彼岸花は三倍体
俺達が案内された船長室にいたのは、船長でも海賊でもない、トンボ柄の甚平を着た小柄で小太りのそこらのお爺ちゃんだ。
顔の形はそら豆を想像させて、保そっくりさんに会った時に俺がカバを連想したのはその輪郭かと合点がいった。
「すいません。押しかけちゃって。こちらが僕の相談役の良純和尚様で、こちらが神奈川県警の方々です。今月神奈川で起きた連続放火殺人事件の捜査をされています。今回はおじいちゃん家の保さんの安否と、犯人が保さんの振りをしておじいちゃんを襲いにこないかと、おじいちゃんの安否を確認したかったのだそうです。」
玄人の紹介を受け坂下が状況を説明すると、正太郎は「大丈夫だろう。」と豪快に笑い飛ばし、「保は出来損ないだし、まぁ、死んでいてもいいんじゃないか。」とまで言ってしまった。
御仁のその言葉に、警察官全員が固まっていたのには大笑いだ。
「保はいいからね、せっかく玄人が来たんだから楽しもうよ。何がいい?玄人は魚が大好きだから展望室かな。潜水艇を出そうか。君は操縦できるでしょう。」
「しぃ。おじいちゃん。こ、こ、ここに警察がいるから。ぼ、僕は船舶免許無いから。」
「かわちゃんが吃驚していた顔が笑えたね。車の運転も出来ないあいつが、潜水艇は動かせるなんてさ。負けず嫌いのあいつは、そのうちに船舶免許も取るかもね。」
「かわさんは船舶免許を持っていますよ。あれは十七歳ぐらいで取れるでしょう。なんでも、どこに誘拐されても逃げてこられるようにって、あの千代子おばあ様に弟と二人でスクールに投げ込まれたんだそうです。弟は受験勉強したいと逃げたけれど、かわさんは喜んでスクールで船舶免許を取って、そのせいで大学の本命どころか二次志望も全滅したと笑っていましたよ。その頃はどこの有閑マダムに狙われていたのかな。その頃は松野さんなど影も形も無かったでしょうに。」
いつのまにか髙が俺の隣に来ていて、彼は俺の隣のチェアにそのまま座り込んだ。
「はは。あいつがあの子猫を祖母に奪われたのは、猫への優しさに惚れたと書かれたメモ付きで、白いスポーツカーがあいつの実家に送られてきたからでしたね。」
「そうです。不思議なことですが、新車なのに販売店はおろか購入者も割り出せず、それなのに完全に彼のものと登録されていましてね。送り主が探り切れないから贈与にもならないし、彼が警察に身上調査される始末です。ですが、あの家の破壊状態でも保険が全損になりませんでしたし、加害者には賠償能力が無かったでしょう。あのベンツはいい助けでしたよ。千代子さんが酷く脅えちゃった以外はね。」
「はは。あんたは鳥だけ可愛がって、猫は捨てたと公言しなさい。今後も、知らない人にも知っている人にもついていくなって、三十代の男にする忠告では無いですよね。」
「ふふ。でも、かわさんだから。」
「はは。かわちゃんって。」
同世代の普通の女性には見向きもされないのに、問題のある女性にばかり恋心を抱かれる楊について俺達はひとしきり笑い、だが、髙は急に黙り込むと、落ちかけている太陽を臨みながらしみじみと呟いた。
「玄人君は本当はこんな暮らしの中にいるはずの子供だったのですね。馬鹿話で盛り上がるだけの、危険も何もなく、愛されて囲まれるだけの平和な世界。」
「あいつを殺しかけた事、怖くなりましたか?」
元公安であった髙は、武本玄人の名で犯罪を繰り返していた者を粛正しようとして、本物の玄人の方を殺しかけた過去がある。
しかし彼は百戦錬磨の鬼でもあるのか、俺の軽口に感情の揺らぎを一つも見せないどころか、彼は俺に視線など向けず、夕闇が近づいてきた空をただ眺めている。
「あの子は可哀想だ。」
「あなたが思う可哀相とは?」
突然にぽつりとつぶやいた彼に、俺も彼と同じように空だけを眺めながら尋ねていた。
「人に嫌われないように大体何でもして、嫌って言わない。人に好かれるために好かれ続ける為に死ねと言われたら死んじゃう気がして、可哀相で。小学生時代のいじめが壮絶だったのでしょうね。人から憎まれる事を怖がって、最後まで嫌を通せない。記憶が残っていなくとも、怖いって感じるのは変ですか。僕に尋ねたあの子の表情が忘れられません。」
「皆さんに遊ばれて守られている事を実感しているからか、最近はかなり明るくなったでしょう。昨年の九月に知り合った頃と比べると煩いくらいですよ。皆さんにはあの子が死んだ人間が見える事も受け入れられましたからね。」
俺の言葉に髙はゆっくりと振りむいて、俺をまっすぐに見返した。
「だから尚更可哀相なんですよ。僕達はね、死んだ人間の処理をする人間です。遺体から死に至るまでを捜査するので、最初は被害者の死に様に苦しむのですよ。えぇ、僕もね、そんな頃がありました。けれど遺体は物同然だ。見ず知らずの人間の死にすぐに慣れます。でも彼は今そこで起きている事のように感じるのでしょう?だからあの子は感情が鈍くなっているのでしょうかね。簡単に死のうとするのも、彼には死が近すぎるからではないでしょうか。」
玄人は基本的に動物嫌いだが、以前に、髙の愛犬を無理矢理押し付けられた事があった。
髙にしては珍しい事をしたものだとその時は思ったのだが、髙には別の思惑があったのだとようやく気が付いたのである。
「あなたはクロに嫌って言わせたいのですね。嫌って言ってもあなたに嫌われないって教えてあげたいのですね。言葉ではなく実体験で。あの子を殺そうとしたあなただからこそ、あなたに反抗しても平気だって、クロに知って欲しいんだ。」
「なかなか難しいですよ。」
彼はふふって軽く笑い声をあげた。
「あの子、髙さんのお陰でなずなが可愛いと思えるようになった、と笑うのですからね。失敗でした。高級弁当まで本当に用意しちゃうし。難しいですねぇ。」
「あなたがクロを煽って、全員ご招待に仕向けたのは正解ですけどね。」
髙はハハハって笑う。
「いや、これは僕も来たかったですからね。」
殆んど日が落ちデッキに暗闇を落としかけたその時、パッと船上のライトが煌々と付き、俺達に見たくもないものを提供した。
首吊りの死体である。
死体はプラプラと三度ほど揺れて、ぼとりと、甲板に落ちた。