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夏茜

作者: 並木悠

 もうどれくらいの時間が経っただろうか。真っ白なキャンバスを眺めたまま、俺の手は一向に動く気配がない。


 ──おい!ちょっとくらい動いてもいいんだぞ?


 なんて、自分の手に話し掛けている俺は現実逃避の上級者だ。


 並木悠19歳。絵描き志望。志望歴のみ順調に更新中…。


 「絵描きになる。」


両親の反対も押しきり強引に実家を飛び出し、憧れの地に辿り着いてから、はや1年。


 絵が上手いと褒められ、勘違いしてたのは遠い昔、頭の中もこれから先の予定も目の前のキャンバスと同じく真っ白。


そんな状況にも関わらず、絵描きの真似事を続けては、両親の元への”帰省”も、元カノへの”寄生”も出来ずにいた。


 ――何か面白い事はないかなぁ。


 不意に頭の中の真っ白に浮かんだ文字が現状を表す。


 やたらと先の尖った鉛筆を置き、ベッドに寝転んだ悠の頭に過ったのは、昨日のこと。


 アーティストを気取っては足を運ぶ近所の公園。

 

 ――絵のネタになるものはないか?


 なんて、建前で出掛けるのだが、”ネタ”はあったとしてもキャンバスを染める色鮮やかな絵の”タネ”にはならない。


 そんな悠の目に汗をだらだら流しながら、必死にカメラのファインダーを覗いている女が写る。


 ――うわ。気持ち悪…。


 それが一方的な第一印象。いや、まぁ印象なんて、いつも一方通行。


 「あいつ、面白そうな奴だったな。」


 時計はもう日が傾き始めた16時。今日は22時からコンビニのバイトがあるだけ。所狭しと「バイト」とだけが書かれているスケジュール帳。


 昨日に――カメラ女――と書く。


 まだ出会ってもないのに、しかも最初から過去に登場してきた――カメラ女――が、このスケジュール帳を、この真っ白なキャンバスを、染めていくなんて、この時の俺は想像もしていなかった。


 「うわっ、眩しっ。」


 カーテンを開くと、ビルの影を越えた夕日が部屋へと光を差し込み、中央に陣取ったキャンバスに真っ黒な影を写し出す。


 背景は、真っ赤な夕日の赤…いや、絵描きの俺はそんなありきたりな色で表現なんてしない。


 ――茜色。


次の日の早朝、まだ6時過ぎ、夜からのコンビニバイトを終えた俺は予定通り、例の公園に向かう。


 さすがにこんな朝早くに目撃出来る訳ないとは思っていたが、バイト先からの帰り道に立ち寄れる立地にあるということもあり――とりあえず覗いてみよう――と、自転車を止めて公園へと立ち入る。


 早朝の公園には何とも言えない静けさがある。


 ウォーキングをするご老人夫婦。

 ジョギングをする運動部の学生。


 活動的、健康的な人にとって、公園はそれこそオアシスのような場所なのだろう。「さぁこれから1日が始まる」そんな空気に俺は早くも自分が場違いな存在だと感じていた。


 ――が、しかし。


 俺の存在を”場違い”だとすれば、それは”間違い”とでも言えばいいのだろうか?


 とにかく、俺はただならぬ様子の人物を遠くに見付けた。


 「え?気持ち悪…。」


 第一印象という脳内に刻まれた記憶を上回る第二印象がそこにはあった。


 遥か前方、この静寂の公園で背丈ほどの長さの虫取り網を振り回す女性。


カメラ女は日を跨ぐと虫取り女への姿を変えていた。


 俺はそれに向けて恐る恐る足を進める。


 対象物が大きくなってくるに連れて――ん?何か聞こえる?


 さらに進めていくと聞き覚えのある言語が意味を持って、俺の耳に届く。


 「とんぼー!!!!」


 ――とんぼ…?


 虫取網の延長線上を目で追うと、確かにとんぼがいた。しかし、それは網の主を馬鹿にするかのように、旋回飛行を繰り返す。


 ――あとちょっとなのに、あいつ下手くそだな。


 俺は何故か感情移入してしまい、思わず応援しては、あまりに下手くそな虫取網使いに歯痒さを感じていた。


 時々、ジャンプをしては網を振り回しているのだが、タイミングが悪い。


 そして、次のジャンプをした瞬間。


 「ドテン!!!」


 着地に失敗し、大きな音を立てて転んでしまう。


俺は小走りで傍らに膝をつき


 「おい、おい、大丈夫か?」


 あまりの痛みのせいなのか、大の字で寝転び、俺の声を無視したまま、開かないまぶた。


 「おい!大丈夫か?」


 脳震盪でも起こしているのではないかと体を軽く揺すってみると目を開き、バシッと目が合う。


 その途端


 「あ!!!」


 と、大きな声をあげ、あろうことかトンボを追い回していた網で俺の顔を捕獲した。


 「イケメンゲット!」


 「は?死ね。」


 思わず、口に出してしまっていた。


 「え!?もしかして、ドSのイケメン!?」


 何故か嬉々とした表情でこちらを見ている。


 「あんた、何言ってんの?」


 今だかつて、これほどまでに最悪なファーストコンタクトがあっただろうか。


 ――いや、確実にない。


 今までもこれからも、この出会いが最低最悪だ。


 「わたし、谷茜。よろしくね?」


 「自己紹介よりも先に、とりあえず、これどけてくんない?」


 これとは、もちろん虫取網のこと。


 「あ!ごめん!イケメンが台無しだもんね?」


 ――そういう問題ではない…。


 ただ、そう言って笑った茜という名前の女性は、虫取網の小さな小さな網目から見ても、屈託ない笑顔を見せ、それはまるで幼い子供のようだった。


 「え?25歳?年上かよ!」


 公園にあるベンチに腰を下ろし、横並びの初対面で俺らは自己紹介の続きを再開した。元々、童顔で背の小さな茜は、年下に見られる事が多いらしく、俺の反応を見ても「やっぱり?」と喜ぶことも怒ることもなく、ただ相変わらずの笑顔で俺を見ていた。


