龍の顎
その夜はいつもに増して喧騒が街を包んでいた。人を誘う声、人と騒ぐ声、人に罵る声。全てが汚く混じりに混ざって騒音として、こんな遠くの町外れにまで届いていた。
そこは首都とは少しはなれた都市の路地裏。無駄に使われる電灯の光は行く人来る人を見境なく照らし、それに誘われ虫達が居心地良さそうに居着いていたと思ったら、足を内に曲げてポトリと落ちる。自らを越えた熱は自らを死に追いやることを、ついぞ虫には分からなかったのだろう。
哀れな死骸が風に吹かれ無機質に揺れると、ブチりと音をたててそれが潰れる。足裏にその感触を受けた漆黒の衣服を纏った女は顔をしかめ、気持ち悪いと喋る代わりに嗚咽のような声を出した。
「ついてない……。いや、今日の私はついていたし、その分の嫌なことが回ってきただけかしら……」
誰に話すでもなく、女はそう漏らす。しかし愚痴る時間も惜しい、女はすぐに音をたてずに跳躍した。
ついてることとついていないことは均等に訪れる、とは女の考えだ。例えば半額の弁当をたまたま買えたと思えば、その帰り道に虫が口に飛び込んできたり、定時で仕事を上がれたと思えば帰り際に地味な擦り傷を負う。良いことと悪いことは平等に起こり、平均的に良くなるようにできている。そう、今日も女じゃついている事が起こったばかりだ。
かつて、平行世界への扉を開くという大忍法があった。そのあまりの強大さ故に禁術として封印されてしまったが、最近野に出回ってしまったらしい。そしてそれがどこにあるかの情報を、たまたま女は掴んだのだ。
強力な大忍法、それを手にすれば自分はどうなるだろうか。言うまでもない、大出世間違いなしだ。
使いこなせるかの問題が出てくるが、女はシノビ世界では優秀と呼ばれる部類の存在。そこらの抜け忍が使えたのだ、自分に使えないわけがない。
それはどうしようもなくついていることだった。忍法の在処を知る男はあの仇敵である鞍馬神流とも繋がっているらしく、忍法を手にいれると同時に裏切り者まで始末できてしまうのだ。出世街道まっしぐら、幹部にまで上がれるかもしれない。輝かしい未来を信じて疑わない女は月夜の下、笑みを抑えきることができなかった。
裏切り者は、うす汚れた陰忍の血統が経営するバーに浸っているらしい。女につかったことで己のしたことが露見され処罰されるとは、なんとも卑怯者らしい最後である。
さてバーのあるビルにたどり着いた女は、自らを機械化された腕に格納しておいたあるものを取り出す。
それは女が優秀と呼ばれる切っ掛けにもなった兵器、小型爆弾だった。手のひらサイズだからといって侮るなかれ、それに詰まっている特殊な爆薬は女が手ずから作り上げた完全にオリジナルの物。その火力はプラスチック爆弾など秤にかけることすら烏滸がましいほどの威力、ビル一つであれば3ミリほどあれば十分に爆発四散させることが可能である。今回はシノビを確実に仕留めるため、その十倍を積んである。被害がまぁまぁな物になるだろうが、問題なく出世できるだろう。後は設置した後に突入、これを使って脅し、情報を手にいれておさらば。最後にボタンをポチっとするだけである。
さぁ作戦を始めようと小型爆弾を宙に放り投げ、生身の手でそれをキャッチしようと手のひらを広げた。が、それが受け止められることはなく、あえなくコンクリートの上にポトリと落ちた。
おかしいなぁと首をかしげる。完全に届く距離であったはずなのに、どうしてキャッチできなかったのか。自分の腕を注視して、気づいた。
自らの肘から先の腕が、消失していることに。
「あ、あぁ――!」
腕の切断面は酷いものだった。あらゆる筋が断ち切られたような綺麗なものではなく、ブチりと強引に力業のみで引きちぎられたかのように繊維の一本一本がバラバラになっていた。
今更になって血は吹き出て、脳には凄まじい痛みが送られ、それらを熱へ変換し女に与えていく。
止血をしたかった、声を上げたかった、だがその前に女にはやることがあった。状況の確認、つまりは戦前離脱だ。
人並み外れた身体能力を活かし虚空へと舞う女、一瞬をもって100メートル強ほどの距離をとる。少しは冷静になる時間が稼げるか、そう思った矢先であった。視界がますます暗くなる、まるで影にでも入ったかのようなその暗さに疑問を抱き、反射的に頭上を見上げると"それ"はあった。
巨大な蛇の顎。
「―――――ッ!」
声なき悲鳴を上げ、全力で体をひねり回避。閉じられた蛇の牙に千切られた肩を持っていかれたが、女にとってそれはさして問題ではなかった。
機械化した腕が変形し、グレネードランチャーの姿となった所で直ぐ様に発砲。筒上の蓋を取ったような気の抜ける音が響くと、次に来るのは衝撃、爆風、そして細切れの肉と熱風。
近くの屋上に着地し確認すれば、蛇の上顎は爆散、肉の焦げた香ばしい臭いと鉄臭い香りが辺りを漂っていた。
「油臭い矮小生物と思っていたが、中々にやるではないか」
その声は背後から響いた。振り向きと同時にガトリングへと変形した腕が火を噴く。秒間72発の嵐を向けられれば、どんな生物であろうとたちまちにミンチへと変わる。弾を撃ち終え、いざ硝煙を払おうとしていた彼女はそう思い込んでいた。払った先で変わらず仁王立ちをする、その男を見るまでは。
「こちらの言葉も待てんのか。人間臭い割には礼儀がなっていないな矮小生物」
3000以上の弾が男の眼前で完全に静止した状態で浮いていた。女は優秀であったが、少なくとも念動力を使うような忍者など聞いたことがなかった。
「――返すぞ」
その言葉と共に、女が放った嵐がそっくりそのまま返される。
女はついていた。が、ついていない事は平等に与えられる。女にとって、そのついていることは己の生を払わなければ釣り合わぬことだったのだ。
しかしそれはひき肉なった今でしか、女には理解しえぬことであった。
◆◆◆
「あれ、神龍。どこに行ってたの?」
「あぁ、何気にすることはない。少々矮小生物と"たま"の投げ合いをしていただけでな」