no.21
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疲れているわりには、眠れぬ夜を過ごして、朝はやってきた。
静かだった。
鳥の鳴き声もしないし、まだ誰も起きていないのか、物音もしない。
耳が痛くなりそうだった。
ぷるるるる……。
そんな静寂に、突然の電話の音は、まるでいきなり爆撃をくらったくらいの衝撃だった。
こんな時だからなのか。
電話に出たのはおじさんだった。
ぼそぼそと話し声が聞こえる。
すぐに電話を切って、おじさんが座敷に入って来た。
「琢磨、起きてっか?」
「うん」
「病院行くぞ。支度しろ」
おじさんは、短くそう言って、従弟たちが眠る部屋に行ってしまった。
僕は淡々と着替えを済ませた。
来るべき時が来たことは、わかっていた。
皆、すぐに支度を整えて、大ばあちゃんと従弟たちは、おばさんの車に、僕はおじさんの車に乗った。
誰も口を開かなかった。
車が走り出して、いつもかけっぱなしになっているカーラジオから穏やかで静かに流れるクラシック音楽が聴こえてきた。
それがかえって僕の鼓動を早くさせた。
場に似合い過ぎる音楽は嫌いだ。
病院に着いてからも皆、無言で誰も何も話さない。
病室に入っていくと横浜のおばさんがハンカチで顔を隠していた。
母さんはそんなおばさんの肩を抱くようにしている。
涙こそ流していなかったけれど、目が真っ赤になっているのには気付いた。
「明け方、気付いたらもう……。眠るようにして逝ってしまったわ」
母さんが静かに言った。
眠るようにして逝くなんて、大じいちゃんらしい。
ベッドに横たわった大じいちゃんの顔は、少し黒っぽく感じたけれど、穏やかなものだった。
少し口を開いて、なんだか本当に眠っているようだ。
そんな大じいちゃんを連れて帰ったのは、お昼頃だった。
それからは僕と従弟たちは、ほとんど部外者になっていて、近所の大人たちが集まり、事は流れていった。
奥座敷に敷かれた布団に大じいちゃんは横たわっていた。
おじさんが布団の横に座っていた。
「琢磨、大じーちゃんの側にいてくれっか。俺はちょっと牛に餌やってくっから。こんな時でも牛は餌、食うからな」
「うん」
立ち上がったおじさんは、思い出したように言った。
「琢磨、桜の木がどうのこうのって大じいちゃんが昨夜、うわ言のように言ってたんだと。なんのことかわかるか?」
「えっ?」
「琢磨と桜の木がおんなじならいいんだとかって、言ったそうだ。聞き返したんだけど、わからなかったみたいなんだ」
「う、うん」
桜の木っていうのは当然、大じいちゃんが山から持ってきて植えたあの桜の木のことだ。
僕は頷いた。
「そっか。まぁ、お前がわかってるんなら、それでいいべな」
おじさんは、深く聞かずに座敷を出て言った。
大じいちゃんは、死ぬ間際まで桜の木のことを気にしていたんだな。
それほどあの木が大じいちゃんにとって、大切なものだったんだろう。
でもその桜の木と僕が同じならいいって、どういうことなんだろう。
僕は、大じいちゃんが桜の木について話した時のことを思い出した。
大じいちゃんが子供の頃に植えた桜。
今では大木になって立派に花を咲かせるようになった。
戦争当時、飛行場になったにも関わらず、切られることなく成長した。
あの木を前にして大じいちゃんは、生きた証だと言った。
大じいちゃんが生きた証……。
━━もう花を見ることもないってことだよな。死んだんだ━━
僕の横にいつの間にか、ボクが立っていた。
「天国から見下ろせるよ」
━━馬鹿かお前。その歳で天国なんて言うなよ。天国なんてものはないんだ。死んだら消えてなくなるだけだよ。なーんにもなくなるんだ━━
「なくならないよ。大じいちゃんは僕に色々話したんだ。それを僕が覚えているんだから、大じいちゃんの全てが消えるわけじゃない」
━━くだらない話だろ。桜の木がなんだっていうんだよ。そんなもの、どこにだってあるし、あれ一本だけじゃないんだ━━
「でも大じいちゃんが植えた桜の木は、あれ一本だけだよ。他のとは違う」
━━だからなんだって言うんだよ。桜は桜じゃないか。ただの木さ。そんな話がなんになるんだよ━━
「僕が桜の木のようになるんだ」
自分で答えておきながら、この時はまだ明確な答えが出ていなかった。
大じいちゃんの「琢磨が桜の木とおんなじだったら……」の言葉から出てきた言葉でしかなかった。
━━へっ、綺麗な花を咲かせましょって? ばっかじゃねえの。臨終間際の戯言じゃねえか━━
「違う。絶対に違う! 最後だから、だから一番大切なことをを言ったんだ」
━━お前が桜の木になれって? 笑わせるなよ。なんで人間が桜の木になれるんだ━━
「なれるよ!」
きっぱりと言っていた。
━━……わかったな、お前。ここに来て余計にボケるかと思ったんだけどな。今じゃ、自分の言いたいこと言ってるもんな。どうでもよかったはずのお前が━━
自分の言いたいことを言っている。
そう言われれてみればそうだ。
大じいちゃんの側にいたいと言った時から、僕は自分でどうしたいのか少しずつ分かってきていたのかもしれない。
したいことを、してもらいたいことを、口にすることで、自分の望んだ方向に近づいていっていたんだ。
━━お陰で俺はこんな有様だ━━
えっ?
僕は、隣に立っている彼の姿を確認するように見つめた。
彼の体は、もう霧のように薄れていて輪郭がなかった。
見上げていくと彼の顔に視線が釘付けになった。
彼の特徴だったニヤリとした微笑みが消えて、ほんの少し吊り上がった唇も固く引き結ばれていた。
表情がまるで違う。
━━言っただろ。俺はお前が抑えてきた思いから生まれたって。何度も言わせるなよ。お前が自分の中で感じることを意識し始めたことで俺はお前に吸収されるようになった。いや、吸収じゃない。お前の体の中に戻り始めたんだ━━
「戻る?」
━━そうさ。お前から生まれたんだからな━━
彼が何度も言っていたことを僕は、初めて理解できた。
今まで理解しようとも思わなかったことだ。
僕がボクを生み出した。
自分の中で知らないうちに押し殺してきた感情が、彼そのものだったんだ。
僕は、今までそれを認めたくなかったんだ。
━━そこまでわかっちまったらお終いだな。俺の完全な負けってことだ━━
「……」
ボクの顔から視線が外せない。
目が細められ、固く引き結ばれた唇は柔らかく丸みを帯びた。
僕を見下ろすその瞳が温かく感じられるまでになった。
━━さよならだ。俺はもう消える。お前の中に戻るよ。俺がいたことを忘れるな。二度と生み出すな。大じいちゃんがくれた言葉を考えろ。答えが出るまで……━━
彼の姿は、霧に包まれるように消えていった。
僕の前にもうボクは現れないのだろうか。