 「並木くんは大人っぽく見えるね?」


 「正直に老けてるって言えよ。」


 対する俺は伸ばした髪…いや、伸びた髪が目にかかり、細身で猫背であるが故に「若年寄」と揶揄され、実年齢に見られることは稀だった。


 「ねぇ?ちょっといいかな?」


 俺の言葉を無視して、茜は肩から下げたカバンから一冊のアルバムを取り出し、ページをめくっている。横目に見た中身は、おそらく茜が撮影したのだろうか、写真が並んでいる。


 「これと、これ、どっちがいいかな?」


 両の手に1枚ずつ持った写真。

 

 パッと見、左右の写真に差はない。

 

 ――背の高い木が両脇に立ち並び、中央には道が延びており、子供が自転車を漕いでいる。


 「んー。どっちでもいい。」


 口に出してから、ハッとした。


 ――やってしまった…。

 

 女はこの返答を嫌がるの痛感していた。


 ――何がいい?


 ――どこがいい?


 ――どっちがいい?

 

 その問いのほぼ全てに俺は――どっちでもいい――と答えた。


 ――本当にどっちでも良かったんだ。


 優柔不断な俺はどちらかを嫌なんて言えなかったんだ…。


 「ごめん!」と言いかけた俺に茜はやっぱり笑って、予想外の反応を見せた。


 「ありがとう。」


 「え?」


 「選ばないでいてくれて、ありがとう。」


 「何だそれ?」と大袈裟に俺は笑った。

 

 ――でも、茜は気付いてくれていたんだろう。それが俺の照れ隠しだったと。


 悔しいけど、そこには子供みたいにトンボを追いかけ回す姿はなく、女性らしい包容力みたいなのがあって。


 ――悔しいけど。


 ――嬉しいけど。


 「多分ね。私、並木くんのこと、好きになるよ?」


 俺はこの時すでに茜に惹かれ始めていたんだ。


自転車を押しながら公園から家までの道を歩く悠。

その傍らには数分前、あろうことか虫取網を頭に被せた茜が悠に歩幅を合わせている。


「あのさ、俺の家何もないけど、ほんとに来るの?」


 ――女を家に入れるなんて、いつぶりか思い出せないほどだ。


 「うわぁ。何もない部屋だね…。」


 「部屋って寝れれば良くない?」


 ――でも…――何か言いたそうな茜は部屋の中央に居座ったキャンバスを見つけ


 「え?並木くんは絵描きさん?」


 「そんな事、どうでもいいだろ?」


 「いや、知りたいんだってば。教えてよ?」


 「じゃあ、先にそっちから話せよ。」


 谷茜と聞けば、知る人ぞ知る新進気鋭の写真家として、注目をされている存在で、照れ臭そうに自分が写っている雑誌を見せてきた。――隠し事はしたくないから。――なんて言いながら、手渡した雑誌の中の茜は何とまぁ下手くそな笑顔で、ページにもデカデカと――撮られるより、撮るのが好き――とある。


 ーー俺は絵描き…なんてとても言えるわけないな。


自分の事よりも先に相手のことを知ろうとするくせがここ数年ですっかり染み付いてしまった。茜が趣味で写真を撮っているのならば「俺も…」なんて合わせるように言っていただろう。


そんな感情をひた隠し、茜の下手くそな笑顔を偉そうに弄る。


 「こういうの嫌なんだけどねぇ…。」


 「いいじゃん?こことか?」


 俺はページ内の1文を指差す。


 ――美人写真家、谷茜


 茜の顔はみるみる赤くなり。


 「だから、こういうのが嫌なの!」


 怒りながら、照れている茜はなかなかに可愛らしい。


 「バタン!」


 エアコンもない部屋の網戸から吹き込む風でキャンバスが倒れた。


 「あ!大変!並木くんの大事な作品が。」


 そう言いながら、茜は本当に大切そうに、キャンバスを元に戻した。


 「いやいや、見てみろよ?まだ白紙だから。」


 吐き捨てるように俺はそう言った。


 茜の才能と現状に嫉妬していたのだろう。そんな俺を見て、茜はクスクス笑っている。


 「何笑ってんだよ!」


 珍しく語気を荒げてしまったのは、茜なら俺の気持ちを分かってくれるという依存心からだろう。

 

 ――裏切られた感覚があったんだ。


「あ!ごめんごめん!笑っちゃいけなかったね。」


 そういうと、茜は俺の眼前に正座で座り、不意に俺の頭を撫で始めた。


 ――ん?


 その茜の不可思議な行動に俺は茜の手を振り払うことも忘れていた。


 「並木くんはね、真っ白なんだね。」


 「は?何だよそれ?」


 「あれと同じ。」


 茜の視線の先には俺が描きたくても描けなかった、限界の白さがある。


 「並木くん?さっき何て言ったか覚えてる?」


 「さっき…?」


 「やっぱり覚えてないよね?”まだ”白紙って言ったこと。」


 そう言いながら、さらに茜は俺の頭を撫で続ける。


 「並木くんはね?まだなんだよ?自分でも分かってるんだよね?」


 誠に不本意ながら、目から涙が溢れだす。


 「よしよし。」


 そう言いながら、茜は俺を抱き締めた。


 随分、久方ぶりの女の感触。茜の柔らかくて甘い臭いに、不思議と俺の心の上にも真ん中にも下にも下心なんて沸き上がることはなかった。


 俺は無意識に茜を抱き締める。


 「並木くんはまだなんだから、まだまだでいいんだよ。」


 そんな茜の言葉に俺は何かを許してもらった気がした。そして落ちる涙。


 人前で涙を流したことなんて、記憶にはない。涙の出し方も止め方も知らなかった俺はせきを切ったように、ただただ泣き続けた。


 「ね?私の言った通りでしょ?」


 茜は返事の出来ない俺の耳元で囁く。


 「ほら?悠のこと好きになれた。」


 色々あったけど、こうして俺と茜は付き合うことになった。


こうして19の絵描き"志望"と、25の写真家の二人三脚の生活が始まった。


 恋人同士になった俺と茜だったが、茜は「人気写真家」、俺は「絵描き志望のフリーター」。会えるのは月に2、3回。


 茜は――最近、自分の好きな写真が撮れないの――なんて愚痴を溢していたが売れっ子の写真家への道は極めて順調に見える。


 対する俺はと言えばまだまで、部屋のキャンバスも真っ白のままだった。


 ――絵描きになりたい。と言っているものの、果たして本当になりたいのか?


