4
やっかいな仕事を頼まれた。ワースは頭をポリポリ掻きながら城を出た。外はまだ、冬である。ただ、雪が止んでいる。北風も吹いていない。これは、たまたまなのか、それとも、夏の女王様が塔に一時入っていた影響なのか。どちらにせよ、寒いことに変わりはなかった。ワースはマフラーを取り出し、首に巻いた。寒さから身を守らなければならなかった。城の門を出て、短い階段を下りる。横に目をやると、相変わらず長蛇の列がある。長さは一キロ以上ある。肉眼では最後尾が見えない。この位置から最後尾を確認するためには、視力の倍率をあげる双眼鏡が必要だろう。
ワースは長蛇の列を横目に、トボトボ歩く。城から遠ざかる。今回大臣に頼まれたのは、『ピコ鉛筆』と『テラルーペ』だ。
『ピコ鉛筆』とは、世界最細の芯をもつ鉛筆であり、書いた文字は肉眼で確認できないほど細い。それほどまでに細い芯であるのにもかかわらず、人間の筆圧程度では折れない強度を持つ。それは、毎夜サバトが開催されている魔女の楽園『掟島』に存在すると言われている。魔女の錬金術によって生み出された魔法の鉛筆。それが作られた理由は、誰にもばれないように悪口を書きたい、という一人のイタズラ魔女の遊び心だった。材料は、オリハルコン、ラクダの鼻毛、牛の口に近い方から数えて三番目の胃袋(肛門の方から数えて二番目の胃袋)、ダイヤモンド、隕石の欠片、体長1メートルを超える化け蜘蛛の糸が必要であると言われている。それらの材料を火山のマグマで溶かし、混ぜ合わせ、冷やして一本の棒にする。さらにその棒を海底5万マイルまで持って行き、海底の水圧で圧縮することによって完成すると言われている。ちなみに、『ピコ鉛筆』のピコとは単位に付けられる接頭辞の一種である。10のマイナス12乗のことをピコという接頭辞で表すのだ。それは、マイクロよりもナノよりも小さな世界。今はまだ、魔法という、科学では説明できないデタラメな力でしか到達できない世界。
『テラルーペ』は、世界最大倍率の拡大鏡のことである。『テラルーペ』のテラもまた、接頭辞の一種である。10の12乗のことをテラという接頭辞で表すのだ。『テラルーペ』は、科学の最先端を行き過ぎて、世界から見放されてしまった哀れな島国、『科学島』に存在する。そこには、頭を酷使し過ぎた禿げ頭の科学者たちがいる。彼らは考えるために、ほぼ全ての栄養を脳へと送り込んでいる。そのため、頭が普通の人間よりでかい。脳みそが過剰な栄養により肥満になっているのだ。逆に、十分な栄養が行きわたらない首から下の肉体は、やせ細っている。まるで、マッチ棒のような体型をしている。体は頼りない棒だが、頭は赤く燃えて膨張している。栄養が足りていない骨はスカスカで、骨粗鬆症は当たり前。体重を支えられない骨はぐにゃりぐにゃりと曲がっている。猫背で常に前傾姿勢だし、腕は歪に拘縮している。足はもれなく、O脚かX脚のどちらかになるように曲がっている。鉄分が足りていないので、爪はスプーン状に反り返っている。そんな、頭でっかちの不健康科学者が住む島国、それが『科学島』であり、そこに世界最大倍率の『テラルーペ』が存在する。
この二つの島は、ワースにとって未踏の地であった。どちらも有名な島なので、情報は多く耳にしてきた。しかし、どちらも危険な島だった。特に魔女の島はワースにとっても危険だった。何故なら、魔女は箒に乗って空を飛ぶ生き物だからだ。空飛ぶ旅人ワースにとって、天敵と言っても過言ではなかった。科学島にも危ない噂があった。科学島の科学者たちは、実験体を常に求めている。そのため、科学島に足を踏み入れた外部の人間は捉えられて、人体実験に使われてしまうという。そんな噂を聞いて、ワースは尻込みした。この二つの島にはいかないと決めていた。
しかし、今回はそういうわけにもいかない。『ピコ鉛筆』と『テラルーペ』を手に入れるためには、この二つの島に行かなければならない。今回の依頼も、断るつもりでいた。ふくよか婦人のおかげで、自分がやりたいことがハッキリした。未来の展望が開けて、先のことを考えるのが楽しくなった。はやく行動を起こしたかった。だから、断るつもりでいた。だが、前回のデジャブ。大臣が土下座をして泣いた。わたくしは王ではないから命令はできません。こうして、お願いするしかないのです。そして、『ピコ鉛筆』と『テラルーペ』を手に入れられる人間は、あなたしかいない。あなたに、わたくしはお願いするしかないのです。どうか、どうか、お願いします。大臣は土下座して、目から鼻から汚い汁を出していた。ワースは仕方なく、大臣の依頼を再び受けることにした。今度こそ最後にしよう、これで終わりだと心に思いながら。
大臣は、『ピコ鉛筆』と『テラルーペ』を手に入れて、お触れの内容を改ざんするつもりだ。『ピコ鉛筆』を用いて
―――「※女王との結婚以外の褒美に限る」―――
という追加の注意事項を書き、これはお触れが出されたときにすでに書いてあったことである、ちゃんと読まなかったお前が悪い。という理由で、やから二号を撃退するつもりなのだ。思えば、そもそも最初から書いておくべきだった。
―――「※女王との結婚以外の褒美に限る」―――と、書いておくべきだった。
それぐらい、予想できていたはずだ。大臣は自分で言っていた、それは最も恐れていた褒美だと。ならばなぜ、最初からその注意書きを書かなかった? まったく、爪の甘い大臣だ。ワースは腹が立った。ただ、何故か大臣を憎めない自分がいた。大臣は隠居前のご老体。それでも、王の権威という目に見えないもののために頑張っているのだ。そこだけは、好感が持てた。今思えば、無様な土下座の丸まった曲線は美しかったように思う。今思えば、目から落ちた雫は清らかであったように思う。それは、あくまでも今思えば、の話。薄れていく記憶を補てんする際の過剰演出である。実際にあの無様な土下座と汚い汁をこの目で見たら、気色が悪いこと甚だしい。
『ピコ鉛筆』で書いた文字は肉眼では見えない。文字を書いている自分にも見えない。そのため、そもそも『ピコ鉛筆』を用いて文字を書くためには、『テラルーペ』が必要となる。人間が扱うためには、この二つの道具はセットで用いなければいけないのだ。ワースは溜息をつく。だいぶ歩いた。振り返れば、城が小さく見える。ここらへんでいいか。ワースは角笛を取り出した。もう一度深くため息をついてから角笛を吹く。角笛は「ブホブハハ」と鳴る。その音は、どこか重苦しかった。まるで、ワースの気持ちをそのまま表しているかのような音色。プギャピーはその音色から、ワースの気が進んでいないことを野性的スピードで察知する。いつもなら直ぐに駆け付けるプギャピーだが、今回は遅刻した。これから自分はワースが望まない場所にワースを届けなければいけない。その思いが、プギャピーの飛行スピードを鈍らせた。ワースはプギャピーの背に乗り、飛び立った。
○
ワースには、今回の任務を断らなかったもう一つの理由があった。それは、夏の女王様。ワースは思い出す、あの艶めかしい胸のふくらみを、あの吸い込まれそうなウエストのくびれを、あの迫力あるヒップラインを。ボン・キュッ・ボン。それは平坦な発音ではなく、フランス人の発音のような、舌のもつれるいやらしい発音のボン・キュッ・ボン。夏の女王は、城から出ようとしたワースを呼び止めた。ワースは立ち止まった。匂いがした。甘くて、刺激的で、少し不快な感じもあって、でも心地よくて、酸っぱい臭いもして、纏わりつくようないやらしさもあって、そんな混沌とした香り。その匂いを感じた瞬間、鼻呼吸が荒くなった。生唾を飲み込み、手に汗をかいた。フェロモンだ。ワースは無意識でそれを理解していた。体が反応している。彼女の体からフェロモンが湧き出ている。目に見えないフェロモンが今、まるで大蛇のように自分の体に巻き付いて、締め上げている。ワースは身動きが取れなくなり、夏の女王様の命令通り、止まった。止まるしかなかった。それは不自由なことであり、旅人が一番嫌う事象であるはずだった。しかし、ワースは嫌な気分にならなかった。むしろ、穏やかな凪の波間に漂うような心地よさを感じていた。
「ワースよ、久しぶりだな」
夏の女王様は、とてもフランクな口調だった。ワースは膝をつき、頭を下げた。目の前にいるのは女王様だ。大臣とはわけが違う。いくら自由奔放な旅人とはいえ、無礼は許されない。
「お久しぶりでございます」
ワースは嘘をついた。ワースは過去の記憶を超高速で探ったが、どうしても夏の女王様との記憶を見つけることはできなった。ワースの記憶が正しければ、夏の女王様とお会いするのは、これが初めてのはずだった。しかし、夏の女王様の口ぶりは、懐かしさを含んでいるようだった。
「もしかして、覚えていないのか」
夏の女王様は口を尖らせた。少し不機嫌な表情をした。ワースの嘘の言葉は、淀み、震え、僅かにかすれていた。その僅かな機微を、女王様は見逃さなかった。ワースはただ無言で俯いた。
「まあ、無理もないか。何十年も前だ。一度だけ、いや、二度だったか。お前が話す、旅の話は、おもしろかったぞ」
どうやら、女王様がまだ小さかった頃、ワースは二回ほど旅の話をしたことがあるみたいだった。ワースはまだ、思い出せない。そんなことがあっただろうかと、目を泳がせた。
「まあいい。ところで、お前は今もまだ、独り身なのか」
「はい。旅に家族は不要です。家族とは、重しです。一所に長く定住するためには、その重力は必要ですが、旅人には少し、重すぎます」
ワースには、家族はいなかった。妻や子供はいないし、父と母も旅の途中で事故死した。親戚もおらず、一人で生活していた。
「そうか。旅人の哲学は知らんが、お前は今、孤独というわけか」
「いえ、孤独ではありません。旅を共にするプギャピーがおります」
「そうか。ならよかった」
沈黙。城のエントランスは、やけに静かだった。厳かで、静かだった。王の威厳は、城の静寂と共にあるのかもしれない。うるさいところで、威厳は威張ることができないのだろう。
「行くのか」
どこに? ワースは思ったが、口にはしない。
「はい。行ってまいります」
「ジイは、いや、大臣は、悪い奴じゃないんだ。いつでも私たちのこと、王のことを一番に考えてくれている」
「理解しております」
「大臣は、何かおかしなことを言っていなかったか?」
ワースは少し考えた。大臣の言葉を思い出してみたが、特におかしな点はなかった。今回は夏の女王様の悪口も言っていなかった。
「いえ、とくには」
「そうか」
沈黙。何かが一瞬、張り詰めた。そんな気がした。初めて冷気を手の先に感じた。そういえば、今は冬だったと、ワースは思い出す。
「事態は少し、深刻かもしれない」
夏の女王は、独り言のように呟く。その声はとても小さくて、ワースはよく聞こえなかった。耳を澄ます。
「闇が来るかもしれない。シフキが来るかもしれない。そしたら、私を連れて、空へ連れて、一緒に、逃げてくれるか?」
闇? シフキ? いったい何を言っているのだろうか? ワースの頭にたくさんのクエスチョンマークが浮かんだ。女王様の言葉の真意はわからなかった。しかし、ワースは自分が言うべき言葉を理解していた。
「もちろん。喜んで、逃げましょう」
彼女が求めているのは、寄りかかることの出来る、不確かだけど強い言葉。不安を沈めてくれる、やさしい同意。そして、少しのユーモアだった。
「逃げるのは、得意なのです」
ワースは胸を叩き、付け加えた。夏の女王は微笑んだ。その顔は、美しかった。
○
ワースがまず向かったのは、魔女が住む島。通称『掟島』。それは上空から見ると魔法陣を彷彿とさせる、完全な円形をしている。直径は五十キロメートル。島の半分は森で覆われている。残りの地域には、山や湖、盆地、迷宮のような園があり、いくつかの集落も確認できた。ワースは緊張した。掟島の円の中に入ったら、二度と出られなくなってしまうのではないか。そこは、世界のルールが通用しない、別のルールが支配している、異界なのではないだろうか。そんな雰囲気があった。プギャピーもまた、同じことを感じていた。野生のカンが警告を鳴らしていた。ココハキケンダ。プギャピーはプギャピーと叫んだ。ワースはプギャピーの警告を理解した。しかし、危険だからといって、着陸しないわけにはいかない。ワースはプギャピーの頭をやさしくなでた。
