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桜の木の下で  作者: 湖森姫綺
17/22

no.17

 ******



 数日が過ぎ、横浜のおばさんは、一度家に帰ると言って戻っていった。

 大じいちゃんの様態が急変したのは、それからすぐのことだった。

 僕はこの日、誰よりも早く目が覚めていた。

 静まり返った家の中にいるのが堪らなくて、さっさと着替えをすますと外に出た。

 チビが僕に気付いて小屋からのっそり出てくると、体を震わせて大あくびをしてから、僕に尻尾を振ってみせた。

 けれど僕が何も持っていないことに気付くと、また小屋に入ってしまった。

 僕は麦わら帽子を被って、畑に行った。

 ずっと気になっていたのだ。

 中途半端になっていた畑の草むしり。

 僕の中のボクに焚き付けられて、山に入ってしまったあの日以来、大じいちゃんは畑仕事をしていない。

 だから僕もあの時のまま、草むしりをしていなかったのだった。

 畑に行ってみると取り残した草の他にも、新しくまた草が生えている。

 畑の土は、栄養があるからすぐ生えると、大じいちゃんがぼやいていたのを思い出した。

 僕はまず取り残したほうの草から、むしり始めた。

 草にもそれぞれ匂いがあって微妙に違うものだった。

 根っこに着いた土を丁寧に取りながら、竹で編んだ籠に入れていく。

 僕は、何も考えずに草むしりを続けた。

「琢磨、こんなとこにいたんか。朝飯だぞ」

 草むしりなんていいとおじさんは言ったけれど、朝食の後も草むしりを続けた。

 畑のすべてが綺麗になったのは、昼食を挟んで二時頃だった。


 おじさんが病院から電話があったから行くと言いに来た。

「なんだか朝から具合が悪かったんだと。意識もハッキリしないから、すぐ来いって言うんだ」

「僕も行っていい?」

「ああ、構わねえよ」

 僕もおじさんと一緒病院に行った。

 おばさんが心配そうに覗いている大じいちゃんは、また痩せたように思えた。 

 鼻に管を入れている。

 前にはこんなものしていなかったのに。

「具合はどうだ?」

「なんとも言えないって」

「そっか」

 僕は心臓の音が大きくなるのを感じた。

 一人で山に入って感じたあの感覚と同じものを体が感じている。

 最初は静かに、だけど一気に流れ落ちいてくような血の流れ。

 頭から爪先まで瞬間に落ちていく。

「みんなに一応、電話してくっから」

「うん。そうしたほうがいいってお医者さんも言ってたわ」

 おじさんが病室を出ていく。

 静かになった病室に、大じいちゃんの荒い息遣いが響いた。

「ごめんね、琢磨。怖いでしょ。大じいちゃん、こんなになって」

 おばさんが、大じいちゃんの布団を整えながら言った。


 なぜだろう。

 そのおばさんの言葉に引かれるように、涙が込み上げてきた。

 怖いなんて少しも思っていないのに。

 込み上げてきた涙は、あっという間に流れてしまった。

 失態を犯した子供みたいに僕は慌てて、それを隠そうと下を向いて袖で涙を拭く。

 けれど振り返ったおばさんには、それが見えてしまっていたらしい。

「怖いよね。私も怖いんだよ。今まで元気でいた大じーちゃんが急にこんなになっちゃって、話もしてくれないんだかんね。おばさんの歳になったって、人が死ぬと思ったら怖いんだよ。あんたが怖いと思ったっておかしくないんだ」

