第七話 立場逆転
――次の日。どことなく落ち着きの無い様子の美月が、自室から流星が出て来ないかと二階の気配を探っている。そんな怪しい行動を取る美月に背後から近付く一つの影。
「美月、あなた先程から此処で何をやってるの?」
我が娘ながらも不審者を見る眼差しで、美月に話し掛ける。
「わっ! お、お、お母さん! 美月は、べ、別に、馬鹿兄貴なんて、ま、待ってないんだからね!」
「美月……あなたが今期待している事は残念ながら叶いそうもないわね」
右手を頬に当て、深い溜息を吐く母。
「え? そ、それって一体どういう意味なの?」
「それが、あの子ったら、朝早くからジョギングに行ったのよ、本当、いきなりの事で、お母さん本当、びっくりしたわ」
「え? う、嘘だよね? あんなボロボロな体で走りに行く訳がないよ」
信じられないといった視線を向ける美月だが、母の表情を見てそれが真実である事を理解した。
「馬鹿兄貴、本当に……行っちゃったんだ」
そのまま視線を、玄関の方へと移した。
『いいか、流星、お前が昨日ボコボコにやられたのはお前が弱く、戦う術を知らないからだ。少し位、怪我をしたからと言って、俺は容赦しないぜ。ほらほら、もっとペースを上げろ』
「分かったよ、タブ」
木漏れ日の日差しを受けながら、流星が木々の間を駆け抜けていく。タブの言われるがまま、ペースを保ちずっと走り続ける。そんな中、タブは流星のある変化に気付いていた。
――流星の奴め、昨日のダメージが殆ど回復している。成程な、俺が流星の感情に干渉した影響で、先に肉体の方に変化が出始めたって事か。ふふん、これは鍛え甲斐がありそうだ。
流星のペースは落ちない。一定の速度を保ったまま、ずっと走り続けている。が、やがて流星の動きが鈍り、急に速度が落ちると、前にのめり込む様にして転んでしまった。
流星の体は、大量の酸素を求めていた。激しく胸を動かしながらそれを実行しようとする。仰向けになった流星の目には、一面に広がる青い空が映り込んだ。
「タブ、僕、何故だか急に走れなくなって……転んでしまった」
『だろうな。それがお前の「電池切れ」だ。お前はまずその限界を知る必要がある。自分の体と良く相談して、そうならない様、せいぜい気を付けろ』
「どうすれば転ばなくなるんだ?」
『さっき教えてやっただろ、自分の体と相談、様は小さな変化を感じ取れって事だな』
「分かった、やってみるよ」
立ち上がった流星はまた走り出し、少しして、先程と同じ様に転ぶ。その動作を繰り返しながら流星の背中は、次第に小さくなって公園の中に溶け込んでいった。
運動を終え、自宅に戻って来た流星を見た美月が一瞬で驚いたのは無理も無い。流星の顔とジャージは上から下まで全身土まみれなのだ。無様な流星の姿。だが、美月はそれをとても新鮮な物に感じていた。無口で幽霊同然だったあの流星が、やんちゃな男の子の様に土まみれになりながら今、自分目の前に立っている。
驚きの表情はやがて崩れ、少し優しい表情を見せる美月。
「馬鹿兄貴、外で一体何やってたの? ちょっと走ってきただけでそんな情けない姿になっちゃってさ」
胸の鼓動が少しだけ早くなるのを感じながら、夢の中で出会った流星と重ね、自分の言葉に反応してくれる事を期待する。流兄は本当に答えてくれるのか? そんな不安に捉われると、次第に口の中が乾き始め出す。
「ずっと運動不足だったし、今の俺にはこれくらいが丁度いいんだ」
「――ぷっ、だからって、そんな泥んこになって帰ってこなくても」
ちゃんと返事をしてくれた。美月の表情は一輪の花が咲いた様に次第に明るくなっていく。が、そんな自分は見られたくはない。慌ててそっぽを向き、言葉を重ねた。
「ま、まあ、最初からやりすぎない様にせいぜい気をつけるんだよ?」
赤く染まった頬を見られない様、背中を向けた美月の頭を流星は軽く頭を撫でた。
「あっ……!」
「心配してくれて、ありがとな美月。俺、これからもっと強くなるから」