「プギャピー、お願いだ。掟島に行ってくれるかい? 危険なのはわかっている。でも、行かなければいけないんだ」
「プギャピー」
プギャピーは、ワースの決意を理解した。野生を生きる上で、危険を回避することは最重要だ。だが、危険を冒してでも行動しなければいけないときもある。野生では、時に危険を冒す方が、正しい場合もある。プギャピーはそれを知っていたし、それが今なのだということもまた、理解していた。ワースはこれから危険の中に突入する。結果はどうなるにせよ、それは今やらなければいけないことなのだろう。プギャピーは悲しい声で鳴いてから、静かに旋回し、掟島の魔法陣の中へと侵入した。
島の境界線を超えた瞬間、寒気がした。寒気は活力を奪い、勇気を鈍らせる。ワースは丹田に力を込めて、体の芯に熱をためるように努めた。ワースは、夜は危険だと判断し、太陽が一番高い時間帯を狙って掟島にやって来た。大丈夫、光は全てを晒している。魔が潜む影も隙間もない。大丈夫。全てを視認できる。ワースは自分に言い聞かせた。島の全容を見下ろして、最も安全に着陸できる場所を探す。いきなり集落の近くに降りるのは危険だろうし、森の中も何が潜んでいるかわからない。迷路のような園に降りれば、迷って出られないだろう。ならば、木のない山肌か、湖の近くか。ワースは悩みながらウダウダと空中を漂った。あれ? あそこに船が止まっている? ワースは島の北側に船が二隻止まっているのを見つけた。誰か上陸しているのだろうか? でも、こんな危険な島にいったい誰が……。ワースはそんなことを考えて、余計な時間を空で過ごした。そして、それがあだとなった。
ワースは空飛ぶ旅人であり、空から地面を見ることはあっても、地上から空飛ぶ人間を見ることなど、一度もなかった。だから、ワースは知らなかった。空を飛ぶ人間がとても目立つということを、全く認識していなかった。
異変に気付いた時には、すでに遅かった。島全体を覆いつくすほどの黒雲がワースの頭上に突如として現れた。太陽が遮られ、ワースが最も恐れていた闇が島全体にはびこる。危険を察知したカラスが飛び立つ。生暖かい風が吹く。波が砕ける。森から怪物の遠吠えが聞こえる。どんよりとした重苦しい空気が漂う。重苦しい空気を吸って、ワースの肺は重くなる。息苦しくなる。これは、明らかに異常だ。何かが起こっている。何かが俺を攻撃している? もしくは、歓迎している? どちらにせよ、何かが俺を標的としているに違いない。ワースは一度逃げることを考えた。危険に対して勇敢に立ち向かうことも時には必要だが、勝算がなければいけない。危険に無謀で挑んではいけない。このまま掟島に着陸するのは無謀だ。ワースそう判断した。次の瞬間、濃い霧が視界を覆う。方向感覚を失う。プギャピーが焦って暴れる。ワースは必死になだめる。
「ケケケケケェ」
不気味な声がした。それは、睾丸まで響く、深いしわがれ声。
「ケケケケケェ」
黒い影が霧の中を通り過ぎる。一つじゃない。三つ四つ、いや、もっとだ。囲まれている。空飛ぶ黒い影に四方を囲まれている。
「ようこそ、掟島へ」
黒い影と黒い影がくっつく。大きな影になる。三つ四つとくっつく。どんどん肥大していく。瞬間、突風が吹く。プギャピーが飛ばされて回転する。ワースは落ちないように必死にプギャピーにしがみつく。目も開けられない。今はただ、突風が止むまで耐えるしかない。突然風が止む。完全な凪になる。ワースは目を開ける。霧は全て吹き飛んでいた。視界が良好になる。ワースは震えた。プギャピーもおびえて震えた。
目の前には、天を摩擦るほど巨大な“顔”が浮かんでいた。
「ケヒヒヒィ」
巨大な顔は不気味に笑った。ワースは畏怖した。しょんべんちびりそうになった。でも、しょんべんは出なかった。水分を大量摂取していなくて良かったと、ワースは思った。睾丸が縮みあがった。丹田が烈火のごとく熱くなっていることに気が付いた。それとは裏腹に、指先は地獄のコキュートスを連想させるほどに冷えていた。
「歓迎するよぉ。僕は表現豊かな人間が、大好きだよぉ。ケヒヒヒィ。また会えたらいいね。ケヒヒヒィ」
巨大な顔が霧散するように消えた。分厚い黒雲が風に流され、太陽の光が差し込んだ。闇が晴れた。ワースは、呼吸を忘れて、唖然とした。先ほどまでの現象はいったい? 夢だろうか? それにしては、やけに実感があった。息が苦しくなったので慌てて空気を吸う。深呼吸をする。手足を確認する。手も足もちゃんとついている。指もタランチュラのようにワシャワシャ動く。目にも耳にも異常はない。視界は良好だし、鳥の鳴き声も聞こえる。ケガもない。プギャピーも無事だ。良かった。
ワースは、自分とプギャピーの無事を確認すると、深い深いため息をついた。
○
ワースはようやく意を決して、湖の畔に着陸した。プギャピーの頭を撫でて、別れを告げた。プギャピーはなかなかワースの傍を離れなかったが、諦めて飛び立った。ワースは一人になった。急に心細くなった。大丈夫、大丈夫と何度も呟いた。
空に浮かぶ、巨大な顔を思い出す。あれはきっと、魔女の洗礼だったのだろう。ワースは歩き出す。少し離れた所に集落がある。まずはそこを目指す。身を隠しながら慎重に進む。魔女に見つからないように細心の注意を払う。
思えば、あれは歓迎だったのだろうか? 少なくとも、直接的な攻撃はなかった。巨大な顔は「歓迎する」と言っていた。しかし、あれは警告だったのかもしれないとも思う。これ以上掟島に近づくならば、攻撃するぞという、警告だったのかもしれない。巨大な顔は「歓迎する」と言っていたが、その言葉を鵜呑みにしてはいけない。疑って、いくつもの可能性を想定しなければいけない。ワースは足取りと同じように、慎重に思考を重ねた。
慎重になり過ぎたと、ワースは後悔した。気が付けば夕日が空に浮かんでいる。闇がすぐそこまで来ている。その切迫感がある。なかなか集落にたどり着かない。目測では、一時間もあれば到着できるはずだった。しかし、集落はまだ視界に映らない。おかしい。確かに慎重に慎重を重ねて歩を進めたが、時間があまりにもかかり過ぎている。道を間違えたのかもしれない。この島は不思議な磁力があり、人の方向感覚を狂わせるのかもしれない。気付かぬうちに、集落とは反対の方向に進んでしまった可能性も否定できない。もうすぐ闇が来る。一度プギャピーを呼んで、島から離れた方がいいかもしれない。そんな弱気が心を支配する。ワースは心細くなり、腰巾着が付いていることを確認した。大丈夫。ちゃんと付いている。一応中の角笛も確認しよう。ワースは巾着袋に手を突っ込み、角笛の感触を確かめる。何百回も触れた角笛の曲線がワースの心を安心させる。万が一の場合、いつでも空へと逃げられる。この角笛さえあれば、大丈夫。ワースは自分で自分を励ました。
ワースがいよいよ角笛を巾着袋から取り出そうとした時、明かりが見えた。森の中、ぼんやりとした明かり。暖かそうだ。光源は少ない。集落の規模ではない。一軒家。おいしそうな匂いがする。夕飯の支度が着々と進んでいる。幼い記憶の帰り道を思い出す。闇に潜む何かが、自分を追いかけている気配がした。夕闇が恐ろしくて速足になっていた。意味もなく怖かった。でも、あれほど恐ろしかった夕闇が、家の明かりが見えただけで怖くなくなった。お味噌汁の香りがしただけで、夕闇に手を振る勇気だって湧き出た。あれはきっと、母の魔法だったのだろう。母はたくさんの魔法が使えた。幼い俺は、本気で母は魔法使いだと思っていた。でも、青年期になって、魔法ではなかったことに気が付いた。それは、科学であり、大人の知恵であり、子供にはできないが大人になれば誰もができることだった。俺はがっかりした。母は普通の人間だった。けれど、大人になってから、やっぱりあれは、特別な魔法だったと思い直した。母のやさしい魔法は、確かに俺の心を育んだ。あれは特別であり、やっぱり魔法だった。ワースは母親の思い出を懐かしんだ。今はもう会えないのだと思うと、少しだけ胸が苦しくなった。ワースは明かりに向かって歩いた。あの明かりの中には、何かがいる。ここは魔女の島だ。きっと、魔女がいるに違いない。もしかしたら、俺を誘っているのかもしれない。罠かもしれない。俺をひっ捕らえて、今晩のおかずにするのかもしれない。そんな最悪の事態が思い浮かぶ。でも、不思議と恐怖はなかった。何で怖くないんだろう? ワース自身不思議だった。これもきっと、母の魔法かな? その結論が、一番しっくりくる気がした。だとしたら、なんとまぁ、長持ちな魔法だこと。ワースは感心した。
一軒家の前にたどり着く。一階建て。窓は二つ。煙突がある。木製の建物だ。家の前には薪割り場がある。
「すいませーん」
扉の一歩手前の位置から、ワースは声をかけた。返事はない。
「すいませーん」
今度は扉をノックした。返事はない。だが、食器がぶつかる音や、水が流れる音、火が燃えている音、本をめくる音など、生活の音が聞こえる。確かに誰かがいる。でも、返事はない。
「すいませーん」
ドアノブに手をかける。鍵は掛かっていない。ドアノブを回して、手前に引く。簡単に扉が開く。拒む意志は感じられない。かといって、歓迎されているわけでもないらしい。扉はギギギィと鳴いて、僅かに抵抗した。
「誰かいませんか?」
扉を半分だけ開けて、顔だけで覗き込む。部屋は明るい。食卓がある。おいしそうなご飯が並べられている。椅子が二つ。台所、暖炉、ベッド、クローゼットもある。書棚もあるし、蓄音機もある。台所の蛇口からはポタポタと水がたれている。暖炉の火は燃えているし、ベッドは乱れている。本棚の本はところどころ飛び出している。この部屋には生活がある。ついさっきまで、誰かがベッドから起きて、台所で調理をして、暖炉の火を灯し、本を読んでいた。その気配がある。でも、誰もいない。生活だけが残り、人だけがいない。
―――ここには生活だけがある、人はいないのに、生活だけが。
ワースは不気味に感じた。後ずさりして扉を閉めた。途端、家の中から生活音が響いた。食器の音、何かを飲む音、咳、椅子を引く音、蓄音機から流れるミュージック。生活の音が聞こえる。やはり、誰かいるのだろうか? 透明人間? いや、部屋の中には人の気配そのものがなかった。透明人間ならば、気配は感じ取れたはずだ。ワースは確かめる。恐る恐るドアノブに手をかける。ゆっくりと扉を開ける。顔だけで中を覗く。食卓に並ぶ夕飯は少し減っていた。椅子の位置もズレていたし、炭と化した薪の量も増えていた。でも、やはり、誰もいない。生活は少しずつ進行しているのに、そこに人はいない。ワースは何度か扉を開けたり閉めたりした。生活は相変わらず少しずつ進行した。そしてやっぱり、人はいない。ワースは、これは不気味だが、危険ではないと判断した。そして思った。生活にはやはり、人が必要だ。人のいない生活というのは、不気味で不吉で、どこか悲しい。一方で、人がいれば、生活は豊かで暖かかくて、どこか愛おしいものになるのだ。ならば、ここにある“生活”は、俺という人間を必要としているに違いない! ワースは大変歩き疲れていたし、腹も減っていた。ワースはもう一度、部屋の中に誰もいないことを確認してから、部屋に入った。椅子に座り、食卓に並べられた料理を食べた。おいしかった。毒は入ってなさそうだった。腹が減っていたので、たいらげた。ゲップをした。オナラもした。それは素敵な生活音であった。
○
腹も満たされ、眠くなった。ワースはベッドに入り、寝ようとした。
「ペチペチッ」
窓の方から変な音がした。見ると、そこには一匹のカエルがいた。ペチペチと窓を叩いている。
「サバトが始まるよ」
カエルは明らかに、ワースを見ている。ワースに向かって喋っている。カエルが喋っている? ワースは首を傾げた。
「お前はいったい?」
「僕のことはどうでもいいよ。さあ、はやく支度をしてよ! 見に行こうよ、最後のサバトだよ!」
「最後のサバト?」
「そうだよ。今日で最後なんだ。だから、できるだけたくさんの生き物に、見て欲しいんだよ! みんなの記憶の中にとどめて欲しいんだ」
カエルはゲロゲロ鳴いた。鳴嚢を風船のように膨らませた。
「ねえ、あなたは人間だよね?」
「ああ、人間だ」
「やった! それなら、絵を描けるかい?」
「うーん、絵は、描けないかなぁ」
「それなら、文字は書けるかい?」
「文字なら書けるよ」
