第四十八話 二人に残された時間
――ブラキオを倒し「平穏」という漢字二文字を取り戻したレオは、一日の授業を終え、他生徒達が部活の準備をしたり、帰り支度を始めたにも拘わらず、二階校舎の窓際から特に視点を定める訳でも無く、只一人外の様子を見ていた。
目的は果たした。これから先流星は二度と感情を失う事にはならないだろう。よって俺がここに留まる理由等無い――この俺の心の隅に引っ掛かっている物さえ無くなればなと、眺めていたその時、対人用訓練機なのだろうか、建物から外に持ち出した桃子が道着姿で機械相手に稽古をしようとする姿が視界に映った。
正拳、そして膝蹴りからの回し蹴り。ほほう、思っていたよりも中々良い連続技を繰り出している様だが……今のタイミングは違うな! 何やってんだ、踏み込みが甘い! と、窓際から乗り出してぶつぶつと文句を言い始め出す。
そんな奇妙な動きをしているレオに気付いたメリッサが近付いて話し掛けようとするが、外の方を向いたレオは一向に気付く気配は無い。普段見せない真剣な眼差しで一体何を見ているのだろう? 気になったメリッサはレオの視線を辿った瞬間、目を見開いた後に下唇をきゅっと噛み締めた。
刹那、何かが背後でぶつかった音がする。「何だ?」と、驚いたレオが視線を元に戻した時、きちんと並べられていた机の形が崩れ、一人の女が教室から飛び出して行った事に気付く。ほんの一瞬ではあったが、レオは靡いた髪が銀色の光を放った様に見えた。
「……今の女はメリッサか?」
その直後、視線を床に落とし足早に走り去っていくメリッサとすれ違った流星はメリッサの後を追い駆けていく哀愁の空気を感じ取ると、何があったのかと、急いで教室の中に入って確認した。だが、そこには先程と同じ様にして窓際から外を見ながら、そんな構えは駄目だと、独り言をいっているレオしかいなかった。
ゆっくりとレオに近付いた流星はメリッサと同じ行動に出て――成程そう言う事かと、全てを察した。
「レオ、桃子さんの練習が気になるの?」
穏やかな性格に戻った流星は先程のメリッサの様子を心苦しく思いながらも、レオに声を掛ける。
「っ!? り、流星!? お前何時の間に!? お、脅かすなよ! お、俺は別に桃子を見ていた訳じゃねえ! そ、そうだ、夕日が綺麗だなあって見てただけだ!」
「……夕日? まだ日が沈むと言う時間には早過ぎると思うけど?」
「――っ!? う、煩せえ! と、とにかくそういう事だ! いちいち詮索してんじゃねえ!」
眉に皺を寄せながらレオは不機嫌そうな顔をして見せる。
「……ぷっ。何時もと違って凄い慌てぶりだねレオ」
「ふん! ほっとけ!」
「そういう訳にはいかないよ……」
以前のレオと桃子の関係を流星は知っている。それ故に記憶をリセットされたレオが自然と桃子の姿を眼で追っている姿が気に病んで仕方が無かった。
「レオ……その、桃子さんだけど、近いうちに大きな試合を控えてて、その試合で以前、レオが桃子さんを優勝させてやる! って言った事を覚えてる?」
「な、何だと? お、俺が? そう言ったのか?」
「そうだよ……しかも、僕の感情を取り戻す為に桃子さんに無茶な事を要求してさ」
「む、無茶な事だと!? そ、そりゃ何か、ま、まさか、桃子のか、かららからだだだだだ!」
機関銃かっ! と、頭を抱え込んだまま机の上に突っ伏せたレオの頭上から空手チョップを一撃入れたくなった流星だったが既の所で何とか堪えた。
「そんな大胆な事は要求してなかったけど……それに近いものはあったかもね」
「近い!? 近いだと!? お、俺は一人の男として何て軽はずみな事ををを! おおおお!」
あ、ちょっといじめ過ぎたかな? と、反省した流星はレオの事をタブと名乗っていた時、桃子とデートをした時の事等、丁寧に説明し始めた。
「な、何!? お、俺が桃子と、で、でえとしただと!? ……と、ところで流星、でえとって何だ!?」
流星はがくっと首を垂れながらレオがタブの時に入手したこの世界の一般常識が、今はもう既に無に返っている事を理解した。
「僕も余りデートの事は良く分かってないんだけど……あの、ちょっと耳を拝借。ごにょごにょ……」
