第一話 見えない「可愛い生き物」
「流星! 何時まで寝てるの! 早く降りて朝ご飯を食べなさい!」
流星の母親――美佐子の大きな声で、天野川流星の瞼がゆっくりと開く。
「……朝か」
規則正しく布団から上半身を起こした流星は、無言のまま制服に着替え始める。
全身が確認出来る鏡の前で、無表情のまま自分の姿を黙って見つめる流星。目の前には十七の年齢からしてみれば、少々華奢な体が自身の眼に映し返された。やがて何事もなかった様に踵を返して部屋を出る。
階段を降りてリビングに向かうと、そこで早々と支度を済ませた妹、美月とすれ違い様になった。美月は一瞬、戸惑いの表情を見せた後、優しく微笑み掛けて来た。
「馬鹿兄貴、今起きたの? どうせ昨晩も布団の中でネットサーフィンとかして、如何わしいサイトとか見てたんでしょ?」
「おはよう。美月」
美月の嫌味な言葉にピクリとも反応せず、流星は朝の挨拶で返す。その態度が感に触ったのか、美月は怪訝そうにして言い放つ。
「ああ、もう本当に苛つく! 男なら少しは言い返してよ! そんな風だから学校で目をつけられて、良い様にいじめられるんだよ!」
「僕が? そうなのか?」
「――!? も、もういいっ! こんな機械人間と会話しているとこっちの方が変になるよ!」
「美月! お兄ちゃんに向かって、何ですか、その物言いは!」
二人のやりとりを見かねて母親が間に割って入った。
「私、先に行く! それと、お兄ちゃんが美月の近くに居たら皆に変な目で見られちゃうから、学校では絶対い近づかないでね!」
「美月! いい加減に――!」
美月は逃げ去る様にして玄関に行くと、怒りに任せて外に飛び出して行った。その様を呆然と見送りながら、流星は、ぼさぼさの頭を整えテーブルの椅子に腰掛けた。その向かい側で母親も腰掛け、諦めるかの様に溜息を吐く。
「本当、この子ったらどうしてこんな風になってしまったのかしら? 昔は元気で活発な男の子だったのに……」
『まぁ……流星がそんな風になったのは俺のせいだがな』
その声は誰にも届いてはいない。無言で口の中に食べ物を入れる流星の肩に乗った変な生き物が――。
『変な生き物?』
…………。『可愛い生き物』が、流星を哀れむ目を向けて呟いた。
『うむ』
…………。流星は朝食を済ませると、玄関に赴き、片足を立てて靴先の音を鳴らし、頭上に黒々とした怪しい雨雲が一面に広がる様を黙って見つめる。
「傘がいるな」
傘を手に取り、数分歩けば到着するバス停に向かう。その途中、何の関心も無い流星が唯一聞いている音楽をスマホで再生してイヤホンを耳に差す。その瞬間流星が子供の頃に流行ったヒーロー物の主題歌が流れ始めた。この曲を流星は何となくだが、覚えていて、ただ何となく聞いていた。
「――もし、君が助けを求めるなら、何時でも何処でも、俺は現れる――」
時折、歌詞を無表情で口ずさむ。そんな流星を見ながら可愛い生き物は残念そうに眼を細めた。
『そうだよ流星。お前は本当は強くて優しい奴だったんだ。俺は約束通り戻って来て、お前の傍にいるというのに、見えないなんて、どうしてやる事も俺は出来ないじゃないか!』
悔しそうな声は、座席に座って歌詞を口ずさみ続ける流星に届く筈も無かった。
学校に到着した流星が教室の扉を開けると、先程まで楽しそうに会話をしていたクラスの生徒が、まるで異物が現れたかの様な目を向け、水を打ったかの様に辺りが一瞬だが、静まり返った。
「おはよう」
無表情で挨拶する流星に返事を返すものは誰一人居ない――。
「おはよう、天野川」
――否、遠くの方から一人の女生徒がぶっきらぼうに返事を返した様だ。
何事も無かった様に自分の席へと流星が向ったその時、机の上に芳香剤が置かれている事に気付く。
