舳先に飾られていたような意匠の旗風の布が垂れ下がっている。
全く悪趣味で正太郎の趣味ではない。
しかし僕はその風景にゾワっとしたのではない。
この展望室の過去の姿、正太郎がデザインしていた普通のすっきりしたラウンジの映像を盗み見して怯えたのだ。
「玄人、見てごらん。君の好きな亀がいるよ。泳ぐ海亀を見れるなんて、君はツイているねぇ。明日はクジラを見れるといいねぇ。おや、どうしたのだい?」
僕は外の景色よりも展望室内の何かを探していたのである。
せっかく楽しい隠居生活を、僕達が来たせいで台無しにしたら大変だと思っていたが、この感じは僕達が来る前だ。近くても三ヶ月以上は前だ。
「ねぇ、この船の内装を何時変えたの?」
事件が起きた時は内装は今とは違っている。
僕の目に映る風景は今と過去の二重に重なった映像だ。
殴られて壁に頭を打ち付けたか、壁にはZのような形が血糊で描かれ、壁下には水着姿の女性が横たわっている。
後姿だけの体格の良い男は、死体となった彼女の様子を確かめた後、血で濡れた壁を彼女の羽織っていたパレオで拭い、しかし壁にへこみが出来ていた事に気づいて激高したか、動かない死体を強く蹴り飛ばして転がせた。
転がった遺体はゴロっと体を一回転させた。
それは水着ではなく、違う衣服を纏っていた。
紺色のシャツにブルージーンズ。
その犠牲者はむっくりと上半身を起き上がらせ、僕に振り向いた。
過去の映像の風景の中でありながら僕の姿を纏っているそれは、今の僕をあざ笑うかのように口角を上げた。
お前も同じ死体だ、という風に。
僕は体が凍りかけて息を吸い、しかし、正太郎の懐かしく柔らかい声が僕を現実に取り戻した。
「内装は息子の章久が変えたんだよ。四ヶ月前に僕が広子と陸に上がっている間に船を使いたいってね。一ヶ月くらい章久に貸したら、友人が暴れすぎて汚したからって。」
正太郎の言葉と共に、僕の目に映し出される映像は今だけのものに戻って行った。
つめていた息を僕は吐き出し、僕の身体は金縛りから解放された。
「その頃はフランスのシャトーに広子おばあちゃんと出かけていたんでしたっけね。」
僕が最近好んで羽織っているいるカジュアルジャケットは、その時のお土産として受け取ったものだ。
柔らかく着心地が良いのに形がカチッとしていて本当に僕好みなのだ。
小柄な自分の体にぴったりな所も最高だ。
母に大事なものを見つかると捨てられる僕の秘密の事情を知っているのか、彼が二着も同じものを用意して送ってくれた事には、恥ずかしさと情けなさも感じてはいたが。
「頂いたジャケットは凄く気に入っています。似合っていたでしょう。」
「うん、うん。広子が君の好きそうな柔らかい生地だからって言うからね。君の従兄の和君に生地を渡して作ってもらったんだよ。似合っていて嬉しかったよ。その水兵さんも君が来た時に着せようって広子と用意していたからね、君が遊びに来てくれただけでなく、袖を通してくれて本当に嬉しいよ。」
「はは。」
白地に水色のテープで裾や袖にトリミングのある水兵服は子供服のようでしかなかったが、無理矢理に乗船した人間が案内された船室にて、「玄人専用」と書かれた紙製タスキが掛けられた服を着ないで済ませられるほど僕は厚顔では無いだけだ。
社会の規範となる警察官達と道を説くはずの僧侶が、あそこまで傍若無人ではしゃいでいるのであれば尚更だ。
それにしても、ジャケット製作に従兄の和久が関わっていた事に驚いた。
彼は青森の土地の人の為に残してある唯一の店舗の支配人であるが、それは家業として彼が請け負っているに過ぎず、彼自身は有名なグラフックデザイナーである。
そして彼が傘下に持っているデザイナー達に服やアクセサリーを製作させ、武本の通販部門を稼がせてくれているのだ。
僕よりも有能な跡取になりそうな彼を跡取に指名しなかった祖父には、僕は自分を見出してくれたと誇らしく思うよりも違和感しか感じない。
そして、祖母の親戚が和久とあまり交流が無かった事にも。
「おじいちゃんと和君がそんなに仲が良かったとは知りませんでしたよ。」