「それは良かった! 本当は絵に描いて欲しかったけど、文字でもいいよ。最後のサバトの内容を書いて、本にして、未来に残して欲しいんだ!」
カエルはピョンピョン跳ねている。嬉しそうだ。
「さあ、はやく準備してよ! 始まっちゃうよ!」
強引だなぁ。ワースはそう思いながら頭をポリポリ掻いた。眠いから、無視して寝よう。ワースは布団をかぶった。
「ペチペチッ!」
窓を叩く音が強くなる。ゲロゲロ激しく鳴いている。うるさい。
「ねえ、はやく行こうよ! 最後なんだよ。見ないと絶対に後悔するよ。なくなっちゃうんだよ。残さないと! 伝えないと! ねえ! 聞いてるの!」
カエルはあきらめない。ゲロゲロゲロゲロゲロゲロゲロ鳴いている。うるさい。ワースは耳を塞ぐ。音が遠くなる。しかし、鳴嚢が震える振動だけがハッキリと伝わる。頭の中でカエルの輪唱が鳴る。カエルの唄が聞こえてくるよゲロゲロゲロゲログワァグワァグワァ。はぁ。ワースは溜息をつく。布団から出て、欠伸をして、背を伸ばす。
「さあ、急いで」
「はいはい」
ワースはついにあきらめた。カエルの強引さに負けた、というと少し嘘になる。もし、カエルが強引じゃなかったら、ワースはそのままベッドで夢の中だった。それは間違いない。そういった意味では、強引さに負けたと言っていいだろう。でも、ほんとの理由は別にあった。ワースは、単純にカエルに好感を持っていたのだ。いきなりやって来て、サバトに誘ってくれた。こちらの迷惑なんて微塵も考えないで、自分の都合だけで、俺をサバトに誘う。傲慢で真っ直ぐな行為。そんなことができるカエルがほほえましかったし、どこかうらやましかった。結局、カエルと出会った瞬間に、ワースの心は決まっていたのだ。
―――愉快なカエルだなぁ。わがままだけど、一緒に行ってあげよう。
ワースの心の深層では、かなりはやい段階で、その結論に達していた。ただ少し、いぢわるをしてみたくなっただけだった。
「今行くよ」
ワースは扉を開けて家から出た。扉を閉めると、家の中から生活音が漏れた。ここにはやはり、生活がある。そしてそれは、少しずつ進行している。でも、人はいない。それがここでの平常なのだ。空を見上げると、満月が浮かんでいる。完全な夜だが、月明かりのおかげで視界はそれほど悪くない。少なくとも、石ころに躓く心配はなさそうだった。風も穏やかだし、気温も湿度も心地よい。何かを行うには、最適の気候であるように思えた。
季節は秋。この掟島では、四季の国とは逆の季節が流れている。四季の国が夏の時、掟島は冬となり、四季の国が春の時、掟島は秋となる。今、四季の国は冬だが、本来であれば春の時期。掟島は、夏を終え、すっかり秋めいている。一方で、四季の国はまだ、冬を終えられず、春を迎えていない。冬の女王は塔に閉じこもり、春の女王は訪れない。
「さあ、付いて来て」
カエルはすでに扉の前に移動して待っていた。ピョンピョン跳ねている。とても楽しそうだ。カエルはピョンピョン跳ねながら進む。カエルの後ろ脚の筋肉は逞しい。引き締まっている。筋肉の繊維が隙間なく絡み合い、密度を高めている。跳躍の度に、エネルギーが爆発している。そう思えるような筋肉の収縮・拡張だった。ワースはゆっくりと歩幅を調節しながら歩く。カエルは小さい。一回の跳躍で、せいぜい50センチメートルくらいしか進まない。普通に歩いたら追い越してしまう。ワースはゆっくりと体を動かす。それは、どこかぎこちない動き。自然な動きとは違う、不自由な動き。調子が狂う。ワースは不快に思う。意識せずに歩く時の動きは、自分にとって最も正しいリズムの動きだ。科学のルールは言っている。世界の全ての事象は、何もしなければ『安定する方へと向かう』性質がある。つまりは、何も意識せずに行う行為は、最も安定する状態へと収束していくのだ。一方で、意識して行う行為は、不安定な状態になる。スポーツをやるときなどは、不安定な方が適している場合がある。安定な状態は、瞬発的な行動に向いていない。そのため、一流のスポーツ選手は意識してフォームを作り、意識せずにフォームを維持できるまで訓練する。それは、不安定を安定に近づける行為でもある。安定と不安定のギリギリの境界線。その線の上に立てる者だけが、一流と呼ばれるのだろう。ただ、ワースは旅人である。旅は長く険しいものであり、スポーツのように瞬発的な不安定さはあまり必要とされない。安定で長持ちする体動が要求される。故に、意識して体をゆっくりと動かす不安定な歩行は、ワースをイラつかせた。
「カエル君、目的地まであとどれくらいかかるのかな?」
「一時間くらいだよ」
一時間もこのペースで歩くのか。ワースは嫌気がさした。
「カエル君、君のペースに合わせていたら、間に合わないかもしれない」
「だから急いでいるんだよ!」
カエルは鳴嚢をゲロゲロ膨らませている。
「カエル君、私の手に乗りなさい。運んであげよう」
「え!? いいの?」
「いいよ」
カエルは跳躍するのをやめて、石のように動かなくなった。まわりにヘビでもいるのだろうか? あたりを見回してみるが、ヘビらしき生き物はいない。ヘビに睨まれたカエルではないようだ。
「どうした?」
「だって、みんな嫌がるんだよ。僕に触りたくないって、人間はみんな言うんだ。ヌメヌメしていて気持ちが悪いって、言うんだ」
カエルはゲロゲロ泣いている。
「確かに、カエルは気持ち悪い」
「ほら、やっぱり」
「でも、君の鳴き声は、情緒があって、俺は好きだ」
「え? ほんと!?」
「それに、俺を普通の人間と同じだと思ってもらっては困る。俺は旅人だ。世界を旅して、世界中の気持ち悪いものに触れてきた。それらに比べたら、君なんて気持ち悪いのうちに入らないよ。知っているかい? 巨大ナマコの化け物のこと。百本の触覚を持つゴキブリのこと。100億匹のバッタの大移動。ウンコを食べるヘドロブタ。生き物の胃に住み着き、内側から食い破る虫」
「うぇー。気持ち悪い」
「だろ? それに比べたら、君はとてもキレイな生き物だよ」
「ほんとにほんと? 信じていいの?」
「ああ、信じていい。まだ疑うと言うのなら、芸術を勉強してみるといいよ。君の体表を覆っている緑色。その緑色がキャンバスの上でどれだけ映えるのか。君の緑色がどれだけ人の心を打つのか。人工的に君の緑色を作るのがどれだけ難しいことか。君は自分の色の美しさを、知らないだけなんだよ」
「えへへ」
カエルはピョンピョン跳ねた。ゲロゲロ鳴いた。ワースは思った。ちょろいカエルだな。ちょっと褒めただけで、上機嫌だ。
「さあ、手に乗りな」
カエルはピョンと跳ねてワースの手に乗った。カエルはワースの手のひらにスッポリ納まるくらいの大きさだった。カエルの体表はヌメヌメしていた。ただ、ワースは特に気持ち悪いと思わなかった。先ほどの話は嘘ではなかった。ワースはカエル以上に気持ち悪いものをたくさん知っていたし、カエルの美しさもまた、知っていた。
「よし。先を急ごう。道案内頼むよ、カエル君」
「うん! まかせて!」
ワースはカエルが指示する方向に向かって歩いた。自分の正しいリズムで歩いた。それは最も安定した、科学のルールに則した歩き方。安定した体動は、ワースの心も安定させる。今日は気候もいいし、カエルという旅の仲間もできた。思えば、この島は未踏の地。未知で満ち溢れている。旅人にとって、未知であることは、何よりうれしい、至極の喜びだった。ワースは恐怖のせいで、それを忘れていた。はは、旅人失格だな。ワースは自嘲気味に反省した。
「ところでカエル君」
ワースは質問をしようとした。
「ねえねえ。名前教えて」
カエルはワースの言葉を遮り、自分のペースでしゃべる。
「ああ、自己紹介が遅れたね。俺の名前はワースだ」
「ワースだね。よろしく!」
「ああ、よろしく。カエル君、君の名は?」
「僕に名前はないよ。だから、カエルでいいよ」
「君は、俺のことを人間と呼ぶのかい?」
「呼ばないよ。だって、あなたはワースだもん」
「それと同じだよ。君にも名前があるべきだ」
「でも、ないんだよ」
「それなら、俺が名前を付けてあげよう」
「え! 僕に名前! いいの? 貰っていいの?」
カエルはそわそわした。鳴嚢を激しく膨らませてゲロゲロ鳴いた。
「ずっと憧れていたんだ。みんな僕のことカエルって呼ぶから。諦めてたんだ。うらやましかったんだ。欲しかったんだ」
ワースは考えた。カエルはワクワクした。目がキラキラして、零れ落ちそうだった。ふと、指にはめたエメラルドの指輪が目に入った。ふくよか婦人からもらった指輪だ。エメラルドの緑色とカエルの緑色は似ていると思った。
「よし決めた。君の名前は『スマラカタ』だ」
「スマラカタ、スマラカタ、スマラカタ」
カエルは噛みしめるように何度も「スマラカタ」と呟いた。それはまるで、魔女が扱う怪しい呪文のように響いた。
「スマラカタとは、エメラルドの語源となった言葉だ。意味は、緑色の貴石。君にぴったりだよ」
「わあ。うれしいなぁ」
カエルは驚いた顔をしている。名前を貰えたことが嬉し過ぎて、夢見心地で、感情を上手くコントロールできていないようだった。
「スマラカタ、ところで、聞きたいことがあるんだけど」
返事がない。
「スマラカタ?」
「ああ、僕のことか! 聞き慣れていないから、わからなかったよ」
スマラカタは恥ずかしそうにゲロゲロ笑った。
「そうだよ。君の名前だ。ところで、スマラカタ」
「ねえねえ、ワースは旅人なんだよね? 今までどんなところを旅したの? 教えてよ!」
スマラカタはワースの言葉を遮り、自分のペースでしゃべる。
「過去の旅の話はまた今度。今私は旅の最中なんだよ。だから、今は、今の旅の話をしよう」
「ええ!? 今旅の最中なの? それじゃあ、旅が終わったら、誰かに僕のことを語ってくれるの?」
「ああ、語るよ。掟島で、しゃべるカエルと出会ったと、王様に報告するんだ」
「王様に!? 僕のことを、王様に話すの? お、お、王様が、僕の存在を知ってくれるの?」
「そうだよ。君の名前も報告しよう。私は、スマラカタという名の、しゃべるカエルと出会いました。王様にちゃんと報告する。約束するよ」
「どひゃー! それはすごいや!」
スマラカタは超高速でゲロゲロゲロゲロゲロと鳴いた。鳴嚢が小刻みに振動した。
「でもね、一つ問題があるんだ。王様に報告するためには、どうしてカエルがしゃべることができるのか、その理由を知らないといけないんだ。だから、どうして君がしゃべることができるのか、教えてくれないかい?」
ワースは巧みに自分が質問したい話題に移行させた。このままスマラカタのペースで話をしていては、情報収集はできないだろう。旅において最も重要なのは情報だ。最重要だからこそ、高い金を払って情報屋から情報を買うこともあるのだ。掟島は未知で満ち溢れている。今は少しでも情報が欲しい。
「魔法の力だよ」
「魔法?」
「そう、魔法。お願いしたんだ。魔女に。そしたら、等価交換だって言われた。それで、僕は冬眠できなくなった。だから、冬を越せないんだよ。冬になったら、死んでしまうんだ。だから、一生懸命生きようと決めたんだよ」
スマラカタはゲロゲロしゃべる。一つ一つの言葉の詳しい説明がない。ワースはスマラカタの言っている意味がイマイチわからなかった。
「もう少し詳しく、説明してくれるかな?」
「僕もよくわからないんだよ。でも、魔女が言ったんだ。掟だから、等価交換だからって。カエルが人間の言葉を得る代わりに、それと等価な何かを失わなければならないって。それで、人間の言葉と等価なものは、冬眠だって言うから、僕は冬眠できなくなったんだよ」
ワースはふと、ふくよか婦人の言葉を思い出す。等価交換はこの世界のルールよ。魔法、等価交換、しゃべるカエル、冬眠、魔女。それらの単語が繋がらない。何となく、イメージはできる。しかし、ハッキリとしない。ただ、これ以上この件に関して質問しても、期待する情報は得られないだろう。ワースは話題を変えた。
「これから俺たちはサバトを見に行くんだよな?」
「うん、そうだよ」
「確か、最後のサバトだと、言っていなかったか?」
「そう。最後なんだ……」
スマラカタは悲しそうにゲロゲロ鳴いた。
「どうして最後なんだ?」
「魔女が、少なくなったんだ。だから、最後なんだって」
少なくなった? 掟島で何か事故や事件でもあったのだろうか?
