【短編】虐げられ令嬢に転生した元魔王ですが、冷酷と噂の公爵令息を愛でていたら懐かれました ~可愛いものを守っていただけなのに、義姉も婚約者も勝手に破滅していくようです~【連載版、別で始めました】
「前世で魔王だったのか、私」
目を覚まして最初に口から出たのは、そんな言葉だった。
しばらく天井を見上げたまま、私は瞬きを繰り返す。
ここは、オーケソン伯爵家にある私の部屋だ。
けれど今の私は、昨日までの私とは少し違っていた。
二日ほど続いていた高熱は、ようやく下がったらしい。
その代わり、妙にはっきりとした記憶があった。
ここ二日、私は夢を見ていた。
いや、夢というにはあまりに長く、あまりに鮮明だった。
黒い城に玉座。
眼前で、跪く魔族たち。
そして、玉座に座っていた一人の女。
それが私だった。
「……魔王、か」
自分で呟いてみても、不思議と違和感はなかった。
前世の私は魔王だった。
この世界と同じ場所なのか、それともまったく違う世界なのかはわからない。
ただ、性別は今と同じ女だった。
そして、今とは比べものにならないほど強かった。
最強の魔王で、魔族を統べる者。
敵などいなかった。
少なくとも、私の前に立って勝てる者はいなかった。
……なるほど。
そう思うと、今まで自分の中にあった妙な違和感にも説明がつく気がした。
私はリシェル・オーケソン。
十七歳、オーケソン伯爵家の令嬢。
ただし、あまり大切にされている令嬢ではない。
私は本妻の子ではなく、父が外に作った妾の子だった。
その妾である母も、今はもうこの家を出ている。
つまり、オーケソン伯爵家に私の味方はいない。
父は私に興味がない。伯爵夫人は私の存在そのものを嫌っている。
そして義姉のベッラは、私を見下すことで自分の立場を確かめているような人だった。
今までの私は、それに怯えていた。
嫌味を言われれば俯き、睨まれれば肩を震わせ、廊下の端を歩くような娘だった。
その記憶もある。
けれど今となっては、妙に遠いものに感じられた。
「たかが、家に居場所がないくらいで」
小さく呟くと、思わず笑みが漏れた。
何をそんなに怯えていたのだろう。
たしかに今のリシェルには、この家に居場所がないのかもしれない。
けれど、だから何だというのだ。
前世の私は魔族を統べていた。
追いやられ、恐れられ、逃げ場を失った者たちに、居場所を作っていた側だった。
ないなら作ればいい。それだけの話だ。
私はゆっくりと身体を起こした。
髪が肩から滑り落ちる。長い金の髪は、熱のせいか少し乱れていた。
指先で軽く梳くと、思っていたよりも細く柔らかい。
前世の私の髪は、もっと重く、黒く、炎の光を吸い込むような色をしていた気がする。
この身体は、前世とは違う。
けれど完全に弱いわけではない。
この身体には、十分な魔力がある。
前世の私からすれば小さな火種のようなものだが、学園に通う令嬢としてはかなり強い方だろう。
少なくとも、同年代の中で大きく劣ることはない。
「悪くはないな」
私は寝台から足を下ろした。
私は息を整え、それから立ち上がった。
鏡台の前へ行く。
そこには、見慣れているはずなのに少し見慣れない少女が映っていた。
金髪の長い髪、細身の身体。
顔立ちは悪くない。むしろ美しい部類だろう。
「ふむ」
私は少しだけ顎を引き、鏡の中の自分を見る。
怯えた娘ではない、卑屈な令嬢でもない。
ただ、少し眠たげな目をした、背の高い女がそこにいる。
「学園に行くか」
熱は下がった、ならば寝ている理由もない。
それに、私は今の世界をもう少し見てみたかった。
私は支度を始めた。
侍女は来ない。以前なら、それを悲しく思っていたかもしれない。
けれど今は、むしろ気楽だった。
誰かに身支度を任せるより、自分でやった方が早い。
髪を整え、制服へ袖を通し、最低限の荷物を持つ。
部屋を出ると、廊下は静かだった。
朝の伯爵家は、使用人たちが忙しく行き来している時間だ。
けれど私の方へ挨拶をする者はほとんどいない。
ちらりと見て、すぐに視線を逸らす。
まあ、そんなものだろう。
この家では、私に丁寧に接する必要はないと思われている。
私は廊下を歩いた。
いつもなら、足音を立てないようにしていた。
誰かの邪魔にならないよう、壁際を歩いていた。
けれど今日は、廊下の中央を歩く。
特に威張るつもりはない。
ただ、隠れる理由がなくなっただけだ。
すると角を曲がったところで、見覚えのある金髪が見えた。
義姉のベッラだった。
肩ほどの長さに整えられた金の髪。吊り上がった目元。
整ってはいるが、どこかきつい印象を与える顔立ち。
彼女は私を見るなり、わざとらしく目を丸くした。
「あら」
その声には、明らかな嘲りが混じっていた。
ベッラは口元に笑みを浮かべる。
「生きていたのね。二日も寝込んでいたから、そのまま死ぬのかと思ったわ。残念」
いつもなら、胸の奥が縮む言葉だった。
けれど今は、不思議なほど何も感じなかった。
死ねばよかったなどと言われたのに、怒りも恐怖も湧いてこない。
代わりに気になったのは、別のことだった。
私はベッラを見下ろす。