それを無言で手に取って見つめる流星から少し距離を開けた所で、加奈とその取り巻き達が「くすくす」と声を漏らしていた。
「ここは人間様が通う場所よ? 駄目じゃない、此処に低級なアンドロイドがのこのこやって来るなんて。貴方のあちこちから機械油が漏れて、教室の空気が汚れてしまうわ」
「おはよう吉崎さん、それと僕は低級なアンドロイドなんかじゃないよ、只の人間だよ」
悪態を突くも、全く怒りを見せない流星の反応に、吉崎加奈の口元が歪んだ。
「貴方のその気持ち受け答えは誰がどう見ても、普通の人間には見えないんだけど!?」
流星から芳香剤を奪い取った加奈は、数回流星の目の前に向かって吹きかけた。
「けへっ、こほっ!」
「あら? 低級なアンドロイドでも一丁前に咳き込むのね? 一つ発見したわ」
咳き込む流星を可愛い生き物が歯軋りをして加奈を睨みつける。
『くそ、お前なんか、俺の力さえ戻りさえすれば、滅多滅多のぎっちょんぎっちょんにしてやれるのに!』
「おい! HR始めるぞ! お前等、何時までもぼさっと突っ立てないで、さっさと自分の席に戻れ!」
出席簿で卓上を叩き付けるながら怒鳴り声を上げる担任を見た加奈は怪訝そうに一瞥を流星にくれた後、自分の席へと戻っていった。その光景を呆れ顔で見ながら担任が頭を掻いて溜息を吐く。これが流星の学校における日常だった。
昼休憩。何時もなら中庭のベンチで一人昼食を取る流星なのだが、この時は、空からバケツをひっくり返した様な大雨になっていた為、自分の席で持参の弁当を広げる事にする。流星がおかずを取って口に運ぼうしたその時だった。
「え? アンドロイドって電気が主食じゃないの?」
嘲笑うかの様に、加奈が言い放つも、流星は相変わらず不思議そうな顔を見せながら口を開く。
「あの、僕は吉崎さんが何を言ってるのか、分からないよ」
「――っ!」
無表情で答える流星に、加奈の眉が一気に吊り上がった。
「な、何なの!?」
両手で机を力強く押され、その衝撃で流星の弁当が床に散乱し、弁当の蓋が空しく音を立てながら回転した。
「……僕の弁当」
しゃがみこんで、食べれそうなおかずを救出しようとする流星。だが、差し伸ばした手よりも先に加奈の足がそのおかずを踏みつしてしまった。
手を差し出したまま無言でいる流星に「どうだ?」という表情をしながら、加奈ほくそ笑んだ。
「吉崎さん、食べ物を粗末にしては駄目だよ。あと、そんな事をしたら上履きが汚れるよ?」
「――こっ、この! 何処までも人を馬鹿にして! 貴方、何とも思わないの!?」
「え? 僕は別に馬鹿にしてなんかないよ。それより吉崎さん、何でそんなに変な顔をしてるんだい?」
「な、何ですって!? 言わせておけば――!」
「いい加減にしなよ」
掴みかかろうとした加奈を、少し低い声の女生徒が制止した。加奈はその声を聴いて一瞬動きが止めた。
「……紗月桃子」
少し「まずい」という顔をみせながら、桃子から距離を取る加奈。この態度には訳がある。桃子は二年にしながら空手部の主力メンバーの中に入っている人物でもある。要するに怒らせると怖い相手。それを本能で加奈は感じ取っていた。
「ふん、そんな空気の様な奴を庇って何の得があるの? 馬っ鹿みたい!」
「そう、そんな空気呼ばわりする奴を毎度毎度、絡んでいるのは何処のお嬢様だっけ?」
「――っ!」
加奈は怒りを全面に出しながら、教室を出て、その後を追う様に取り巻き達が慌ててその付いて行った。桃子は散乱したおかずをしゃがんで、黙って拾い集め出す。その様子を不思議そうに流星は見ていた。
「あーあ、加奈の奴、酷い事をするね。 これはもう駄目、食物じゃなくなってるよ」
桃子は独り言の様に呟くと、流星を見て深い溜息を吐いた。
