第二話 タブレットに宿った「可愛い生き物」
流星が家の扉を開けた頃、雨の勢いが更にも増して、歩く度、靴の隙間から溜まった水が溢れ飛び、頭から滴り落ちる水滴が玄関のタイルをあっという間に水溜りに変えた。
『くっそう、全身水びだしだぜ! 流星、早く風呂に行こうぜ! 風呂!』
その声は届く筈も無いが、本能的に冷えた体を元に戻すという流星の考えが偶然にも可愛い生き物と一致する。
蛞蝓が這いずった様な水の軌跡を残しながら、風呂場に向かった流星は、無言で服を脱ぎ、中に入ると「温」のコックを回した。
『くーっ! 生き返るぜ!』
その台詞を発したのは無論、可愛い生き物からであった。
『……流星よ、暫く会わない内にすっかり変わってしまったな』
流星が体温を取り戻し、体を拭いているその足元で、一枚のタオルが不気味に浮いたまま、不自然に動き、やがて着替えを済ませた流星の背中に向けて駆け上がる様にして可愛い生き物がよじ登った。
「あ。床が濡れてる」
自分が作った水の跡に気付いた流星が、床を拭いている時、美月が帰宅してきた。
「あ、おかえり美月」
美月はその返事をしない変わりに、明らかに不満な表情を見せた。
「馬鹿兄貴……傘は? どうしたの?」
「え? 傘かい? 良く分からないけど、傘立てに無かったんだ」
何事も無かったに返事を返された美月は更に不機嫌になった。
「無かったんだ――じゃないでしょ! またあの先輩に意地悪されたんでしょ? 美月、帰る時に呼び止められて、馬鹿兄貴の傘を渡されたよ! どうしてあの人が馬鹿兄貴に傘を持っているのよ!? って、それって隠されたって事でしょ? 何で一言言ってやらないの!?」
「隠された……そうなのか?」
態度が全く変わらない流星を見て、美月は「もうたくさん!」という感じに首を横に振ると、一気に階段を駆け上がると一度だけ足を止め、
「――昔の流兄は、そんな風じゃなかったよ……」
と、聞こえないように寂しく呟くと、そのまま自分の部屋に入って行った。
晩ご飯になっても部屋に閉じこもったまま、美月はリビングに降りてこない。母親に頼まれた流星は、晩ご飯を乗せたトレイを美月の部屋の前まで運ぶ。
「晩ご飯、此処に置いとくから」
疲れて寝てしまったのだろうか、美月からの返事は返っては来ない。自分の部屋に入った流星は、部屋の明かりを灯すと、布団の上に寝転がったまま、タブレットの電源を入れる。そのタブレットは、何時まで経っても流星が無関心な状態である事を心配した両親が買い与えた物だった。
それを使って流星がする事と言えば、これまた両親が少しでも関心も持って欲しいと契約した様々な映画やアニメが視聴出来るサイトで、子供の頃に流行ったヒーロー物のアニメを見る事であった。
流星はそれ以外は一切見ず、またそのアニメも、感情を表に出す訳でも無く、ただ本能的に眺めているに過ぎない。その傍らでは、一緒に見ていた可愛い生き物が情けを掛ける様にして呟く。
『そうだよ。お前はこいつが大好きだったんだぜ? あの時もそいつの絵が描かれている自分の服を指差しながら、俺に熱く語っていたし……にしても、遅い。そろそろデカい奴が来てもいい頃だ』
言って、部屋の外側へと意識を向け目を細める。
可愛い生き物が期待する物は大きな轟きを響かせながら、確実に此方側へと近づいて来ていた。
『来い……さぁ、来やがれってんだ! そうすれば……俺の姿を流星に見せる事が出来る筈だ!』
そして、その瞬間は遂に訪れた。窓の直ぐ近くで激しい稲光が走った瞬間、可愛い生き物が咆哮を上げた。
『待っていた! この時を俺は待っていたぜええっ!』
だが、その咆哮も一瞬で否定的な物となった。
『ああ、くそ! 力が足りないっ! こ、これじゃあ駄目だ!』
この間僅か数秒。可愛い生き物が愕然とした時、流星が眺めているタブレットが目に入ってきた。
『こうなったら一か八かだ! もう、これに賭けるしかねえっ! 此れより、我が名を以て力を示さん! 我が名は――』