……この女は、こんなに小さかっただろうか。
いや、ベッラの背が縮んだわけではない。
私が背を丸めていないだけか。
今世の私は女性にしては背が高いほうだ。まあそれは前世でも同じだったが。
そのことに気づいたのは、どうやらベッラも同じだったらしい。
彼女は眉をひそめた。
「何よ、あんた」
「何がだ?」
私が普通に聞き返すと、ベッラは一瞬だけ言葉に詰まった。
その反応が少し面白い。
今までの私は、問い返すことすらしなかったのだろう。
「その態度よ。いつもみたいに背中を丸めていなさいよ」
「なぜ?」
「なぜって……!」
ベッラの頬がわずかに引きつる。
「目障りなのよ。あんたがそんなふうに堂々としていると」
「そうか」
私は頷いた。
そして、少しだけ笑った。
「なら、慣れることだな」
「は?」
「これからもこうする」
そう言って、私はベッラの横を通り過ぎようとした。
だが、ベッラはすぐに私の前へ回り込んだ。
「待ちなさいよ。病み上がりのくせに、ずいぶん偉そうじゃない」
「偉そうに見えるか?」
「見えるわよ」
「そうか。では、ようやく見る目が出てきたのだな」
「……何ですって?」
ベッラの目が吊り上がる。
怒っている。いつもの私なら、ここで謝っただろう。
けれど今の私は、謝る必要を感じなかった。
私はベッラを見下ろしたまま、静かに言った。
「私は今まで、ずいぶん小さく見せていたらしい。だが本来は、この程度の高さにいる」
「っ……!」
「お前が小さくなったわけではない。安心していい」
ベッラの顔が、かっと赤くなった。
「馬鹿にしているの!?」
「馬鹿にはしていないさ」
私は少し考える。
そして正直に答えた。
「だが……ふっ、少し可笑しいとは思っている」
「リシェル! あんた、熱でおかしくなったのかしら!?」
鋭い声が廊下に響いた。
使用人が何人か、遠巻きにこちらを見ている。
ベッラはそれにも気づいているようだった。
だから余計に引けないのだろう。
負けたと思われたくない。
見下していた妹に、言い返されたと思われたくない。
私は軽く息を吐いた。
「はぁ、すみません、ベッラ姉様」
あえて、いつもと同じように呼ぶ。
すると彼女は少しだけ勝ち誇ったような顔をした。
今までの私が戻ってきたと思ったのかもしれない。
だから私は、にこりと笑って言った。
「ふっ、お可愛いことだな」
「……え?」
「では、私は学園へ行く。熱も下がったのでな」
それだけ告げて、今度こそ横を通り過ぎる。
ベッラはしばらく黙っていた。
けれど私が少し進んだところで、背後から困惑した声が聞こえた。
「な、何なのよ、あいつ……」
いつものような怒鳴り声ではない。
本気でわからない、という声だった。
「あんなに堂々としていたかしら……?」
私は振り返らなかった。
けれど、少しだけ口元が緩む。
いい朝だ。高熱明けにしては、悪くない。
屋敷を出て、馬車に乗る。
学園まではそれほど遠くない。
馬車が学園へ到着して門の前で降りると、何人かの生徒がこちらを見たがすぐに視線を逸らす。
誰も私のことなど気にしないのだろう。まあ、気楽でいいが。
私は校門をくぐった。
その時、少し離れた場所から歓声が上がった。
「アルヴィン様よ!」
「今日も素敵……」
「お近づきになれないかしら」
「見て、こちらへ歩いていらっしゃるわ」
ずいぶん賑やかだ。
私は何となくそちらを見る。
人だかりの中心に、一人の男子生徒がいた。
銀色の髪。澄んだ青い瞳。整った顔立ち。
制服の着こなしも乱れがなく、歩く姿勢にも隙がない。
たしかに、見た目はいい。
周りの令嬢たちが騒ぐのもわからなくはなかった。
アルヴィン・ルンドホルム。
公爵家の嫡男で、学園でもっとも人気のある男子生徒の一人。
リシェルの記憶にも、その名前はあった。
成績優秀。容姿端麗。家柄も申し分ない。
ただ、無表情で近寄りがたいことから、冷たい人だとも噂されている。
今も彼は、周囲に騒がれているのにほとんど表情を変えない。
「あ、あの、アルヴィン様!」
一人の令嬢が勇気を出して声をかけた。
「お、お昼休み、ご一緒してもよろしいでしょうか?」
「……失礼、一人で行くところがあるので」
「そ、そうですか」
アルヴィンはその令嬢に微笑むでもなく、かといって邪険にするでもなく、ただ必要最低限の礼だけを返して歩いている。
なるほど、綺麗に整った人形のようだ。
令嬢たちはうっとりと彼を見つめている。
「アルヴィン様、本当にかっこいいわ」
「話しかけられたらどうしましょう」
「一度でいいから微笑んでいただきたいわ」
私はその横を通り過ぎた。
たしかに顔は整っている。
背も高い。銀髪も青い瞳も目を引く。
だが、残念ながら私の好みではない。
私は前世から、可愛いものが好きだった。
かっこいいものには、特に心が動かない。
自分がかっこいいとか美しいとか言われ慣れていた、というのもあったかもしれないが。
アルヴィンと呼ばれる公爵令息は、確かに美しい。
だが、遠くから眺めると石像と大差ない。
可愛いかと言われると、違う。
だから私は、特に興味を持たずに歩き続けた。
