表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/8

2


 やっかいな仕事を頼まれた。「旅人」兼「猛獣使い」の『ワース』は頭をポリポリ掻きながら城を出た。外は冬である。雪がしんしんと降っているし、冷たい北風も吹いている。にもかかわらず、人々は城の前で一列に並び、談笑している。どこか楽しそうだ。大臣の言う通り、お祭り気分なのだろう。ワースは首にマフラーを巻いて、防寒対策を完璧にしてから歩き出した。長蛇の列はどこまでも続いていて先が見えない。ワースは横目で長蛇の列を睨んだ。無理難題の要求をしてくる“やから”はどこのどいつだ? ワースは一通りの人間の顔を見たところで、ため息をついた。溜息は白く、冬の空気に霧散した。

 ワースの職業は珍しい。この世界唯一と言ってもいいだろう。ただの旅人はワースの他にも何人かいる。旅人の主な仕事は、国や国外の秘境を探検して、そこの情報や宝物を持ち帰り、王様に献上することだ。その対価として、金銭をもらう。

また、猛獣使いも大して珍しい職業ではない。猛獣を飼いならし、動物園やサーカスなどを経営してお金を稼ぐのが、猛獣使いの主な仕事だ。

 ただ、ワースは特別だった。「旅人」と「猛獣使い」の二つの職能を持っていることも特別だが、特筆すべきは、扱いの大変難しい『プテラノドン』を完璧に操ることができる点だ。

 プテラノドンは飛行能力を持つ翼竜である。体調は一メートルから二―メートルくらいだ。その皮膚はサイの鎧のように強靭で、ライオンのように鋭い爪と牙も持つ。手足は短いが、大きな翼を持っている。顎の力が強く、硬いクルミでも一撃で粉砕できる。プテラノドンは知能指数が高く、人間の家畜にはなりえない。プライドがあるのだ。しかし、人間を襲うこともない。プテラノドンは人間の恐ろしさを知っている。人間の機嫌を損ねれば、プテラノドンは絶滅の危機に瀕する可能性がある。プテラノドンはそれを知っているから、人間を表立って襲うことはない。あくまでも、表立って、だが。

 そんなプテラノドンと完璧な信頼関係を築き、空の旅を可能にした唯一の旅人、それがワースである。プテラノドンに乗って空を旅することは、大変素晴らしい。普通の旅人なら、隣国に行くのに船を使うし、数日かかる。しかし、ワースはプテラノドンに乗り、空をスイスイ進む。そして、半日もあれば隣国に到達できる。また、普通の旅人であれば、何時間もかけて歩いて行かねばならぬ秘境にも、空から簡単に到達することができる。

卑怯だ。ワースは他の旅人からそう言われ、忌み嫌われていた。ただ、ワースは知らん顔。他の旅人よりも高価な宝物を王に献上し、他の旅人よりも面白い旅の物語を王に話した。当然、他の旅人は仕事が減り、廃業するものが増えた。つい最近まで、旅人の仕事はワースの独壇場であり、そのほかの旅人は二流扱いされていた。そのため、ワースは他の旅人から嫌われている。嫌われているを通り越して、命を狙われることもあったし、プテラノドンを奪われそうになったこともあった。そんな現状に、ワースは嫌気がさしていた。そろそろ、旅人という職業をやめて、自由気ままな本当の意味での“旅人”になろうかと思い始めていた。そんな矢先、大臣から呼び出され、夏の国「ヒートランド」からひまわりを取って来てくれと頼まれたのであった。

 ワースはめんどくさそうに頭をポリポリ掻いた。

 ワースは自分のタイミングの悪さを嘆いた。ワースは生まれこそ「四季の国」だったが、物心ついたころには世界中を旅していた。さらに、ここ最近は「四季の国」にいると命を狙われたりして落ち着かないので、他の国にいることが多かった。そのため、最近の「四季の国」の事情に関して、あまり知らなかったのだ。そんなある日、たまたま「四季の国」の噂を耳にした。

何でも、冬が終わらないという。その話を聞いて、魔がさした。母国に久しぶりに帰ってみようと思ったのだ。プテラノドンに乗って移動するワースは、とても目立つ。そのため、「四季の国」に戻ったワースは、直ぐに大臣に見つかってしまい、城に呼び出されてしまったのだ。大臣は丁寧に「四季の国」の現状について教えてくれた。聞いてもいないのに四季の女王の特長まで教えてくれた。ワースは大臣からのお願いを断るつもりでいた。しかし、土下座されて涙まで流されては、断れなかった。大臣は還暦を迎えている。それなりに、地位のある人間である。その大臣が土下座し、汚い涙を流したのだ。ワースはそのことをそっと心の奥にしまった。大臣の名誉のためにも、忘れよう。そう思った。


今までの経緯を反芻しているうちに、ワースは「ヒートランド」に到着した。そこは、湿度が高く、いつ来ても暑苦しい国だった。

「プギャピー」

 ワースはプテラノドンから降りて、頭を撫でてあげた。プテラノドンは嬉しそうに「プギャピー」と鳴いた。ワースが旅を共にしているプテラノドン、名前を『プギャピー』という。名前の由来は鳴き声だ。プギャピーは「プギャピー」と鳴くのでプギャピーと名付けられた。

プギャピーは空へと飛翔し、どこかへと消えた。プテラノドンを連れて街を歩くのは危険なので、移動を終えたらプギャピーとは別行動だ。プギャピーは大変耳が良いので、特殊な『角笛』を吹くことで、どこにいてもすぐに駆け付けてくれる。逆に、角笛がないとプギャピーを呼び寄せることができない。そのため、ワースはいつも大事に角笛を持ち歩いている。角笛の大きさは手のひらよりも少し大きい。そのため、ポケットには入らないので、腰につけた巾着袋に入れて持ち歩いている。角笛をなくすと帰れなくなってしまうので、ワースは数時間おきに腰巾着を確認するクセがついている。自分の足で「ヒートランド」の地面を歩き出すその前にも、ワースは腰巾着に角笛があることを神経質に確認した。

「ヒートアイランド」には、四季がない。あるのは夏だけだ。一年中高温多湿。平均気温は三十五度だ。時には四十度を超えることもある。そのため、別名「夏の国」とも呼ばれている。道行く人はほとんどが半袖短パン。中には水着姿の女性や上半身裸のおじさんもいる。

ワースが降り立ったのは、「ヒートランド」最大の都市である『陽炎シティ』だ。陽炎シティには、およそ十万人の人が住んでいて、特に商業が盛んな都市だ。陽炎シティには、碁盤の目状に水路が流れている。この国では生活するうえで、水は最重要のライフラインである。脱水症状を補うための水分補給源であり、熱を奪う冷却装置でもあった。また、都市の中心から離れたところでは、豊かな水と太陽光線を利用して、南国フルーツの栽培がおこなわれていた。マンゴーやバナナ、パイナップルなどが名産で、質の良いものは「四季の国」にも流通されている。

ワースは腰巾着を気にしながら陽炎シティの中心街を歩いた。南国フルーツを使ったシャーベット、氷を売る氷売り、水浴びをして遊ぶ子供たち、暑い中で食べる激辛火鍋、ハイビスカスの模様がオシャレな服屋など、たくさんの店が並んでいた。ワースは他の店に寄り道せずに、目当ての花屋を探して歩いた。この国では、一年中ひまわりが咲いている。花屋に行けば、確実にひまわりが手に入る。ワースは何度もこの国に来たことがあり、だいたいの店の場所は把握していた。