 ――ん?本当って何だ?

 

 ――ん?嘘って何だ?


 ガキ臭い悩み事は、まだまだの俺には丁度良いのだろう。


 ――そう言えば昨日の電話でも・・・


 「この前はね、雑誌の撮影で、子供の写真を撮ってたんだけど、子供って大変なんだよ?」


 日々の生活に別段変化もない俺。自然と会話は茜の仕事での話がメイン。それは当然のことだ。俺に増えていく話のネタと言えば、コンビニに入荷される新商品くらいのもの…。


 「なぁ?茜は俺に絵のこと、聞かないよな?」


 絵描き志望って知ってるくせに、茜はそこに触れてこないのが気になっていた。


 そんな俺の問いに電話口から聞こえてきたのは「クスクス」という笑い声。


 ――何が可笑しいんだよ?――と内心思っていると、予想外の返答が返ってくる。


 「悠は可愛いね。」


 ――は?俺は質問をしたはず。それに答えることなく、この女は何を言っているんだ?


 ただでさえ真っ白な俺が、頭の中をさらに真っ白にしていると、そんな俺を全く察する様子もなく


 「普段は無愛想でかっこつけでおっさん臭いくせに、急にそんな事、聞くんだもん。」


 「子供扱いすんなよ。」


 「あ、ごめん。笑っちゃいけなかったよね?でもさ、子供って何だろね?」

 

 黙り込む俺に――悠は悠でいいじゃん?――なんて”大人”みたいな事を言う。


 「まぁ、そうだけど…。」


 「こういう時に使うんじゃないの?悠の得意なやつ?」


 そう言って茜は笑った。


 ――どっちでもいい…か。

 

 「私はね、悠の真っ白を汚したくないんだよ。」


ーー絵描き志望。それはとても便利な言葉で「絵描きになりたい」と口にしているだけ。


それじゃ、まるで「絵描き希望」


そう。俺にとって「絵描き志望」は唯一の希望だった。


 「でさ、明日は何時頃に来るんだよ?」

 

 北海道に仕事で行っていたらしく、会うのは久しぶりだった。その間、俺はバイトという名の仕事の日々。


 「ねぇ?悠は、カニかイクラのどっちがいい?」


 「カニがいいな。イクラは生臭くて苦手なんだ。」


 「分かった。じゃあ、おっきいカニをお土産に買っていくね。」


 「悠?どっちでもいいって言わなかったね?」


 「俺にも好みくらいあるに決まってるだろ?」


 ちょっと強がってそう言ってみたものの、茜が言う――真っ白――に少しずつ気付けるようになっていた。


 電話を切った後、相変わらずエアコンのない部屋はくそ暑くて、扇風機が部屋内の熱気をかき回す中、俺は久しぶりにキャンバスと向かい合った。何か描きたいとか思った訳じゃない。ただただ、キャンバスを穴が開くほどただただ眺めていた。


 ――何を描こうか。


 「どっちでもいい」という2択ですら決められない俺に、この真っ白なんて染められるのだろうか。


 ベッドに寝転び、キャンバスの真っ白から目を逸らそうと、自分の真っ白さからは目を逸らすことは出来ず、俺はそのまま瞼の裏の真っ暗に飛び込んだ。


 ふと目を覚ますと、かなり長時間寝てしまっていたようで、時間はあっという間に茜との約束を連れてくる。


 そして、茜はカニを連れてきた…。


 「俺ん家に直送で良かったんじゃない?」と、至極真っ当な事を言うと


 「お土産は手渡しするのが当たり前なの。」と、返す。


 ――いやいや、気持ちは分かるけど…。


 「お!美味い!!」


 茜が持参したカニは絶品で、このカニの家族が見たら凹むだろうなというくらい、隅々まで食べ尽くし、食後は茜の北海道自慢が始まった。5000枚近くの写真の数々は――プロの写真家か?――というくらいに、手ブレしてたり、被写体が写ってなかったり、自撮りの茜が白目になってたり、とにかく抜群にいい写真ばかりだった。


 「あぁ、北海道楽しかったなぁ。」


 一通り、土産話を終えた茜は満足そうにビールを飲み干した。


 「北海道まで行って、いい写真は撮れたのか?」


 俺は今まで茜の仕事に対しては、あまり詮索するような真似はしなかった。プロに素人が口を出すのが失礼な気がしていたからで、俺が詮索されるのが嫌なのも、それを後押ししていた。でも、この時は目の前で、酔っ払ってるちっこい彼女が、プロの写真家には見えなかったからで、その俺からの問いを受けた茜は何やら嬉しそうに見えた。


 「なまらいいのが撮れたよ。」


 なまらってのは、北海道の方言で「とても」のような意味らしい。それだけ言って、茜は俺のベッドに横になった。シングルベッドは二人が横になるにはとても狭くて、仰向けで並ぶと寝返りも出来ない。


 「悠?今、何が見えてる?」


 「天井…。」


 「そんなの分かってるよ。もっと細かく言ってよ。」


 天井にあるシミ、ちょっとした凸凹が顔に見えたり、目に付く限りを茜に伝えた。


 「写真って、真を写すって書くじゃん?」


 「うん。」


 「でもね。真実って何だろね?」


 茜はそう言いながら、優しく俺の手に自分の手を重ねた。


 「今ね、私たちは天井を見てる。そして、手を繋いでる。」


 「うん…。」


 「私にとってはね、こっちの方が真実なんだよ。」


 そう言って茜は俺の手を強く握った。


 俺はそれに応えるように握り返した。


 残暑が厳しい9月。残暑、暑さが残ってるなんてのは、誰かが勝手に名付けただけで、俺にとってはただ暑いだけ。


 「茜?」


 「…。」


 ――ん?