令嬢たちの騒ぎ声を背に、私は校舎へ入った。
私は廊下の窓の外へ目を向けた。
青い空が見える。学園の庭には木々が揺れている。
その枝に、小鳥が一羽止まっていた。
小さくて丸い、実に可愛い。
やはり、この人生は悪くないかもしれない。
少なくとも前世より、撫でたいものは多そうだ。
教室に入ると、ちょうど授業が始まるところだった。
私は自分の席に座り、教科書を開く。
今日の授業は、基礎魔法の構築式についてらしい。
教師が黒板に魔法陣の一部を書きながら説明している。
「魔力を流す際、まず重要なのは安定性です。勢いだけで魔力を流せば、術式は崩れます。特に火属性の初級魔法では――」
私は頬杖をつきながら、それを聞いていた。
聞いていた、というより、耳には入っていた。
内容は理解できる。
むしろ、理解できすぎる。
あまりにも初歩だった。
前世なら、幼い魔族が遊びで火花を散らす時に使っていた程度の理屈だ。
もちろん、今世の人間にとっては必要な基礎なのだろう。
それを馬鹿にするつもりはない。
基礎は大事だ。
前世の私も、魔族たちには散々そう教えた。
けれどすでに身体に染みついていることを、改めて一つずつ説明されるのは少し退屈だった。
私は窓の外を見る。
庭の木々が風に揺れている。
その枝に、先ほど見た小鳥とは別の小鳥が止まっていた。
丸い。非常に丸い。
羽毛がふくらんでいるのだろうか。
あれは撫でたら柔らかいのだろうか。
前世の私が近づけば、きっとあの小鳥は全力で逃げた。
場合によっては気絶したかもしれない。
だが今ならどうだろう。
今世の私は、前世ほどの威圧感はないはずだ。
上手く近づけば、指先くらいなら触れさせてくれるかもしれない。
そう考えると、授業よりもそちらの方が重要な気がしてきた。
「オーケソン嬢」
気づけば、名前を呼ばれていた。
私は窓の外から視線を戻す。
教師がこちらを見ていた。
教室の生徒たちも、こちらを見ている。
どうやら、ぼんやりしていたのが見つかったらしい。
「授業中に外を見るほど余裕があるのなら、今の説明はすべて理解しているのでしょうね」
教師の声には、少しだけ嫌味が混じっていた。
リシェルの記憶にあるこの教師は、特別に悪い人間ではない。
ただ、成績の悪い生徒には厳しい。
そして今までのリシェルは、魔法の成績があまりよくなかった。
正確には、魔力はあるのに制御が下手だった。
怯えながら魔法を使おうとすれば、魔力が乱れるのも当然だろう。
「理解はしている」
私が答えると、教室の空気が少し揺れた。
今までの私なら、ここで小さくなっていただろう。
けれど今の私は、特に気にならなかった。
教師は眉を上げる。
「では、前に出て実演してもらいましょう」
「実演?」
「初級火球です。先ほど説明した通り、魔法陣を展開し、小さな火球を作りなさい。もちろん、制御を崩さずに」
なるほど、小さな火球。
私は立ち上がった。
周囲から、抑えきれない笑い声が聞こえる。
「リシェルが?」
「大丈夫なのかしら」
「また失敗するんじゃない?」
「教師も意地が悪いわね」
まあ、好きに言えばいい。
黒板の前に立つと、教師が少し横へ避ける。
「では、やってみなさい」
「わかった」
私は右手を軽く上げる。
火球を作るだけなら、魔法陣を大きく展開する必要はない。
魔力を集め、熱へ変換し、形を保つ。
ただそれだけだ。
だが、それだけでは少し味気ない。
せっかく前に出たのだから、今世の魔法がどの程度のものなのか試してみるのも悪くない。
私は指先に魔力を集めた。
その瞬間、教室の空気が変わる。
前世の私なら、呼吸をするのと同じくらい自然に扱っていた力。
今世の身体では、まだ少しだけ窮屈だ。
けれど、扱えないほどではない。
私は魔力を細く編む。
指先に、小さな赤い光が灯った。
それはすぐに火球となる。
掌に乗るほどの大きさ。丸く、明るく、静かな火。
教室が静まり返った。
だが、まだ終わりではない。
私は少しだけ魔力を分ける。
一つだった火球が、二つになる。
二つが四つになる。四つが八つになる。
八つの小さな火球が、私の周囲に浮かんだ。
どれも同じ大きさで、同じ明るさを保っている。
「……っ」
教師が息を呑んだようだ。
私は火球を見上げる。
少し物足りない。火球だけだと、ただ燃えているだけだ。
私は指先を軽く動かした。
八つの火球がゆっくりと動く。
円を描き、列を作り、また円に戻る。
最後に火球同士が溶け合い、一つの大きな火の輪になった。
私は教師を見る。
「これでいいのか?」
教師はすぐには答えなかった。
口を少し開いたまま、火の輪を見ている。
生徒たちも同じだった。
先ほどまで私を笑っていた者たちが、今は声を失っている。
その顔を見て、私は少しだけ首を傾げた。
やりすぎただろうか。
いや、初級魔法の範囲は出ていない。
威力も抑えている。
前世なら、これくらいは子どもの遊びだ。
だから問題はないはずだ。
「オーケソン嬢……」
教師がようやく口を開いた。
「あなたは、いつの間にそれほどの制御を……?」
