no.10
「琢磨、どした?」
いきなり立ち上がった僕に、大じいちゃんが言った。
「なんでもない」
なんでもない、はず、だけど……。
僕の意識の存在が無意味だなんて……。
僕は、フラフラ歩き出した。
「どこさ、行くんだ?」
「ちょっと……」
どこに行くっていうんじゃなくて、ただ足が勝手に動いてるんだよ。
僕の頭の中で、ボクの言った言葉が繰り返される。
徐々に大きくなりながら。
お前の意識を殺してやる。
無意味だからな。
お前の意識の存在は……。
どうして僕の意識の存在が、無意味なんだよ。
それって僕自身の存在は、無意味ってことと同じなんじゃないか。
ボクの言葉が、これほど僕に打撃を与えたのは、初めてだった。
それも僕の中で、ボクが形になりつつあるからなのか。
だから影響力が増したのか。
ボクから与えられる打撃が、こんなにも大きいものならば、僕の体を奪われる時は、どんな感じがするんだろう。
僕の意識がすべて消されてしまうって、どんななんだろう。
身震いした。
悪寒が走って両腕に鳥肌が立つのが分かった。
このままいけば僕は、ボクに乗っ取られて、僕の意識は消滅する。
じゃ、なぜ僕は生まれたんだ。
なぜ今頃になってボクは、生まれたんだ。
最初からこの体の中に、ボクがいればよかったんじゃないのか。
そうすれば僕は、こんなことで打撃を受けたりしないし、こんな訳の分からなことで、悩まされずにすんだんじゃないのか。
僕の中で何かがサラサラと流れているのを感じた。
血の流れなんだろうか。
体の中で流れているものなんて血しか思い浮かばない。
耳の奥で、喉元で、胸で、それらはサラサラと流れている。
ドクドクと脈打つより弱く、静かに。
気が付くと、僕の横に軽トラックが停まっていた。
「なにしてんだ、琢磨? そろそろ雨が来っから、家さ、帰ったほうがいいぞ」
東の仁さんだった。
髭の剃り残しが妙に目についた。
僕は、何も言わずまた歩き出した。
後ろで軽トラックの走り出した音がした。
雨なんか降る訳ない。
見上げた空は、真っ青なんだから。
僕は、アスファルトの道路を見つめながら歩いた。
行く宛があるわけでもないし、何をやっているんだろうと思いながらも、ただ足が勝手に進んでいく。
まるで学校を途中で抜けだしてきて、家に帰る、あの感覚と同じだった。
ただ違うのは、ボクが言った言葉が僕の頭にこびりついていて、それをどうしようもなく嫌だと思う気持ちがあるということだった。
いつの間にか辺りにあった田んぼは、姿を消し、林になっていた。
道は登り坂になっていて狭まり、前も後ろも道は曲がりくねっていて、ほんの少し先までしか見えない。
背の高い木々の間に、狭い道よりもっと狭い空が頭上にあるだけ。
林の奥で鳥が鳴く声がする。
僕は、アスファルトの道路から土へと足を降ろした。
陽も当たらない細い、林道なのか、獣道なのか、そんなことはどうでもいいけれど、なんとなく鳥の鳴き声が聞こえた方へと足が向いていたのだった。
道に見えたそれは、あっという間に消え失せた。
木々の間から差し込む光も僅かで、地面は湿気を帯びて、草もシダのような植物になっていた。
辺りを見回した。
どこを見ても目に映る景色は同じ。
前も後ろも右も左も同じ。
━━今のお前に、道しるべなんていらないんだよ━━
薄笑いを浮かべたボクが目の前に現れた。
ぼやけているものの、全身を見て取ることができる。
どうして……。
━━言っただろ。お前が変わらなきゃ、俺は成長し続けると━━
顔の次は、体なのか。
━━もうすぐこの体も、もっとはっきりしてくる。そしてお前の意識を持っているそっちの体が消えていくんだ━━
そんなバカな!
━━信じられないって言うのか。それじゃ、お前の前にあるのはなんだよ。わずかに意識の残ったその体と、同じものじゃないのか━━
確かに僕と同じ背格好だった。
でも決定的に違うものがある。
顔だ。
いや、顔というより表情だ。
━━当り前さ。体の中に存在する意識がまるで逆なんだからな━━
持っている意識だけで、こんなに表情が違うものなんだろうか。
僕は、じっくり鏡なんて見たこともないし、自分の顔に特別関心があったわけじゃないから、まじまじと見たことはないけれど、優しい顔立ちをしているとよく人に言われた。
それが本当なら目の前のボクの表情は、あまりにもかけ離れている。
敵意の塊のような瞳、口の右端がほんの少し吊り上がっている。
━━なんのことはないさ。お前は、善良な人間の仮面をつけてただけ。俺は、そんなお前から分離させられた善良に屈しない心そのものなんだよ━━
また訳の分からないことを言っている。
━━善良な仮面を被って優しいいい子だと言われるお前と、心そのものの俺と、どちらがこの体を有するに相応しいか、それがこれから決まるんだ━━
僕は、理解できないことをしゃべりたてるボクを無視して歩き出した。
どちらに行っても同じならここまで歩いてきたように、好き勝手に歩けばいい。
━━そうやってお前が俺と対峙しないかぎり、俺は成長していくからな。お前の体が消えて、俺が残るんだ!━━
ボクの声が背中に槍でも刺し込んだように襲い掛かってきた。
あいつは、この僕に変わって、この世界で生きていきたいのかもしれない。
僕は……。
僕は生きていたいという思いこそないけれど、死にたいと思う気持ちもない。
生きたいと思わなくても、生かされていく世の中なのかもしれない。
それを僕は、証明したようなものかな。
だとしたら僕が生まれた訳は、少しくらいありそうだ。
もっともそんな証明をしたからと言って、誰が喜ぶものでもないけれど。