「やあ、旅の人いらっしゃい」

 目的の花屋に到着し、ひまわりを探していると、店員に声をかけられた。

「どうして旅の者だと?」

「格好を見ればわかるさ。この国で、そんな格好している人はいないよ」

 ワースは改めて自分の服装を確認した。冬の環境からそのまま来たので、ワースは長袖長ズボンという格好をしていた。どうりで暑いわけだ。ワースは苦笑した。

「ひまわりを探しているのだが」

 ワースは店内を一通り見まわしたが、ひまわりを見つけることができなかった。仕方がないので、店員にひまわりを探していることを伝えた。

「ひまわりならないよ」

「え? なぜ?」

「なぜって、売れてしまったからね」

「全部?」

「ああ、全部」

 ワースは頭をポリポリ掻いた。さて、困った。当てが外れてしまった。

「悪いが、他の店を紹介してくれないか?」

 ワースはあきらめて他の店に行くことにした。この国の花屋はここしか知らなかったので、ワースは店員に他の店の場所をたずねた。

「他の店に行っても無駄だよ。他の店のひまわりもぜーんぶ、買い占められているからね」

「全部?」

「ああ、全部」

「その全部というのは、この国のひまわり全部、ということかな?」

「ああ、この国のひまわり全部、買い占められたよ」

「誰がそんなこと……」

「女王様だよ」

「女王様?」

「ああ、「四季の国」の女王様がこの国にやって来て、ひまわり全部買い占めたのさ。旅の人は知らないだろうけど、有名な話だよ。「四季の国」の女王様は美意識が高いんだ。実は、ここ最近の研究でひまわりオイルが美容に良いっていうことがわかって、その情報を聞いた女王様がぜーんぶ、買い占めたんだよ」

 ワースは呆然と立ち尽くした。そして、自分のタイミングの悪さを呪った。ワースが最後にこの「ヒートランド」に来たのは一年前。その時は、ひまわりは普通に花屋の店先に並んでいた。それなのに、今はもう、ひまわりはどこにもない。

「まったく、迷惑な話だよ。おかげで、ひまわりの値段は高騰しちまった」

 さて、どうしたものか。ワースは頭をポリポリ掻きながら考えた。腰巾着の中にある角笛がなくなっていないことを確かめた。それから一度、深くため息をついた。

「そうか、情報をありがとう。そこのバラの花を一本、いただこう」

「まいどあり」

 ワースは赤いバラの花を一本だけ買い、店を出た。赤いバラには棘がなかった。花屋の店員によって、処理されているのだろう。棘を失ったバラはどこか弱々しかったが、美しさを失ってはいなかった。いい香りがする。ワースはバラの香りを十分堪能すると、たまたま道を歩いていた少女にバラをあげた。少女は「ありがとう」と笑顔でバラを受け取ると、嬉しそうに走って行った。ワースは少女の後姿を見送ってから、腰巾着を広げた。腰巾着の中には角笛のほかに旅の資金が入っていた。ワースは貨幣を取り出して、勘定を始めた。総額は、100ラギッドだった。『ラギッド』とは、この世界の通貨の単位である。ラギッドにはデコボコなという意味がある。その昔、お金の製造技術が発展していなかったころ、銅でできた貨幣は完全な円形ではなくデコボコしていたので、通貨の単位にラギッドが用いられるようになった。

「うーん。足りるだろうか?」

 ワースは頭をポリポリ掻きながらため息をついた。ワースには一つだけ考えがあったが、その考えを実行するのは気が進まなかった。

先ほどの店員は、ひまわりの値段が高騰したと言っていた。それはつまり、表の取引では手に入らないほどの高騰、という意味だ。そして、どこの世界においても、裏の世界というものが存在する。いわゆる闇取引だ。ひまわりの値段がそれほどまでに高騰したのであれば、必ず、闇取引されているに違いない。ただ、闇の世界に足を踏み入れるのは正直、得策ではない。できれば、闇の世界にはかかわりたくない。それが本音であった。本音であったが、仕方がない。ワースは観念して、幾度か利用したことがある「情報屋」のもとへと向かった。


      ○


「おや、久しぶりに見る顔だね。最近は旅人の仕事をしていない、という噂を聞いていたけど?」

「まあ、わけあってね」

 情報屋は街外れの薄暗い路地裏にある。日当たり良好の「ヒートランド」において、これほどまでに薄暗い場所を探す方が困難だろう。情報屋は“表”と“闇”を繋げる役割を果たしている。ある意味で、闇の世界に片足を突っ込んでいるとも言える。そのため、情報屋には看板はない。知っている人間にしかたどり着けないような場所にあえて、情報屋は拠点を置いているのだ。そして、ワースは当然、この場所を知っていた。

路地裏の突き当りにある木製のボロボロの引き戸を開けて中に入ると、そこには四畳くらいのスペースがあった。そのスペース内にはカウンターと簡単な椅子があるだけで、他には特に目を引くものはない。窓はないらしく、また、照明の数も少ないので、まるで洞窟の中にいるようだ。ここは「夏の国」だが、どこかひんやりとした雰囲気さえ感じられる。

 ワースは「ヒートランド」の秘境の情報を集めるために、過去に幾度かこの情報屋を利用したことがあった。旅人にとって情報は一番重要なものだ。情報を手に入れてから行動しなければ、無駄足を踏むことになるし、ときには死に直結することもある。

「あんたは有名人だからね。空飛ぶ旅人なんて、あんたしかいない。あんたは自分が思っている以上に有名だよ。だから、急に仕事を辞めない方が良い。変な噂が流れるよ。現に流れていたしね」

「ご忠告ありがとう」

 二人は再会の挨拶を軽くしてから本題に入った。二人は情報屋と旅人のプロである。プロの会話というのは得てして、簡潔であることが多い。二人の会話もまた、その例にもれなかった。

「で、今回必要な情報は何かな?」

「ひまわりを入手できるルートを知りたい」

 ひまわり、という単語を聞いた時点で、情報屋の耳がピクリと動いた。情報屋は特徴的な耳をしている。耳の先が鋭角に尖がっているのだ。それは、おとぎ話に出てくるエルフのような、不可思議な耳であった。その耳には、この世の全てのひそひそ話を聞き逃さない能力があるのではないかと思うほど、大きくて歪な耳だった。

「それはまた、大変難儀だ。時期が悪すぎる」

「それは重々承知だ」

「で、資金はいくら?」

「100ラギッド」

「それじゃあ全然足りないよ。最低でももう一ケタ必要だ。情報を有効活用できる資金もない人間に、情報を教えるわけにはいかないよ」

「足りないのは重々承知だ。それでも、情報が欲しい」

 情報屋は溜息をついた。

「もうすでに、サービスで情報をあげたじゃないか。本来なら、『もう一ケタ必要だ』という情報だって、有料なんだよ。ただ、あんたにはずいぶん世話になったからね。好意で情報をあげたんだ。だから、これ以上俺を困らせないでくれよ」

「頼む、100ラギッド全て払うから、情報を教えてくれ」

「……1000ラギッド稼ぐあてがある、ということかい?」

 ワースは首を横に振った。ここ最近、旅人としての活動をあまりしていなかったワースに、1000ラギッドを短期間で稼ぐあてはなかった。

「そこは嘘でもいいから首を縦に振ってくれよ。わかるだろ? 情報屋にとって、情報の出し引きは死活問題なんだ。意味のない情報の流出は俺の命にかかわる。情報の大小は関係ないんだ。こっちは命を懸けて情報を集めて、命を懸けて情報を売っているんだから」

 情報屋はいつになく真剣な顔をしている。ワースは、今度は静かに首を縦に振った。

「いいだろう。料金は10ラギッドでいいよ。こっちの業界にも相場というもんがあるんだ。相場を崩すわけにはいかない。だから、100ラギッドは受け取れないよ」

「それは助かる」

 ワースは笑った。情報屋もつられて、あきれた顔で笑った。

「ひまわりを買い占めたのは「四季の国」の夏の女王だ。ここまではおそらくあんたも知っているのだろう?」

「ああ、花屋の店員に聞いた」

「ひまわりを手に入れる方法は二つ。一つは闇ルートのせりに参加して、ひまわりを競り落とす方法。これには、1000ラギッド以上の資金が必要だ。それと、競の会場を探し当てる必要がある。競の会場は毎回変わるし、その詳細は特定の人間しか知りえない。だが、あんたは運が良い、ちょうど三日後に開催される闇売買の競会場の情報がある」

 情報屋は軽く咳払いをした。この洞窟のような部屋は空気が薄く、なんだか息苦しい。ワースもなんだか喉のあたりがムズムズしてきたので、軽く咳をした。

「もう一つの方法は、夏の女王様にひまわりをわけてもらうことだ。夏の女王がこの時期に「ヒートランド」でバカンスを過ごすのは有名な話だ。滞在場所も直ぐにわかる。案外、こっちのほうがうまくいくかもしれんな。確か、あんた「四季の国」出身だろ? 「四季の国」の王には幾度も謁見しているはずだ。その時、女王に会ったこともあるんじゃないかい?」