 よく見ると隣で茜は寝息を立てている。


 ――真実か。


 俺も目を閉じ、眠ることにした。繋いだ手はそのままに。


 「はい!起きて!」


 うっすら目を開けると眼前に茜の顔があった。


 「何だよ。まだ7時前じゃん。」


 こんなに早く人に起こされるのは学生時代以来。


 「朝御飯作っちゃうから、早く準備してね?悠は朝はご飯派だったよね?」


 そう言いながら、冷蔵庫を漁る茜を寝ぼけ眼で見ていた俺は、寝惚けたまま、こう聞いた。


 「準備?」


 その言葉に茜は満面の笑みで答えた。


 「悠?デートしよう。」


 「デート?別にいいけど…。」


 「今日から3日間、遊びまくろ。」


 ――え?3日間?


 「え?どういう事?」


 「何言ってんの?」


 「北海道から帰ってきたら3連休だって言ってたじゃん?」


 ――確実に言っていない。


 「いや、初耳だけど…。」


 「嘘!絶対言ったってば。メール確認してみてよ。」


 ――5分後…。


 「あれ?おかしいな。」


 ――10分後…。


 「いや、もっと前だっけな。」


 ――茜?お前が確認してるその日付はまだ出会う前だ…。

 

 「えっとね。水族館でしょ。映画館でしょ。あ!ここもいいなぁ。」


 茜は何事もなかったように、うつ伏せで足をバタバタさせながら、楽しそうに雑誌のページをパラパラめくっている。


 「いやいや、いくら俺がフリーターでもバイトを交代してもらうの大変なんだぞ?」


 「いいじゃん?休み取れたんだから。」


 「でもさ…。」


 「もう、女々しい事言ってないで、一緒に決めようよ。」


 ――え?俺が悪いのか…?


 「ねぇ?悠は水族館と映画館どっちがいい?」


 「え?どっちでもいい。」


 「あ!そっか。そうだったよね?」


 そう言って、事も無げに俺の優柔不断さを無視する。


 「おい?怒んないのかよ?」


 さすがにデートの行き先を――どっちでもいい――なんて言ったら、大概の女は怒り出すに違いない。俺もさすがにそれくらいは分かっていた。


 「何?怒って欲しいの?」そう言って茜は笑った。


 その仕草がやけに大人っぽくて、俺は自分がガキ臭く感じた。


 「茜?水族館に行こう。」


 何か馬鹿にされてるみたいで、あえて目的地を指定する。


 「いいよ。でも映画館も行きたいな。」


 「じゃ、映画館も行こう。」


 女々しいなんて言われたから、俺は茜が行きたいとこに行くという懐の深さを見せる。


 「うん、どっちも行こうね?」


 ――あれ?これって結局…。


 何と言うか、この状況は面白くない。茜はそんな俺の気持ちを見越したのだろうか。


 「悠はほんと面白いね。」


 「…。」 


 ――本当に面白くない。


「うわぁ。悠?見てよ!凄いよね?」


 目の前では背丈の何倍もの大きさはあるサメが悠然と泳いでいた。


 「そうだな。凄い迫力だな。」


 「うんうん。このガラスは何センチくらいあるんだろう?凄いなぁ。」


 ――え?ガラス?


 「いや、あのサメ見てみろよ?ほら?目の前。」


 「いやぁ、子供の頃は大きいなって思ってたんだけど、こうして大きくなってから見ると意外と小さいなぁって…。」


 170cm後半の俺の頭1つ分小さい女が8m近いサメを小さいと言う。


 ――分かっていはいたが、茜は変わった奴だ。


 水槽にピッタリとカメラのレンズを付け、光が入らないようにし、浮遊するクラゲに向かって何度も何度もシャッターを切る茜。そんな姿を見てると――写真家なんだよな――なんて事が頭を過る。


 「なぁ?茜?」


 「ん?」


 「お前って、本当に写真撮るのが好きなんだな?」


 「え?」


 茜の予想外のリアクションに俺は少し戸惑ったが。


 「あ、ごめんね。せっかくのデートなのに、写真ばっかり撮っちゃって。」


 ――あぁ。そういう事か。


 「いやいや、そんな事気にしなくていいから。」


 「悠?次、行こ?」


 水族館を出た俺達は近くのベンチに腰を降ろして、茜が撮った写真を二人で見ていた。


 ――やっぱりさすが写真家だな。


 「これ、どうやって撮ってるの?」

 

 「ん?それはISOを高めに設定して…」


 俺は一眼レフの写真を、茜はデジカメの写真を見ている。


 「あ、あった。」


 先ほどから俺の質問に素っ気なかったのは、何やら写真を探していたようだ。


 「何が?」


 「この写真見たかったんだ。」


 茜がデジカメの小さな画面で見ていたのは


 「あ、この写真、消せって言っただろ?」


 クラゲの水槽の前で二人で並んで撮った写真。ただ、二人共目を閉じてしまっていた。


 「何で消すの?」


 「だって、失敗じゃん?ちょっとデジカメ貸して?」


 茜の手からデジカメを受け取り、次の写真を確認する。そこには今度は二人がちゃんと目を開けて写っている。


 「ほら?撮り直したんだから、さっきのはいらないじゃん?」


 「悠?写真って撮るもの?見るもの?」


 「え?何の話?」


 「大事な話。」そう言って茜は――写真は喋るものだよ?――と言った。


 1枚の写真を見ながら、こうして話すことが何より楽しくて、幸せなんだと。


 「ねぇ、知ってる?人間って一生のうち、まばたきを何億回もするんだって。」


 ――単位が億なら、その”何”ってのが違うだけで、物凄く数が変わるけど…。


 「私の何億分の1と悠の何億分の1の確率の写真だよ?とても貴重な写真だよね?」


 そう言って茜は笑う。


 俺は茜の撮る写真が「いい写真」な訳が少し分かった気がした。


 「さ、ご飯食べに行こ?」


 食事を終え、家へと戻り、相変わらずクソ暑い部屋のシングルベッドで横になる俺と茜。


 「明日はどこ行くんだっけ?」


 「明日は映画でしょ?」


 こうして、1日目が終わった。


 茜の希望でファンタジー系の洋画を見ようと映画館の席に腰を降ろし、本編が始まった時、茜は――あ。しまった。字幕だ…。――と、こぼす。


 「どうした?」


 平日の昼間だったために、空席が目立つ館内で俺は小声で話し掛ける。


 「ごめん。悠。字幕読んでくれない?」


 ――は???