「ねえ……どうして急に走り出したり、強くなろうとか思ったの?」
風呂場に向かおうとしていた流星の足が止まり、少しだけ振り返って美月を見る。
「――大切な人を守る為だ。それから美月、今日から俺の事はちゃんと流兄と呼べ。分かったな?」
「う、うん。分かったよ……」
心ここに有らずといった返事をして、そのまま風呂場のへ向かった流星を呆然と見送っていたが、突如我に返った。
「ち、ちょっと待って! たっ、大切な人って、まさか、み、美月の事なのかな!? だとしたら、ああっ、どっ、どうしようっ!?」
勝手に都合の良い解釈をして、体をくねくねと捩り始める美月。
「う、嬉しい! 昔の流兄が戻ってきてくれた! 間違いない、格好良かった流兄だ!」
胸に手を当てながら、幸福感一杯に満たされる美月であったが、直ぐに危機感を覚え、親指の爪を噛みしめる。
「まずい……今の流兄に学校の女達が気付き始め出したら、大変な事になってしまう……狼の群れの中に子羊を放り込む様な物じゃない……」
美月が抱いたこの不安要素はこれから後、見事に的中する事となる。
『どうだ流星、己の限界を感じ取る事ができたか?』
シャワーを浴び終え、着替え終わった流星に、タブが話し掛けた。
「なんとなくだけど分かってきた気がする」
『そうか、数えきれない位、すっ転んだ甲斐があったな。良し、この調子でどんどん行くぜ。これからもやることは山積みなんだからな』
「分かったよ、タブ」
『任せておけ。それより今日は、大変な一日になるだろうから覚悟しろよ』
「大変な一日って?」
『まぁ、学校に行けば、嫌でも分かるさ。直ぐにな』
そう言ったタブは不敵に笑った。
「おい、天野川が来たぞ」
男子生徒Aが校門を通過する流星を指差した。
「あいつ昨日、彰先輩にボコられたらしいぜ? 実は俺、あいつが屋上に連れて行かれる所を見たんだ」
男子生徒Bが興奮気味に言う。
「おい、噂をすれば何とやらだ、あれ彰先輩じゃね? このままだと二人、カチ会っちまうぞ? これは、もしかして朝から一波乱あるか?」
男子生徒Cが愉快げな表情を見せながら、校門の方へ目を向けて状況を見守る。その彰は何かが気に入らないらしく、自分の横をおどおどしながら通り過ぎようとする下級生を睨み付け、右腕を押さえながら、流星へと近づいていく。
既に回りの生徒達はこの事に気付き、その時が来るのを興味津々で注目している。彰の形相は一歩、また一歩と流星に近付く度、険しくなっていく。気のせいだろうか、その額には数滴の汗が滲み出ている様にも見える。やがてその二人が対峙し、互いの足が止まった。
「天野川……てめぇ……まさか――」
――夢の事を知ってるんじゃねえだろうな?。
彰はどうしてもその言葉を口に出す事が出来なかった。プライドもあったのだろうか、余りにも非現実な事等を言え無かったのだ。だが、別人と言っていい程の流星の素早い動きと躊躇無く自分の右腕を折りに来た容赦ない攻撃、何よりその時の痛みが未だ右腕に残ったままだった。あれは本当に夢なのか? 本物だったのではないのか? と、自問自答を繰り返し、自らを追い込んでいった。
ふと自分の手に何かが当たり、視線を落とすと、手の甲に自分の顔から止めどもなく滴り落ちている汗である事に気付く。何もされていないというのに、目の前の流星から大きな重圧を感じずにはいられない。呼吸も次第に荒くなり、それが更に恐怖心を煽った。
その時、流星の目が、ゆっくりと彰の目を見据える。その無表情の顔が彰にとって、とても恐ろしい物に感じ始め、そして呪文の様に「大丈夫だ、奴があの事を喋る訳はない!」と自分に唱えるが、それはやがて「やめろ、やめてくれ! 言うな!」という物に変化してしまっていた。
流星の口が開き始めた時、彰にはその動作が秒刻みの様にゆっくりと感じ、大鎌を持った死神が流星と重なって、ニタリと笑ったその時だった――。
「……右腕の調子はどうだ?」