「な、な、何いっ! 二人だけで色んな場所に赴き、長い時間を共有し合って、互いのあ、愛を、ふ深めるだと――う!」
ぼんっ! 流星は真っ赤になったレオから一気に蒸気が噴出す音が聞こえた気がした。
「うん。 だから桃子さんは見た目は元気そうにしてるけど、やっぱりまだ辛いんじゃないかな。それにこのままだと試合に影響が出るかも……」
「うぬぬぬぬ、駄目だ……それは絶対に駄目だ!」
勢い良く椅子から立ち上がったレオは突如机の上に乗った。驚いた流星は危ないから直ぐ降りてと制止するが何かを腹に括ったレオはとても清々しい顔をして答えた。
「流星、俺の記憶が無くなったにしろ、それは俺が決めて桃子と約束した事なんだよな! だったら俺がやるべき事は一つだ!」
言葉だけが教室に残り、レオの体は既に窓の外の空中にあった。
「レオ! ここ二階っ! それとそれ上履き――っ!?」
「わはははははは! 待ってろよ! 桃子っ!」
どんっ! 地面に見事な着地を決めたレオは驚いて飛び退いた生徒達を後目に桃子の元へと走っていった。
「猫みたいな人だな。まあ、実際に耳と尻尾あるけど……」
暫く呆然としていた流星だったが、ふと我に返ると靴持って行ってあげないとな……と急ぎ教室を出て行く。階段を降り、下駄箱に向かいながら二人の事を思いつつ、メリッサの悲しい顔を過らせながら、恋愛とは複雑かつ難しい物だと痛感する。
「まあ……そんな難しい事、僕には関係ないんだけどね」
苦笑した流星が下駄箱の蓋を開いたその時だった、大量の恋文が滝の様に零れ落ちた。
「あ……」
今の流星は感情を取り戻す迄の間、レオ――タブが毎夜夢空間を駆使して学校中の女生徒達との関係を深め、影の薄かった流星を学校一位、二位を争うイケメンと噂されるまでに仕立て上げたのだった。
「そうだった……今の僕は……」
肩を震わせながら、恐る恐る辺りを見回すと、途端に至る場所から熱い視線と燥いだ女生徒達の声が飛び交い始める。
「あは……あははははは」
両方の掌を広げ、流星くうんと甘い声を発しながら、じりじり詰め寄っていく女生徒達の姿は正に獲物を狩るハンターの如し。 あと一歩で流星が狩られるというところで、「ちょおっと待ったあ!」と、救いの手が差し伸べられる。
「はいはいはいっ! そこかしこの先輩方! 流兄はこれから美月とまっすぐ家に帰りますので邪魔をしないでくださいね! あ、踊り子――流兄には、一切勝手に触れない様に! あと、私の許可なく写真撮影とか、絶対に駄目ですからねっ!」
通行人に誰彼構わず吠えまくる子犬の様に、生徒達への威嚇を終えた美月は、鼻息を荒くして何処からともなくコンビニのビニール袋を取り出すと、床に落ちている恋文を掻き集め、無造作にその中に押し込み始める。
それを見ていた女生徒達は一瞬眉を顰めるも、美月は流星の妹であるが故、引き攣る顔に堪えながら、黙って――本当は口元をピクピクさせ、見つめていた。
「――ではみなさん、ごきげんよう! おほほほほ!」
流暢な言葉遣で挨拶を終えた美月は、女生徒達の羨む視線を背中に受けながら、流星を連れ悠々と校門を出ていった。 暫くして危険領域から脱した流星は、突如足を止めると、深い安堵の溜め息を吐いた。
「美月、さっきは助けてくれてありがとう。 もう少しで危うくあの娘達に囲まれてしまう所だったよ」
「いえいえ、礼には及びませんよ! この美月、流兄に悪い虫が付かない様、しっかりと守ってあげるかね!」
頼もしそうに胸を叩いた美月は、にかっと微笑んだ後、流星から顔を横に背けると、小声で何やら呟き始める。
「馬鹿な女共……流兄は絶対誰にも渡すもんですか……そう、流兄はこの美月の物なんだから……フフフフ!」
「ん? 美月、今、何か言った?」
「――!! み、美月は、な、何も言ってないよ! さぁ、流兄、一緒に帰ろうっ!」
流星の周りを嬉しそうにくるくると回った美月は、手綱をぐいぐい引っ張っていく子犬の様に、流星の腕を掴んだまま、家路へと向かうのであった。
「せいっ! やあっ! とうっ!」
桃子が容赦なく連続技を機械相手に打ち込んでいる。苦しそうに息を上げると、額から大量の汗が滲み出た。少し間を置いて呼吸を整えた桃子が再び機械に対峙した時、「そんな構えでは駄目だ」と、不満そうに呟く男の声が背後から聞こえてきた。
