大空への憧れ2
リアムたち飛行訓練候補生は、毎朝食前にすすけた兵舎の大きな柱や階段手摺、廊下に至る隅々まで雑巾がけをするのが日課になった。
リアムは、そこを拭くたびに、その黒く光り輝く木目の一つ一つに先輩たちの息吹を感じてならない。
「なんやリアム朝から偉い気合入ってんなぁ」
持ち場を離れて手伝いに来てくれたウルドはリアムを見つけて我先にと声をかける。
「おはようウルド。それはそうだろう、この古びた兵舎から幾人ものアリストワ皇国空軍のパイロットが生まれっていったと思うと、オレもこの伝統ある兵舎にいるのだから、先輩方に負けないパイロットになるんだと意気込んでも無理はないだろう」
雑巾を絞る拳に思わず力が入る。
「なんでもいいがリアム、口よりも手を動かしてくれよ。夢見るのは勝手だが感動ならよそでやってくるかい。ほらブライトを見習えよ。黙々と磨いてるよ」
欠伸をしながら締まりのない顔で窓を拭くアイザックの言動にリアムは頭にきた。
「貴様はまたそうやって、忘れたのか入団式の翌日の朝礼で腑抜けた顔をさらし教官にバツを受けたことを、貴様のせいでオレまでグラウンドを走らされたんだぞ!」
「あの時は、なんだぁ運が悪かったんだオレのせいでもリアムのせいでもない。気にするな」
「貴様!」
「まぁまぁ二人とも落ち着きなさって、こんなところを教官に見られでもしたらそれこそバツを受けるで」
怒り狂うリアムを止めるとアイザックは薄っすら笑ってまた窓ふきを始める。ウルドになだめられたリアムが落ち着きを取り戻した時、耳をすますとはるか西の空から遠雷のように力強い爆音の響きが聞こえてきた。まだ行ったことのない飛行場で訓練前の試運転が行われていると悟る。
「あかん。そろそろ朝飯やリアム、アイザック切りのいいとこで片付けてはよ食堂きや」
ウルドは早口でそういうと駆け足で持ち場に戻って行った。
「ウルドはいいやつだな」
「ふんっ。そこだけは貴様と意見が合うな」
数秒のうちに掃除を片付け朝食を終えて、ほっとひと息ついていると、兵舎の前が急に賑やかになった。それから気合の入った号令が一斉に聞こえてきて、部屋の窓からそっと覗く。汚れた飛行服に身をかためた飛行兵である先輩たちが五人、十人と隊を組んで当直指揮官の号令と共に颯爽と飛行訓練場の方へと駆けてゆく。
「・・・・・・女か?」
リアムは息を飲んで彼女を見つめていた。
体格のいい男たちに交ざりひときわ異彩を放つ彼女は、その長い髪を風にたなびかせている。まっすぐに見つめる瞳はぎらぎらと輝いていて希望に満ちた顔をしていた。
「珍しいな。女のパイロットなんて初めて見た。よく陸軍にはいるんだが海軍のまさか航空隊にもいるとはね」
リアムの隣でその様子を見ていたアイザックも物珍しそうに彼女を眺めている。
「何はともあれオレたちもこの先輩方と仲間入りできる。心躍るではないか」
「同感だ」
今日も慌ただしい一日が始まる。
候補生として入学してから一ヶ月の時が立った。軍人としての心構えや規律を徹底的に叩き込まれ、時には教官から手痛い指導をもらいながらも(アイザック関連で)、リアムは心身ともに成長を感じられるようになっていた。
そして昨日で一連の体力テストや身体検査などの基本的なテストが終わりを告げ、今日はこれからなにが始まるのだろうか。リアムの頭の中はそのことでいっぱいだった。すると廊下から教官の声が響いてきてリアムたちを小さな講堂へと案内した。
案内された小さな講堂の様子は異質だった。リアムは身構えながら中に入ると、背広を着た中年の男が二人。リアムたち候補生を待ち構えていた。
「軍人じゃないな、何者だ?」
アイザックが言う通り軍人ではなさそうだ。教官と交わしている会話がそれとなく証明している。
中年の男はどこぞの学者のような身なりをしていて、もう一人は助手らしい。助手の男が机の上に置いてあるガラス版にガリ板のインクらしき黒いものが塗ってあった。その横には上質な髪が山のように積まれている。
教官の説明によるとこの二人は易者(占い師)であり候補生の手相や人相などを調べパイロットと航空事故の因果関係を研究する目的があったという。
また候補生のヴァームエナジーの度合い、採用時と特攻機選定の際の参考にしていたということをリアムやアイザックが知るのはかなり先のことだった。
リアムは教官から名前を呼ばれ易者の男にいろいろな角度から顔や体を舐めるように凝視された。男にじろじろ見られるのは気が引けるが教官の命令に背くわけにもいかず、できるだけ無表情で事を終えた。
「ボク思わず赤面してもうたわぁ」
「どうせなら綺麗な女の人に見てもらいたかったなぁ」
リアムは近くに教官がいることに気が付いていたので咳ばらいをしてアイザックたちにそれとなく伝えると察しがいい奴から静かに口を閉じた。
「全員速やかに兵舎に戻るように」
教官のかけ声で候補生は駆け足で兵舎に戻ると、そこにはリアムたちにとって待ちわびていた荷物が届いていた。
「名前を呼ばれた者から荷物を受け取るように」
教官が一人ずつ名前を呼び荷物を渡していく。
「リアム・リングトン」
「はい!」
パンパンに膨れ上がった荷物の中には、真新しい飛行服、飛行眼、飛行靴、飛行帽、皮手袋等がぎっしりと入っていた。
「もしサイズが合わない者がいたら申し出よ」
夢にまで見たパイロットの装備品にリアムは武者震いしていた。我先に着替えを始める。飛行服に身をかためた自分の姿を鏡で確認すると、リアムの気持ちは昂りすでに歴戦の立派な飛行兵になっていた。候補生の面々を見渡せば皆、頬を紅潮させ意欲に満ち溢れている。
「おい、アイザック? なぜ泣いている」
アイザックだけは違っていた。広げた装備品を眺めすすり泣くのを隠しながらゆっくり涙を二、三滴廊下に落としていた。
「いやなんでもない。オレも着てみるとしよう」
そう言って笑顔を浮かべたアイザックの瞳にはもう涙はなくなっていた。なにかの見間違えかと思うほどいつものアイザックに戻っていた。
「リアム、オレの頬をつねってくれるか」
真新しい飛行服に身を包んだアイザックはリアムに言った。
チャンスだと思った。リアムはこれまでのうっぷんを右の拳に込めて勢いよく殴ってやった。バシッという乾いた音が気持ちよく兵舎に響く。
「このやろ、誰が殴れって言ったよ」
「これで今までのことはチャラにしてやる」
夢ではない、夢ではなかった。
「全員確認は済んだな。明日から一周間の空中適正検査に入る。今日はこれから昼をとり飛行場の見学、初歩練習機の操縦説明など座学を実施する。この適正検査の後これまでの検査及びテストを点数科して飛行訓練生としての合否を下す。心して備えるように」
――そうだまだこれからだ。舞い上がっている暇はないぞ。
リアムは拳を握り速くなる鼓動を静めた。この適正検査で自分がパイロットとして大空に羽ばたけるかどうかが決まるのだ。そしてもし落第してしまったら・・・・・・。