「そもそも、サバトとは何だ? 俺の知っている情報では、魔女の夜会だと聞いているが」
「間違ってないよ。魔女の夜会のことをサバトって言うんだ。お祭りみたいで、楽しいんだよ」
「そうか、祭りか」
ワースは想像した。月明かりの下、魔女が踊る。箒に乗って空を舞う。怪しい音楽を奏でる。紫色の液体を巨大な壺で煮る。月下花が咲き乱れる。島の魔法陣が光る。そして、悪魔が降臨する。悪魔も踊る。大地を揺らす。魔女が笑う。なんとまあ騒がしい。悪魔のダンスは遠くの国に地震をもたらし、魔女の高笑いは世界の果てまで届く。周りの迷惑など一切考えないでバカ騒ぎする。魔女の祭り。
「さあ、もう少しで到着するよ。見えるだろ? 森を抜けたあの盆地が、サバトの会場さ!」
スマラカタが指さす方を見る。森の先。開けた盆地が見える。ワースは息をのんだ。この先には、この島一番の未知が待ち構えている。そう思うと、恐怖と期待から一歩が鈍る。
「さあ、サバトの始まりだよ!」
スマラカタはそう言うと、ワースの手のひらから飛び出した。
○
ワースは盆地に足を踏み入れた。そして、驚いた。こんなこと、全く予想していなかった。
「あら? あなたもサバトを見に来たの?」
そこには、先客がいた。見たことがある。このお方は、秋の女王様だ。
「どうして、秋の女王様がここに?」
ワースは膝をつき、頭を下げた。
「頭なんか下げなくていいのよ。それはただの形式で、そこにたいした意味はないのだから」
ワースは頭をあげた。秋の女王様だ。キレイに巻かれたロングヘア―。体のラインが丸い。お腹は三段腹。手足は短くて、ゆるキャラみたいな愛嬌がある。ただ、そんな丸くてかわいらしい体型には似合わない、とんでもなく美しい顔をしている。夏の女王様も美人だったが、秋の女王様の顔は、確実にその上をいっている。顔の肉付きもいいので、少しむくんで見えるが、それでも美しい。とにかく美しい。顔のパーツ、配置、バランス、色合い、肌の質、肌のきめ細かさ、その全てが、完璧だ。人間の顔とは、本来こうあるべきだと思わせるほどの魅力がある。頬の肉がなかったら、もっと美しいのだろうとも思う。今のままでも、世界一美しいとも思う。
「あなた、ワースよね?」
「はい。そうです。お久しぶりです」
ワースは、秋の女王様とは一度だけ、面識があった。
「あなたも、見に来たの? 最後のサバト」
「はい。スマラカタに、いえ、カエルに誘われました」
ワースはスマラカタを紹介した。
「あら、あなた、スマラカタという名前だったのね」
「うん。そうだよ。さっきワースに名付けてもらったんだ」
スマラカタは自慢げに鳴嚢を膨らませる。秋の女王様とスマラカタは仲良さそうに話していた。お互い、驚かないし、よそよそしさもない。
「もしかして、お知合いですか?」
「ええ、私もこのカエルちゃんにここまで案内してもらったのよ」
「そうだよ。秋の女王様も誘ったんだよ! 秋の女王様は絵が上手だって言うから、サバトの様子を描いてもらうんだ!」
スマラカタはピョンピョン跳ねる。鳴嚢をゲロゲロ鳴らす。
「ワース、あなたが名付けたの?」
「はい。エメラルドのように美しい体表をしていたので、そう名付けました」
秋の女王様は頬を膨らませて、そっぽを向いた。
「そう、そうなの。はぁ。残念。カエルちゃんに名前がないと知っていたら、私が名付けたかったのに。いいわね。名前を付ける。いいわね。私も、名前、考えてあげたかったわ」
秋の女王様は唇を尖らせて、少し不機嫌になった。ワースは慌てた。秋の女王様を不機嫌にさせてしまった。
「申し訳ありません。勝手なことをしました。なんなら、秋の女王様が改めて名前を付けてあげてください」
ワースは頭を下げた。
「嫌よ。スマラカタ、良い名前だわ。悔しいけれど、私だったら思いつかなかった。だから、悔しいのよ。ごめんなさいね。これは私の問題なの。私が、どうして、スマラカタにたどり着けなかったのか。それを考えると、ただ悔しいのよ。ワースに対して怒っているんじゃないの」
「そうですか……」
ワースはどうしていいかわからず、苦笑いでごまかした。秋の女王様の話は、よくわからない。スマラカタに“たどり着けなかった”とは、どういう意味なのだろうか? ワースは首をひねった。
「ねえねえ。秋の女王様。春の女王様はどこに行ったの?」
スマラカタは周りをキョロキョロと見回している。鳴嚢を膨らませてゲロゲロ鳴いている。
「ああ、ハルなら、島から出て行ったわよ」
「ええ! どうして!? サバトを見たくなかったの?」
「さあ、知らないわ。私がサバトを見に行くと言ったら、ハルにしては珍しく、付いて行くと言ったのに、魔女と数分話をしただけで、島から出て行ってしまったのよ。まったく、ハルはいつも婉曲過ぎて、何考えているのか、わからないわ」
秋の女王様は腕を組み、ぷんすか腹を立てた。どうやら、ついさっきまで、秋の女王様は春の女王様と一緒にいたようだ。ワースは迷った。今、四季の国の兵士たちが、総出で春の女王様を探している。春の女王様がつい先ほどまでここに居たというのなら、それを早急に、四季の国の大臣に伝えるべきなのではないだろうか? ふと、大臣の顔が思い浮かぶ。大臣は言っていた。春の女王様を探すのは、あなたの仕事ではない。そうだ。大臣自身がそう言っていたのだ。春の女王様に関することは、俺の仕事ではない。今、この場を離れてしまったら、サバトを見ることはできない。それは、旅人として、あまりにもったいない。ワースは迷いを振り切り、サバトに集中することにした。春の女王様のことは、国の兵士に任せよう……兵士? そう言えば、秋の女王様は、どうやってここまで来た?
「あの、秋の女王様、おひとりですか? 他の者は?」
「だから、ハルがさっきまで一緒にいたのよ」
「いえ、その、おつきの者といいますか、護衛兵は……」
国の女王が、こんなところで一人でいる。これは、とんでもない事態だ。夏の女王のバカンスのように、必ず女王の移動には護衛兵が帯同することになっている。それなのに、秋の女王の周りには、それらしき人物はいない。もし仮に、ワースが悪意を持って秋の女王様を襲ったら、誰も助けてくれないだろう。そもそも、ここは四季の国から遠い、離れ小島だ。ワースのように空を飛べないのだから、船を使ってここまで来たはずだ。秋の女王様と春の女王様の二人だけで、船を操縦して、ここまでたどり着けるはずがない。この島に上陸する直前までは、少なくとも護衛兵はいたはずだ。それなのに、今は女王以外誰もいない。どういうことだ? ワースは焦った。女王様は、何か事件に巻き込まれたのかもしれない。
「ああ、心配しなくていいわ。だって、うるさいんですもの。危険だからとか言って、私の自由を奪おうとするから、魔女に頼んで迷路に放り込んでやったのよ。あいつら、サバトが終わる頃には、迷路を抜け出して、ここに来るんじゃないかしら?」
秋の女王様は皮肉めいた顔で笑った。なんとまあ、逞しい女王様だ。魔女が怖くないのだろうか?
「魔女が怖いのは、知らないからよ」
秋の女王様はワースの心を見透かしたように呟いた。ワースはドキッとした。
「私は知っているもの、魔女がどういうルールのもとに生きているかということを。そして、従うルールが違うだけで、私たちと同じ遺伝子を持った人間であると、知っているから。だから、怖くないのよ」
確かに、秋の女王様は凛として、堂々としている。体は震えていないし、呼吸もゆっくり吸って吐いている。平常だ。至って平常の肉体と精神がそこにはある。秋の女王様は、怯えていない。恐れていない。ここは安全なのだろう。ワースは理解した。
―――あくまでも、ルールを破りさえしなければ、という条件付きだが。
「さあ、主役の登場よ。魔女が来たわ」
秋の女王様が指をさす。歓声が沸く。驚いて辺りを見渡すと、闇に紛れて様々な動物が盆地に来ていたことに気付く。ライオン、ネズミ、ミミズ、フクロウ、シマウマ、バッタ、ゴキブリ、ダンゴムシ、テントウムシ、トラ、ジャカル、犬に猫、そして、人間とカエル。今だけは弱肉強食の精神は失われている。あの、百十の王でさえも、獲物を見ようともしない。その瞳の先には、魔女の姿のみ。スマラカタが得意げにゲロゲロ鳴く。ここにいるみんなは僕が連れてきたんだよ! とでも言いたげに。スマラカタの瞳はキラキラ輝いている。その目線の先にワースも目を向ける。十一の黒い影が、月明かりの下を飛んでいる。まるでカモの群れのように、キレイなV字型で飛んでいる。生暖かい風が吹く。スマラカタが静かに鳴く。ライオンの毛並みが揺れる。秋の女王様が、生唾を飲む音が聞こえる。恐ろしく静かだ。ワースは思った。ここはどこだろうか? まるで自分が異次元にいるような気分になる。空飛ぶ影が盆地に近づく。期待が膨らむ。
さあ、サバトの始まりだ。
ワースが心の中で呟いた瞬間、十一人の魔女はゆっくりと旋回するように地面に降り立った。十一人の魔女が、ついに現れたのだ。
「みなさん、こんばんわ。これが最後のサバトだからねぇ。ケヒヒヒィ」
十一人の魔女は、みな老婆だった。黒いローブを着ている。黒いとんがり帽子を被り、黒い長靴を履いている。絵本で見たことがある魔女の格好そのままだった。ある者は、首にトカゲの干物のネックレスをしている。ある者は、骸骨を大事そうになでている。ある者は、片目がないのか、眼帯をしている。十一人の老婆は、円形になるように隣り合って座っている。そして、ある者は酒を飲み、ある者はおにぎりを食べ、ある者は屁をこいてゲラゲラ笑った。一人がぽつりとしゃべると、他の誰かがそれに答えた。また誰かがしゃべると、他の誰かが答えた。何を話しているか、その内容はわからないが、何かについて会議をしているような雰囲気だった。
月の位置が低くなり、雲が流れた。昼間の熱はすっかり冷めて、夜はより一層深くなった。魔女たちはずっと、話し合いをしている。派手なイベントは何も起きない。あーでもないこーでもないと、淡々と何かについて会議をしているだけだ。
これが、サバト?