その叫びと同時、耳が引き裂かれる様な物凄い雷が落ち、タブレットに激しいノイズが走った瞬間、一瞬にして部屋の中が闇に覆われた。
「停電か……あ。タブレットが壊れた」
その時、まともに映らなくなった画面から、いきなり文字が現れた始めた事に流星は気付く。
『この文字が見えるか? 流星』
そのメッセージに流星は無言で頷くと、その文字が消え、新たな文字が浮かび上がった。
『やっとか……やっと俺に気付いてくれたんだな? この時を俺はどれ程待ち望んだか!』
「良く分からないけど、君は誰なんだ?」
『俺か? 俺は本当のお前を知っている者さ。と、言っても今のお前では何も分からないだろうがな』
「本当の僕を知っている? それって――」
その疑問は走り掛けるように浮かび上がった文字で遮られる。
『止めろ。この状況を今のお前に説明してもどうにもならん。ただ、この俺は今、この機械と共にある事と、何処かの誰かが困るだろうから名乗っておいてやるが、俺の名は――』
――俺の名は?。
『この俺はなぁ……フフフフ。ん? あれ? 忘れた』
………………。
『な、何てこった! こいつに乗り移ったせいで俺の記憶が一部、しかも肝心な名前を忘れてしまったじゃないかあっ!』
その慌てた台詞はそのまま文字となって画面に表示される。
『うーむ。困ったぞ。俺は自分の名前が分からないとあっちの世界に戻れない、と、いう以前に此処から出れない』
名前が分からなくなって困っているのはお前だけでは無い。
『うるせえなあ。とりあえずは何とかするさ。おい流星、この機械は何て言うんだ?』
「それかい? それはタブレットっていう機械だよ」
『タブレットか……成程な。良し、それじゃあ俺の事は「タブ」と呼んでくれ。どうだ? これなら短くて分かり易いだろう? フフフ、我ながら凄いネーミングセンスだ』
ネーミングセンス等はどうでも良い。ただこれより後、「可愛い生き物」と打たなくて済むなら、これは非常に救われる。
『って、事でこれからよろしくな流星』
「え? ああ。ええっと此方こそよろしくタブ」
……流星の返事はそのまま何処かの世界の語尾にも聞こえるが、それは気にしてはいけない。
『さてと……やっと会えたな、流星。ってこんな姿だけど、まあ、気にせずに行こうぜ』
「分かったよ、タブ。ところで其処からはもう出れないのか?」
『案ずるな流星。出れない訳じゃねえ。お前が本来の自分に戻って、力を取り戻してくれりゃあいいだけの事さ』
「力? 力って一体何の力を?」
『それはなあ、俺が力を発動する為に必要な資源みたいな物だ。実際過去に俺はその力をお前から貰って救われているんだぜ?』
「なんだか凄い話に聞えてきた」
『いや、冗談抜きで凄い。まぁ、その力が俺の世界では一国を滅ぼすに値する力だ等と言っても、今のお前にはピンと来ないだろうがな』
「そんなに凄いのか?」
『――その話はとりあえず置いておけ。そんな事より、今の状況を何とかしないとな。流星、お前は今の状況を把握しているか? 俗にいう「ぼっち」状態で、しかもおまけに「キモイ」が背中にべったり貼られてるんだぜ?』
流星はその意味も分からず、無表情のままだ。
『――だろうな。そんな状態だからあのクソ女にも良い様にやられる訳だ。 だがな、それも今夜限りだ。俺との接触がどんな形であれ成功したんだ。こうなりゃこっちのターンだ。流星、これから俺がお前を元に戻してやる』
文字が消えて、暫く何も表示されない状態が続く。タブはどうやら何かを思考している様だ。
『オーケー。まずは、身近な奴から攻略していこう。お前の妹、美月からだ』
「……美月から? 攻略って?」
『いちいち質問の多い奴だな。まぁ、「向こう」に行けば分かる。まずは流星、この画面をそのままずっとみておけ』
タブの言われた通りに流星が画面を眺めていると、突如、眩い光を放ちだし、その画面の中央で大きな渦がゆっくりと回り始めた。渦が更に加速すると、とてつもない睡魔が流星を襲いだす。
「う。何だろう、急に眠気が……眠……」
瞼がゆっくりと閉じ始めた流星は、そのまま深い眠りへと誘われていった。