「……高熱で寝ている間に、少し思い出した」
「思い出した?」
「魔力は、力任せに流すものではない、ということを」
私はそう言って、火の輪を消した。
炎は音もなくほどけ、空気に溶けるように消えていく。
煙も残らない。
教室はしばらく静かだったが、ざわめきが広がった。
「今の、見た?」
「本当にリシェルなの?」
「ありえない……」
その中に、義姉のベッラの姿もあった。
彼女は信じられないものを見るように、私を見ている。
顔色が少し悪い。
朝はあれだけ元気に私を罵っていたのに、今は随分と静かだった。
私は彼女に軽く視線を向ける。
ベッラはびくりと肩を揺らした。
別に取って食うつもりはないのだが。
私は席へ戻ろうとした。
すると教師が、はっとしたように咳払いをする。
「……見事でした。オーケソン嬢、席へ戻ってかまいません」
「そうか」
私は頷き、自分の席へ戻る。
周囲の視線が刺さる。
先ほどまでの嘲りとは違う。
驚き。戸惑い。そして、少しの恐れ。
どれも前世ではよく向けられたものだった。
懐かしいと言えば、懐かしい。
けれど、今はあまり望んでいない。
できれば恐れられるより、小鳥に逃げられない方がいい。
そう思いながら席に座ると、授業が再開された。
私が窓の外を見ると、小鳥はまだ枝にいた。
まだ逃げていない。それだけで、少し気分がよくなった。
授業が終わると、教室はすぐに騒がしくなった。
生徒たちがこちらを見ながら、小声で話している。
直接話しかけてくる者はいない。
今まで落ちこぼれだと思っていた相手が、突然目の前で見事な魔法を見せたのだから。
私は教科書を閉じる。
昼休みまで、まだ少し時間がある。
次の授業までに、庭へ出られるだろうか。
あの小鳥がまだいるなら、少し近づいてみたい。
そう考えていると、私の机の前に影が落ちた。
「リシェル」
聞き覚えのある声だった。
顔を上げるとそこには、一人の男子生徒が立っていた。
茶色の髪に、多少は整った顔立ち。
制服はきちんと着ているが、どこか軽薄な印象がある。
エドガー・ナルティス。子爵家の嫡男で、私の婚約者。
そして、ベッラと隠れて親しくしている男だ。
リシェルの記憶に、その事実ははっきり残っていた。
校舎裏で二人が寄り添っていたこと。
ベッラがエドガーの腕に触れて笑っていたこと。
エドガーが「リシェルなんてどうでもいい」と言っていたこと。
以前のリシェルは、それに傷ついた。
胸を痛め、何日も眠れなかった。
けれど今の私は、驚くほど何も感じなかった。
好意がない相手に裏切られても、怒る理由がない。
せいぜい、婚約者という立場が面倒だと思うくらいだ。
「何だ?」
私が尋ねると、エドガーは少しだけ眉を動かした。
今までの私なら、彼に話しかけられただけで緊張していたのだろう。
だが彼はすぐに笑みを作った。
「いや、さっきの魔法を見て驚いたんだ。すごいじゃないか、リシェル。いつの間にそんなに勉強していたんだい?」
声は明るい。けれど、どこか上からだった。
褒めてやっている。そんな響きがある。
「別に」
「照れなくてもいい。さすが僕の婚約者だ」
教室の何人かがこちらを見る。
エドガーはそれを意識しているようだった。
私が突然目立ったから、自分もその隣に立とうとしている。
わかりやすい男だ。
「そうだ。ちょうどよかった」
エドガーは机に手をつく。
「次の課題で、少し難しい術式が出ているんだ。君が手伝ってくれるなら、僕も助かる」
「手伝う?」
「ああ。いや、君がやってくれてもいい。その代わり、今度デートしてあげるよ」
教室が少しざわついた。
私はエドガーを見上げる。
なるほど、これが婚約者か。
前世の戦いに何度も挑んできた魔族たちの方が、まだ礼儀を知っていた気がする。
「興味がない」
「……え?」
「デートにも、お前の課題にも興味がない」
エドガーの笑みが固まった。
周囲のざわめきが大きくなる。
私は続ける。
「課題など自分でやれ」
「リシェル、何を言っているんだ。僕たちは婚約者だろう?」
「ああ、そうだったな。忘れていた」
「忘れていたって……」
「ベッラ姉様と逢瀬を重ねる時間があるなら、課題くらいできるだろう」
その瞬間、教室が静まり返った。
エドガーの顔から血の気が引く。
少し離れた席にいたベッラも、こちらを振り向いた。
目が大きく見開かれている。
私は彼らを交互に見た。
「何だ。違うのか?」
「な、何を言っているんだ、君は」
エドガーは慌てて笑おうとした。
だが、声が少し震えている。
「変な冗談はやめてくれ。ベッラ嬢とは、ただ親しく話していただけで――」
「校舎裏で身を寄せ合い腕を組み、婚約者の私のことをどうでもいい女だ、と言うのが親しく話すという意味なら、そうなのだろうな」
今度こそ、誰かが吹き出した。
それをきっかけに、教室のあちこちから小さな笑い声が漏れる。
エドガーの顔が赤くなった。
怒りと羞恥が混ざった色だ。
「リシェル、君は何か誤解している……!」
「そうか」
「ああ、そうだ。だいたい、君は僕の婚約者なんだ。僕にそんな態度を取っていいと思っているのか?」
私は少し考えた。