ワースは首を傾げた。スマラカタの方を見る。スマラカタはわなわな震えていた。秋の女王様を見る。満足そうに魔女を眺めている、キレイだ。ライオンは欠伸をしているし、フクロウはホーと鳴いている。バッタは死んだように仰向けに裏返り、ネコは毛づくろいを始めた。
もう一度スマラカタを見る。やっぱり、わなわな震えている。反動で破裂するのではないかと思うほど、筋肉が収縮している。特に後ろ足の筋肉は、宇宙のビッグバンを想像させるほどの密度を誇っている。その密度が解かれた瞬間、筋繊維は悲鳴をあげて引き千切られ、別の何かへと進化するのではないだろうか? 繭を破って羽化する蝶のように、殻を破って生誕するヒヨコのように。死にたくなるほどの激痛と引き換えに、筋繊維という殻を破って、新しい何かが生まれる。そんな妄想を生み出すほどの、震えがそこにはあった。
スマラカタはゲロゲロ鳴いている。鳴嚢が破裂しそうなほど膨張している。スマラカタは怒っているのだ。期待を裏切られたことに対して、素直に、ただ素直に、怒っているのだと、ワースは気が付いた。
「ねえ! どうしたの! 今までのサバトと違うじゃないか!」
我慢できなくなったのか、スマラカタは声を張り上げた。そして、ピョンピョン跳ねながら魔女の円陣に近づいた。
「今までのサバトはもっと楽しかったのに! 幻想的で、うるさくて、目がチカチカするくらい眩しくて、お祭りみたいだったのに! ねえ、どうして! ねえ! ねえねえねえ!」
スマラカタはやかましく跳ねる。垂直に跳ねて、跳ねて、跳ねる。鳴嚢の最大拡張と収縮を繰り返す。ゲロゲロうるさい。
「うるさいカエルだねぇ」
魔女の一人が呟く。
「これが本来あるべき姿なんだよ」
別の魔女が呟く。
「サバトとは、魔女の会議のことだ」
別の魔女が呟く。
「ワシは酒を飲みに来たのだけどね」
別の魔女が呟く。
「今日はあの子がいないからねぇ」
別の魔女が呟く。
「あの子はイタズラが大好きだからね」
別の魔女が呟く。
「今までのサバトが祭りのように派手だったのは、あの子がいたからだ」
別の魔女が呟く。
「あの子は、地味なサバトを変えたいと言っていた。祭りにしたいと言っていた」
別の魔女が呟く。
「でも、今日は来ていないんだ」
別の魔女が呟く。
「だから、うるさいカエルちゃん、残念だけど、もう帰りな」
別の魔女が呟く。
「ここからは、永遠と、ババアがしゃべるだけだよ」
別の魔女が呟く。
「祭りはもう、お終いさぁ」
別の魔女が呟く。
「やだやだやだやだやだやだやだ! 最後なんだよ! 最後のサバトなのにこれでお終いなの!? やだよ! ぼく、嫌だよ!」
スマラカタは駄々をこねる。干からびたカエルのように、仰向けになって手足をジタバタさせる。ゲロゲロゲロゲロゲロゲロと超高速で鳴く。勢い余って、屁をこく。カエルも屁をこくのね、と感心したように秋の女王様が呟く。ライオンがスマラカタに向かって激しく吠える。ワースはビックリして鳥肌が立った。スマラカタは黙らない。より一層うるさく暴れる。誰か、ヘビを連れてこい! あのうるさいカエルを飲み込んでもらおう! 犬かジャッカルか虎のどれかが、そう言った。ワースは空耳だと思った。よく耳を澄まして聞いてみると、犬がワンワン吠えているだけだった。やっぱり空耳だった。犬が人間の言葉をしゃべるわけがない。しゃべるカエルはいるけれど。ゴキブリが森の中に消えた。おそらく、ヘビを探しに行ったのだろう。そして、ダンゴムシはただ、丸まっていた。
「カエルよ、帰るのだ」
魔女の一人がダジャレを言う。別の魔女が笑いをこらえる。
「僕はカエルじゃない! スマラカタだ!」
スマラカタはダジャレを言った魔女の顔に張り付いた。魔女は悲鳴一つ上げない。人差し指と親指だけでスマラカタの首根っこを掴むと、顔から引きはがした。スマラカタは暴れる。ゲロゲロ鳴く。しかし、魔女は離さない。スマラカタの瞳をただじっと、観察するように眺めている。
「おまえ、名前を貰ったのか。カエルのくせに、いいものもらったじゃないか」
魔女はニヤリと笑う。不気味だ。その笑みは、不吉をはらんでいる。世にはびこる全ての不吉は、あのババアの笑い皺の隙間から生まれたのかもしれない。この世の不吉の出発点は、あそこかもしれない。
「離せぇ! 離せよぉ!」
スマラカタはゲロゲロ鳴く。暴れる。鳴嚢を膨らませる。小さな体で、必死に抵抗する。
「カエル、いや、スマラカタよ。あんたには前にも言ったはずだ。この世の掟は、等価交換だと。人間どもは、自分たちで勝手に価値を作り、等価交換を無視して生きているが、この『掟島』においては、等価交換がすべてだ。だれも、等価交換という掟を破ることはできない」
別の魔女が呟く。
「ケヒヒヒィ。そういうことだ。スマラカタよ。お前はさっきから、望んでいるだけだ。何も失ってはいない」
別の魔女が呟く。
「失う覚悟もないくせに、望みを叫ぶな」
別の魔女が呟く。
「祭りのような派手なサバトがお望みなら」
別の魔女が呟く。
「等価なものと交換だ」
別の魔女が呟く。
「本当にお前が望むなら」
別の魔女が呟く。
「その、名前と交換だ」
別の魔女が呟く。
「え!?」
スマラカタは石のように固まった。近くにヘビでもいるのだろうか? ゴキブリが連れてきたのだろうか? ワースはあたりを見回した。しかし、どこにもヘビはいない。ヘビに睨まれたカエルではないようだ。
「え、え、え、え」
スマラカタは壊れた人形のように「え」と繰り返す。ビックリした顔をしている。心臓が止まってしまったように息が苦しいのに、耳にはやけに大きな鼓動が聞こえる。
「い、いやだよぉ。こんなに素敵な名前をもらったのに、いやだよぉ」
スマラカタは言葉を紡ぐ。嘘偽りのない素直な言葉をやっとの思いで吐き出す。
「それなら、サバトはあきらめな」
魔女の一人が呟く。
「い、いやだよぉ。最後なんだよ。これで最後なんだよぉ」
スマラカタは泣いていた。鳴いていたのではない。目から涙をボロボロ零して泣いていた。そんなに目から水分を出してしまったら、脱水状態に陥り、干からびてしまうよ。そう思うほど、スマラカタは泣いていた。目から零れる雫を見て、秋の女王様が「ああ」と感嘆を漏らした。
「どちらかだ」
別の魔女が呟く。
「掟は絶対だ」
別の魔女が呟く。
「例外はないよぉ。掟は厳密だからね」
別の魔女が呟く。
「ケヒヒヒヒィ」
十一人の魔女がそろって笑う。その高笑いは、世界の果てまで届き、不吉を世界にばらまいた。
「ねえ、ちょっといいかしら」
秋の女王様はサバトから視線を外さず、前を向いたまま、横にいるワースに話しかけた。
「はい。どうしましたか?」
「ここは四季の国ではないけれど、私は女王で、あなたは国民の一人。この認識は間違っていないかしら」
「はい。間違っていません。あなたは女王であり、私は国民の一人です。重要なのは土地ではなく、精神です。私はあなたを女王様と認識し、敬っています」
「それなら、一つ、私の命令を聞いてくれるかしら」
ワースは思わず、くすっと笑った。
「何がおかしいのかしら」
秋の女王様は少し不機嫌な顔をした。ワースは慌てて真顔になった。
「いえ、『命令』なのに、まるで『お願い』のような言い方を女王様がしたので、つい」
ワースは頭を下げて謝罪した。
「確かに、先ほどの言葉は矛盾した意味をはらんでいたわね。私は命令と言っておきながら、心では、あなたにお願いをしていたのよ」
秋の女王様は下を向き、寂しい顔をした。息を吐き、静かに吸ってから、顔をあげた。月明かりが秋の女王様の輪郭を照らす。顔の造形によって作り出された陰影でさえ、美しく思えた。
「十二人目の魔女を、探してきて欲しいの」
秋の女王様は威厳に満ちた顔をしている。今度は、口調はお願いだが、そこに込められた意志は、否定を許さぬ命令だった。
「かしこまりました」
ワースは間を空けずに即答した。無意識のうちに背筋を伸ばし、あごを引いていた。女王様の命令に応えたいと、心の底から思った。
「カエルちゃんがかわいそう。助けてあげたい。あの子を助けるには、十二人目の魔女を探してくる必要があるわ。でも、私はサバトを見届けたい。静かで地味な魔女の会議だけど、私にはとても面白いのよ。興味深いと言った方が正しいかしら? とにかく、一時も目を離すことなく、見届けたいの。でも、カエルちゃんも助けてあげたい。私は強欲で、どちらも叶えたいから、女王という立場を利用して、命令するわ。本当は、命令ではなく、あなたにお願いしたいのだけれど、あなたと私の今の関係性において、それはとても不確かなことだから、だから……」
秋の女王様は、月を見上げた。そう言えば、掟島は秋だった。秋の女王様は、秋が似合うなぁ。ワースはふと思った。秋空の下、思考して、言葉を探して、途切れ途切れの声を紡ぐ、秋の女王様は、美しい。
「十二人目の魔女を、ここに、できる限りはやく、連れてきなさい」
ワースは静かに頷くと、サバトに背を向けて歩き出した。背後では、スマラカタの鳴き声が聞こえた。そのゲロゲロは、どこか寂しい振動だった。
○
「あの子ならきっと、山の頂上にいるよ。ケヒヒヒィ」
魔女の一人が呟いた。ワースは振り返る。
「ケヒヒヒィ、今のはただの、ひとりごとひとりごと」
魔女の一人が呟いた。ワースは、今度は振り返ることなく、森へと向かった。
森を数分歩くと、開けた広場に着いた。そこだけポッカリと穴が空いたように、草木が伐採されている。吟遊詩人がここで、詩でも口ずさむのだろうか。ワースは腰巾着から角笛を取り出し、プギャピーを呼んだ。数分もしないうちにプギャピーはやって来た。相変わらず、すごい聴力だ。プギャピーはどこにいても、必ずこの角笛の音を聞き取り、絶対にワースのもとに来てくれる。信頼がある。だから、ワースはプギャピーに命令ではなく、お願いをする。そう思うと、先ほどの秋の女王様の思考が、少しだけ理解できた気がした。秋の女王様は、あの時、命令するしかなかったのだ。
ワースはプギャピーの背に乗り、飛び立った。目的地は決まっている。掟島にある唯一の山。その頂だ。そこに、十二人目の魔女がいる。サバトに参加していた魔女の独り言を信じればの話だが、今は信じるしかない。プギャピーは羽ばたく。風に乗る。夜風はやさしい。プギャピーはプギャピーと鳴く。そこに、震えはない。プギャピーは恐怖を克服している。ワースもまた、怖さを乗り越えている。掟島の環境や空気に慣れつつある。それは、生きていくうえで必要なことではあるが、ワースは少しだけ、残念に思う。
―――心臓のドキドキは、いつも、恐怖と共にあるから。
ワースは、もっと、ドキドキしていたかった。旅人なのだから。未知に恐怖して、へっぴり腰のまま、一歩一歩慎重におびえながら、進むのも悪くない。そんな旅人の哲学に酔いしれていた。
しかし、そんなワースの考えは、杞憂である。ここは掟島。魔女が巣くう、未知の異界。一寸先には、心臓がはち切れんばかりの、ドキドキと恐怖が待っている。
五分ほどで、ワースたちは山の頂上にたどり着いた。山の頂上はカルデラになっていた。直径は三十メートルほどだろうか。その窪みは、宝玉を持つ龍の手のように、巨大な球体の下半球を支えているような形をしていた。中央には枯れた巨木が一本生えている。その枝には一羽のカラスが止まっている。木の根元には一人の人間がもたれかかっている。他には誰もいない。無機質な岩が転がっているだけだ。おそらく、あの人間が、十二人目の魔女だ。ワースがカルデラに降り立った。瞬間、カラスがカーと鳴く。それは威嚇だろうか、警告だろうか、それとも、何かの予兆だろうか。いろんな意味を含んでいるようにも思えるし、何の意味もないただの空気の振動にも思えた。月明かりの下、木枯らしが吹く。カルデラの窪みに闇が溜まる。闇は密度が高いのだと気づく。密度が高いものは下に溜まり、低いものは上に漂う、それは科学の掟。
「やあ、よく来たね。君たちならきっと、僕に会いに来てくれると思っていたよ」
魔女は立ち上がり、笑みを浮かべる。白い歯が三日月になって闇に浮かぶ。チェシャ猫みたいだとワースは思う。僕? ワースは僕という言葉に戸惑う。魔女の体を上から下までつぶさに観察する。黒いフードを被っているので髪型はよくわからない。顔は小顔だ。大きな口をしているが、目はつぶらで小さい。肩幅はそれほど広くない。胸のふくらみはない。身長は低い。160センチはないだろう。これだけの情報では、魔女の性別は判別できない。
「あなたは、魔女ですか」
それは、いろんな意味を含んだ問いかけ。魔女は笑う。
「ある意味では魔女だし、ある意味では魔女ではない」
ワースは戸惑う。困った顔をする。それを見て魔女は再び笑う。
「心配しなくていい。僕は君が求める魔女で間違いない。それだけは確かだよ」
ワースはホッとする。プギャピーがプギャピーと鳴く。プギャピーの鳴き声の意味をワースは理解する。カラスの不確かな鳴き声とは違う。これは、警鐘の鳴き声だ。プギャピーは野生のカンで、ココハキケンダと感じている。ワースはわずかに頷く。要件をさっさと済ませて、ここから離れよう。
「サバトに来てください」
「ふふ、君はせっかちだね」
魔女は足元の石を拾い上げる。ゴツゴツした角を確かめるように愛撫する。石を口に含んだときのような、嫌な味がワースの口に広がる。
「どうして僕がサバトに参加しないと決めたのか。その決意を君は知っているのかい? 理由も知らずに、僕をサバトに連れ戻そうとするなんて、身勝手だと思わないかい?」
行動は一瞬だが、行動に至るまでの思考は、長く険しい。悩んで、いろんな仮説を立てて、立てた仮説を否定して、また新たな仮説を立てて、淘汰された仮説をさらに補強して、ほんとにこれでいいのかと怯える。怯えながら、必死に決断した行動。それは、長い思考の歴史の先にたどり着いた、英断だ。ただ、悲しいかな、思考の流れは他人に見えない。だから他人は、簡単に否定する。長く険しい思考の過程を知らずに、身勝手に否定する。行動だけを見て判断する。行動に至るまでの心の歴史を知ろうともしない。魔女はそれが、気に喰わなかった。
「まあ、少し話をしよう。それからでも遅くはないはずだ。サバトは夜通し続く。まだ夜は、最深部まで到達していない」
魔女はワースに座るように指示した。これを断れば目的は達成できないと、ワースは直感的に思った。時に、相手のペースに合わせることも交渉には必要だ。ずっと自分のペースで進めていては、目的は達成できない。ワースはそれを経験的に理解していた。ワースは近くにあった平たい岩の上に腰掛けた。プギャピーはワースの傍に寄り添った。
「ふふふ、まず、何から話そうかなぁ」
魔女は鼻歌を歌う。なんだか楽しそう。
「うん。まずは自己紹介からしようか。君の名前は?」
「ワース。こっちは、プギャピー」
「そうか、ワースとプギャピーだね。僕の名前は、クラックだ。よろしく」
ワースはペコリと頭を下げた。
「さて、ワースは、魔法を知っているかい」
ワースは考える。知っているとは、どれほどの深度のことを指しているのだろうか? 魔法の存在は知っている。しゃべるカエルを見たし、空に浮かぶ巨大な顔も見た。魔法は存在する。魔法は等価交換によってもたらされる、ということも知っている。カエルは『人間の言葉』を得る代わりに『冬眠』を失った。知っているのはそれくらいだ。
「僕達魔女は、魔法の研究をしているんだ。研究は、発表されるべきだろ? 研究して、どこにも発表せずに死んだら、意味ないだろ? 研究っていうのは、そういうものさ。流布したり、記録として残さないと、意味がない。だから、まずは、魔法の研究成果を聞いて欲しい。いいかい? 僕はつらつらしゃべるよ。できるだけ噛み砕いて話すつもりだけど、なんせ“研究”だからね。難しくて退屈かもしれない。それでも聞いてくれるかい? ぼくの研究のはけ口、いや、存在意義になってくれるかい?」
ワースは頷く。とても断れる雰囲気ではない。それに、ワースは興味があった。魔法について、もっと深く知りたいと、単純に思った。
「よろしい」
魔女はコホンとわざとらしく咳をしてから、静かに話し始めた。
○
よろしい。でわ、まずは大原則から説明するよ。これは魔法に限ったことじゃない。この世界のルールと言ってもいい。そう、等価交換だ。何かを得るためには、それと等価な何かを失う必要がある。これは、何も非科学的な話じゃない。科学の世界でも同じことを言っているじゃないか。君は、エネルギー保存の法則という言葉を聞いたことがあるかい? 熱力学第一法則とも言う。簡単に言うと、孤立系のエネルギー総量は変化しない、という法則だ。つまり、世界のエネルギーは常に一定に保たれなくてはいけないんだ。エネルギーが消費されたら、その分をどこかから補う必要がある。どこかが膨れたら、どこかがへこむ必要がある。『エネルギー』という言葉を、『価値』という言葉に置き換えてもいい。だから、等価交換が原則となる。変化の前と後で、価値が変動してはいけないんだ。
もう少しわかりやすくしようか。
例えば、Aという魔法を発動するとしよう。このとき、Aと完全に同じ価値のBという何かを失わなければいけない。A=Bの等式が成り立つ時、初めて魔法は発動するんだ。A≠Bのとき、魔法は発動しない。魔法を発動する前と後で、価値が変動してはいけないからね。それがこの世界のルールだ。
どうだい? 簡単だろ?
