第五十四話 触れ合う拳
レオが桃子の記憶を取り戻し、心の奥底で眠っていた気持ち――愛情に気付いた。 だが、レオはそれを表に出す訳でも無く、自身の気持さえも桃子に伝えず、黙々と稽古に付き合っていた。 只一人、真実を知る流星は、何度もレオに事実を桃子に伝えるべきだと意見をしてみたが、レオは静かに首を横に振るだけだった。
「レオ、その考えはどうしても変える気はないのか?」
「……ああ、俺はこのまま『明日』帰還する。 それだけの事」
「ぼ、僕には分からない! それじゃお互いが心残りになるだけじゃないか!」
「――それでもだ」
踵を返したレオは桃子との最後の稽古へと向かう。 呆然と見送る流星を背に、隠れたレオの表情は何処となく寂しそうであった。
「……これでいい。 これでいいんだ。 なぁ、俺」
一瞬足を止め、胸に手を当てながら苦笑する。 そして「行くか」と、再び歩き始めた。 何事も荒立てずレオは自分の心の中に全てを閉じ込め、静かに終わらせようとしている。 レオの決意は固く決して揺らぐ事は無い。 だが、『運命』が許してはくれなかった。 流星とのやりとりを、また、レオが独り言を呟く様を偶然にも一部始終目撃してしまった者がいたのだ。
「そんな! ……レオ様が……記憶を……取り戻していたなんて!」
木に持たれ掛かっていたメリッサは、動揺した余り、膝の力を失ったまま崩れ落ちていく。 今自分が見聞きした真実はそう簡単には受け入れる事は出来ない。 それは思わず口から漏れた自問自答がそれを証明していた。
「あり得ない……! 転身後の記憶は全て消去されるのですよ? そんな事が起こる筈が無いのです! でも、レオ様は先程はっきりと……いえ、何かの聞き間違いかも!? き、きっとそうです!」
ふらふらと立ち上がったメリッサは必死に平静を保とうとしていたのだろう、やがてその表情は変化し、震える唇を噛み締めながら、力弱く頭を垂れる。
「それなら……それなら何故、レオ様は……貴方は、そんなにも……辛そうなお顔をされたのですか?」
幼い頃から慕っていたレオを突如現れた桃子に奪われたくない一心でメリッサは事実に背を背けたまま、今日まで逃げ切った。 このままレオが自分と帰還すれば全てが終わり、また元の生活に戻れる。 そう願っていた。 その願いを記憶を取り戻したレオ自ら実行してくれようとしている。 ならそれは願ったり叶ったりではないか。 何度も自分にそう言い聞かせる。 その度にレオの辛そうな顔が脳裏を過り――。
「うっ……くっ……レオ様の嘘付き」
嗚咽を漏らした刹那、大粒の涙が乾いた地面を濡らし始めた。
「てやあああっ!」
「――ぬんっ!」
桃子の回し蹴りをレオは右腕で自分の頭部を防御する。 受けた右腕に電気が駆け抜ける感覚と直ぐに消えない震えの余韻を感じながたレオは桃子が強くなっている事を嬉しく思った。
「ふん、強くなったな桃子」
右腕を軽く振りながら、レオは満足そうに微笑む。 意外な言葉を耳にした桃子は何かの聞き間違いかと、一瞬きょとんとしていたが、やがて人差し指を鼻に擦り付けながら照れ笑う。
「へへ……そう? ま、まあこれもレオが今日まで私に付き合ってくれたから……」
「おうよ、この俺がお前に付き合って――」
互いが口に出した「付き合って」で、「はいはい、ちょっと気まずい空気が通り過ぎますよ」と二人の間を横切る。 それを振り払おうと何とか平静を保ったレオが拳を突き出しながら「嫌と言う程、こいつをな!」と誤魔化した。
「あ、え? う、うん、そうそうだね!」
桃子も苦笑いをしながら慌てて拳を突き出す。 やがて少し離れていた互いの拳がゆっくりと近付き始めた。 視線を真っ直ぐにレオを見つめた桃子が黙ったまま歩み寄ってきたのだ。
「――!?」
少し動揺するレオ。 だが表情を崩す訳にはいかない、一瞬眉がぴくりと歪むも必死で堪える。
「レオ……今日まで私に付き合ってくれて……本当に有難う」
また一歩。 突き出した拳は下ろさず。 何故だろうか、レオも金縛りになった様に拳を下ろす事が出来ない。
「……ああ。 これはお前と交わした約束らしいからな、単にやり遂げたまでの事」
「レオ……明日帰ってしまうんだろ? 何だか寂しいな……」
また一歩。 そこには先程立ち込めていた闘争心などという物はもはや存在しない。
「ああ……俺も任務があるしな」
「あーあ。 こんな事ならレオと色んな所で遊んでみたかったな」