 「私、画面と字幕、同時に見れないの。」


 2日目も茜は変わった奴のままだった。


 「あぁ、面白かったね?」


 「そうだな。お陰で内容は完璧に頭に入ったよ。」


 結局、字幕を耳元で伝えながら、俺は映画を見た。


 「もう、怒らないでよ?」


 そう言って、茜は俺にカメラを向けて、シャッターを切る。


 「悠の怒ってる顔、ゲット。」


 「おいおい、ブレてるじゃん?」


 「あ、マニュアルフォーカスのままだった…。」


 「おいおい、プロの写真家だよな?」


 そう言って俺は笑い、茜はオートフォーカスにセッティングし直してから、撮り直すが既に俺は怒っておらず。


 「悠の怒り顔ゲット出来なかった。」と茜は笑う。


 ――茜らしい失敗だな――なんて、あの時は思ってた。


 ――どうして、あの時、気付けなかったんだろう。


 きっと、俺の真っ白が茜に染まっていたからだろうな。


 夕暮れ迫るあの空のように。


3日間の最終日、またまた茜の希望で前々から行きたかったという有名な写真家の写真展へと足を運んだ。


 その後は、さすがに断りきれなかった為に俺はバイトで、茜はその間に夕飯の用意をするというスケジュール。


 「何でバイトなのよ。」


 「仕方ないだろ?」


 だいたい、予定を前日に言ったのは茜だった。


 そんなこんなの言い合いをしているのは、その写真展からの帰り道。


 「なぁ茜?虹ってあるじゃん?」


 俺は小さな頃から、虹が好きだった。そのせいで、雨も好きだったほど。――何故か?――と聞かれても上手く説明は出来ない。好きなんてそんなもんだ。


 「虹は何色に見える?」


 茜は俺の問いに少しだけ考え――七色だよね?――そう。虹と言えば7色というのが当たり前だ。


 「だよな?でも、世界のある地域では虹は2色だってとこもあるんだぜ?」


 「え?2色?」


 「そう。しかも赤と黒。」


 信じられないと言った様子の茜。

 

 ――それもそうだ。俺も信じられない。あの空にかかる虹が2色な訳がない。


 「もしさ、絵に書いたとしたら赤と黒の絵の具で、虹は出来上がり。でも写真ならさ…。」


 ――何色だろうがシャッターを押せば虹が虹のまま。虹は虹のまま。


 茜が話してくれた真実って奴はきっと視界の外にあって。でも、真っ白から少しづつ染まり始めていた俺は隣の茜を見ることなく、ただ遠くの空に見えない虹を描いていた。


 「あ、もうそろそろバイトに行く時間だ。」


 「えぇ。やだ。」


 「仕方ないだろ?ってさっき言ったじゃん?」


 「分かったよ…。じゃ、私も夕飯の準備しとく。」


 そう行って、俺達はベンチから腰を上げ、茜は俺の手をごくごく自然に繋いで歩き出す。こうして俺の隣で首からカメラを下げて俺に手を引かれて歩く姿はまるで子供のよう。


 「茜はこれ好きだよな?」


 俺は茜の視界に入るように繋いだ手のまま、前方に突き出した。


 「え?う、うん。」


 照れ臭そうな茜を見て、俺は面白がって手を離し、走りだした。


 「ちょっと、悠。待ってよ。」


 「ガチャン!!」


 俺が走りだして数秒後、大きな音に振り返ると躓いたのだろう、茜は地面に座り込んでいた。


 焦った俺は慌てて茜の元へ向かった。


 「ごめん!大丈夫?」


 パッと見で怪我をしている様子はなく、俺は安堵した。


 「でも、カメラが・・・。」


 茜が躓いた時に上手くカメラがクッションになってくれたようで、電源を入れても反応がない。


 「茜、ごめん。」


 「うん。大丈夫。」


 口ではそう言ったが、落ち込んでる様子の茜に――じゃあさ、俺が新しいのを買ってやるよ――と、普段から子供扱いされている反抗心に大人ぶって見せた。


 「え?ほんとに?嬉しい。でも…。」


 茜は名残惜しそうに壊れたカメラを抱えている。


 ――もう壊れたんだから、捨てれば?――とは言えず。


 「茜?そのカメラ、俺にくれないか?」


 「え?でも、きっともうダメになってるよ。」


 「写真が撮れないだけで、部屋のインテリアにもなるし。」とか。


 「修理すれば直るかもしれないし。」とか。

 

