第一章 稀吹
幼い頃の夢を見た。
クラスメイトからのイジメに耐え切れず遂には自らの中に言葉を封じてしまった、稀吹の幼馴染み、皇城 憂。
彼女の事をどうしても助けたくて「ツクヨミ」に必死で願った、あの時の夢。
もう、十年になるのに未だ、彼女の声は戻らない。
今さらだが、本当は判っていた。
「憂が話さないのは、俺の所為だ。」
憂が好きだ。
それはあの日より、ずっと不変であった事
憂は、俺の事を嫌う。
それも不変であった事
すべての原因は、俺が「優しさ」を忘れた事・・
俺の願いの対価は心の分裂。
現実世界に憂を好きだというキモチを。
異世界に憂に向けられるはずの優しさを。
もう、憂がかつて俺に向けていた笑顔を見ることは出来ないのだと改めて気付いた。
不意に体に痛みが走り、稀吹は目を見開いた。
大量の光に目が眩みそこがどこなのか理解するまで少し時間がかかった。
「・・・病院?」
蚊の鳴くような小さな声だったにも関わらずそばにずっといたであろう人は大きな声を上げた。
「稀吹っ!」
気が付くと俺は白いベットに横たわっていた。
「母さん?」
久しぶりに見上げた母さんが、なぜだかとても小さく見えた。
「大丈夫なの?貴方が事故にあったって憂ちゃんから聞いた時は驚いたわ。」
その言葉に稀吹は自分の耳を疑った。
「憂が?」
なんで憂が?
稀吹は不思議そうな顔を浮かべたが母は気にもせず自信満々に頷いた。
「そうよ。すぐに帰っちゃったけど・・話でもあったの?」
「いや・・。無い・・。」
稀吹はそっぽを向いて小さな声で呟いた。
「憂に何か言っても傷つけるだけだ。」
「何か言った?」
「なにも・・。」
母は稀吹がツクヨミと交わした約束を知らない。だから急に憂と遊ばなくなった息子に驚いていたのだろう。よく憂の事を話題にする。
最後の呟きを聞かれなかった事に、安堵する稀吹に気付かないまま母親は病室を後にした。
小さな個室には、稀吹だけが取り残された。
稀吹は病室の白い壁に向かって呟いた。
「ツクヨミ・・。お前はこうなることを知っていたのか?」
稀吹しかいない狭い病室にただ稀吹の果て無き問いが響く・・訳ではなかった。
「知っていたよ。」
低く通った声が病室に響いた。同時に稀吹の正面にある壁が溶けるようにしてツクヨミが現れた。
「あの時、ちゃんと言ったよ。対価がいると・・」
「でも、お前はなにも・・!」
「当たり前だろう?僕は人が苦しむのを見るのが好きなんだよ。」
稀吹は眉を顰め、楽しそうにクスクス笑うツクヨミを睨みつけた。
「僕はちゃんとキスイに全てを元に戻すのための方法を教えてあった。キスイ・・・。君の姫君は、今の君愛してくれるかい?」
「もう出て行ってくれ!」
そう言って頭を抱える稀吹の姿を見てツクヨミはまた不気味に微笑んだ。
「君は僕から逃げられない。いつも僕を楽しませてくれる。君も君の姫君も・・・。」
それだけを言い残してツクヨミは霧が晴れるように消えた。稀吹はまた一人小さな病室に取り残された。
その瞳に、もう迷いは無い。
稀吹は頭に巻かれた包帯を解き。ゆっくりとベットからおりた。そして、誰にも見つからないように、そっと病室を抜け出した。
数時間後、様子を見に来た看護婦が見たのはもぬけのカラとなっていた病室と投げ出された包帯だけだった。
稀吹は宛ても無く一人、冬の道を歩いていた。
「今、俺が苦しむ事で・・憂は救われているんだろうか。」
俺は異世界に存在するもう一人の自分がどんな者であるのかも知らない。
だけどきっと優しくて憂は俺のことなど好きにはなってくれないのだろう。
それは仕方のないこと。
心を分ける。それがツクヨミに差し出した対価なのだから・・・。
憂はもうすぐに会うことになる。
あいつ、ツクヨミがいる限り。