あとは、“価値”の探索研究をするだけで、魔法が使えるようになるんだ。火を起こす魔法が使いたいなら、『火を起こす』という事象と同じ価値の事象を探せばいい。金塊が欲しいなら、『金塊』と同じ価値の何かを探せばいいんだ。そして、それを失えばいい。それだけさ。な、簡単だろ? 君でも魔法は使えるんだよ。等価なものを見つけて、失えばいいだけなんだから。ちなみに、「失う」のは簡単で、燃やしたり、食べて消化したり、鍋で煮てドロドロにすればいいんだ。
そうそう。『カエルが人間の言葉をしゃべる』という事象と『カエルが冬眠をする』という事象は等価なんだ。だから、冬眠するという事象を失えば、カエルは人間の言葉をしゃべることができるようになる。それが魔法。理解がはやいじゃないか。素晴らしいよ。
だから、僕達魔女は、魔法を研究する者なんだ。魔女とは、研究者のことだ。科学者と同じさ。研究対象が違うだけ。質感が違うだけ。でも、本質は同じ。世界のルールを研究し、それを利用して、何かを得ようとする。ゲームと同じさ。ルールを知らないとゲームはできないだろ? ルールがあるからゲームは面白い。人生もゲームと同じ。ルールを知った方が、愉快で面白いに決まっている。な、そう思うだろ?
少し話がそれたね。寒くないかい? 今日は気候がおだやかだが、それでも夜は冷気を携えているからね。闇が深さを増すということは、冷気が増すということでもあるからね。闇は冷気と共にある。え、大丈夫? あらそう。ならいいんだけど。
さて、ここからが本題だよ。先ほどまでの話は序章さ。小説で言えばプロローグみたいなものだね。魔法についても必要最低限のことしか話していない。本当は、もっと細部まで話したいんだけど、今細部を話してもチンプンカンプンだろうからね。細部を理解するためには、長い年月が必要で、今ここで話を聞いてすぐに理解できるもんじゃない。もし理解できてしまったら、それは魔女の沽券にかかわる。魔女の研究は、そんなに浅くないのさ。さあ、本題本題。どうして僕が、最後のサバトに参加しないと決めたか。それを理解してもらうために、いくつか話さなければいけないことがある。少し長くなるかもしれないけれど、我慢して聞いて欲しい。
事の発端は、魔法の研究中に起こった。本当に時々なんだけど、魔法がうまく発動しないことがあった。今までの研究結果から、A=Bの等式が成り立つはずなのに、何故か魔法が発動しないということが、何度かあったんだ。最初はそれほど気にしていなかった。何故なら、価値は変動するものだからね。例えば、野菜があるだろ。野菜は水分をたくさん含んでいる。だから、時間の経過と共に、水分が蒸発して、重量が僅かに変化する。その変化に伴って価値も僅かに変動する。さらに時が進めば、野菜は腐敗し、土にかえる。そうなれば、価値は大きく変動する。つまり、環境や時間によっても価値は変動するものなんだ。そして、魔法を発動させるためには、完全な等価でなければならない。それは厳密で、僅かでも価値が違えば、A=Bの等式は成立しなくなる。魔法が発動しなくなる。もしくは、A´という、Aとは違う魔法が発動してしまう。それは、魔法研究において、それほど珍しいことではなかった。
でも、僕はあることに気付いた。魔法が発動しないのは、ある特定の時期に集中しているということに。それは、変化の過渡期。例えば、季節の変わり目。春でもないし夏でもない中途半端な時期。例えば、昼夜の変わり目。夜でもないし朝でもない時間帯。そういう中途半端な過渡期に、魔法がうまく発動しないことが多くなると、気付いたんだ。その発見を、僕はサバトで発表した。サバトとは本来、魔法の研究発表会なんだ。他の魔女たちは、僕の発表に大変興味を持ってくれたよ。それは面白いってね。その日から、魔女たちは変化の過渡期に置ける価値の変動について研究するようになった。当然僕も、研究をさらに進めたよ。
…………そのころから、魔女が減って行った。一人、また一人と消えて行ったんだ。以前はね、百八人の魔女がこの掟島にいたんだ。にぎやかだった。でもね、僕の研究発表を聞いてから、魔女が減って行ったんだ。研究熱心な魔女から消えて行き、今では、不真面目だった十二人の魔女だけが、生き残っているんだ。そう、君が見てきたサバトに参加した十一人の魔女と、僕、合わせて十二人の魔女しか、今はいない。
ただね、僕はそれほど悲観してはいなかったんだ。『魔女が消えた』ということは、それと『等価な何か』が、この世界のどこかに生まれているということだからね。魔女の価値は、魔女が消えたからといって、けして、失われないんだ。A=Bだからね。だから、悲しくなかったし、焦りもしなかったよ。僕は淡々と、魔法の研究をして過ごしたんだ。そして、僕はある仮説にたどり着いた。季節の変わり目に魔法がうまく発動しないのは、価値が変動しているからじゃない。
―――何者かが、価値を奪っている?
その仮説に気付いたとき、震えたね。恐怖と歓喜で、体が震えたんだ。世界の新しいルールを発見した! エウレカだ! 歓喜した。それと同時に、隙間に潜む悪魔と目が合った気がして、どうしようもないくらい怖くなった。僕はね、自分の仮説の正しさを証明するために、さらに研究を進めたんだ。僕は、価値を奪う『何者』のことを、『シフキの悪魔』と名付けた。この世界には、僅かな隙間があって、その隙間に潜む悪魔がいる。その悪魔が、価値を奪っているのだと、仮説を立てたんだ。悪魔だなんて、大層な名前を付けてみたが、実際は辞書通りの悪魔とは違うと思っていた。それは、僕らの世界とは別のルールを持ったパラレルワールドか、価値のブラックホールか、はたまた、世界のルールを微調整するために必要な装置か。そんな風に考えていたんだ。
でもね、いたんだよ。悪魔。シフキの悪魔。本当に、いたんだ。そう、辞書通りの悪魔。姿は闇に溶けていて、おぼろげなんだけど、目だけはハッキリと見えるんだ。闇に浮かぶ三つの目が、こっちをじっと見ていたんだ。ワース。隙間を作ってはいけないよ。悪魔は隙間が大好きだからね。隙間を作ってはいけないんだ。特に、心に。心の隙間から、悪魔はこちらを覗き込むんだ。目が合ってしまうと、メランコリーになってしまうよ。だから、気を強く持たなければいけないよ。じゃないと、僕みたいに、魅入られてしまうからね。
―――シフキの悪魔に、魅入られてしまうからね
○
「プギャピー!!」
ビリビリと体が震えるほどの咆哮をプギャピーが放つ。コイツハキケンダ。プギャピーは全力で威嚇する。ワースも魔女の異変に気付く。悪意と敵意に満ちている。目がうつろで、定まっていない。危険だ。一刻もはやく、ここから非難しなければいけない。それは直感と経験どちらからも言えることだった。ワースは急いでプギャピーの背に乗ろうとした。
「もう帰るの? もう少し、ゆっくりして行きなよ」
魔女は手をかざす。闇がうごめく。それは地面にはびこる木根のように、守るために人を傷つける逆説的な有刺鉄線のように、ワースとプギャピーの肉体に絡みつく。ワースとプギャピーは身動きが取れなくなる。肉体を制限される。
「君はまだ、理由を聞いていないだろ? なぜ、僕がサバトに参加するのをやめたのか。僕はまだ、完全にメランコリーに支配されていないんだよ。ギリギリのところで、踏みとどまっているんだ。だから僕は、一人でいることを選んだ。自己の中で完結してしまえば、問題ないだろ? メランコリーが心に巣くうエクトプラズムなら、円を描けばいい。もしくは、∞でもいい。同じ軌跡をずっと描いていれば、それほどメランコリーは怖くない。軌跡に触れさえしなければ、それはキレイな花火と一緒さ。だから、僕は、僕、僕、僕は、僕の精神の中だけで、メランコリーを完結しようと、しようと、決めたんだ。だから、一人を選んだ。誰にも、会わないようにした。誰も傷つけないように。サバトに参加している魔女は、みんな、良い人だから。僕はね、普通じゃないんだ。僕はね、男の体に女の精神を宿している。オカマなのさ。でもね、魔女たちは、そんなこと気にも留めない。体が男だろうが女だろうが、精神が男だろうが女だろうが、価値は違わないのだから、気にする方がおかしいと、笑ってくれたよ。男の僕は本来、魔男と呼ばれるべきなのだろうけど、魔女と呼んでくれたよ。嬉しかった。でもね、魔女たちは本質を見逃していたんだ。男の肉体と女の精神の間には、隙間があるんだよ。隙間。そう、悪魔が大好きな隙間だよ。僕にはずっと、心に小さな隙間があって、そこに、メランコリーの種が埋まっていたんだ。それが、今、芽吹きそうなんだよ。だから、僕は、サバトに参加するのをやめた。一人でいることを選んだ。でもね、それでも、やっぱり、人恋しくてね。君たちがこの島に来たとき、嬉しかった。イタズラできる相手がノコノコやって来た。そう思うと楽しくて、ついついイタズラしてしまったよ。できれば、君たちに会いに来てほしいとさえ思ってしまった。そして、君たちは僕に会いに来てくれた。君たちを巻き込むつもりはなかったのだけれど、もう、もう、瀬戸際なんだ。∞を描いていたメランコリーが、軌跡を脱しそう、なんだ」
魔女は闇に溶けていく。いや、まるで鎧のように闇を身にまとっていく。闇と闇がくっつき、膨張し、巨大な化け物へと変質する。闇は黒い毛並みを作り、漆黒の筋肉を作り、三日月を模したような黄金の角を作る。山羊だ。巨大な山羊の化け物だ。
ワースは震えた。プギャピーもガタガタ震えている。恐怖だ。闇だ。化け物だ。今ここには、明るいものは何一つない。月明かりでさえ、遥かかなたの無関係な戦争のように、むなしい残響に思えた。
「メェエエエ……メェエエ……メェエエエ……ゼェゼェゼェ、今ならまだ、間に合う。逃げろ。ゼェ、ゼェ、逃げるという行為ただ一点に集中しろ。他のことは一切考えるな。何かに集中しているときは、心に隙間は生まれない。一目散にただ逃げろ!」
ワースとプギャピーを縛っていた闇が解けた。ワースとプギャピーは自由になり、魔女の最後の正気の言葉を信じ、逃げようとした。逃げることだけに集中しようとした。しかし、ワースとプギャピーは理解していなかった。悪魔は隙間が大好きだということ。そして、僅かな隙間さえあれば、悪魔はそこから、こちらを覗くことができるということを。
一目散にただ逃げるということに集中するのであれば、プギャピーはその身だけで飛び立たなければいけなかった。ワースを背に乗せようと考えてはいけなかった。プギャピーは“逃げる”のではなく、ワースが背に乗るのを“待って”しまったのだ。待ったのは一瞬のことであったが、悪魔にとってその一瞬は充分な一瞬だった。逃げることだけに集中しろと言ったのに、プギャピーはそれができなかった。そして、心に僅かな隙間を生んでしまった。ワースもまた、逃げることに集中するのであれば、無我夢中で、心臓がはち切れるほどに、全力疾走で走り出すべきだった。しかし、ワースの頭に思い浮かんだのは、秋の女王様の寂しい顔だった。このまま逃げてしまえば、女王様の命令を全うできない。ワースは一瞬、考えてしまった。心にわずかな隙間が生まれた。
そして―――シフキの悪魔は―――隙間が大好き―――
「他のことは考えるなと言ったのに。逃げることに集中しろと行ったのに。もう、終わりだ」
闇は静寂を帯びた。それは、嵐の前の静けさのような、不気味な静寂だった。
「メェエエエエエエエエエエエエエ!!」
静寂が崩壊し、咆哮が夜空に向かって放たれた。月が揺れた。化け物山羊の毛並みが逆立つ。筋肉が隆起する。
悪魔は何もしない。ただこちらを見つめて、不気味に微笑むだけ。
悪魔に見つめられて、正気を保てる人間がいるだろうか。
だから人間は、自滅する。
あるものは、悪魔から目をそらすために、欲望のまま人を抱く。
あるものは、心を見透かされないように、研究に人生を捧げる。
あるものは、現実逃避するために、麻薬に手を染める。
あるものは、悪魔に対抗するために、破壊の衝動に駆られる。
あるものは、テンパって、焦って、自分でも予想だにしない奇行に走る。
あるものは、冷静を失い、理論的に考えることができなくなり、誤った判断をする。
あるものは、悪魔の対極にある神聖なものを求めて、宗教を狂信する。
全ては、人間自ら落ちる穴。悪魔はただ、見つめるだけ、微笑むだけ。
心の隙間とは、悪魔の覗き穴のことである。
心の隙間を通して、悪魔と目が合うと、人は狂う。メランコリーになる。
だから、心に隙間を作ってはいけないよ。
闇が詩を詠んだのを、ワースは確かに聞いた。山羊の化け物は蹄を高く振り上げる。蹄に力をこめる。闇が圧縮される。振り上げた蹄は岩のように大きい。見上げた先の満月が隠れる。月明かりを失った闇がさらに深くなる。ワースは震える自分の足に向かって動けと念じる。これは絶対に避けなければいけない。しかし、足に力が入らない。恐怖が体の自由を奪う。蹄が重力を味方につける。振り落とされる。瞬間、ワースの体が横に跳ぶ。プギャピーの体当たり。山羊の蹄がプギャピーの尻尾を踏みつける。プギャピーが悲鳴をあげる。悲鳴は闇に、溶けて消えた。
「プギャピー! 大丈夫か!」
プギャピーのおかげで、ワースは勇気を取り戻した。足はまだ震えているが、動ける。プギャピーを助けなければ。プギャピーはプギャピーと叫ぶ。ワースはその意味を理解する。クルナ! ニゲロ! プギャピーは叫んでいる。ワースに怒りが込み上げる。お前を捨てて逃げられるか! バカ野郎! ワースは山羊の右前脚に体当たりをする。何度も何度も体当たりする。肩が赤くはれる。骨にひびが入る。小さな人間の無力な体当たり。そんなこと、わかってる! でも、置いて行けるかよ。これしかできないなら、これだけやるさ。無力な体当たりでも、命をかければ、絶対に助けられる。体は軽いかもしれないけれど、命は重いんだ。山羊め! 命の重みを知れ。俺はもう、死んでもいい。たくさん旅をした。お前と冒険した。その思い出は宝物だ。それだけあれば、死んだ後も寂しくないだろう。後悔はない。プギャピーさえ助かってくれれば、後悔はないんだ。生きろ、プギャピー。お前は俺という人間に慣れ過ぎた。野生に戻れ。野生で生きるのは、きっと、スリリングで面白い。退屈しないだろうよ。今助ける。命を懸けて助ける。だから、お前は生きろ。
―――どうやって助けるって言うの? その非力で、化け物山羊を倒せると思っているのかい?