 ワースは首を横に振った。夏の女王を見かけたことはあるが面識はない。夏の女王は、いつも露出の多い派手なドレスを着ていて、ボン・キュッ・ボンの美人だったが、性格が悪そうだった。

「そうかい。それは残念だ」

 情報屋は特に残念でもなさそうな平坦な声でそう言うと、メモ帳に競の場所と女王の場所を書いた。

「これが情報だ。メモ用紙は渡せないから、暗記しておくれよ」

「ああ、わかっている。ありがとう。恩に着るよ」

「恩に着るだなんて、やめてくださいよ。こっちは仕事でやっているんですから。“恩”なんていう不確かな不純物、混ぜられたら困ります」

「そういうもんかい?」

「そういうもんです」

 二人は目を合わせ、愉快な表情で笑った。


       ○


 ワースは人気のない広場へと向かい、そこで角笛を吹いた。角笛の先から「ブホブハ」という奇妙な音が漏れた。すると、数分もしないうちにプギャピーがやって来た。ワースはプギャピーの額に自分の額をくっ付けて愛情を示した。プギャピーは嬉しそうに「プギャピー」と鳴いた。ワースはプギャピーの背に乗り、空へと飛んだ。

 

 ワースが最初に向かったのは、夏の女王の避寒地であった。夏の女王は冬が嫌いで、「四季の国」が冬の間に「ヒートランド」にやって来るのは有名な話であった。

ワースが女王の所へ向かった理由は単純で、闇売買の競は三日後であり、今すぐ行けないからであった。時刻はまだ昼過ぎであり、活動するには十分時間があった。少しでも時間を無駄にしないために、まずは夏の女王のもとへ向かうことにワースは決めたのだ。


 プギャピーは陽炎シティの上空を飛び越え、火山山脈を超え、入道雲の中を突っ切り、蜃気楼の湖を滑空し、火の花が咲き乱れる丘を越えた。そして、目的地の夏の女王の避寒地へとたどり着いた。

 そこは、『巨人の足跡』と呼ばれている、巨大な窪地であった。ワースはその窪地を上空から見て驚いた。なんと、辺り一面の景色が全て黄色で埋め尽くされていたのだ。遠目からでは、それが何かわからなかったが、近づいて分かった。それは、ひまわりだった。国のほとんどすべてのひまわりが、この巨人の足跡に集められていたのだ。

「おいおいおい。女王様、さすがにこれは、やりすぎでしょ」

 ワースは思わずそんな独り言をつぶやいていた。あたり一面真っ黄色。ひまわりはとても美しい花だが、これだけたくさん密集していると、正直、気持ち悪い。

数の魔力は人の印象を簡単に変えてしまう。一輪には一輪の強さと儚さがあり、花束には互いを補うつつましさがあり、ひまわり畑には観光客を呼び込むほどの圧巻があり、国中のひまわりを密集させると、何故か気持ち悪くなる。数の魔力は、不思議だ。

ワースはひまわりを踏まないように、少し離れたところに降り立った。瞬間、周りを兵士に囲まれた。

「何者だ!」

「怪しい者じゃありません。旅人です」

 ワースはプギャピーに乗っているので、大変目立つ。すぐに見つかる。隠密行動には向かない。旅人とは元来、こそこそする者ではない。未踏の地を堂々と闊歩する者だ。だからワースはいつでも堂々としている。槍や剣先を向けられても、堂々としている。額には汗がにじんでいるが、これは冷や汗ではない。気温が高いからだ。そうに決まっている。ワースは自分に言い聞かせた。

「プギャピー、危ないから離れて」

「プギャピー」

 プギャピーはなかなかワースの傍から離れない。ワースがピンチであることを理解しているのだ。

「大丈夫だから。心配しなくていい。さあ、行くんだ」

「プギャピー」

 プギャピーは儚い声で鳴いた。額をワースの肩にこすり、愛情表現をした。そして、一呼吸おいてから、今度は鋭い目で兵士を睨んだ。兵士は十人いたが、その中でも一番偉い兵士を睨んだ。プギャピーは知能指数が高いだけでなく、野生のカンも備わっていた。一目でわかったのだ。一番偉いのは誰か、ということが。

 プギャピーに睨まれた兵士は微動だにしなかった。さすがに女王の護衛を任されている精鋭だ。肉体だけでなく精神も強い。

「プギャピー!」

 プギャピーは最後に力強い叫び声で兵士を威嚇すると、空に飛翔した。

「それでいい」

 ワースは静かに呟いた。

「さて、害獣が去ったところで、改めて問う。お前は何者だ?」

 害獣、という言葉には確実に悪意が込められていた。その悪意は少しだけワースの血圧をあげ、少しだけ堪忍袋の緒を圧迫した。しかし、ワースは取り乱さない。ここで感情的になっては、危険だ。ワースは旅人としての長年の経験からそれを理解していた。故に、冷静だった。

「何者だって? わかっているのでしょう。空飛ぶ旅人など、私以外いませんからね」

 ワースは口角だけをあげて歯を見せずに笑った。ふと、情報屋の顔が思い浮かんだ。そうだ、俺は俺が思う以上に、有名なのだ。

「空飛ぶ旅人、ワースか」

「ご名答」

 ワースはニヤリと笑ったが、兵士は笑わなかった。口をヘの字に曲げていた。

「お前がワースである可能性は、確かに高い。空飛ぶ旅人など、ワース以外に知らない。だが、空飛ぶ旅人が他に一人もいないということは、誰にも断定できない。つまりは、お前がワースであるかもしれないということは、推測の域を出ない。そのため、確認させてもらった」

「それがあなたの仕事」

「そうだ、それが俺の仕事だ。そして、女王様に近づく危険分子を排除するのもまた、俺の仕事だ」

 ワースを取り囲む十の兵士が槍や剣を構えなおした。鎧が「カシャリ」と擦れる音がした。緊張感が増した。空気の糸がピンッと張り詰める音がした。一触即発。次の一手を間違えば、問答無用で攻撃される可能性がある。ワースはそれを理解していた。

 誰かを護衛するというのは、大変なことだ。近づく者が無害かどうか確かめるのには時間がかかる。時間をかければそれだけ危険度は増す。場合によっては、「怪しい」という段階で、「排除する」という判断を下さなければいけない時もある。迷っているうちに護衛する対象が攻撃されたら、その時点でミッションは失敗となる。そのため、時に護衛者は、聞く耳を持たぬ阿修羅像と化す。非常で無常、迅速かつ最短の動きで、息の根を止める。それができるからこそ、彼らは女王の護衛を任されているのだろう。それは必然である。

 ワースはそれを理解していた。故に、解答は至極単純だった。

「ひまわりを一つ、分けていただきたい」

 それは、嘘をつかないということだ。真実を簡潔に伝える。これが一番正しい答えであることを、ワースは理解していた。

「私は女王に近づきません。身ぐるみを全て剥がしてもらってかまわない。手足を拘束してもらってもかまわない。望みは、ひまわり、ただ一つです」

 真実の言葉は強く響く。ぶれないし、淀みがない。一方で、嘘の言葉はごもるし、響かないし、正しい間から外れる。それは美しい旋律の軌跡から外れている不協和音のように不快だし、青い海の表面にうごめく重油のように不調和だ。そして、その嘘から生まれた不快で不調和な感情は、人の心を焦らせる。嘘は人の心を不安定にする。

 不安に陥った人間が何をしでかすか。それが、どんな悲劇をもたらすか。容易に想像できるだろう。不安に陥った人間は、とにかく直ぐに何かしらの行動を起こそうとする。不安だから、現状を保持できないのだ。その場で立ち尽くし、思考を重ねることに耐えられないのだ。だから、突発的な快楽的行動に救いを求める。それが、嘘の魔力に魅入られた人間が取る行動だ。

一方で、力強い真実の言葉は、人に勇気を与える。その勇気は、人の英断を導く。もしも、真実だけでコミュニケーションが取れたのなら、人はきっと、踏み間違えずに歴史を歩めたのだろう。それは、ありえない“もしも”の話だが。

「それがお前の望みか」

「はい。そうです」

 ワースは無意識で嘘をついた。これは厳密に言えば、ワースの望みではなく、やから一号の望みだった。だから、「お前の望みか」と言われれば、嘘になる。嘘をはらんだワースの声は微かに震え、僅かに揺らいだ。そして、その嘘は、つわものに見破られた。