 「茜が使ってた大事なカメラが欲しい。」とか。


 取り繕うように色々並べた。


 「そっかそっか、ありがとう。悠は優しいね?」


 そう言って優しく微笑んだ茜は――何故だろう。凄く大人びて見えた――その分、遠い人に感じたんだ。


 俺は首から壊れたカメラをぶら下げ、改めて手を繋ぎ帰り道を再開した。


 「ねぇ?そのカメラと私、どっちが大事??」


 「何だそれ?」


 おどけた様子の茜。俺はそんな茜が愛おしくて、”答え”を伝えるのがやけに照れ臭かった。


 「ねぇ?答えてよ。」


 やけにしつこい茜に俺は意を決して伝えたんだ。


 「茜に決まってるだろ。」


 そう言って、茜の手を強く握り――そっか――と茜は俺の手を強く握り返した。


 「悠は本当に変わったよね?どっちでもいいって言わなくなった。」


 茜が褒めてくれてるもんだと――そうだろ?――と俺は返した。


 その時、さっきまで強く握っていた茜の手から少し力が抜けていた事に俺は気付かなかった。


 あの時も、気付けなかった…。


 「ただいま。」


 バイトを終え、ドアを開けると同時に、食欲をそそる香りが鼻に届く。


 「お帰り。」


 「うわ。凄いな。」


 「でしょ?」


 茜は変わった奴だったが、料理の腕は人並み以上で、すでに食卓には豪華な食事が並んでいた。


 「ちょっと張り切り過ぎちゃった…。」


 「これ何人前?」


 「いっぱい食べてね?」


 「が、頑張る。」


 「悠は和食が好きだったよね?」


 ――好きだけどさ…。


 料理の腕以上に用意された量が人並み以上だったのは茜らしい。


 「もう無理…。」


 「私も…。」 


 各メニューがまだ2人前ずつは残っていたが、俺も茜も限界。


 「あぁ、美味かった。量はともかく…。」


 「そうだね。ほんと張り切り過ぎた…。」


 こうして、俺と茜の3日間が終わろうとしていた。


 「ねぇ悠?明日ってバイト?」


 「いや、明日は休みだけど?」


 「じゃあさ、延長してもいい?」


 「何を?」


 「お泊り。」


 聞いたところ、実は明日も夕方に用事があるだけで、時間はあるらしい。


 「これだけ一緒にいると、離れるのが寂しくなっちゃってさ。」


 ――じゃあ、最初から4日間って言えば良かったじゃん?


 いつもなら、そんな皮肉を言っていたと思うが


 「じゃあ、明日行きたいところがあるんだ。」


 1日でも長く茜と一緒にいれるのが嬉しくて、俺は次の行き先を提案した。


 こうして、俺と茜の3日間は延長された。


 「あ!悠!見て見て!」


 隣の茜が急に俺を急かすように空を指差す。指先の延長線上には一匹のトンボが舞っている。

そいつは俺らの上を周ってから興味を失くしたようにどこかへ飛び立った。


 俺が行きたかった場所。それは茜と初めて出会った公園。


 「お前、トンボ好きだよな?ほら?初めて会った日も。」


 ――この公園といえば虫取り網を振り回していた茜の姿。俺の公園のイメージをぶち壊すには充分過ぎる衝撃。


 「何か馬鹿にしてない??」


 ――当たり前だろ――と口パクで伝えた俺に気付かない様子の茜。


 ――気付いていないフリ?


 それを裏付けるように茜は語り始めた。


 「トンボって凄いんだよ?」


 「何が凄いんだよ?」


 「トンボって複眼なんだよ?悠は知ってた?」


 ――単眼って目がいっぱい集まって複眼って言ってさ――とまぁ、トンボの雑学を熱く語る茜だったが…。


 「で、何でトンボが好きなんだよ?」


 「え??」


 「だから、何でとんぼが好きなんだよ?凄いじゃ答えになってないけど?」


 茜は焦った様子で――いっぱい目があったら色々見えていいじゃん?――などと、かなり無理矢理な言い訳じみた回答をぶつけて来た。


 「私、写真がいっぱい撮りたいんだ…。」


 最後にこう溢した茜はとても寂しそうで、それは――トンボみたいに目がたくさんないから、たくさん写真を撮れない――みたいな、現実離れした空想なんだと思ってた…。


 ――茜ならこう思ってるんだろうな。


 それが俺の中で存在感を増すほど、俺は茜を描くようになっていく。


 「また後で連絡するね。」


 茜と駅で別れ、俺は家で雑誌のページをパラパラとめくり、帰りを待っていた。


 「あんな奴がこの世界じゃそこそこの有名人なんだもんな。」


 茜のインタビュー記事を読みながら、俺はブツブツとぼやいていた。あんな奴とはもちろん茜のことで、美人写真家の事。


 インタビュー内で茜はこう語っていた。


 ――写真は少し先の未来を写してるんです。


 確かにファインダーを覗いた瞬間と、実際にシャッターを切った瞬間ではタイムラグがある。


 ――はい、笑って?とか言うでしょ?


 ある意味で写真はありのままのフリしてるけど、偽物なんだと、いかに撮影者の意思が伝わらないように切り取るのかを意識している。など、普段の茜からは想像できない真面目なことが語られていた。


 「だから、私は未来が見えるんです。(笑)」で、締め括られたインタビュー記事。


 こいつ痛い奴。なんて思うけど、今じゃ茜の笑顔が浮かぶ分、それすら可愛らしく思う。

 