声が聞こえた。どこからだ? ワースはあたりを見渡す。プギャピーと山羊とカラス以外だれもいない。だれもしゃべっていない。どこから……。ワースは気付く。この声は、心の中から聞こえる。ワースは心に意識を集中する。瞬間、心臓を鷲掴みにされたように体が震えた。
心の隙間から、こちらを覗く、悪魔と目が合った。
―――やあ、こんにちは。ようやく、こっちを見てくれたね。
ワースは時が止まったのかと思った。まるで雪の中に顔を埋めた時のように、全ての音が遠くに聞こえた。目に映る全てがスローモーションに見えた。時が本来のリズムを失う。
―――君の心の隙間から、ずっと、覗いていたのだけれど、君はなかなかこちらを向いてくれなかったからね。嬉しいよ。
悪魔は微笑んでいる。輪郭は闇に溶けていてぼんやりとしている。ギロギロとした三つの目が確かにこちらを捉えている。
―――みんな生きるのに必死だからね。死の間際にならないと、こっちを見てくれない人間は多いんだよ。今の君みたいにね。まあ、中には自らこっちを覗き見るような、おかしな人間もいるけどね。
悪魔と目が合う。そんな非現実的な事態は、死の間際のような、極限の状態でしかありえないのだろう。
―――君に、良いことを教えてあげよう。プギャピーを助けたいんだろ?
悪魔が甘い囁きを放つ。悪魔はただ見つめるだけで、何もしないんじゃなかったのか。ワースは心の中でぼやく。
―――ああ、そうさ。普通は、ただ見つめるだけ。無口な悪魔さんですよ。でも、君は特別さ。困っているみたいだから、ついつい、助言してあげたくなったんだよ。ダメかい? 普段は無口な人でも、しゃべることだってあるだろう? しゃべるくらいいいじゃないか。悪魔にだって、例外くらいあるさ。
まあ、そういうこともあるか。ワースは冷静にそう思った。死の間際だというのに、不思議と心が穏やかになっていた。ワースは死を前にして、達観してしまったのかと思った。
―――達観? 違う違う。君はまだ自分が死なないということを、理解しているのさ。君はここでは死なない。だから、冷静になっているのだよ。
死なない? この状況で? 化け物山羊に命を狙われているこの状況で?
―――そうだよ。君は死なない。何故なら、君は私の声に耳を傾ける。プギャピーを救うためにはそれしかないからね。そして、奇跡が起きる。大団円。な? 単純だろ。困難はいつだって、都合の良い奇跡が解決してくれるものさ。それに、ハッピーエンドには、奇跡が付き物だろ? アダムとイブのように、ハッピーエンドと奇跡はお似合いなのさ。
なるほど。それは願ってもない。
―――うん。物分かりがはやくていいね。じゃあ、教えてあげよう。プギャピーを救う方法を。それはね、魔法だよ。君が、魔法を、使うんだ。
俺が、魔法? 魔女でもないのに?
―――ああ、そうさ。だれが魔法は魔女だけのものだと言ったんだい? 魔女は魔法の研究をしているだけの、ただの人間だよ。同じ人間である君に、魔法が使えない道理はないじゃないか。
確かに。そう言われると、なんだか魔法が使える気がしてきた。
―――その調子さ。それじゃあまず、魔法のおさらいからいこうか。
魔法は、等価交換によってもたらされる。魔法を使うためには、価値を見極め、それと等価な何かを失えばいい。まてよ。だとしたら、難しくないか。この状況がどれほどの価値を内在している事象なのかなんてわからない。たとえ分かったとしても、それと等価なものなんか、都合よく持っているとは限らない。
―――確かにそうだね。君は魔女じゃない。魔法の研究をしていないただの人間に、価値を見極めるのは、いささか難しいだろう。それに、君は君自身の価値についても、理解が浅いようだね。
では、どうしたら?
―――なはは。簡単なことさ。悪魔の言葉に耳を傾ければいいんだよ。
悪魔の言葉に耳を傾けてはいけない。それは人間の常識ですよ。生まれ落ちた子供に母親が名前よりも先に教えることだ。
―――悪魔の言うことを聞いてはいけない。そう思いながらも、結果的に悪魔の言葉に耳を傾けてしまう。それもまた、人間の常識じゃないかい? イブは禁断の果実をかじり、ロトの妻は振り返って塩の柱となり、パンドラは絶望の箱を開けてしまう。人間とは、そういう生き物じゃないか。そして君も、そういう系譜に連なる、人間だ。
人間にだって、例外があってもいいのではないですか? 悪魔にも例外があるように。
―――たしかに、例外があってもいいだろう。本来悪魔は人間を見つめるだけの存在であるのに、私は今、君とこうして“例外的”に対話をしている。ならば、君も人間の例外になってもいいだろう。でもね、今は、通例に従った方が良いのではないかい? プギャピーを救いたいのだろう?
そうですね。おちょくるのはやめましょう。
―――まさか、君は先ほどまで、悪魔をおちょくっていたと言うのかい? いやはや、すごい奴だね、君は。恐れ入ったよ。
だってあなたは、何もしてこないのでしょう?
―――どうかな? 例外があるかもしれないよ。
それは困った。
―――さて、お互い冗談はこの辺にしようか。
ええ。そうしましょう。
―――君が失うべきものを、教えてあげよう。言っておくが、私は教えるだけだ。それを失うかどうかは、君が決めることだ。失うのが惜しいのならば、やめてもいい。
前置きはよしてください。あなたは既に理解しているはずだ。俺が決して、やめないことを。俺は、プギャピーを救うために命を投げ出そうとしたのですよ。何だって失う覚悟があるのです。
―――いいだろう。君が失うべきもの。それは、『旅の記憶』さ。
旅の記憶?
―――そう。旅の記憶。
ワースは拍子抜けしてしまった。そんなもので、いいの?
―――おや? 意外そうな顔をしているね。
奇跡の対価は命、もしくは肉体の一部が相場ではないだろうか。赤いバラのために命を失ったナイチンゲール。人間の足を得るために声を失った人魚姫。知恵と魔術を得るために片目を失った神。奇跡とは、それほどの対価が必要な事象でしょ? 記憶なんて、失っても痛くもかゆくもないじゃないか。
―――君はいろいろと勘違いをしているようだね。まず、奇跡に大した価値はない。君は奇跡を過大評価し過ぎている。奇跡なんて、くしゃみ一つで起こせる事象なのだよ。そして、君は『旅の記憶』の価値もまた、わかっていない。旅人の君が、旅の記憶を失うのだよ? その意味を、ちゃんと理解しているのかい? 今までの旅の経験が全て無駄になるのだよ。君は人生を旅人に賭して来たのだろう? それがすべて、無駄になるのだよ? 旅の記憶をなくした旅人に、価値はあるのかい? それは、旅人のアイデンティティを失った、ただの放浪者じゃないのかい?