「ならば、お前はここを今すぐに立ち去るべきだ。特別に、夏の女王様が我々に命じた内容を教えてやろう」

 兵士は軽く咳ばらいをしてから、口を開いた。

「ひまわりを守れ。たとえ一本でも、奪われることは許さぬ」

 夏の女王の命令は至ってシンプルだった。そして、シンプルであるということは、命令を守るためならどんな手段を使ってもかまわない、ということの暗示でもあった。

「ここを去るなら、我々はそれを最後まで見届けるし、去らぬというのなら、どんな手を使ってでも、お前をひまわりから遠ざける」

 ここでは、ワースの嘘が功を奏したといえよう。兵士はワースの嘘を見破り、ワースの真の目的はひまわり以外の何かであると勘違いをした。その勘違いが、兵士の動きを一手遅らせた。女王の命令は「ひまわりを守ること」であり、ひまわりがワースの目的でないのであれば、武力を用いて迅速に排除する必要はなくなる。無駄な戦闘は兵士の望むところではなかった。戦闘で兵士が傷つけば、それだけ警備が手薄になる。女王様が危険に晒される可能性が増す。言葉による交渉や威圧で敵が退いてくれるなら、そちらの方が兵士にとっても良いのだ。ひまわりがワースの目的ではないと判断したおかげで、兵士の心に戦闘を避けるという選択肢が生まれたのだ。もし仮に、ワースの目的がひまわりであると兵士が判断していた場合、女王の命令を守るために、兵士たちが問答無用でワースに攻撃を仕掛ける未来は、充分にありえた。

見た目には見えぬギリギリの攻防が、水面下で行われていたのだ。

「わかりました。どうやらひまわりはいただけないようだ。帰ります」

 ここは引くしかない。その選択しかない。ワースはそれを理解していた。ワースは選択したのではなく、選択させられたのだ。それはとても、不自由なことだった。そして、旅人にとって最も不愉快なのは、不自由だった。不自由ほど、旅人に似合わない言葉はない。それは、旅人というアイデンティティを否定する唯一にして最大の言葉だ。

 ワースは引くしかない。帰るしかない。それは理解している。しかし、腹が立った。むしゃくしゃして、イライラした。だから、最後に一言、捨て台詞を吐いた。

「あ、そう言えば、大臣が夏の女王様のこと、好きじゃないって言っていましたよ」

 ワースはそれだけ言うと、角笛を鳴らしてプギャピーを呼んだ。そして、プギャピーの背に乗り、空へと飛翔した。


       ○


 女王様からひまわりを分けてもらうという目論見は、見事にはずれた。それは大変残念なことであったが、ダメだったことを嘆いていてもしょうがない。ワースは気持ちを切り替えた。大丈夫。ひまわりを手に入れる方法はもう一つある。ワースは情報屋の言葉を思い出した。闇売買の競。それが三日後に開催される。そして、そこでバカみたいな値段でひまわりが取引される。

 問題は、どうやってひまわりを手に入れるかだ。ひまわりは今、闇売買を執り行っている『闇組織』の手中にある。闇組織からひまわりを入手する正攻法は、1000ラギッド以上の資金を準備して、ひまわりを競り落とすことだ。この方法なら、誰にケチを付けられることもないし、恨まれることもない。ただ、明日までに1000ラギッドを準備するのは不可能に近かった。手段がないわけではないが、その手段はどれもまともな手段ではない。それは、ワースが自分の身を削らなければいけない、ある種違法な手段だった。それを実行してしまえば、ワースは少なからず痛手を負うことだろう。正直、大臣の頼みを叶えるために、そこまでしてやる義理はなかった。

 となると、残る方法は二つだ。ワースは広げた思考を少しずつ折り畳み、一つの結論へと向かって収束させる。ワースは考えた。ひまわりを手に入れる方法について。そして、ワースが考えた二つの方法は、「強奪」と「交渉」であった。ワースは思いついた二つの方法の整合性・実現性について、さらに思考を練る。

競でひまわりを落とすことができないのであれば、闇組織からひまわり入手する方法はあと一つしかない。それは、ひまわりを闇組織から「奪う」ことだ。しかし、これもまた危険な方法である。厳重な警備網を掻い潜らなければいけないし、もし仮にバレてしまった場合、闇組織から狙われることになる。それはごめんだ。そこまでのリスクを冒す義理もまた、ない。そして何より、旅人は隠密には向かない。旅人はこそこそと物を盗むようなことはしない。秘境を堂々と闊歩して、宝物を乱暴に鷲掴みにする。それでこそ旅人だ。

ワースの頭の中で不採用の思考が一つ消え、残された選択すべき思考がぼんやりと形を見せ始める。

となれば、闇組織からひまわりを入手する方法はない。危険を冒せば方法がないこともないが、危険を冒すつもりはない。では、どうすればいいか? 闇組織から入手することができないのであれば、それ以外から入手するしかない。つまりは、ひまわりを競り落とした人物に接触し、ひまわりを譲ってもらえるように「交渉」するのだ。競り落とした人物と交渉するのだから、闇組織から狙われることはない。仮に競り落とした人物の機嫌を損ねたとしても、闇組織はその時点では無関係だ。さらに、「交渉」なら1000ラギッドを用意できなくてもひまわりを入手できる可能性がある。ワースは世界中を旅していたので、世界中の珍しいものをいくつか所有していた。四季を閉じ込めた宝玉、燃えない紙、自食することで永遠に生きる黄金のカエル、金と銀と銅の三つの睾丸を持つサルの化け物から奪った銀の睾丸などなど、大変珍しいものをワースはいくつか所有していた。それらの「珍しいもの」と「ひまわり」の交換を申し出れば、あるいは、ひまわりを手に入れることができるかもしれない。

思考は収束し、結論に至った。ワースがこれからすべき行動は「交渉」であり、そのための準備である。ワースは自分の取るべき行動を熟考の末に見つけ出した。つまり、ワースが今すぐ取るべき行動は―――

「よし、宿屋を探して寝よう」

 今日は休んで三日後に備えることだった。


       ○


三日後。闇組織の競が始まったのは、昼過ぎだった。ワースは意外だった。闇組織が動くのは、その名のとおり、闇が世界を支配している時間帯だと思っていたからだ。しかし、事実は想像と違うものだ。闇組織の競は、真昼に行われているのが、現実だった。

闇組織の競が行われる会場は、サーカスの巨大なテントの中だった。それは、「ヒートランド」で最も有名なサーカス団『真夏サーカス』であり、競はまさに、サーカスの演目と同時進行で行われることになっていた。

巨大テント内には、舞台と客席があり、客席は500人ほど収容できる。かなりの大きさだ。舞台は玉乗りの象が動きまわれるくらい広い。「ヒートランド」で最も有名な真夏サーカスだけあって、客席はすでに超満員。熱気がむんむんしている。とにかく熱い。汗が止まらない。観客はみんな服が汗でびちょびちょになっている。ただでさえ暑い国なのに、テントの中にいるとサウナのように暑さが増す。「暑い」を通り越してもはや「暑苦しい」。みんながぶがぶ水やジュースを飲んでいるし、アイスやかき氷などの冷たいものを食べている。中には体調が悪そうな人もいた。熱中症かもしれない。

とにかくテントの中は暑い、地獄のように暑い。それでも、これだけの人が集まっている事実。その事実は、真夏サーカスの芸が価値あるものであることを示唆していた。いったいどんな芸を見せてくれるのだろうか? ワースは目的を忘れ、真夏サーカスの芸を想像して心をときめかした。はやく開園しないかとワクワクした。


数分後、舞台上に一人の男が現れた。男は黒のタキシード姿で、頭には黒のシルクハットをかぶり、手には茶色のステッキを持っていた。どうやらこの男が、司会進行役であるようだった。司会の男はマイクを手に取り、数分間ただ黙していた。会場の観客はざわざわしていたが、なかなか声を発しない司会の男を不思議に思い、観客もつられるように沈黙した。

