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蝶の形は無限に似ている。
ひらひらひらりと飛び回る。
毟った脆い羽はからからに乾いた口の中ですぐ粉々になってしまった。必要もないのに噛むふりだけはして、咳きこみそうになりつつ唾液とまぜあわせて飲み下す。けれど、ざらりとした感触はまだ消えない。
さっき喰べたのは掌ほどもある橙色の蝶だったから、いまごろ舌はオレンジの鱗粉で滅茶苦茶に彩られていることだろう。
考えないようにすればするほど、そこから意識を離せない。
その色、それに塗れた舌、莫迦みたいにゆっくり飛んでいた蝶。
あの色は暗くなる前に曇ったガラスの向こうから差し込む光のようだった。
舌はまだあの明るい癖にさみしい色でざらざらしている。
あの蝶はわざとわたしの周りを廻ってみせた。
この旧い温室のなか、逃げるところなどいくらでもあったというのに。
掴まって、毟られて、呑み込まれた、光。
(厭だ。)
身体を半分に折りまげて、こみ上げてくる吐き気をやりすごした。
わたしが一番嫌悪しているのはわたし自身だ。それは何よりも確かに分かっていた。
掴まえて、毟って、呑み込んだ、わたし。
だからといって、何かをしたいというわけではないのだ。
いま心に立ったこの漣も、すぐに凪いでしまうのだから。
そして、倦怠感と、眠気が、手をとりあって、すぐそこに、
*
大理石の暖炉で焔が小刻みに踊っていた。部屋の光源はそれしかなかったが、仄昏い中でも頑丈な胡桃材の机に上半身を俯せている軍服姿の男が死んでいるのは明らかだった。
彼の左手はだらりと垂れて、見開かれた青い眼は最早何も映してはいない。こめかみに穿たれた銃創から止め処無く赤黒い血が未だ流れ出し、机の端から良く磨かれた靴に滴り落ちては周りの絨毯に染み込んでゆく。染みの横の拳銃が焔を反射して鈍い光を放っている。
……ぽたっ。
……ぱた。
足音はなかったが、焔が一瞬激しく動いた。間を置かずに、死体の顔の前に置かれた白い封筒に、新たな登場人物の手、奇麗に全ての爪が切り揃えられた右手、が伸びる。
其の侭注意深く右手は封筒を掴み、手の主は入って来た時と同じ様に音も無く暖炉まで歩いていった。そっと焔の中に封筒を滑り込ませる。
ぱっと火の勢いが増し、燃え盛る薪が崩れる。
*
(ガタン。)
*
目を開くと、そこはいつもの温室だった。
汚れて白く曇ったガラス、ところどころ錆びかけた鉄骨。座っている椅子もだいぶ酸化して赤くなっている。
一群の色彩が目の前を飛び交った。
わたしがここに居るようになってから、どれほど経つのかわからないけれど、それこそもう思い出せないほど長い間ずっと座っているような気もするのだけれど、蝶を喰べつくしたことはなかった。
さっきの音は、彼らを誰かが扉の向こう側から放したときのものだ。
偶に存外若い声がはなしかけてくる。
たとえば、今日のように。
爪を切るからこっちに来て、と声が命じた。
わたしはのろのろと椅子から立ちあがり、扉の前まで歩く。わたしに拒否権はないのだと、従うことを刷り込まれたように。
扉の中程にある細い隙間から両手をかろうじて出すと、誰かがわたしの指を一本ずつ丁寧に掴んだ。
「今、背の高さはどの位?」 パチン。
「この隙間より頭一つ分高い位。」 パチン。
「へえじゃあ君はまだ小さいんだね。」 パチン。
「何か必要なものはある?」 パチン。
「別に。」 パチン。
パチン。
喋るのは久しぶりだった。 舌が上顎に貼り付くようで、出てきた声はみっともなく掠れている。
誰かの顔があると思われる高さを見上げて、彼に投げかける質問を並べてみる。
一度も自分から言葉を発したことはないけれど。
きっと与えられるのは一回きりだ。
それはまだ先のことでいい。
また痩せたね、という言葉と共に、私の両手が帰ってきた。憐れみとか優しさとかそんなものは含まれておらずに、ただ事実だけを述べる声。
切り揃えられた爪は、白昼夢に出てきた右手のようだった。先端の白い部分がほとんど残っていない。
椅子に戻って、まじまじと見つめる。青い蝶が誘われたように、人指し指に止まった。
(蝶は死んだものの魂だ、といったのは誰だった?)
彼らは蜜しか食べない癖に、ちっとも甘くなんてない。
毟った羽をゆっくりと咀嚼する。
綺麗に整えられた爪先が、青い鱗粉に塗れている。
緊張することを、蝶が胃の中で羽ばたいているような、と表現するというけれど、わたしの呑み込んだ蝶は、もう死んで動かない。きっと今頃消化されている。
吐き気をこらえる。光を、死を、繰り返す連鎖を、考えようとする。いつかは来るであろう終わりを希む。試みるほどに意識は引き剥がされていく。
とろりと落ちゆく暗闇の中で色彩が舞う。
ひらひらひらりと無限の群れが飛ぶ。
わたしは次から次へと蝶を喰べる。
奇妙な夢を見る。