ワースはハハハと笑った。旅人にとって一番の喜びは何だ? それは未知だ。旅の記憶がなくなれば、未知の場所が増えるじゃないか。それはとても、嬉しいことだ。旅の記憶など、また新しく作ればいいのだ。
―――旅人の哲学というやつかい。いいね。私は嫌いじゃないよ。『失うこと』をどのように解釈してもいいんだ。悲観的になってもいいし、君みたいに哲学でねじ伏せてもいい。人間は自分の好きなように物事を解釈できる。それが人間の良いところでもあり悪いところでもある。ただ、どのように解釈したところで、そこに内在する価値は変わらない。それは、厳密なルールだからね。覚えておくといいよ。さて、少ししゃべりすぎたかな? おしゃべりな悪魔は嫌われてしまうね。君を見ていると面白いよ。君は何というか、定まっていないから、不確かだから、万華鏡のように見ていて飽きないよ。それじゃ、心の隙間から、君のことをこれからも覗かせてもらうから。不安になったら君の方から覗いてくるといい。メランコリーにしてあげるから
ちょっとまって。どうやって失えばいいのか、教えてください。俺はどうやって、旅の記憶を失えばいいのか。
―――君はおかしなことを聞くね。旅の記憶は君の頭の中にあるんだよ。君の中にあるものは、君が一番どうにかできるんじゃないのかな? まあ、思う通りに行動してみなさい。きっとうまくいく。それに、もしA=Bの等式が成り立たないようであれば、私が微調整してあげるから、問題ないよ。なあに、ちょいと価値を隙間から横取りするだけさ。簡単簡単―――
悪魔は最後にウインクをした。瞬間、時が本来のリズムを取り戻す。耳元で音がやかましく鳴り響き、視界に映る景色は流動性を取り戻す。
プギャピーの悲鳴が聞こえる。巨大な山羊の右前脚が目の前にある。ワースは願った。プギャピーを救いたい。そのためなら、旅の記憶などくれてやる。奇跡と交換だ。ワースは目の前の巨大な右前脚に向かって、全力で頭突きした。鈍い音が響く。ワースの脳みそが激しく揺れる。この時、記憶をつかさどる海馬が特に激しく揺れた。それは偶然かもしれない。でも、確かに、ワースの海馬は大きく揺れ、記憶の一部が―――失われた。
○
ここからは、全てが隙間のない、滑らかな流動の中で行われた。
ワースの額が割れ、そこから血液が飛び出す。今まで血管にやさしく守られていた血液は、急に外に出されたので、闇に怯えるように寄り添い、シャボンのような球体となる。闇の密度は高く、密度の低い血液の球体はふわふわと上昇する。赤い球体は、巨大な山羊の顔まで到達すると、山羊の恐ろしい顔に驚いて割れた。血しぶきが飛ぶ。山羊の目に血液が入る。山羊は怯み、右前脚の力が緩む。その一瞬の隙に、プギャピーは逃げ出す。額を押えるワースを背に乗せて、空に飛び立つ。山羊は顔を左右に振り、何度も瞬きをする。怒りの咆哮をあげる。月が震える。雲が散る。山羊が目を開けると、そこには赤い世界が広がっていた。ここはどこだ? 山羊の化け物は不思議に思う。景色は次々と変わる。深海図書館、金と銀と銅の三つの睾丸を持つ化け物、砂漠のピラミッドと蟻地獄、雲の上に浮かぶ空島、雷を吸収する黒い植物、真夏サーカスの空中ブランコ、魔女のサバト。ワースの旅の記憶が、山羊の網膜に宿る。目まぐるしく変わる未知の景色に、山羊は眩暈を覚える。赤い景色の中、目の前に、翼の生えたドラゴンが現れる。その姿は、山羊の化け物よりも数倍ででかい。牙はライオンのように鋭く、口からはマグマの炎を吐く。山羊は畏怖し、背を向けて逃げる。カルデラを乗り越え、山の淵まで行き、そこから、急斜面に向かって転げ落ちた。
ワースとプギャピーは山羊の行く末を見届けるために、山の麓を目指す。山の麓には、苦しそうに悶える魔女がいた。
「う、うぅう……」
魔女は子宮に眠る赤子のような姿勢で体を曲げていた。ワースは近くに降り立ち、魔女の手首の脈をとった。ドクンドクン。生きている。呼吸もある。一安心だ。ただ、そこらじゅう傷だらけ。早急に手当てをする必要がある。
「さあ、みんなの所に行きましょう。そこで手当てをします」
ワースはプギャピーの背に魔女を乗せた。自分はプギャピーの足に捕まり、空へと飛び立った。プギャピーの腕力は強い。人間二、三人くらいなら余裕で運べる力がある。空を見る。まだ月は落ちていないし、朝日も昇っていない。大丈夫。まだサバトは続いている。さあ、戻ろう。
目的地は、最後のサバトだ。
○
ワースはサバトの会場へと降り立つ。プギャピーの頭を撫で、傷ついた魔女を下ろし、溜息を一つついた。周りを見渡すと、ライオン、ネズミ、ミミズ、フクロウ、シマウマ、バッタ、ゴキブリ、ダンゴムシ、テントウムシ、トラ、ジャカル、犬に猫、そして、人間とカエルがいた。十一人の魔女は酒を飲み、おにぎりを食べ、談笑していた。相変わらず地味な光景だった。自分とプギャピーは死ぬ思いをしてきたのに、その間、何も変わらずに平和なままだったサバトが、なんだか滑稽に思えた。額が痛む。触ると流体とカサブタのちょうど中間くらいの粘土の血液が指に付く。
「ワース、怪我してる……」
秋の女王様が心配そうな顔で駈け寄る。ワースは無理に微笑む。
「女王様。命令を遂行しました。あなたはただ、よくやったと一言、言ってくださればそれでいいのです。過程の心配は、女王様の考えることではありませんから。結果の是非だけを、気になさればいいのです」
「……そうね。よくやったわ。ありがとう」
秋の女王様も笑う。笑っているのに、なんだか寂しく見えたのはなぜだろうか? ワースまだ完全に塞がっていない額の傷を押えながら、ぼんやりと秋の女王様の顔を眺めた。それはそれは、美しかった。
「おお、来たね、クラック」
サバトに参加していた魔女の一人が傷ついた魔女の名前を呼ぶ。
「遅かったじゃないか」
別の魔女が呟く。
「おや、傷だらけだねぇ」
別の魔女が呟く。
「こっちへ来なさい」
別の魔女が呟く。
「治してあげよう」
別の魔女が呟く。
十一人の魔女は、クラックを取り囲み、手をかざす。クラックの傷が見る見るうちに消えて行く。その傷は、十一人の魔女に均等に分散された。
「ケヒヒヒィ。魔女のクセに治してあげるだなんて言うんじゃないよ」
別の魔女が呟く。
「魔法は等価交換なのだから」
別の魔女が呟く。
「我々は、傷を治すための対価を支払ったのだから」
別の魔女が呟く。
「治したのではなく、傷を交換した? いや、別の価値を支払って買い取ったと言った方が正しいのかな?」
別の魔女が呟く。
「そんな言葉遊びはどうでもいい。クラック、よく来たね」
別の魔女が呟く。クラックの頭をやさしくなでる。
「僕は、シフキの悪魔に魅入られてしまった。メランコリーになってしまった。だから、僕は、一人で生きると決めたのです。みんなに迷惑をかけたくなかったから……」
クラックは俯きながら呟く。
「クラック、お前は隙間を覗いてしまったのだね」
別の魔女が呟く。
「知っていたのですか? 隙間に潜む悪魔のことを」
クラックは驚いた顔をした。クラックは知らなかった。心の隙間に潜む悪魔について知っているのは、自分だけだと思っていた。サバトに参加していた不真面目な十一人の魔女たちは、そんなこと、考えたこともないと思っていた。不真面目な彼女たちの心に、隙間なんかないと、決めつけていた。男の肉体に女の精神を宿す自分だけが、心に隙間を持ち、悩んでいるのだと思っていた。
「知っていたさ。誰の心にも隙間はある。隙間があれば、覗きたくなる。それが悪魔というものだ」
別の魔女が呟く。
「ようは、こちらから覗かなければいいのさ。知らんぷりすればいいのさ」
別の魔女が呟く。
「クラック、お前は探求心が強すぎるんだよ。心の隙間を無視できないくらい繊細過ぎるんだよ」
別の魔女が呟く。
「我々くらい、ちゃらんぽらんでいいのだよ」
別の魔女が呟く。
「ほら、今日は最後のサバトだ。いつものように、派手なサバトにしておくれよ」
別の魔女が呟く。クラックの手をやさしく握る。
「わかりました。今日は最後のサバトです。今まで一番、派手なサバトにしましょう!」
そう言うと、クラックはヘビに変化し、そのまま夜空へと昇り、龍となり、月と同じ高さまで到達したところで破裂した。七色の光の破片が夜空に牡丹の花を描く。爆音が響く。月が揺れる。雲が散る。さあ、ここからが本当の、サバトの始まりだ。
ワースはカエルのもとに近づいた。喜びを分かち合おうとした。
「良かったな………………」
ワースは絶句した。カエル。カエルの名前。カエルの名前は……。思い出せない。
「ワース、ありがとう! 君のおかげで、最後のサバトが面白くなったよ!」
カエルは喜んでいる。ピョコピョコ跳ねて喜びを表現している。
「なあ、君の名前は、なんだったけ?」
ワースはおそるおそる訊ねた。たまたま思い出せないだけかもしれない。俺は山羊の化け物を退けるために、旅の記憶を失ったのだ。その時、一緒にカエルの名前の記憶も失ってしまったのかもしれない。そうだ。そうに違いない。
「僕に名前はないよ」
ワースは愕然とした。俺の記憶が失われたわけじゃない。カエルの名前そのものが失われている。どうして? なんで? 俺はちゃんと、十二人目の魔女を連れてきたのに……。
「キヒヒヒィ。どうしたんだい? 浮かない顔をして」
魔女の一人がワースに話しかける。ワースは言葉を上手く選べない。なぜ? なぜ?
「カエルのことかい?」
魔女は簡単にワースの気持ちを察した。
「え、ええ。カエル、名前、どうして」
ワースはしどろもどろに応える。魔女は不気味に笑った。
「簡単さ。クラックがここにやって来たのは、お前のおかげじゃない。そこのカエルが、名前を対価として支払ったから、クラックはここにやって来たんだよ」
「え?」
ワースは困惑した。そんなはずはない。俺は自分の意志で十二人目の魔女のもとへ行き、自分の意志で魔女をここに連れてきたのだ。それなのに、それは、カエルが名前を支払った対価の結果だって? 嘘だ? そんなはずは……。
「冷静になって考えてみな。カエルは派手なサバトを望んだ。そして、その望みは今こうして、叶えられているじゃないか。それならば、カエルは名前という対価を支払わなければならない。それが道理だろう?」
ワースは茫然と立ち尽くす。現実を受け入れられないでいる。ならば、俺はカエルの魔法に操られていたということなのか……。
「お前は自分の意志でここまで来たんじゃない。カエルの、名前という対価を支払った魔法によって、突き動かされていたにすぎないのさ。ケヒヒヒィ」
夜空には無数の花火が上がっている。月明かりが霞むほどの眩い光が辺りを包む。サバトは祭りのようににぎやかだ。夜明けまではまだまだ長い。さあ、サバトを楽しもう。
○
ワースは一度、四季の国へ帰ることにした。春の女王様が掟島にいたことを伝える必要があると判断したのだ。ワースはプギャピーの背に乗り、四季の国へと向かう。
「ワース、ありがとう。君のおかげで、僕は正気に戻れたよ」
サバトの終焉は、朝日と共に訪れた。クラックはワースに礼を言った。見物していた動物たちは、それぞれの住処へと帰って行った。
「ところで、クラック。君に一つお願いがあるんだ」
「なんだい?」
「ピコ鉛筆という魔法の道具を知らないかい?」
「ああ、それなら僕が持っているよ」
「本当に? もしよければ、貸してくれないだろうか? 必要なんだ」
「お安い御用さ。こんなもので良ければ、あげるよ。でも、これは普通の人間には扱えないと思うよ。なんせ、書いた字が肉眼では見えないのだから」
「うん、それは承知しているよ。だから、これから科学島へ向かうつもりさ」
「科学島に!? それは、あまりおすすめできないな」
「どうして?」
「君は科学島の噂を聞いたことがないのかい?」
「あるけれど」
「それなら、あの島がどれだけ危険か、想像つくはずだ」
「でも、それを言うなら、この掟島だって、そうとう危険な噂だらけだったよ」
「え? そうなの?」
「そうさ。俺だって、本当はこの島に来たくなかったんだから」
「それは酷いなぁ。でも、いい島だったろ?」
「巨大な山羊の化け物に殺されそうになったけどね」
「うぅ、それは、本当に申し訳ない」
「いや、いいんだ。でも、大丈夫かい? またメランコリーになってしまわないかと、不安にならないかい?」
「大丈夫さ。僕には、家族がいる。それに、君から貰った旅の記憶があるからね」
「旅の記憶?」
「ああ、君の旅の記憶さ。ほら、僕の右眼を見ておくれよ。赤いだろ? 左目を閉じて、右眼だけを開くと、景色が赤くなって、君の旅の記憶が映像として見られるようになったんだ」
「ほうほう。それはすごいことだね。どうだい? 俺の旅の記憶は。すごいだろ?」
「ああ! 本当にすごいよ! 世界には、こんなにも未知が溢れていたんだね。君の旅の記憶を見ていると、全てを忘れて没頭できるよ。心の隙間を埋められるんだ。だから、心がメランコリーに負けそうになったら、君の旅の記憶に助けてもらう。だから、大丈夫」
「なら、良かった」
「なあ、ワース。もしよかったら、またこの島に来てくれよ」
「ああ、また来るよ」
二人は握手をして、再会を誓った。
「秋の女王様。私は一足先に、四季の国へと戻ります」
ワースは飛び立つ前に、秋の女王様に挨拶をした。
「気を付けて。私も船に乗って直ぐに後を追うわ」
秋の女王様の側近兵たちがようやく戻って来た。夜を通して「迷路の園」を歩いたため、誰もが疲労困憊の顔をしていた。
「あの、秋の女王様は、四季の国が今、大変な状況だと知っているのですよね?」
ワースは少し躊躇したが、気になっていたことをたずねた。四季の国は今、冬が終わらなくて大変なのだ。それなのに、春の女王様と秋の女王様は、二人でこの掟島まで来ている。それは、どういうわけなのだろうか?
「大変な状況?」
秋の女王様は首を傾げる。
「え? ご存じないのですか? 今、冬が終わらなくて、大変なんですよ」
「ああ、そのこと。冬が終わらないことの、どこが大変なのかしら?」
秋の女王様は、飄々とした顔をしている。
「だって、王様がお触れを出したんですよ。緊急事態だから、このままだと大変だからって」
「王は何も、わかっていないのよ」
秋の女王様は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「冬が終わらないことよりも、もっと恐ろしいことがあるというのに」
「もっと恐ろしいこと?」
「シフキ」
秋の女王様は風と共に呟くと、数秒間沈黙した。目を閉じて、深呼吸をしてから、静かに口を開く。その唇は、少しだけ震えていた。
「とにかく、心配しなくていいわ。もう少し時間がかかるかもしれないけれど、ハルは必ず四季の国に戻る。そして、フユと交代する。それは、私たち四季の女王の仕事であり、逃れられない宿命なのだから」
女王様は、最後にとても寂しい顔をした。その顔は、どこか寂しい、秋そのものだと思った。
「カエル君。サヨナラだ」
「うん。サヨナラだね」
「また、会いに来るよ」
「残念だけど、もう会えないと思うな」
「え? どうして?」
「だって僕は、冬眠できないから、冬を越せないんだ。ワースが次にこの島に来るころには、僕は死んでいるよ」
「そんな……」
「しょうがないよ。人間の言葉を手に入れるためには、仕方ないことだったんだから。後悔はしていないよ」
「そうだ。それなら、冬の間だけ、俺の母国にくればいい」
「え? いいの?」
「ああ。いいよ。カエル君。君が死ぬのはまだはやい」
「でも、僕は海を泳げないし、空だって飛べないよ」
「大丈夫。俺が連れて行くよ。快適な空の旅だ」
「やったー! じゃあ、今から僕も連れて行ってくれるんだね!」
「それがね、今すぐ連れて行くことはできないんだ」
「え? どうして?」
「俺の母国である、四季の国は今、冬なんだ」
「ええ~」
「だから、四季の国の冬が終わったら、迎えに来るよ。約束する」
「わかった。約束だよ! 掟島は今秋だから、急いでね。はやくしないと、冬が来ちゃうから」
「ああ、四季の国の冬が終わったら、何よりも先に迎えに来るよ」
「うん。待っているよ」
カエルの鳴嚢が膨らんだ。カエルは嬉しそうにゲロゲロ鳴いた。