そして、納得する。
「たしかに、それは問題かもしれないな」
エドガーの表情が少し緩む。
私が折れると思ったのだろう。
だから私は、穏やかに言った。
「では、近いうちに婚約解消を申し出ておこう」
「……は?」
「その方がお前も都合がいいだろう。ベッラ姉様の方が好みのようだしな」
また笑い声が広がった。
今度は隠しきれていない。
エドガーは周囲を見回し、さらに顔を赤くした。
「ふざけるな。君のような女が、僕から婚約解消を言い出されるならともかく、君から――」
「どちらからでも同じだろう」
私は立ち上がった。
エドガーは私より少し背が低い、こいつは男性の中では身長が低いからだ。
それもあって私よりもベッラを選んだのだろうが。
正面から見ると、自然と見下ろす形になった。
「私は、お前に興味がない」
「っ……!」
「だから近づいてこなくていい。課題も自分でやれ。できないなら教師に聞け」
エドガーは言葉を失っていた。
その顔には、怒りよりも困惑が強い。
今まで見下していた相手が、自分を見ていない。
その事実が、よほど理解できないのだろう。
私は教科書を持ち上げる。
そして、ふと思い出したように言った。
「ああ、それから」
「な、何だよ」
「次に女性を褒める時は、もう少し上手くやれ。下心が見えすぎている」
教室の笑い声が、一段大きくなった。
エドガーは唇を震わせる。
ベッラも顔を青くしたまま、何も言えずにいた。
私は興味を失ったので、二人から視線を外した。
エドガーは耐えられなくなったのか教室を出ていき、続いてベッラも出て行った。
時間は過ぎて、昼休みになった。
教室の中は、まだ少し騒がしかった。
私の魔法のこと。エドガーとベッラのこと。
その二つが、ちょうどいい話題になっているのだろう。
生徒たちはちらちらとこちらを見ながら、小声で何かを話している。
だが、直接近づいてくる者はいない。
まあ、それでいい。
今は誰かと話すよりも、もっと大事なことがある。
小鳥だ。いや、小鳥でなくてもいい。
できれば何か、柔らかくて、丸くて、温かい動物に触れたい。
私は教科書を机の中へしまい、席を立った。
教室を出ると、廊下には昼休みらしい賑わいがあった。
私は人混みを避けるように歩き、校舎の端へ向かった。
リシェルの記憶によると、校舎の裏手にはあまり人の来ない庭がある。
整えられた中庭と違い、少し木々が多く、昼休みでも静かな場所らしい。
今までのリシェルは、誰かに見つからないようにそこへ行っていた。
ただ一人になりたかったのだろう。
今の私も、目的は少し違うが、静かな場所へ行きたい。
裏庭へ出ると、空気が少し変わった。
表の中庭よりも木陰が多く、風が涼しい。
人の声も遠い。木々の葉が揺れる音だけが、耳に心地よく届く。
「ここか」
私はゆっくりと歩いた。
小鳥の姿は見えない。
だが、どこかで小さな鳴き声がした。
警戒させないように足音を抑える。
前世の私なら、足音を消したところで無駄だった。
存在そのものが強すぎて、近づいただけで小さな生き物たちは逃げてしまった。
けれど今世なら……そう思った時だった。
「……ん?」
茂みの向こうで、何かが動いた。
草の間から、ふわりと尻尾が見える。
細く、しなやかで、先が少し丸い。
そして、ひょいと顔が出た。
「にゃぁ」
猫だった。灰色の毛並みをした、小さな猫。
丸い目で、こちらを見ている。
私は息を止めた。
猫、猫だ。前世の私に、最も近づいてこなかった生き物の一つだ。
逃げる前に、必ず全身の毛を逆立てた。
背を丸め、尻尾を太くし、まるで私が世界を滅ぼしに来たような顔をする。
可愛いと思って近づいただけなのに、なぜあそこまで敵意を向けられたのか。
あれは、今思い出しても少し悲しい。
私はその場にしゃがみ込んだ。
できるだけ小さく見せる。
背が高いのは悪いことではないが、猫を相手にする時は別だ。
私は右手を少しだけ伸ばす。
「こ、怖くないぞ」
声を低く、静かにする。若干震えてしまうのは緊張しているからだ。
猫はじっと私を見ていた。
逃げない。まだ逃げない。
それだけで、胸の奥が妙に熱くなる。
猫は少し首を傾げた。
そして、一歩こちらへ近づく。
私は動かない。
さらに一歩近づき、猫は私の指先の匂いを嗅いだ。
くすぐったい……それから、猫は私の指に頬を擦りつけた。
「……っ」
私は思わず息を呑んだ。
逃げない。この猫、逃げない。
それどころか、触れている。
私に、自分から触れている。
私は震えそうになる指先を必死に抑えながら、猫の頬をそっと撫でた。
柔らかい。想像していたよりも、ずっと柔らかい。
毛が細く、温かく、指の腹にふわりと沈む。
猫は目を細めた。
喉の奥で、小さく鳴るような音がする。
これは、嫌がっていないということだろうか。
むしろ、気持ちよさそうにしているのではないか。
「……生まれ変わってよかった」
思わず本音が漏れた。
前世で玉座に座っていた時よりも、今の方がよほど満たされている気がする。
「そうか。お前は逃げないのか」
私は猫の頭を撫でる。
猫はまた目を細めた。