「天野川、お前さあ、少しは言い返すなり、怒るなりしたら? そんな風だから、加奈に舐められるんだよ」
「怒る? それはどういう事だい?」
「――はっ?」
流星の返事を聞いて、桃子はきょとんとした後、思わず吹き出す。
「何それ。 天野川って本当不思議な奴。全く掴めないんだけど?」
「僕が不思議な……奴?」
「……いや、えーと。そんな風に真顔で凝視されてもなあ。そ、そうだ、お前にこれやる! 食いなよ!」
桃子は体中を弄って、何処からか探し当てたやきそばパンを流星に向かって放り投げ、流星はもたどたどしい手付きでそれを受け取った。
「焼きそばパン……どうして僕に?」
「え?! もーっ! 本当、お前面倒くさい奴だな! そういう事をいちいち聞くんじゃない!」
「? 良く分からないけど、折角だから貰うよ。有難う」
無表情でお礼を言う流星を見た桃子は、苦笑した後、踵を返すと、掌をひらひらさせながら、教室を出て行った。
その様を見ながら可愛い生き物は、複雑な心境に苛まれる。
『何て事こった。まさか、こんな事になっているとは。やっと俺がこの世界に戻って来てみれば、流星の奴め、俺が見えなくなっているとは……これじゃあ全く話にならねえ』
可愛い生き物は流星を見ながら深い溜め息を吐いた。
一日も終わり、流星が下駄箱に向かう途中、美月の姿を見かけ、向こうも流星に気付く。が、すぐに気まずそうに視線を反らした。
「何? 何? 美月、何かあった?」
「ううん、何でもない!」
足早に流星から距離を取り始める。美月の友達が覗き込む様に流星の姿を捉えると、
「あれって、クラスで噂になっている先輩じゃない? 能面付けた様に始終無表情な人。存在感が無いから名前とか知らないけどさ、一体誰――」
「い、いいから、早く部活に行こ! 部活!」
興味を持った友達の手を引っ張る様にして美月はその場を立ち去る。そんな美月の後ろ姿を流星は黙って見つめているだけだった。
やがて下駄箱に向かった流星は、下校しようとして傘立ての所に行ってみるが、何処にも見当たらない。
「傘が無い」
その台詞の後に流星の背後から女生徒達の失笑する声が聞こえて来る。その集団の中に加奈の姿もあった。
「おやおや? 何か問題でも? 天野川君」
愉快そうに声を上げる加奈。本来なら「こん畜生! てめえ、やりやがったな! 俺の傘をさっさと返しやがれ!」と、怒りをぶちまける所だが流星にはそんな感情はない。
ただ、自分が持ってきた傘が「無くなった」その事実だけだった。そのまま何事も無く外に出ようとする流星を見て、加奈が慌てて声を掛けた。
「ちょ、ちっと、待ちなさい貴方、外は大雨なのよ? まさか、そのまま帰るつもり?」
「――うん。僕の傘が見当たらないから」
「なっ――!?」
そう言い残して、そのまま外に出て行く。見る見る内にずぶ濡れになっていく流星を唖然と見ていた加奈であったが、我に返ると流石に悪いと思ったのか、急いで流星の傘を隠した場所へと取りに戻る。
「ほら! 貴方の傘よ――って、居ないし!」
息せき切って下駄箱に戻って来た時には、流星の姿はもう見えなかった。
「う……嘘でしょ? この大雨の中、そのまま帰ったと言うの!?」
加奈は流星の傘をだきしめたまま、その場に座り込んでしまった。何時しか地面を激しく叩き付ける雨に加え、遠くの方から雷が轟いて、稲光が光り始めていた。
その雨の中をずぶ濡れになりながら帰宅している流星の肩で、可愛い生き物はその方向を見ながら、期待の声を上げた。
『あの力を利用すれば、もしかしたら流星が俺に気付くかもしれない! よーし、 ぶっ、ぶえっくしょーい!』
大きなくしゃみをするが、目の前の流星には、当然聞こえていなかった。