数秒後、完全な静寂がテント内にはびこった。そして、その瞬間を司会の男は見逃さなかった。

「皆さま大変お待たせいたしました。これより、ま~な~つぅううサーカスのぉおお~開演でぇえええ~ございますぅ!」

拍手が巻き起こった。拍手が拍手を呼び、破裂音が重なり、テントの中に鳴り響いた。拍手の音が静寂を埋め尽くした。それは、まるでサーカスの演目の一つであるかのごとく、ワースの心を振動させた。ワースは500人の観客が作り上げた拍手の渦に飲み込まれ、圧倒され、酔いしれた。脈が速くなり、血圧が上がった。体がほてり、手に汗握った。こんな興奮は、久しぶりだった。

「それでは、最初の演目でございます。どうぞ!」

司会の男の合図と共に、テント内が真っ暗になった。舞台の上にだけスポットライトが当たり、暗闇の中から一輪車を漕ぐ二人の男女が出てきた。どうやら最初の演目は、一輪車を使った曲芸らしい。

ここで、ワースは冷静になった。サーカスの曲芸に没頭したい気持ちもあったが、目的を忘れてはいけない。ワースは熱気と共に曲芸に飲み込まれるのではなく、冷静に分析するように舞台を眺めた。そこには、いくつかおかしな点があった。まず、司会の男が舞台の上に居続けていた。普通であれば、司会の男は曲芸が始まったら、舞台上からはけるはずだ。危険だし、何より観客にとって邪魔だ。それなのに、司会の男は舞台の端に居続けている。そして、客席の様子をキョロキョロと伺っている。時折、シルクハットを脱いだり、杖をトントンと地面に突いたり、咳をしたりしている。これは、明らかに誰かに合図を送っている。ワースはそのように感じた。

次におかしいと感じたのは、曲芸師の服装である。女性はフリルの付いたレオタード、男性はレスリングのシングレットみたいな服装だ。そこまでは至って普通だ。サーカスの団員として正しい服装で間違いない。おかしい点は、女性の手にはめられた「ダイヤの指輪」と男性の胸元に取り付けられている「象牙のブローチ」であった。演技の最中にダイヤの指輪は明らかに邪魔だ。曲芸師の女性は一輪車に乗りながらジャグリングやナイフ投げをしている。ダイヤの指輪をしていたら、邪魔を通り越して危険ではないだろうか。また、男性の胸元に象牙のブローチが取り付けられているのも不自然だ。シングレットは体に密着しているため、取り付けるのは大変だし、やはり邪魔だ。わざわざ象牙のブローチを男性曲芸師の胸元に取り付ける必然性は、皆無に思えた。

そのことに気が付いている観客は、ほとんどいないようだった。ほとんどの客が注目しているのは「演技」であり、細部の「装飾品」ではない。指にダイヤの指輪をはめていようと、象牙のブローチを胸元に取り付けていようと、演技が素晴らしければ気にならない。それが正しい観客の反応だ。ただ、中には正しくない観客も混じっているように思えた。演技ではなく、ダイヤの指輪や象牙のブローチに注目し、右手をあげたり、頭に左手をのせたり、手を叩いたりしている客が数人いた。これもまた、誰かに合図を送っている。ワースはそのように感じた。

これらのおかしな点と情報屋からの情報を総合すると、ある結論が導かれた。そう、彼らは今、競を行っているのだ。500人の観客がいる中で、堂々と、闇売買を行っているのだ。

一輪車の演技が終盤に差し掛かったころ、司会の男はある一人の観客と一瞬目線を合わせた。そして、ステッキを腕にかけて両手を空けて、まるで「お終い」と言うように合掌をした。どうやらこれが、競の終了を告げる合図のようだった。ダイヤの指輪もしくは象牙のブローチ、もしくは、その両方を、あの観客の男性が競り落としたのだろう。ワースは、競に勝った男性を凝視した。もしかしたら、ひまわりを競り落とすのはあの男かもしれない。ならば、あの男の顔をしっかりと覚えておかなくてはならない。ワースは男の顔や服装をつぶさに観察した。齢は五十過ぎだろう。ナイスミドルだ。頬のラインは鋭くシュッとしている。堀の深い造形だ。頭には白髪が混じっているが、しっかりと美容院でケアしているのがわかる。とても自然で、みすぼらしくない。黒の中に白が映えている。無表情の時にはシワは見えないが、顔をしかめた時には目元に深いシワが見えた。服装はアロハシャツに短パンという、至って普通の格好だ。特にこれといった装飾品も見当たらない。いや、よく見れば、耳にピアスをしている。暗闇の中、一等星のようにチラチラと輝いて見える。ダイヤだ。それも、かなり高価な、ダイヤのピアスだ。目は垂れ目で、一見穏やかな印象だが、その黒目の闇は深そうだった。

よし、覚えた。ワースは頭の中に「ナイスミドル」という名前を付けて、観客の男の特長を記憶した。

「続きまして、はやくも皆さんお待ちかねのぉおおお~くぅうう~ちゅううう~ブランコでございます!」

次の演目は空中ブランコであった。司会の男は演目の説明を簡単にすると、先ほどと同じように舞台からはけることなく、舞台の端に居座った。それは、冷静に考えれば不自然なことであったが、観客は誰もが熱気を帯び、冷静ではなかった。

いつの間にか、舞台の上には空中ブランコのセットが組まれていた。早業だ。さすがプロ。さすが国一番の真夏サーカスだ。舞台で光を浴びる演者だけでなく、舞台裏の闇にうごめく裏方たちも、超一流なのだろう。

ブランコのスタート位置となる高台は、鉄枠でできているようだ。舞台の右端と左端に鉄塔のように高くそびえる高台が組み立てられている。高さは二十メートル近くあるだろうか? テントの天井にかなり近い。高台のさらに上にはワイヤーに吊るされたブランコがある。下には安全ネットはない。それは、絶対に落ちることがないという自信の表れなのだろうか。それとも、より危険度を増して、観客を興奮させるための演出なのだろうか。どちらにせよ、落ちたら命の保証はないだろう。向かって右端の高台には赤いレオタードを着た女性が、左側には青いレオタードを着た女性がいた。どちらも小柄だったが、筋肉質であることが見ただけでわかった。無駄な肉が一切なく、そのボディラインはでたらめに美しかった。二人の曲線の美しさに息をのんでから、気が付いた。二人とも、命綱らしきものを一切付けていなかった。それは自信の表れなのか、はたまた演出なのか。どちらにせよ、命綱という余計なものがないからこそ、二人の曲線美が極限の域に達していることに、ワースは気が付いた。命綱という別の曲線があったら、肉体の曲線美がブレてしまう。

まず、赤いレオタードが宙を舞う。ワイヤーで吊るされた鉄の棒を両手でつかみ、前に後ろに、体重移動を完璧なタイミングでこなし、遠心力を自由自在に操る。まるで蝶のようだ。ふらふらと弱々しく漂っている蝶だが、そのじつは、風を自在に操る魔力の渦。そう、赤いレオタードの前後運動には、確かに魔力があった。子供の視線を奪う蝶のように、観客の視線を釘付けにする魔力が、そこにはあった。

次いで、青いレオタードが宙を舞う。青いレオタードはブランコの鉄の棒に足をかけて、逆さ吊りの状態になっている。空いた両手を前に後ろに動かし、体重移動を完璧なタイミングでこなす。遠心力が増す。ブランコが半円を描く。その半円は三日月の曲線のように艶めかしかった。

赤と青の呼吸が、リズムが、遠心力が、徐々に同調していく。赤と青だけじゃない。観客の呼吸もまた、ただ一つのリズムに収束していく。全ての呼吸、全てのリズムが一つになったとき、何かが起こる。その期待が、テントの中にはあった。このテントの中には預言者など一人もいなかったが、誰もがその瞬間を予期することができた。彼ら彼女らは皆、数秒後に起こる歓喜を、確信していた。

―――そして、その瞬間が

全ての呼吸が一つになった瞬間、赤が全身の筋肉を震わせ、初めて遠心力に逆らった。重力という物理のルールを無視した異次元の動き。その空間だけが、無重力という空の果ての神秘を手に入れたようだった。それは、極限まで体を鍛えぬいた者にのみ与えられた、神の領域。二回転、三回転、さらにはひねりを加えた宇宙遊泳。

目を奪われた。心を奪われた。そしてきっと、時間も奪われたのだろう。時が止まった、ように思えた。それは一瞬なのだが、永遠に思えた。きっと、死の間際に思い出すのは、この瞬間だろう。それほどまでに、圧縮された一瞬。