 ――俺が一番痛いな――なんて思いながら、ニヤニヤしてると茜から電話が入った。


 「悠?ごめん。駅まで迎えに来てほしい。」


 俺は子供じゃないんだからなどと文句を言いつつ、準備をしながら、家を出た。


 「仕事、早かったな?」


 「あ、まぁ、ちょっとした仕事だったから。」


 最早、お決まりの手を繋ぎながら、10分ほどの距離を歩く。


 「ちょっと寄っていかない?」


 今日は随分と過ごしやすい気候で、茜の提案に賛成し、いつもの公園へと向かう。


 いつもの公園の、いつものベンチ、俺らは思い出話に花を咲かせていた。


 お互いでこうして共有した時間を笑い合う瞬間がとても幸せで、茜はカメラを取り出し、俺にレンズを向けた。


 「ねぇ?悠、笑って?」


 そう言った茜に俺はインタビューを思い出した。


 「おい、茜ちゃん?偽物を取るの?」


 笑いのネタにと発した言葉だったが、みるみる茜の表情が曇る。


 「え?」


 今まで見たことのない茜に俺は戸惑った。――何か言ってはいけない事を言ってしまったのか?――脳内を駆け巡り、しばらくの沈黙の後、茜が口を開いた。


 「インタビュー記事、読んでくれたんだね?」


 「あぁ。」


 「そうなんだよ。写真って偽物なんだよ。」


 「そうなのかな?」


 「うん。それでも、私は悠の笑顔が見たくなっちゃったんだね。」


 「何でそんないけない事をしたみたいに言うんだよ?別にいいじゃん。」


 俺が言い切らない内に茜はベンチから腰を上げ、後ろから俺の両目を両手で塞いだ。


 「だぁれだ?」


 「え?何??」


 不意に茜は俺の視界を遮り、自分が誰かという意味不明のクイズを始めた。


 「だから、だぁれだ?」


 「えっと、茜さんです。」


 「正解!じゃあ、次の質問!」


 「おい、何だよそれ」という俺の言葉を完全に無視して茜は続ける。


 「あなたは茜さんが好きですか?」


 「え?」


 「悠は茜さんが好きですか?」


 「は、はい。」


 「茜さんのどこが好きですか?」


 「何だよそれ、恥ずかしいだろ。」


 「もう!いいじゃん。聞かせてよ。」


 こんな馬鹿みたいなことも、目を塞がれているせいか、答えてしまう俺がいた。そう――まるでこの世界に俺と茜しかいないような――錯覚の中で俺は答えた。


 「子供みたいなとこ、料理が意外と上手なとこ、何かほっとけないとこ、俺が想像できないことをし始めるとこ。」


 「何か料理以外は子供みたいなとこばっかりだね…?」


 そう言って茜は笑っている。見えなくても茜の笑顔が浮かぶのが嬉しかった。


 「ねぇ?これからも私のこと好き?」


 「あぁ。そうだと思う。」


 ――この返事を俺は後悔した。


 ――何で、曖昧な返事をしてしまったんだ。


 ――ちゃんと好きって伝えなかったんだ。


 そんな俺に茜はしばらく黙ってから


 「私の目、壊れちゃったんだ。」


 「え?」


 ――もう一度聞きたかったからじゃない。意味が分からなかった。だからと言って、確かめたかった訳じゃない。


 そんな俺に茜はもう一度。


 「私の目、壊れちゃったんだ…。」同じ言葉を繰り返した。


 ――もう写真撮れないの――そう言って、茜は俺の後ろで恐らく泣いていた。


 微かに震える手が確かに俺にそう伝えていた。


 ――あの時、何を言えば良かったのか。


 ――あの時、どうすれば良かったのか。


 茜色に染まっていた俺の頭は真っ白で、ただただ自分の行動を模索していた。そんな俺に茜の言葉だけがとてつもなく重たく寄りかかる。


 「悠?あの壊れたカメラあったでしょ?」


 「あぁ…。」


 「あれが私なんだよ?」


 茜がそう告げてから、どれくらいの時間が経ったのだろう「ごめんね。」と茜が切り出したのは、無言のまま、手だけを繋いで、俺の家に帰ってきてからだった。


繋いだ手に今までよりも1つ意味を乗せて。


 茜は――網膜色素変性症 ――という遺伝性が高い病気で、現在のところ、症状の悪化を止める事しか出来ない。つまり、完治することがないのだそうだ。


 酷い場合は失明もあるらしいが、幸いにも茜はそこまで酷くはないらしいが。


 「写真家としてはダメだって、お医者さんに言われちゃった。」


 そして、茜の口から今までも――実は時々、見えにくくて、手を繋いでもらってたの――と聞いた。


 ――茜のカメラが壊れたのは俺のせいじゃないか…。 


 「でもね?写真が撮れなくなっても、私は私だから。」


 落ち込んだ様子の俺に対しての茜なりの優しさ。でも、俺は突き放された気がしたんだ。


 ――それは、もう手を繋がなくてもいいって事なのか?

 

 そう、茜はこの部屋の片隅にある壊れたカメラみたいに、自分はもう目的を終えた人だって、俺にはそう聞こえた。


 ――俺は何も出来ない。真っ白なままだ。


 「悠?私で悩まないで。」


 俯いた俺の頭に届いた茜の言葉が拒絶に聞こえる。


 ――もう茜のことを考えるなって事なのか?


 「ねぇ?悠?どっちがいい?」


 俺が視線を声の方に向けると、茜は写真を両手に持ち、ヒラヒラとなびかせながら、こちらを見ていた。


 それは初めて会った日のよう。ただあの日と違ったのは、両手にあったのは俺の写真だった。


 事態を飲み込めずに首をひねってハテナを返す俺に茜は


 「こっちが出会った日の悠。こっちは昨日の悠。」


 ――だから、それがどうしたんだよ?


 「私は選べない。あなたがあの日、そうしてくれたように。」


 そう、あの日、俺は選ばなかった。茜の問いに――どっちでもいい――と答えた。


 「何だよそれ?」


 茜の言葉を聞き、俺の口から自分でも聞いたことのない声が出た。


 「私は私…とか、私で悩むな…とか、私には選べない…とか、馬鹿にすんなよ!」


 ――こんな事を言うつもりはなかった。


 ――傷付いてるのは俺じゃなくて茜。

 

 ――それは分かっていた、分かっていたけど。


 「どうして、茜の目のこと、言ってくれなかったんだよ?俺がまたどっちでもいいって言うとか思ってたんだろ?俺にはどうせ背負いきれないとか決めつけてたんだろ?」


 俺は心のままに叫んだ。


 「俺は茜の目が見えなくなるから、手を繋いでたんじゃない!」


 茜は何も言わず、大声を出した俺の目の前に向かい合って座り、俺の手を取り、自分の頭の上に乗せ、目を閉じた。


 手のひらに伝わる茜のぬくもり、俺は無意識に茜の頭を撫でていた。


 「例え、私の目が見えなくなっても、悠の優しさは見えるんだよ?」


 茜は閉じたまぶたの隙間から、大粒の涙を流した。


 「それが、怖くて怖くて、どうしようもなく怖かったの。」


 この手から茜が震えているのが痛いほど、伝わってくる。


 「例え、未来が見えなくなっても、見たい未来があるんだもん。」


 そう言って、飛び付いてきた茜を俺は抱き締めた。


 「うわあぁぁぁぁ。」


 俺の耳元でうるさいくらいに泣き叫ぶ。


 「写真とれなくなるの嫌だ。悠が笑ってくれないの嫌だ。私の目、壊れちゃったけど、見えてるんだよ?お願い、私を見て。悠を見てる私を見て欲しいの。」


 今まで溜め込んできたものを吐き出すように、俺にぶつけてきた茜は、今までで一番子供みたいだった。


 俺は茜を強く抱き締めながら、涙を流しながら、出会いの日を思い出していた。


 ――あの、最低最悪な出会いを。


 あの日、トンボを追っかけながら、俺を捕まえたと虫取網を被せた女は、少し先の未来を予言していた。


 「多分、好きになる」


 ――そんな告白あるか?