「だ、誰――!?」
踵を返した桃子の視界にレオの姿が映ると、すぐに反転して、「な、何しに来たんだよ!?」 と、ぶっきらぼうな声ではあったが赤面した顔を見られまいと必死に隠そうとする。
「桃子、どうやら俺は昔タブと名乗り、今度の試合でお前を優勝させると約束してたらしいじゃあねえか。 その約束、きっちりと果たさせて貰うからな」
「……そ、そうだけど……レオはもう忘れたんだろ。だからもう、気にしなくていいよ」
「いや、そういう訳にはいかねえ、俺はその時の記憶が有ろうが無かろうが交わした約束はきっちり守る男だ! そ、それに、お、俺がお前に無理を言って、流星の姿でだな、その、何だ、所謂だ、俗に言う、で、でえとをしたらしいじゃねえか! だからこのまま俺だけ桃子に協力させたとあっては、筋が通らねえだろ!」
返事が無い。というよりも桃子はそのまま動かない。不思議に思ったレオが回り込み、桃子の顔をそっと覗き込むと、顔を真っ赤に染め上げた桃子が口をだらしなく開けたまま固まっている。やがて視線がゆっくりとレオの方に向くと「あ……あうあ」と、上ずった声で言葉にもならない奇妙な声を上げた。
「れ、レオ、お、お前、その話をどこで聞いた……!?」
「つい先程だ。流星が教室に来て、直接俺に話をしてくれた」
どんっ! 激しい打撃音と同時に機械から異常な煙が上がる。
「ふふ、うふふふふ。 流星……何処に隠れているんだ? どうせ見てるんだろ? 今直ぐ姿を見せなよ?」
口調は一見穏やかだが、桃子の全身からは殺気がだだ漏れている。桃子の言う通り流星は、美月を正門で待機させた後、レオの靴を届けようとしていた所だったのだが、桃子の笑っていない悍ましい声を聞いた途端、背筋にとてつもない悪寒が走った為、木の根元へ音が立たない様にレオの靴を揃えて置き、ピンポンダッシュでその場から離脱したのだった。
「ふん……流星の奴、逃げたな」
その気配さえも感じ取る桃子。平静心を取り戻した――実はどうしようかとレオを見てどぎまぎしている桃子は、迷惑そうに「それも、もう終わった事だから」と、レオの提案を全く受け入れようとはしなかった。
「いや、俺は絶対にお前を優勝させてやる!」
「レオが心配しなくても私は、優勝するから放っておいて」
「今のお前じゃ無理だ。絶対に敗れる」
その後は千日手の様に「優勝する」、「いいや、優勝出来ない」、「いや、出来る」、「いや、出来ない」と押し問答が延々と繰り返された。
「はぁはぁはぁ、私が優勝するったら優勝するって言ってるのに、本当にお前、しつこい奴だな!」
「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ、俺が優勝出来ないと言ってるんだから、いい加減、素直に言う事を聞け! お前こそ相当頑固な女だぞ!」
暫くの間、互いの荒い息遣いだけが聞こえてくる。やがてお互いの目が合うと、桃子が大きな溜息を吐きながら頭を垂れる。レオの異常なしつこさに押し負けたのだった。
「よし。この勝負は俺の勝だな。でだ、その試合が行われるは何時だ?」
「――三日後の日曜日だよ」
「三日後か……稽古をする時間も限られている――」
レオの言葉が急に詰まった。実はベルム王国から言い渡されたレオの帰還日は、とっくに過ぎていた。それをレオがメリッサに何かと無理を言って先延ばしにしていたのだ。故に今度ばかりは自分の勝手な言い分は通らず、予定通りその日の翌朝にはメリッサと共にベルム王国へ帰還しなければならなかった。
「ふ……どうやら桃子の優勝する姿は拝められないらしい」
「ん? レオ、今何か言ったか?」
「いや、何でもねえ。それよりも桃子、試合までもう時間が無い。今日から三日間、付きっ切りで稽古してやるから覚悟しろ」
「分かったよ、レオ。 でも、そっちこそ先に根を上げないでよ!」
「おうよ、どんと任せておけって!」
刹那、強風に煽られた木々達が枝に着いた葉を鳴らし一斉に騒めき始めた。作り笑いを見せるレオの心境はとても複雑だった。そんな事も露知らず、桃子は何時も通り強気な表情を見せながら、少し嬉しそうに微笑むのであった。