更に一歩。 桃子の視線はレオの瞳孔をしっかりと捉えたままだ。
「ば、馬鹿かお前、明日は大事な試合の日だろ? いきなり下らない事言ってんじゃねえ……!」
「だって、私は――」
刹那、拳と拳が触れ合った。 桃子は言葉を切ったままレオをじっと見つめる。 続きを口に出す必要は無い、言葉も、桃子の想いも十分レオに伝わっているのだ。 それ故にレオの鼓動が高鳴り、その衝動に耐え切れず直ぐにでも桃子の手を掴み己の胸の中に引き寄せるといった残像さえも見えてしまっている。 刹那、先程見た光景を本能が実行せんとばかりレオの拳が緩み――。
「桃子……明日は絶対に優勝しろよ?」
――理性が本能の頭を地面へ強引に抑え込む。 それがレオの答えと受け取った桃子は気丈にも眦を上げ、必死で保とうとするがすぐに崩れそうになる。 それでも桃子は「う、ふぐっ……」と、言葉にもならない声を漏らしながら、触れ合った拳をゆっくりと下げると、「分かった」と応えた。
「桃子、これでこの稽古も終わりだ。 まぁ、俺もこの世に来て色々楽しかったぜ……分からん事も多々あったが、色々面倒見てくれて有難うな……じゃあ、あばよ……」
「うん……さよなら……レオ」
最後に桃子の姿を眼に焼き付けたレオは静かに踵を返し、立ち去ろうとした。 だが、何故か体が動かない。 ふと腰元に違和感を感じたレオが視線を落とした刹那、背中に温もりを感じた。
「――っ!? 桃子!? お、お前、何を――!?」
「レオの大馬鹿野郎! これであばよとか、簡単に言わないでよ!」
「――とっ、うっ、こっ!?」
「いきなりこっちの世界に来て、色々掻きまわしてさ! レオは天野川の事が終わったからそれで終わりなもかも知れないけれど、こっちは、はい、そうですか。 では終われないよっ! ずるいよ! 酷いよ! 私をこんな気持にさせといて、自分は記憶を失ったと言ってさっさと国に帰って行っちゃうんだから!」
怒りが、桃子のレオに対するひたすらな想いが一気に爆発した。
「ぐっ、桃子……お、俺、本当は――」
言ってしまえ! と心の中が叫んだ時だった、自分を掴んでいた桃子の二の腕がゆっくりと離れた。
「わ、私は最後の最後で何て事をレオに言ってしまったんだ……!? ご、御免、レオ、今の全部無し! わ、忘れてくれていいから! じゃあ、本当にさよなら! レオ、何時までもお元気でっ!」
涙を浮かべ、桃子が立ち去ろうと踵を返した。 この時レオの脳内は、未だ理性が本能を押さえ着けた状態だった。 ここで踏み止まれば、ここを凌げば何事も起こらず全てが終わるのだ。 あと数秒本能を抑え込んでおけば――。
「んなの、出来る訳ねえだろうがあっ!」
抑え込まれていた本能が「うがああっ!」と起き上がると、理性の胸倉を掴んでぶん投げた後に、レオが桃子を背後からぎゅうっと抱きしめる。
「『――!』」
刹那、この時お互いに以前デートの際、悲しんでいる桃子を流星――レオが背後から抱きしめる場面と同調した。 暫くの間、沈黙が続いたが、やがて桃子が静かに呟いた。
「……あの時の流星……やはりレオだったんだね……」
「――ああ」
と、言ったレオは「しまった!」という顔を見せると、慌てて桃子を解放し、「あ、う……」と、後方に退いた。
「レオ! 今――!?」
「ち、違う! 今のは間違いだ! 感極まって、ついお前を抱き締めちまって……最後に変な事をして悪かった! じ、じゃあ桃子、た、達者でな!」
逃げる様に立ち去ったレオを呆然と見送ってしまった桃子は、直ぐに脳内で巻き戻しを始めた。 あの時レオは確かにデートの際、後ろから抱きしめたのは自分だと言った。 これは聞き間違ではない。 確かな情報だ。 だとすれば――。
「――あ!」
ここで桃子はレオが以前自分に「馬鹿力」と言った時の事を思い出す。この言葉は以前、駅で流星に絡んでいた相手に言われた言葉で、レオはこの時に覚えていたのだ。 本来であれば今のレオが知る筈も無いのに自分に向かって言ったという事は、即ち――。
「レオは……私の事を……ちゃんと覚えていた……って事!?」
体中の力が一気に抜けた桃子は、そのまま地面に膝を付けてしまう。
「そうか、レオの奴、ちゃんと私だと分かってて……抱き締めてくれたんだ……本当に馬鹿な奴だ、は、はははっ!」
嬉しそうな笑い声を漏らすと同時、桃子の顔を覆う両手の隙間から、止めども無い涙の滴が零れ落ちた。