ただ、この一瞬が“完璧”になるためには、無事に着地する必要がある。この先にあるべきは歓喜であり、悲劇ではない。これが歓喜になるか悲劇になるか、それは全て、青の手にかかっている。観客は息をのむ。声は失われている。沈黙が再びテント内にはびこる。そして、ついに、終わりがやってくる。

―――赤の手が、青の手に、触れた

歓喜、歓喜、歓喜。拍手、拍手、拍手。失われたはずの声が戻ってきた。叫びとも悲鳴ともとれる喉の振動が会場にこだまする。観客は確認する。赤と青の手が繋がれていることを何度も何度も確認する。赤と青の手の中にはきっと、先ほどまでの圧縮された“瞬間”が閉じ込められているのだろう。この歓喜の渦の中心は、間違いなくあの手の中だ。いや、もしかしたらこの宇宙の中心が、あの手の中にあるのかもしれない。

そう思えるほどの、空中ブランコだった。

空中ブランコに集中している間、体中に力が入っていた。肩は上に上がり、腹筋は硬くなり、瞳孔は開き、コブシは固く握られていた。それが、一気に解かれたため、急激な脱力感が体を襲う。心臓がバクバク鳴っていた。呼吸も浅く速くなっていた。ただ座って、見ていただけなのに、ものすごいエネルギーを消費した。いや、エネルギーを奪われた、と言ったほうが正しいと思える脱力感だった。あのブランコは、赤と青二人のエネルギーだけでは完成されなかったのだろう。観客500人分のエネルギーを使って初めて完成される、そんな偉大な所業だったのだろう。それはまるで、国と国との争いのように、歴史を決める合戦のように、莫大なエネルギーを必要としたのだろう。

ワースは自分が冷静ではなかったことにようやく気が付いた。ワースは慌てて司会の男を見た。司会の男は咳をしたり、ステッキを二回地面に突いたりしていた。どうやら、まだ競は行われているようだった。今回の競の商品はいったい? ワースはスポットライトの当たっている舞台の上を観察した。しかし、それらしきものは見当たらない。赤いレオタードの女性も青いレオタードの女性も、これといった装飾品を見に付けていなかった。ん? ワースは手を振る赤いレオタードの女性の手を見て違和感を覚えた。てのひらが、汚い。なぜ? 赤いレオタードは何を掴んでいた? ワースは空中に浮かぶブランコの鉄の棒を見た。それは、もはや鉄の棒ではなかった。鉄の加工がはがれた、金の棒だった。そう、今回の競の商品は、金の棒だった。遠目からだと鉄の棒にしか見えないように加工された金の棒が、ブランコに使われていたのだ。

ワースは再び司会の男に視線を戻した。司会の男は合掌をしていた。競が終わったのだ。ワースは慌てて観客席を見回した。金の棒を競り落としたのは誰だ? ナイスミドルの方を見る。しかし、ナイスミドルは特に動きを見せていない。金の棒を競り落としたのはナイスミドルではない。それなら誰だ? ワースはキョロキョロと挙動不審な動きで観客一人一人を観察した。そして、それらしき人物を一人見つけた。確信はなかったが、ワースは取りあえずその人物の特長を覚えることにした。

ワースは、今度は「ふくよか婦人」という名前を勝手につけて、金の棒を競り落としたであろう婦人の特長を記憶した。もしかしたら、ふくよか婦人がひまわりを競り落とすかもしれない。ワースはもう一度、しっかりとふくよか婦人の横顔を記憶した。顎の肉が二重になっていた。

二つの演目が終わり、三つ目の演目が始まる。三つ目の演目は猛獣を使った曲芸だった。ここまでの競では、ダイヤの指輪と象牙のブローチと金の棒が売買された。ワースは正直、拍子抜けしていた。これなら、表の世界の競と同じじゃないか。闇に紛れてこそこそと行う必要はない。堂々と、競を開催すればいい。いうなれば、これは闇組織がさばく案件ではない。そう思えた。しかし、ワースは気付いていなかった。闇組織とは、完全な“闇”ではないことに。闇組織とは、闇と光の境目に位置する存在である。「闇組織」という名前がついているのでややこしいが、闇組織とは、表の世界と闇の世界を繋げる役目を担っている、ただの仲介役なのだ。この世には、闇組織とは別に、“完全な闇”が存在する。その“闇”は完全な悪であり、けして、歴史の教科書に語られることはない。何千年も受け継がれる宗教のように、“闇”もまた、何千年も受け継がれている、それは確かな事実。しかし、平凡に生きて平凡に死ぬ人間は、それを知らない。何故なら、表の世界と闇の世界の間には、超えることが非常に困難な『境界』が存在するからだ。“闇”は悪であり、畏怖であり、残虐であり、血なまぐさい。そして、どこか冷たい冷気を持っている。情報屋の店がひんやりとしていたのは、闇の世界に少しだけ、近い場所だったからに他ならないだろう。表の世界と闇の世界、それは水と油のような関係で、混ざり合うことはない。ただ、「混ざらないこと」と「求めないこと」は同義ではない。むしろ、混ざりあわないことを知っているからこそ、求めあうのだ。それが、世界のルールであるように思われた。表の人間は闇の残虐性に心を惹かれ、闇の人間は表に価値の崩壊を求めた。それは、オリンピックで金メダルを取るために人生のすべてをささげてきた人間が、オリンピックの直前、交通事故で死ぬようなこと。表の世界の人間が積み上げてきた「意味」や「価値」が、「無意味」「無価値」になる瞬間。それが、闇が求めることだった。ワースはまだそれを、知らなかった。それは、ワースもまた表の人間であり、平凡な人生を歩んできたことの証明に他ならなかった。

舞台の上には、ライオンや象、サイやカバなどの動物がそれぞれ檻に入れられていた。その中に、絶滅危惧種に指定されているサルがいた。そのサルは、「千寿ザル」と呼ばれていて、その肝臓を食べると不老不死になれるというデマが過去に流れた。そのデマにより、千寿ザルは乱獲され、絶滅危惧種となった。人間の「永遠に生きたい」という欲望に喰い殺されたのだ。ワースはたまたまその千寿ザルのことを知っていた。何年も前に、旅の途中で見かけたことがあった。ワースが千寿ザルを見かけたころはまだ、千寿ザルは絶滅危惧種には指定されていなかった。“普通”に、店先に展示されていた。それは、生きてはいなかったが、ワースは何故か、よく覚えていた。千寿ザルは一見、普通のサルと同じ見た目をしている。違うところは、お腹の左下が少しだけ膨らんでいる点だ。千寿ザルの肝臓は普通のサルよりも大きい。そのため、肝臓が位置する下腹部が、少しだけ膨らんでいる。

ワースは額に嫌な汗をかき、生唾を飲んだ。ここからが、闇売買の本番だ。そう思った。そして、ワースのその予想は当たった。千寿ザルの売買が終わり、次に出てきたのは、白い粉だった。おそらく、覚せい剤だろうとワースは理解した。その次に出てきたのは、明らかにサーカス団員とは服装や様子の違う、小さい女の子だった。ワースは感情を押し殺すために奥歯を強く噛んだ。人身売買だ。ワースの体は得も言われぬ感情に支配され、ワナワナ震えた。その他にも、猛毒を持つ虹色ガエルや、人の精神を崩壊させるといわれる曼荼羅など、表の世界では決して取り扱われることのない商品が競にかけられていった。ワースは吐き気がして、気分が悪くなった。テントのなかは死ぬほど暑いはずなのに、寒気がした。こんなところに来るんじゃなかったと後悔した。何も知らずに、表の世界の美しい物だけを見て、そのまま、死ねばよかった。ワースは後悔した。