 おばさんはそう言いながら、僕の頭を両腕で包んでくれた。

 自分の中に生まれた感覚が自分でも理解できない。

 おばさんの腕の温かさで、ますます体の中の流れは速くなる。

 体が震え出した。

 力を入れると震えは酷くなる。

 自分の体がまるで別の何かに支配されたようだった。

 ボクなのか。

 でも姿を現さない。

 いつもならこんな僕を見て嘲笑うのに。

 もしかするともう僕の体を乗っ取り始めているのかもしれない。

 思考がまとまらなかった。

 ボクの存在なんて今考えることじゃないのに。

 なぜか固執するように、彼のことから離れられなかった。

「うちに帰ってたほうがいいんじゃないの。大丈夫だから。ここは私らに任せて」

 おばさんはそう言ったけれど、僕は大じいちゃんの傍にいたいと答えた。

「横浜はすぐに来るって。琢磨んとこはいないんだ。仕事だもんな。また掛けっから」

 戻ってきたおじさんが言った。

 今の時間は二人とも仕事だ。

 家に掛けても誰もいない。

 

 僕は黙って病室を出た。

 談話室の隅にある電話を前にして立ちつ尽くす。

 スマホは、田舎に来てから一度も使っていなかった。

 バッグの中に入れっぱなしだ。

 母さんのスマホの電話番号を必死で思い出していた。

 普段から掛けたこともないから、なかなか思い出せなかったけれど、何度も口の中で数字を繰り返しているうちに思い出した。 

 急いで番号をプッシュする。

 しばらくして「はい?」と母の声がした。

 僕だと言うことに気付いていない。

「もしもし?」

「僕だよ」

「琢磨……」

 僕からだったのがよほど意外だったらしく、言葉が繋がらないようだった。

「大じいちゃんが具合が悪いんだ。意識がないって。すぐに来てよ」

「すぐにって。ねえ、意識がないって、どういうこと?」

「よくわからない。でもおじさんはこの間まで来てた、横浜のおばさんのところにも電話してた。うちにも電話したけどいなかったって言うから、こっちに掛けたんだ。だから来た方がいいよ」

「でもしご……」

 仕事で行けないとでも言いたかったのだろうか。

 さすがにはっきりとは言えずに、途中で言葉を切ってしまったみたいだった。

 なぜこんな時にまで仕事を優先させなくちゃならないのだろう。 

 大じいちゃんは、母さんを育ててくれた人じゃないか。

 それなのにどうして。

「琢磨、母さんは今すぐには行けないのよ。もう少し待って」

「僕が待ってどうするんだよ。待ってるのは、大じいちゃんなんだ。僕じゃないよ、僕じゃ……」

 気持ちが昂っている。

 こんな風に自分の中に生まれた訳の分からない感情を、言葉にすることは初めてだし、うまく言葉が見つからないのも事実だ。

「琢磨……」

「大じいちゃんが危ないかもしれないんだよ。どうしてすぐ来られないんだよ。僕じゃ、何もできないんだ。なんの役にも立たないんだよ」

「ねえ、琢磨、落ち着いて。もし本当に危ないのなら、おじさんがすぐに電話してくれるわ。大丈夫よ」

 大じいちゃんが危ないということを信じたくないのか、それとも本当に大丈夫だと思っているのか。

 僕には、母さんの態度が信じられなかった。


 おじさんもおばさんも疲れ切っている。

 そんな中で僕は、何か直感的なものを朝から感じていたような気がする。

 だから今日は草むしりをしたかった。

 今日やらなきゃならないって、何かが迫ってくるような気がしたんだ。

「母さん、頼むよ。来てよ」

「琢磨、わからないことを言わないで」

「わからないのはそっちじゃないか。いい加減にしてくれよ。自分のことばかり。僕はここで一人……一人でずっと大じいちゃんを……。どうしていいのかわからないんだ……怖いんだ……」 

 思わず口をついて出た言葉に自分でもびっくりした。

 怖いなんて思っていないと、さっきまで考えていたはずなのに。

「……琢磨?」

 涙が込み上げてきて、僕は受話器を叩きつけるようにして置いた。

 どうしてなのかわからない。

 急に怖いという感情が今の自分が感じている感覚なんだと理解してしまった。

 おばさんがそう言ったからなのかはわからないけれど、でもこれが怖いという感情なのだと。

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