愛らしい。あまりにも愛らしい。
このまま胸元に入れて持ち帰りたい。
いや、勝手に持ち帰るのはよくないか。
だが、抱き上げるくらいなら許されるのではないか。
そう考えた瞬間、猫はふいと身を翻した。
「あ……」
猫は軽やかに歩き出す。
逃げるというより、どこかへ案内するような足取りだった。
私は立ち上がり、後を追う。
猫は裏庭の奥へ進んでいく。
木々が深くなり、校舎からさらに離れる。
猫は時々こちらを振り返る。
「にゃあ」
ついてこい、と言われている気がした。
「待て。私はお前ほどこの木々を潜り抜けるのが上手くないんだ」
小声で言いながら追いかける。
しばらく進むと、大きな木が見えた。
その木陰に、誰かがいた。
私は足を止める。
人だ。男子生徒が、木にもたれるようにして眠っている。
銀色の髪に整った顔立ち。澄んだ青い瞳は、今は閉じられている。
朝、令嬢たちに囲まれていた公爵令息。
アルヴィン・ルンドホルムだった。
だが、問題はそこではない。
問題は、彼の周囲だ。
猫がいる。
一匹ではない。二匹、三匹、四匹。
いや、もっといる。
彼の膝の上に丸まっている猫。
肩の近くで眠っている猫。
足元で尻尾を揺らしている猫。
先ほどの灰色の猫も、当然のように彼の近くへ行き、膝のあたりに身を寄せた。
私はしばらく、その光景を見つめた。
「……羨ましいぞ、こいつ」
思わず呟いた。
猫に囲まれている。
あれほど多くの猫に囲まれている。
しかも、逃げられていない。
それどころか、完全に安心されている。
猫たちは彼のそばで、無防備に身体を預けていた。
何ということだ。
公爵令息という身分よりも、整った顔立ちよりも、その状況の方がよほど羨ましい。
猫がいる場所で眠れる。それはきっと、とても贅沢なことだ。
私は近づいた。
猫たちはこちらを見る。
少し警戒されるかと思ったが、逃げなかった。
灰色の猫が小さく鳴くと、他の猫たちも興味を失ったように目を細める。
どうやら、入ってもいいらしい。
猫の許可が出た。
私は静かにアルヴィンの前にしゃがみ込む。
彼は眠っていた。
朝見た時は、綺麗に整った人形のようだと思った。
表情が動かず、近寄りがたく、冷たい印象があった。
けれど今は違う。
眠っているアルヴィンは、少しだけ眉の力が抜けていた。
長い睫毛が頬に影を落としている。
呼吸は静かで、猫に囲まれているせいか、どこか安心しきっているようにも見えた。
「寝顔は意外と愛らしいな」
声に出してから、私は自分の言葉に少し納得した。
そうだ、これは愛らしい。
朝の石像のような姿より、今の方がずっといい。
猫に囲まれ、木陰で眠っている公爵令息。
私はつい、手を伸ばした。
銀色の髪に触れる。
柔らかい。猫の毛とは違うが、これはこれで悪くない。
指先でそっと撫でると、アルヴィンのまぶたがわずかに動いた。
起こしてしまうかと思ったが、彼は目を覚まさない。
むしろ、気持ちよさそうに少し頭を傾けた。
「……む」
私はもう一度撫でる。
髪はさらさらとしていて、指通りがいい。
猫とは違う。だが、猫にも負けていないかもしれない。
「やるな、アルヴィン・ルンドホルム」
何に対してやるな、なのか自分でもよくわからないが。
すると、アルヴィンが小さく息を漏らした。
ゆっくりと目が開く。澄んだ青い瞳が、ぼんやりと私を映した。
まだ完全には目覚めていないらしい。
朝の冷たい印象はどこにもない。
どこか幼く、無防備な目だった。
「……ん」
アルヴィンは私を見る。
それから、なぜか私の手に頬を寄せた。
擦り寄るように。
猫のように。
私は固まった。
猫たちも何事もないように眠っている。
アルヴィンは眠たげな顔のまま、さらに私の手に頬を預ける。
銀色の髪が、彼の頬が、指に触れた。
温かい。柔らかい。
そして、ひどく無防備だ。
(これは……愛らしすぎる)
胸の奥で、何かが弾けた気がした。
私は猫が好きだ。
小さくて、柔らかくて、可愛いものが好きだ。
だが、これは何だ。
人間なのに、猫のようなことをしている。
しかも、朝はあれほど冷たい顔をしていた男が、寝ぼけて頬を擦り寄せている。
この落差はずるい。
私はもう一度、そっと頭を撫でた。
アルヴィンは目を細める。
完全に猫だった。
「……夢?」
アルヴィンが小さく呟いた。
声が眠い。
「夢ではないと思うぞ」
「……いつもの夢じゃ……」
「いつもの夢?」
私が聞き返すと、アルヴィンの目が少しずつはっきりしてきた。
そして、自分が何をしているのか理解したらしい。
彼は勢いよく身を起こした。
「にゃっ」
膝の上で眠っていた猫が、不満そうに鳴く。
「えっ」
アルヴィンは私を見た。
次に、自分の周囲の猫を見る。
そしてもう一度、私を見る。
見る見るうちに、その顔が赤くなった。
「ゆ、夢じゃない……?」
「ああ」
「いつもの夢で、撫でられているんじゃ……」
そこまで言って、アルヴィンは口を閉じた。
私はまじまじと彼を見る。
こいつ……いつも撫でられている夢を見ているのか。
だから今のも夢だと思って、私に擦り寄ってきたのか。
(愛らしすぎないか?)
