巡る世界と違和感。
――何で、こんなことになってしまったんだ。
さっきまで、笑ってたのに。せっかく知り合いができたのに。
怖い。
本当に怖いのは、痛いのは、俺じゃないはずなのに、怖くて仕方がない。
不安に押し潰されそうで、心臓が今にも破裂しそうな程激しく跳ね回って、今にも胃の中の物を全部吐き出してしまいそうだ。
少し焦り気味の運転でぐらぐらと揺れる車内さえもが嘔吐感を増長させる。
まだそうと決まったわけじゃない、大丈夫。今までも何とかなったじゃないか。そうやって無理矢理不安を押しのけた。
幽璃が運び込まれたという病院に辿りつくまでおよそ五分。たった五分と言い換えてもいいかもしれない。
しかし時間というのは主観によって変わるもので、それは大抵の場合で望みとは逆の流れ方をする。
感覚にしておよそ一時間と五十二分程度の時間が流れた俺の五分間は地獄だった。最悪の光景を想像してそれを振り払う作業が何度続いたか。
病院の駐車場に止まった車から降りると、冷や汗にどっぷり漬かって血の気を失った頬に風が当たる。暖かいはずの春先の風が手際よく体温を奪っていった。
「大丈夫、きっと大したことないさ」
そうやって肩を軽く叩く先生のいつもは逞しい声も震えていて、何の励ましにもならなかった。
重力に逆らうだけの力さえ出そうにない足を引きずり、何とか病院の正面玄関まで移動したところで、また足が止まった。
不可視の結界がここから先に進ませまいと阻む。しかし、ここで進まなければ二度と幽璃を見ることすら叶わないかも知れない。
――違う! 俺は“そんなもの”を見るためにここに来たんじゃない!
「そうだ、もう一度――」
最後の方は掠れて自分さえも聞き取ることができなかったけれど。進むだけの勇気と、目的は得た。
あとは足を前に進めるだけ。足を振り上げ、前方の床に叩きつけた。痺れと痛みを伴って、ふっと身体が軽くなった。
もう一度――あの笑顔を見るんだ。もう、最悪の事態は頭に無かった。
一度意気込んでしまえば、後はすぐだ。過程の時間だけが切り取られたように、気づけば幽璃のいるであろう病室の前で立ち止まっていた。
気を遣ってか代わりに開けようとした先生を手で制し、扉の取っ手に手をかけると、自分で思っていたよりもずっとすんなりと、軽く扉は開いた。
しっかりと、彼女はそこに存在した。病室のベッドから半身を起こし、外を眺めていた。
すぐにこちらに気づいて振り向き、俺に向かって軽く笑顔さえ向けた。その笑顔に答えることもなく、ただ硬直したまま思いを巡らせた。
あまりに元気そうな姿に、拍子抜けするよりも先に――誰だ? そう口から漏れそうになったのを慌てて抑える。
別にその容姿が違ったわけでもないし、何か変な行動を見せたわけでもない。それでもどこか――雰囲気が違った。
「幽璃……?」
確かめるようにその名前を呼ぶと、幽璃は僅かに視線を俺から先生へとずらし、恐らく目で出て行くように促したのだろう。先生は俺の肩を軽くぽんと叩いて「今日はそのまま帰っていいからな」とだけ言い残して部屋を後にした。
「どうしたんですか兄さん。そんな不思議そうな顔をして」
一瞬だけ俺の視線は周囲を彷徨い、結論として目の前でこちらに笑みを向けている“彼女”に留まった。
彼女は本当に幽璃なのか、俺の妹なのか。何かがおかしいはずなのに、その違和感は水を掴むように形を変え、姿を見せようとはしない。
……いや、確かに幽璃は、俺の妹はこうだった。昔からあまり活動的ではなくて、病弱で――そうやって記憶を辿れば、確かに目の前の少女が幽璃だと分かる。貧血で倒れて保健室までおぶっていったり、風邪を引いた時に一晩中看病したり。確かに記憶は、目の前の彼女と幽璃を結びつけた。
「良かった……無事で、本当に良かった……!」
ゆっくりと近づいて、その弱々しくて力を込めれば折れてしまいそうな身体を、ぎゅっと抱きしめた。
「大丈夫ですよ……私はどこにも、行きませんから」
先程の違和感など忘れて、しばらく抱きしめたその身体の体温をただ感じ続けていた。
「あの、兄さん」
俺の手で抱きしめたままの幽璃が耳元で言葉を発した。吐息がくすぐったい。
「なんだ、腹でも空いたか」
「……ちょっと、苦しいです」
少し力を入れすぎてたか、反省。しかし後悔はしない。抱きしめる手を緩めてそのまま抱きしめ続ける。
「……そういう意味でもないのですが」
呆れたように溜息を吐いて、「暑いをつけて暑苦しいと言った方が良かったでしょうか」などと呟いて、押しのけられた。
また抱きつこうとしたら無言と視線で怒られた、すいませんでした。妹に平伏する俺は随分と滑稽に見える事だろう。
「兄さんはいつもより子供っぽいです……あとセクハラですよ」
「裸も見たことある相手にセクハラ呼ばわりされるとは何事だ」
もちろん、人形くらいのサイズの時に。
未だに少しだけ違和感が残っていたが、そんな事よりも疲労により脳が休息を要求するデモを起こして力づくで目のシャッターを下ろしにかかっている事の方が重要。もちろんデモの解決の為に幽璃の横で寝た。
しばらく身体を揺らされる感覚が続いて、酔った気がしたけど全然そんなことは無かったからおやすみ。
閑話休題。寝てるフリをして少し記憶の奥底を掘り進めてみた。結果的に硬い岩に当たって掘るのをやめた。無理。
「もう……病人でもないのに」
呆れたように嘆息する幽璃をよそにわざとらしくいびきをかいてみる。ぐー。
飽きて、また思考を巡らせる。違和感の正体は液体であるかのように姿を掴ませようとしない。深い所まで掘り起こしたせいで、余計な事まで思い出して――忘れるために、今度こそ、寝た。おやすみー。