サーカスの演目が終盤に差し掛かった頃、ようやく本命がやってきた。ワースが求めるひまわりが、ついに会場に現れたのだ。

演目は花を使ったバレエダンスだった。バラやスズランやチグリジアなどの花が大量に舞台に運び込まれた。その中に、ひまわりもあった。それは、先ほどまでの派手でスリリングな演目とは違い、芸術性を極めた演目だった。花弁が舞い、美しい男と美しい女が踊り、花は嬉しそうに香った。まるで、絵画の中に迷い込んだみたいだった。美しくて、幻想的で、なんだか心の奥がじんじん熱くなった。気が付けば、ワースの寒気は消えていた。ワースは、自分が求めているのはこれだと理解した。美しくて、幻想的な、平和ボケした世界。汚物や憎悪が排除された楽園。そういう、理想だけを求めた、お子ちゃまの思想。それでいい。それでいいんだと、ワースは何度もうなずいた。ただの理想だと笑われてもいい、現実を知らないお子様だと罵られてもいい、俺はこの美しい世界だけを見て、生きて死のう。ワースはとても強く、決心した。闇の一端を見てしまった後だからこそ、余計に強く、決心した。

ワースは気を取り直して、司会の男と観客を観察した。誰がひまわりを競り落とすか、それを見逃してはいけない。ここに来た目的を忘れてはいけない。ワースはひまわりを手に入れなければならないのだ。ワースは美しい演技を見たい気持ちを押えて、集中した。司会の男は動きをまだ見せていない。観客席にも目立った動きはない。ナイスミドルもふくよか婦人もサーカスの演技に見入っている。誰も動きを見せない。ワースは不審に思った。何かがおかしい。先ほどまでとは、流れが変わっている。ワースは頭を悩ませた。なぜ、誰も動かないのか。その理由はわからない。どんな推測も筋が通らない。ワースは頭を抱えた。そのとき、司会の男と目があった。ワースはハッとした。しまった! と思った。頭に手をのせる行為は、競に参加する合図だった。ワースは慌てた、どうしたらいいのかわからなくなった。だから、ワースは何もしなかった。どうしたらいいのかわからなくなったときは、何もしないのが一番だ。ワースはそう思った。何もしなければ、これ以上値段が上がることもない。そう考えると、焦る必要はないのだと気が付いた。理論は人を落ち着かせる。焦ったときは、とにかく、理論的に物事を考える必要がある。原因と結果を考える。何もしなければ、現状が維持されるという道筋を理論的に考える。何もしなければ、必ず現状が維持されるわけではない。例外はいくらでもある。ただ、今回のこの競に関しては、歴然としたルールがあり、そのルールにおいては、何もしないことで現状維持が約束されている。ワースはそのまま、何もせず、傍観した。

花を使ったバレエの演目が終わり、司会の男が合掌をした。

ワースは、目を丸くした。現状を受け入れるのに時間がかかった。ワースは、たった1ラギッドで、ひまわりを手に入れた。競に勝ったのだ。それは、全く予想していなかった事態であり、ワースは訝しんだ。素直に喜んでいいものかと、疑心暗鬼になった。しかし、その考えは杞憂だった。


サーカスが終わり、ひまわりはワースの手元に移った。特に問題もなくすんなりとひまわりを手に入れた。その対価として、ワースは1ラギッドを闇組織に払った。たった1ラギッドだけだが、それが闇組織の活動に使われるのかと思うと、ワースは少し嫌な気持ちになった。

500人の観客が蜘蛛の子散らすように帰って行った。ワースもその流れに乗って歩いた。その時、金の棒を競り落としたふくよか婦人が目に映った。ワースは、なぜ自分がひまわりを競り落とすことができたのか、その真相を知りたくて、ふくよか婦人に話しかけた。

「あの、すみません」

「あら、あなた、ひまわりを競り落とした人ね」

「見ていたんですか」

「ええ、こう言ってはなんですが、あのひまわりを競り落とす人がいるんだなぁと、思いまして。ほんとうはジロジロと他の参加者の顔を見るのはマナー違反ですが、好奇心が勝ってしまいましたわ。ごめんなさいね」

ふくよか婦人はうふふと笑った。

「なぜ、誰もひまわりを買おうとしなかったのでしょうか?」

 ワースは素直に聞いた。自分の求める答えを得るためには、素直になるのが一番であるとワースは経験から理解していた。嘘やヘタな小細工は、逆効果であることが、過去の経験では多かった。

「あら? あなた知らないのね。それで、ひまわりを競り落とすなんてバカな事……ごめんなさいね、悪気はないのよ」

ふくよか婦人はうふふと笑った。

「何があったんですか?」

「あら? あらら!? あなた、もしかして空飛ぶ旅人のワースさんじゃない?」

 ふくよか婦人のテンションが上がった。声も高くなった。

「ええ、そうですけど」

 ワースは改めて自分が有名であることを認識した。情報屋の助言は正しかった。俺は自分で思っているよりも有名な、空飛ぶ旅人なのだ。ワースは少しだけ、怖く感じた。有名になるというのは、少し怖いことだった。

「テントの中だと薄暗くてわからなかったわ。一度あなたにお会いしたいとずっと思っていたのよ。ねえ、あなたこの後暇かしら?」

「え、まあ」

「それなら、立ち話もなんだから、うちにいらっしゃい。あなたの旅の話聞かせて欲しいのよ。ね、いいでしょ」

「はあ、まあ」

 ふくよか婦人は、半ば強引にワースの腕を掴み、そのまま広い道まで歩いた。そして、待たせていた馬車に乗り込み、自らが所有する豪邸へと向かった。馬車には運転手が付いていた。鞭を適度に叩き、二頭の白馬の速度を完璧にコントロールしていた。カッポカッポという小気味よい蹄の音がした。その小気味よい音に包まれながら馬車の振動に身をゆだねると、気持ちが良かった。ワースは少し眠くなった。うとうとした。ふくよか婦人は、寝てもいいのよと言って、うふふと笑った。ワースはお言葉に甘えて眠った。


 ワースは夢を見た。冬の女王様が雪だるまをつくっていた。えっちらほっちらと雪玉を転がしている。雪玉が雪だるま方式に大きくなる。雪だるまをつくっているのだから雪玉が雪だるま方式に大きくなるのは当たり前だろうが、どあほう、と冬の女王様が悪態をつく。言葉を発していなかったのに、何故冬の女王様は俺の心がわかったのだろうかと、ワースは疑問に思ったが、すぐにどうでもよくなった。冬の女王様は雪だるまを完成させて、手をパンパンと叩いた。そして、振り向いた。見ろ、出来たぞ、と言った。子供のような顔で笑った。その顔があまりにも美しかったので、ワースは思考を失った。頭が真っ白になった。お前の頭の中は雪のように真っ白だな、と冬の女王様が言った。ワースは、この瞬間が凍り付いてしまえばいいのにと思った。冬の次には春が来る、そうなれば、溶けてしまうのは必然だ、バカめ、と冬の女王様が皮肉を言う。ワースはなんだかおかしくて、うふふと笑った。男のくせにうふふと笑うな、気持ちが悪い、と冬の女王様が笑いながら言った。ワースはなんだか、幸福だった。この意味のないやり取りがいつまでも続けばいいのにと願った。でも、それは続かなかった。雪が降り始めた。それは、白ではなく、黒い雪だった。冬の女王様が悲しい顔をした。ワースは、その顔を見ると、胸が締め付けられた。その顔は、冬の女王様に似合わない。そう思いながらも、その悲しい顔の美しさに見惚れた。はやく、悲しい顔を終わらせたかった。でも、その思いとは裏腹に、女王様の悲しい顔はただ美しくて、いつまでも見ていたいと思ってしまう魔力が、そこにはあった。黒い雪が、世界を覆った。「シフキ」と、冬の女王様が呟いた―――


 気が付くと、豪邸に到着していた。あら、起こしちゃったわねと、ふくよか婦人がうふふと笑った。ワースは馬車から降りて、ふくよか婦人の後に続いた。ふくよか婦人の豪邸はでかかった。高さは五階建てで、横幅は端が見えないほどに長かった。庭には巨大な池があり、よく手入れされた造園があり、プールもあった。庭を歩いて玄関にたどり着くまでに五分ほどかかった。玄関にはドーベルマンが二匹いたが、二匹とも吠えることなく静かにしていた。しっかりと躾けられていることがわかった。玄関扉は開き戸で、キラキラとした宝石で装飾がされていた。それは、扉としての機能よりも、一つの芸術作品としての魅力の方が強かった。扉がギギギィと悲鳴をあげた。ふくよか婦人は屋敷の中に入った。ワースもそれに続いた。