私は真剣にそう思った。
朝の令嬢たちは、彼の微笑みが見たいと言っていた。
だが違う、本当に見るべきはこれだ。
猫に囲まれ、寝ぼけて撫でられる夢を見ている公爵令息。
これを知らずに、ただ綺麗だか格好いいだか言っているのは浅い。
「す、すまない……!」
アルヴィンは慌てて私から距離を取ろうとした。
だが周囲に猫がいるせいで、大きくは動けない。
猫たちは迷惑そうに尻尾を揺らしている。
「今のことは忘れてくれ」
「断る」
「……なぜ即答するんだ」
「実に愛らしかったからだ」
「あ、愛らしかっただと?」
アルヴィンの顔がさらに赤くなる。
朝の無表情な公爵令息はどこへ行ったのだろう。
目の前にいるのは、ただ照れている少年だった。
なるほど、これはいい。
「ああ、もう一度撫でたいからそこに横になれ」
「なっ……そ、そんなことはしない!」
「そうか? 夢に見るほどに撫でられたいんじゃないのか?」
「くっ……!」
アルヴィンは言葉に詰まった。
否定したいのに、先ほど自分で口走ってしまったため、否定しきれないらしい。
実にわかりやすい。
「安心しろ。別に馬鹿にはしていない」
「……本当か?」
「ああ。ただ、かなり可愛いとは思っている」
「それは馬鹿にしているのと何が違うんだ……」
「大きく違う。可愛いは褒め言葉だ」
アルヴィンは片手で顔を覆った。
耳まで赤い。
猫の一匹が、そんな彼の膝に前足を乗せる。
アルヴィンは反射的にその猫を撫でた。
指先が優しい。
慣れている手つきだった。
猫は満足そうに目を細める。
私はその光景を見て、さらに感心した。
猫に好かれるだけではなく、扱いも上手い。
これは本当に持ち帰りたいな、猫ごと、こいつも。
「……ところで、お前は」
アルヴィンが少しだけ落ち着いた声で言った。
「名前は?」
「リシェル・オーケソンだ」
「オーケソン……」
「ああ。そういうお前は、アルヴィン・ルンドホルムだな」
朝に見たから知っている。
周囲の令嬢たちが名前を呼んでいたので、覚える気がなくても覚えた。
私は彼を見ながら、少し考えた。
「長いな」
「何がだ?」
「名前が」
「普通だと思うが」
「今日からアルと呼ぶ」
アルヴィンは目を瞬かせた。
そして、また少し赤くなった。
「っ、その呼び方は家族しか……」
「そうか」
私は頷いた。そして、笑みを浮かべる。
「では私も呼ぶぞ」
「どうしてそうなる」
「呼びやすいからだ」
「理由が強引すぎると思うが……お前、年下だし伯爵令嬢だよな? 俺は公爵令息だぞ」
「それが? 嫌ならやめるが」
私がそう言うと、アルヴィンは少し言葉に詰まった。
視線を逸らす。
膝の上の猫を撫でながら、しばらく黙る。
そして、小さく息を吐いた。
「……勝手にしろ」
「そうか。では、アル」
「すぐ呼ぶな」
「慣れたほうがいい」
「君は本当に勝手だな」
「よく言われた」
前世でだが。
アルは呆れたようにこちらを見た。
けれど、その目に強い拒絶はない。
むしろ、困っているだけに見える。
何とも素直ではない。
言葉では嫌がるくせに、完全には離れようとしない。
まるで猫のようだ。
そう思ったら、また手が伸びていた。
私はアルの頭を撫でる。
「なっ……」
アルは少し身じろぎした。
拒むかと思った。
だが、彼は何も言わなかった。
ただ耳まで赤くしたまま、目をつぶる。
灰色の猫が、どこか満足そうに「にゃ」と鳴いた。
猫たちの間で、銀色の髪が指に触れる。
柔らかい。温かい。実に愛らしい。
私は静かに確信した。
アルヴィン・ルンドホルム。
いや、アル。この男は、かなり可愛い。
少なくとも、猫に次ぐくらいには。
午後の授業も終わり、放課後になった。
生徒たちは相変わらず、ちらちらとこちらを見ている。
どうやら今日一日で、私はずいぶん目立つ存在になってしまったらしい。
別に目立ちたかったわけではないのだが。
まあ、どうでもいい。
私は鞄に教科書を入れ、席を立ち教室を出た。
廊下には帰ろうとする生徒たちが多くいた。
その中で、少し先に見覚えのある銀色の髪が見えた。
アルヴィン・ルンドホルム。
朝は周囲に令嬢たちが群がっていたが、今は一人で歩いている。
相変わらず背筋が伸びていて、制服の着こなしにも乱れがない。
人前では、やはり綺麗に整った人形のようだ。
昼休みに猫に囲まれて眠っていた男と同一人物とは思えない。
だが、私はもう知っている。
あの無表情の下には、撫でられる夢を見る、なかなか愛らしいものが隠れている。
「アル」
私が声をかけると、周囲の空気が一瞬止まった。
近くにいた生徒たちが、一斉にこちらを見る。
何だ、そんなに変なことを言っただろうか。
アルは足を止めて振り返る。
最初は少し驚いた顔をしていたが、すぐに私だと気づいたらしい。
彼はわずかに眉を寄せた。
「……リシェルか」
その瞬間、周囲のざわめきが一段大きくなった。
「今、アルヴィン様を愛称で……?」
「しかも、アルヴィン様も普通に返事をしたわ」
「リシェル・オーケソンって、今日魔法や婚約者で騒ぎになっていた子よね?」
聞こえている。だが、いちいち反応するほどのことではない。
私はアルの方へ歩いていく。
「帰るのか?」
「ああ」
「そうか。なら途中まで一緒に行くか」
「……決定事項なのか?」
「嫌なのか?」
私が聞くと、アルは一瞬だけ言葉に詰まった。