 でも、未来への不安が募りすぎて、未来を見るのを拒否していたから、凄く安心したんだ。


 そう言えば、茜はこんなことを言っていた。


 「悠?何で目は2つあると思う?」


 「え?よく見えるように?」


 「ちょっとは真面目に考えてよ。」


 「いつも、俺は真面目だって。」


 「私はね、こう思うの。」


 そう言った茜は俺の左側から自分の頬と俺の頬を密着させた。


 「何してんだよ。」


 「ちょっと黙ってて。でね、右目を閉じて?」


 言われるがまま、俺は右目を閉じ、茜は左目を閉じた。


 「これが私達の世界。」


 ――どうあがいても、同じものなんて見れないんだ。茜の右目から、俺の左目までの数センチすら、埋められない。


 ――俺は茜にはなれない。茜は俺にはなれない。


 こんなに傍にいたいのに、こんなに同じものを見たいのに、出来ることなら茜の代わりに俺の目が壊れたって構わない。


 それなのに…見れないことをわざわざ教えてくれるなんて。


 ――やっぱり最低最悪な出会いだ。


 それを俺に叩きつけた主は子供みたいに俺の胸の中で泣き続けている。


 俺は茜を引き剥がし、泣き張らした顔を見つめた。


 「やめてよ。ぐちゃぐちゃな顔見ないで…。」


 「寝起きの顔の方が酷いけど?」


 「あ!酷い!」


 頬を膨らませた茜のリアクションは、かなりあざといが、それが可愛いらしく思う俺は馬鹿になってるんだろう。


 ――そう、俺は心から目の前の茜が大切になっていた。

 

 あの日――目が壊れてしまった――と茜が言った時に言えなかった言葉を伝えよう。


 「茜?」


 「え?何?」


 相変わらずヘタレな俺は深呼吸してから


 「茜、君が好きだ。」


 茜は先ほどよりも勢いよく俺に抱きつき


 「わぁぁぁぁ。」


 さっきよりも大きな声で泣いた。


 「私も悠が好き。」


 それから、しばらく経って、茜はお世話になっていた編集長の元でライターの仕事や、時々写真も撮らせてもらっているらしい。


 「やっぱり私は写真を撮るのが好き。」


 何というか、どんな逆境でもたくましく生きてく姿に嫉妬もするし、劣等感も抱いたりはするけど、そんな茜に魅力を感じてるのも事実で、何より笑顔で頑張っているのが嬉しかった。


 かくいう俺はと言えば…相変わらずコンビニバイトでその日暮らし。


 ――ただ、何も変わってない事はない。俺は絵を描けるようになった。


 偉そうに言ってはいるが、あんなにも描けなかった俺がこうして描けてる理由にもやっぱり茜がいる訳で…。


 病院からの帰り道、俺達は変わらず手を繋いでいる。


 「あぁ。いよいよ、見えにくくなってきたな。」


 茜の物事を受け入れた時の強さは本当に尊敬する。簡単に言い放った言葉に俺は未だに戸惑ってばかり。


 「悠?写真って偽物って話したの覚えてる?」


 「あぁ。覚えてるよ。」


 「あれには続きがあるんだよ。」


 「続き?」


 「うん。悠にだけ伝えたかった続きがあるの。」


 描けるようになったと言っても、別に画力が上がったって意味じゃなくて。


 ――描きたいものが出来たんだ。


 「俺にだけ伝えたい事?」


 「そう。悠が見せてよ?」


 「え?」


 「私の未来。」


 何を描くかは、多分、随分前から決まってた気がする。


 ――写真は偽物。撮りたいと思った瞬間にシャッターを押したって、撮れるのはファインダーには写っていなかった瞬間。それはまるで人間のまばたきの瞬間みたい。だからこそ、俺は茜に言おう。


 「茜?笑って?」


 ――いつも笑顔でいて欲しいんだ。未来は俺が決めてあげよう。


 「悠?おめでとう。」


 「いやいや、佳作に選ばれただけじゃん?」


 「何偉そうに言ってんの?」


 「はい、すみません。光栄です。」


 「よろしい。で、もう決めたの?」


 「え?」


 とまぁ、どうなるかなんて分かんないけど、絵描きとしてやっとこさ一歩を踏み出した俺は、茜との約束をまだ果たせないままでいた。


 季節は冬を越え、春を過ぎ、またあの季節がやってくる。


 ――俺と茜が出会ったあの季節が。


 いつもの公園、いつものベンチ。俺はキャンバスに向かい、茜は新しいカメラを首からぶら下げる。


 こうして、1つ年をとり、2つ年をとり、見えなかった未来が見えてくる。


 トンボを追いかけ回す茜を遠くに見ながら、その様子を俺は今こうして描いている。


 あの日、茜が汚したくないと言った俺の真っ白だったキャンバスは今こうして1枚の未来になったんだ。


 「作者名、考えたいって言ってたじゃん?」


 「あぁ。もう決めたよ。」


 ――茜の隣に俺はずっといるから。


 夏茜

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― 新着の感想 ―
[良い点] テンポがよくて、一気に読んでしまいました。 表現力も感じられて、ユーモア溢れる会話、シリアスな描写、双方とも頭の中にその光景が浮かぶようです。 登場人物にも人間味が感じられて、それぞれの悩…
[良い点] 言葉の使い方がキレイでとても心地よくて、一気に最後まで読んでしまいました(o^^o)私は、茜ちゃんが可愛くて仕方なくって、大好きなキャラクターでした。お友達になりたい!笑 何度も、何度も…
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