迷子なの?
迷子なの?
仁実とは、大学の心理学の授業で知り合った。といっても、最初から特別に親しかったわけではない。同じ授業を取っていて、何度か話すうちに、一緒に昼食をとるようになった。 その日も、講義が終わると二人で大学の近くの店に入り、昼食を済ませてから駅へ向かった。
電車に乗ると、僕たちは並んで座った。まだ付き合い始めたばかりだったから、こうして二人でいることにも、僕はどこか慣れていなかった。仁実は窓の外を眺めていた。
しばらくして、ふと思い出したように言った。
「そういえば、さっきの心理学の話でさぁ……あの話面白かったよね」
「あの話?」
「人間って、怖いものを見ると、知ってるものに置き換えて見ちゃうことがあるんだって、そんな話していたね」
「ああ」と僕は吊り革の揺れに目をやりながら頷いた。
「案外、誰もが自分だけの都合のいい世界を見て生きているのかもしれないな」
「そういうことってあるかも知れないよね」
午前の講義で聞いた話を僕も思い出した。電車が次の駅に着いた。僕たちは乗り換えるためにホームへ降りた。階段へ向かおうとしたとき、少し先に、小さな男の子が立っているのが見えた。六歳くらいだろうか。周りをきょろきょろ見回している。人の流れから少し外れていて、どうしていいのか分からないでいるようにも見えた。
仁実が足を止めた。僕も立ち止まる。
「どうしたんだろう、迷子かな?」
仁実が静かに呟き、僕の顔を一度確かめてから、子供の目線に合わせてかがみ込んだ。そして、そっと声をかけた。
「どうしたの? 迷子になっちゃったの?」
男の子はすぐには答えなかった。少し考えてから、「迷子……うーん……」と言った。はっきりとした返事は返ってこなかった。拒絶でも承諾でもない、どこか不服そうな、萎え切らない態度だった。
「お父さんやお母さんはどこなのかなぁ?」
「お母さん、いなくなっちゃったの……」
男の子はつぶやいた。
仁実は僕の顔を見上げ、それから男の子の手を優しく握った。
「駅員さんのところに行ってみようか。一緒にお姉さんと探そう」
僕たちは男の子を連れて、駅員のいるところまで歩いた。駅員に引き渡すと、男の子は僕たちを振り返った。何か言いたそうだったが、結局、何も言わなかった。 僕たちはその場を離れた。
しばらく歩いてから、僕は言った。
「あの子、本当に迷子だったのかなぁ」
仁実は少し意外そうな顔をした。
「迷子でなければなんなの?」
「いや……」
僕は言葉を探した。
「そりゃ、はっきりしない言い方だったけど、自分が迷子になったと認めたくなかっただけでしょう?子供にはよくあることじゃない」
「そうかもしれないね」
(『迷子』……。)
「実はね……」僕は仁実のほうを向いた。「僕も、あの子と同じような状況を経験したことがあるんだ。僕がまだ小学校に上がる前の頃のことなんだけど」
そう言ってから、少し考えた。本当に、あれは『迷子』だったのだろうか。今でも、ときどき疑問に思う。
*****
僕が六歳のころのことだ。何月だったのか。どこへ行っていたのか。そういうことは、もうすっかり忘れた。けれど、電車の中で一人になったときのことは、覚えている。長い年月が過ぎても、そこだけは消えなかった。たぶん、あのときの僕は、忘れてはいけないことだと思っていたのだと思う。
あの日、母と、三つ年上の兄の義弘、孝子叔母さん、四歳の従姉妹の礼乃。それから僕と、みんなで出かけた帰り道だった。駅に着いて、電車が来る。ドアが開く。僕たちは車内に入った。やがて電車が動き出す。
少しして、僕は周囲を見渡した。母がいなかった。義弘兄さんもいなかった。孝子叔母さんも、礼乃もいない。知らない人ばかりだった。どうしていないのかは、分からなかった。いつからいなかったのかも。
僕は、もう一度、車内を見回した。少し離れたところに、孝子叔母さんによく似た人がいた。髪型が少し違うけれどきっと孝子叔母さんだ。でも期待して近づいてみると、さっきまで着ていた服と違う服を着ていた。
男の子がいた。義弘兄さんかもしれないと思った。けれど、その子も知らない子だった。小さな女の子がいた。礼乃に似ていた。その子をよく見たら礼乃よりも小さい子だった。それなのに、少し離れて見ると、また礼乃のように見えた。でも、その子が声を発すると、聞いたことのない話し声だった。僕は何度も車内を見た。知っている人はいない。なのに、知っている人に似た人はいる。そのたびに、僕は顔を確かめた。違う。また違う。どうして、どうして……。そこでようやく、僕は思った。(……ダメだ。さすがに無理がある)僕だけがこの電車に乗ったんだ。僕は、取り残されたんだ。胸の奥がひやりとした。
僕は小さい頭をひねって必死に考えた。この電車はきっと新宿へ行く……そうしたら小田急線、新宿、小田急線……そうだ、新宿で小田急線に乗り換えさえできれば何でもないことだ。何としてでも新宿で降りて小田急線に乗るんだ。新宿、小田急線乗り換え、新宿、小田急線乗り換え……。僕は心の中で何度も繰り返し呟いた。頭の中は「新宿」と「小田急線」という二つの言葉が占めていた。
新宿で電車を降りた。次は小田急線に乗りに行かなければならない、そう思った。けれど、どこへ行けばいいのか分からなかった。人がたくさんいた。僕はその中で立っていた。小田急線、小田急線、頭の中には、もうそれしかなかった。小田急線にさえ乗れれば……。どうしたらいいのか分からずにいると、知らない大人の人が声をかけてきた。
「どうしたの?迷子なの?」
(迷子?……僕は迷子になったんだっけ?)