流星の一言は一瞬で彰の精神を地獄の淵へと引きずり込むに十分な物だった。
「――うああっ!?」
無論それが何を差しているのかを彰は知っている。瞬時に彰の頭で大きな警報が鳴り響き、その警報は、
「ひいいっ! ば、化け物っ……!」
と、いう言葉に変換される。その場で膝を落とし、震えながら地面に伏せる彰。流星はその横を何事も無く通り過ぎて行く。この時、一部始終を見た生徒達から一斉にどよめきが湧き起こった。
「あの狂暴な彰先輩が……天野川を恐れた!? 何でだ!? 昨日一方的にやられていたのは確か天野川だった筈だろ!?」
「ま、まさか天野川の方が勝ったのでは!?」
そんな会話が、あちこちで入り乱れ、これが火種となって流星を見る生徒達の目が変わり出す。教室に入った流星が、普段通り挨拶をすると、教室の中が水を打った様に静まり返った。
これは何時もの光景だが、この時は明らかに状況が違う。以前は「異物」が入ってきた様な感じの冷ややかな感じであったが、今回は「英雄」が入ってきたと言わんばかりの熱い眼差しで流星に近付いてみたいが、近付けないという感じなのだ。
席に着いた流星に、周りの生徒達の視線が集中する。そんな中、「ちょっと、そこ邪魔だから、退けてくださる?」と周りを牽制しながら、加奈が取り巻きを引き連れ、流星の元に近付いてきた。加奈も彰同様、体をもじもじさせながら何かを確かめようと、流星に話し掛ける。
「こっ、こほん! あの、そ、その……ですね、えーっと……」
口をパクパクするも、中々言いたい事が言えない。
「あーっ! もうっ! お早う、流星っ!」
顔を真っ赤にして、意を決した様に加奈が流背に向け挨拶をすると、その途端、周りから驚きの声が一斉に上がり、加奈の背後にいた取り巻き達が「ご乱心?」等と動揺した。
「お早う加奈。俺の言った事、ちゃんと守ってるみたいだな。偉いぞ」
視線を加奈に流す。
「――あうっ!」
流星の仕草に加奈は瞬時に、頭から湯気が一気に噴出した。
「やっ、やはりあれは正夢っ! こっ、これは、もう、り、流星と私の運命の赤い糸としか言いようがありませんわっ!」
両頬を手でおさえ、軟体動物の様に、その場に座り込む加奈。
「おおおおおおっ!?」
途端に更にも増して周りから、驚きの声が上がった。
「あ、あんなに強かったのに、どうして今まで本当の自分を隠していたの?」
既に流星の虜になってしまった加奈は夢と現実を運命の赤い糸と言って、強引に結び付け、それを喜んで受け入れている。両手を机の端に添えた加奈は憧れの眼差しで上目遣いに流星を見つめた。
「俺が動く時は、俺に危害を加える者が現れた時、そして……大切な人を守る時だ」
「――はうっ!」
――も、もしかしてしつこく私に付きまとう彰を懲らしめてくれたのは、大切な人――つまり、この私の為に動いてくれたのではっ!?。
都合良く解釈する女がまた一人此処に誕生した。更に無表情で言い放つ流星を見た周りの女生徒達は、不気味からCOOLという評価に様変わりし、天野川君は私の為に、いやいや何を隠そう実は私のために、いやいやいやと、これまた勝手に解釈し始めた女生徒達の数が急激に増加する。
そればかりではない。今まで悪いイメージしかなかった流星の評価は百八十度回転し、良い印象が一気に拡散すると、終いには「天野川君って良く見ればイケメン」等と、黄色い声が上がり出す状況までに至った。
騒然の渦と化した教室に、嫌な予感しかしなかった美月が、上履きのゴムを擦り減らし、スリップしながら扉を開くと慌てて飛び込んできた。
「流兄っ!」
そこで、美月が見た物、それは都合良く解釈した女生徒達が、いがみ合いながら口論している醜い姿と、目に涙を滲ませ、互いの肩をぽんぽんと叩きながら慰め合う男子生徒達の哀れな姿だった。
「や、やられた……! 先輩達め、流兄の良さに気付いた途端、掌を返した様に、群がり出すなんて!」
呆然としながら、もはや手が届かなくなってしまった自分の兄を悔しそうに見つめる美月なのであった。