 ワースは客間に案内された。客間はとても広かった。壁には神話を描いた絵画がかけられていた。豪華な花瓶には胡蝶蘭が生けられていて、来客を歓迎していた。大理石のテーブル、座り心地の良い革張りのソファー、それと猫脚の椅子があった。ワースはソファーに座り、ふくよか婦人は猫脚の椅子に座った。客間は涼しくて快適だった。おそらく、冷却装置が取り付けられているのだろう。冷却装置はバカみたいに高い値段で売られているし、維持費もバカみたいに高い。それを所持しているふくよか婦人は、正真正銘の金持ちだとワースは思った。ほどなくして、飲み物とお菓子が運ばれてきた。飲み物は紅茶で、甘い香りがした。お菓子はワッフルだった。ワースはワッフルが好物だったので、嬉しかった。ワースはワッフルをバクバク食べた。おかわりならいくらでもあるから、好きなだけ食べてねと、ふくよか婦人はうふふと笑った。

「私は自分で言うのもなんだけど、お金持ちでね」

 ふくよか婦人はひとりでに語り出した。ワースはワッフルを食べながら話を聞いた。

「お金で買えるものは、ほとんど手に入れたわ。宝石や造形物を得る対価として、たくさんのお金を払った。それでもまだ、お金は沢山余っているわ。というか、今もまだ、どんどん増えているの。私が経営している会社の業績が良くてね」

 ふくよか婦人は、いくつもの会社を経営する社長だった。ワースは三つ目のワッフルに手を伸ばした。

「それで、もう物欲はないにひとしいのよ。時々、今日みたいな競に参加して、珍しいものがあれば買ったりしているけれど、心の底から渇望するほどに欲しい物質はないわ」

 ワースは疑問に思った。ならばなぜ、金の棒などという物質を競り落としたのか。ワースは五つ目のワッフルに手を伸ばした。ワッフルの糖分がワースの脳に行きわたり、思考がハッキリしてきた。

「金の棒を競り落としたのは、素晴らしい演技を見せてくれたサーカスの団員へのプレゼントだったのよ。あの金の棒は赤いレオタードを着た女性と青いレオタードを着た女性にあげたわ。あの演技にはそれだけの価値があったもの」

 ワースの疑問を察したらしく、ふくよか婦人は金の棒を競り落とした理由を答えた。ワースは納得して、うんうん頷きながら六個目のワッフルを咀嚼した。

「そんな私が求めるのは、サーカスの血沸き肉躍るような演技、最新の科学の話、それと、まるでファンタジー小説のような旅人の冒険譚よ!」

 物質による支配を超えた先に、人間の心の豊かさがあるのかもしれない。ワースはふくよか婦人の子供のようにキラキラとした目を見てそう思った。

「私の旅の話で良ければ、いくらでもお聞かせしましょう」

「それは楽しみだわ」

「その前に、ひまわりの話をお聞かせ願いませんか?」

「ああ、そうだったわね」

 ふくよか婦人はたった今思い出したという表情で手を叩いた。

「夏の女王様が、四季の国に帰ったのよ」

「帰った? なぜ?」

「さあ、理由はわからないわ」

 ワースはなぜ夏の女王様が四季の国に帰ったのか疑問に思った。夏の女王様は冬が終わるまでこの国にいるはずだ。まだ、冬が終わっていないはずなのに、なぜ。……いや、もしかして、冬が終わったのか? ひまわりを求めるやから一号が、冬の女王を春の女王と交替させたのか? それで冬が終わり、春がおとずれ、その情報を聞いた夏の女王様が帰国した。そう考えると辻褄が合う。ならば、一刻も早くひまわりを四季の国に届けなければいけない。でないと、王様を嘘つきにしてしまう。ワースは焦りを感じた。

「夏の女王様は、買い占めたひまわりを、国民に無料で配ってくれたのよ。それで、ひまわりの価値が一気に暴落したの。今ならひまわりはタダで手に入るのよ。だから、あなたは1ラギッドを支払う必要なかったのよ」

 ふくよか婦人は紅茶を含み、うふふと笑った。

「夏の女王様は本当に素敵な方だわ。あのお方は毎年、「四季の国」が冬の時期になるとこの国に来てくださるの。そして、たくさんのお金を落としてくれるのよ。それも、緻密に計算された計画に基づいて、満遍なくお金を使ってくれるの。だから、夏の女王様のおかげで、この国の経済全体が潤うのよ」

 ワースは意外だった。夏の女王様は自分勝手な人間で、国の経済のことなど考えていないと思っていたからだ。

「今回のひまわりの買い占めも、一見するとムチャクチャだけど、時にはこういう価格の崩壊も必要なのよ。経済は流動的であるほうが良いのよ。平坦な状態が続くのは良くないの。だから、時には今回のひまわり買い占めみたいに、経済運動を活性化させるカンフル剤が必要となるのよ。夏の女王様はちゃんとそれを理解したうえで、ひまわりを買い占めたのよ。まあ、美容目的も多分にあったと思うけど。とにかく、夏の女王様は、すごく深い経済の知識をお持ちなのよ。きっと、ものすごく勉強を成されたのでしょう。それでいて、あの美貌。あのプロポーション。憧れるわぁ」

 ふくよか婦人は祈るように手を組み、うっとりとした表情を浮かべた。ふくよか婦人にとって、夏の女王様は憧れの対象だった。

ワースは、知らなかった。夏の女王様が陰で努力をしていることを、知らなかった、知ろうともしなかった。見た目が派手だというだけで、軽蔑していた。女王という権力と財力を好き勝手に振りかざして、自由気ままに生きている遊び人だと思っていた。ワースは深く、反省した。心から、夏の女王様に敬意を払った。

「ひまわりの話は以上よ。さあ、旅の話を聞かせて頂戴!」

 ワースはできるだけ早く四季の国に帰りたかったが、約束を破るわけにもいかなかったので、三つだけ旅の話をした。夜になると全てが見えるけど、昼間にはなにも見えなくなる『闇夜の町』の話。燃えない紙に書かれた最古の歴史書が読める『海底図書館』の話。どんな生物とも交配して子供を産むことができる雌の化け物『キメイラ』の話。

 まあ、えぇ、うそ、きゃ、はぁ、うふふ。ふくよか婦人は、時に感嘆を漏らし、時に叫び声をあげ、時にうっとりしながらワースの話に聞きほれた。


「でわ、そろそろ帰らせていただきます」

「あら、もう帰ってしまうのね。残念だわ」

「私も残念ではありますが、急用がありまして」

「また、会えるかしらん?」

「ええ、今回の任務が終わりましたら、また来ます。約束します」

「うふふ。楽しみにしているわ。そうそう、これ、持って行って」

 ふくよか婦人は、指にはめていたエメラルドの指輪をワースに渡した。

「こんな高価なもの、いただけません」

「いいのよ。これはお礼じゃないのよ。当然の対価よ。あなたの冒険譚には、これだけの価値があったのよ。ほら、受け取って。等価交換はこの世界のルールよ」

 ふくよか婦人はウインクすると、半ば強引にエメラルドの指輪をワースに渡した。ワースは渋々、指輪を受け取った。エメラルドの深緑色は、吸い込まれそうになるほど、美しかった。

「でわ、失礼します」

 ワースは礼を言うと、豪邸から出た。角笛を鳴らし、プギャピーを呼んだ。プギャピーの背に乗り、空へと飛び立った。そして、四季の国へと向かった。ワースは四季の国への道すがら、あることを考えた。

―――旅の話をするのは、楽しかったなぁ。

ワースは今まで、旅の話を王様にしかしてこなかった。今まではそれでいいと思っていた。それが仕事だと思っていた。でも、今は違う。自分の旅の話をあんなにも嬉しそうに聞いてくれる人がいることを、初めて知った。王様はいつも、無表情でワースの話を聞くだけだった。そこに“語る楽しさ”はなかった。ただの報告だった。でも、他の人たちは違う。俺の旅の話を、まるでファンタジー小説を読むかのようにワクワクしながら聞いてくれる。これからは、王様のためではなく、もっとたくさんの人のために旅をしよう。世の中には、世界を旅したくても旅できない人たちがいる。肉体的理由、物理的理由、経済的理由、いろんな理由で、旅を諦めた人たちがいる。その人たちに、秘境の神秘を、ワクワクを、恐怖を、届けるんだ。それを俺の、生涯の仕事にしよう。ワースはそんな展望を心に描いた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