新宿で電車を降りたいま、僕にとっては「小田急線に乗る」ということがすべてだった。
「……う、うん」僕は答えた。「小田急線に乗りたいんだけど……」
それだけは、はっきり言えた。
「小田急線?」
その人が聞き返した。僕はうなずいた。
「小田急線に乗れば、おうちに帰れる」
その人は、僕の顔を見た。
「小田急線に乗れたら一人でおうちに帰れるの?じゃあ、いっしょに行こうか」
僕はその人について歩いた。人の多いところを抜けて、小田急線のところまで連れていってもらった。小田急線の係員の人にも、訳を聞かれた。僕は、自分が一人になったことを話した。うまく説明できたかどうかは分からない。ただ、「小田急線に乗れば帰れる」ということだけは、何度も繰り返した。新宿で電車を降りることができた。あとは小田急線に乗るだけだ。大人の人たちは、僕の話を聞いていた。すぐ近くに小田急線の車両があった。「早く乗せてよ」と思ったが、大人同士でもいろいろと話している。
しばらくして、各駅停車の電車の最後尾に僕を乗せてくれた。車掌さんの目の届くところだ。ガラスの窓の向こうから、車掌さんが僕を確かめていた。
やがて目的地の駅についた。そこでも駅員さんが待ち構えていて、「ほんとうにひとりでおうちに帰れるの?」と聞いてきた。僕はただ「うん」と応えた。
そこから家に帰るまでのことは覚えていない。なにせ「新宿で降りる」「小田急線に乗る」という二つのことをクリアした今、他のことには関心がなかった。
「ただいま」家にたどり着き、声をかけると、居間には祖父の清司郎がいた。祖父はいつものように眼鏡の奥の目を少し細め、一人で帰ってきた僕を見て首をひねった。
「智志か……母さんたちはどうした?」
「うん、一人で帰ってきた」
「一人で?どういうことなんだ?」
祖父は驚いたように眉を寄せた。事態が全く読めないようだった。
「どうして一人なんだ。母さんたちとはぐれたのか?」
「電車に乗って一人になっちゃったの」
「なんで一人になったんだ?」
「迷子になったの!……ん?」
「どこで?」
「電車で」
「なんで電車に乗って一人になっちゃったんだ?」
「わかんないよ」
「迷子になったのに一人で帰ってきたのか?」
「違う、迷子じゃなくて……」
「今、迷子だって……」
祖父は困惑し、重ねて聞いた。けれど、幼い僕には起きたことを正確に伝えるだけの言葉の引き出しがなかった。
「だから……えぇっと……違うんだって」
祖母の久子がそばに来た。
「まあまあ、詳しいことは、信子さんから後で聞けばいいじゃない」
そう言って、僕のほうを見た。祖母は僕をなだめ、冷たいお茶を飲ませてくれた。僕はただお茶のグラスを握りしめていた。祖父は納得のいかない顔で腕を組み、煙草に火をつけた。祖母は、それ以上何も聞かなかったので、僕は少しだけほっとして眠りについた。
しばらくしてふと目覚めると、祖父が電話で誰かと話しているのが聞こえた。内容はわからなかったが「いますよ……よくわからないんですが……」と言っているのが聞こえた。
玄関のほうから声が聞こえた。青ざめた顔の母が入ってきた。後ろには息を切らした孝子叔母さんと礼乃、そして義弘兄さんもいた。
「ただいま、おじいちゃん、智志がいなくなっちゃってさぁ、大変だったんだ……」
僕は、その言葉を聞いていた。
母が義弘兄さんに言った。
「義弘、智志がいなくなっちゃった、というのは違うのよ」
「え、だって智志がさあっ……」
「でも違うの、智志はどこにも行っていないのよ」
母はしっかりとした目で義弘兄さんを見つめ、静かに、けれどはっきりと言った。僕は母を見た。
その日のことを、僕はあとになって聞いた。あのとき、みんなは一度電車に乗ったものの、行き先が違うことに気づいて慌てて降りたのだった。僕は先頭のほうで手すりにつかまっていたらしい。僕が知っていることと、あとから聞いたことは、少しずつ重なっていった。僕自身が覚えていることといえば、みんながいなくなったこと、 知らない人の顔が、何度も知っている人の顔に見えたこと。そして、「新宿で降りて小田急線に乗る」と何度も思ったこと。それだけは、今でもはっきり覚えている。
*****
「……っていうことがあったんだ」
電車の滑り込んでくる風が、ホームに立つ僕と仁実の髪を揺らした。仁実は僕の話を黙って聞いていた。僕が話を終えても、すぐには口を開かなかった。電車がホームに入り、ドアが開く。僕たちは乗客の波に押されるようにして車内へ入った。
仁実が僕の顔を見上げて言った。
「そっか……。智志くんにとっては、迷子じゃなかったんだね」
「うん、さっきの男の子ももしかしたら僕と同じように考えていたのかもしれない」
「私、あの子に『迷子なの?』って聞いちゃったね」仁実が小さく笑った。「あの子も、そうだったのかなぁ?」
「さあ」
(完)