それから視線を逸らす。
「嫌とは言っていない」
「では問題ないな」
「君は本当に勝手だな」
「よく言われた」
前世でだが。
アルは小さくため息をついた。
だが、私が隣に並ぶことを拒みはしなかった。
私たちは並んで歩き出す。
すると廊下の視線が、一気にこちらへ集まった。
アルはやはり目立つ。
歩いているだけで、周囲の令嬢たちが息を呑む。
そして今日は、その隣に私がいる。
つい先日まで、誰にも気にされていなかったリシェル・オーケソン。
落ちこぼれで、地味で、婚約者にも見下されていた令嬢。
その私が、学園でもっとも人気のある公爵令息と並んで歩いている。
なるほど、騒がれる理由はわからなくもない。
昇降口へ向かう途中、廊下の端にベッラの姿が見えた。
彼女は友人らしき令嬢たちと一緒にいた。
だが、私とアルを見た瞬間、表情が固まった。
「……なんで」
小さな声だったが、聞こえた。
「なんで公爵令息のアルヴィン様が、あんな女と……」
ベッラの顔は、悔しさで歪んでいた。
朝、私を見下していた時の余裕はない。
私が魔法を使ったこと。エドガーのことを人前で暴いたこと。
それだけでも気に入らなかったのだろう。
そこに、アルまで加わった。
彼女にとっては、ずいぶん面白くない一日だったに違いない。
まあ、私には関係ないが。
私はそのまま通り過ぎようとした、その時だった。
「待て、リシェル」
今度は別の声がした。
振り返ると、エドガーがこちらへ歩いてきていた。
顔にはまだ少し怒りが残っている。
けれどそれ以上に、焦りの方が強く見えた。
彼の視線は、私とアルを交互に見ている。
「何だ?」
私が尋ねると、エドガーは一瞬だけアルを見た。
公爵令息を前にして、強くは出にくいのだろう。
それでも、彼は私に向かって言った。
「君、何をしているんだ。僕たちは婚約者だろう?」
周囲がまたざわついた。実にわかりやすい男だ。
昼には、自分が出された課題に私を利用しようとした。
今度はアルの隣にいる私を見て、急に婚約者という立場を思い出したらしい。
「ああ、そうだったな」
私は頷いた。
「だが、お前はベッラ姉様の方がお気に入りだったはずだ」
エドガーの顔が引きつった。
ベッラも、少し離れた場所で肩を揺らした。
「だから、それは誤解だと――」
「校舎裏で身を寄せ合うのが誤解なら、私には真実との違いがよくわからないな」
くす、と誰かが笑った。
エドガーは顔を赤くする。
「リシェル、いい加減にしろ。婚約者をこんなふうに扱って――」
「私はもう帰る」
私は彼の言葉を遮った。
「話があるなら、婚約解消の場で聞く」
「婚約解消って……本気で言っているのか?」
「冗談で言うほど面白い話でもないだろう」
エドガーは言葉を失った。
私は彼から視線を外す。もう興味がなかった。
「行くか、アル」
「……ああ」
アルは少しだけこちらを見た。
何か言いたげだったが、結局何も言わなかった。
私たちはそのまま歩き出した。
背後から、エドガーの悔しそうな声が聞こえた。
ベッラも何か言いたそうにしていたが、周囲の視線があるせいか、口を開けないようだった。
昇降口を出ても、注目は続いた。
アルと私が並んでいるだけで、これほど騒がれるものなのか。
私は隣を歩くアルを見た。
「アル、お前も大変だな」
「何がだ」
「ずっと見られている」
「それは……今日は君のせいでもあると思うが」
「そうか?」
「そうだ」
アルは少し疲れたように言った。
だが、私から離れようとはしない。
私は周囲を見る。
好奇心。驚き。嫉妬。困惑。
いろいろな視線が混ざっている。
だが前世では、もっと重い視線を浴びていた。
畏怖。崇拝。敵意。殺意。
それらに比べれば、今の視線などずいぶん軽い。
だから、特に気にならない。
アルはそんな私を横目で見た。
「なぜお前は、この注目度で堂々と歩いていられるんだ?」
「ん? まあ、慣れているからな」
「慣れている?」
「ああ」
前世でだが。そう付け加える必要はないだろう。
言っても信じるかどうかわからない。
アルは不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞いてこなかった。
少しの間、二人で並んで歩く。
校門が近づいてきた。
このまま出れば、それぞれの馬車が待っている場所へ向かうことになる。
私はふと思い出し、隣のアルに小さな声で話しかけた。
「アル」
「……なんだ」
「また放課後、動物が多い場所へ案内してくれ」
アルは少しだけ目を伏せた。
昼休みのことを思い出したのだろう。
耳がほんのり赤くなる。実にわかりやすい。
「……わかった」
「そうか」
私は満足して頷いた。
やはりアルは役に立つ。
猫に好かれ、動物のいる場所を知っている。
それだけでも、この学園でかなり価値のある存在だ。
私は少し笑った。
「ふっ、お前のことも撫でてやるから嫉妬するな」
「っ、嫉妬なんてするはずないだろ!」
アルが声を上げた。
そのせいで、また周囲の生徒たちがこちらを見る。
アルはそれに気づき、さらに顔を赤くした。
私は思わず口元を緩める。
「そうか。なら、猫だけ撫でる」
「……それはそれで、何か違う気がする」
「何だ。やはり撫でられたいのか?」
「違う!」
即答だった。だが、否定が早すぎる気もする。
私はアルを見上げる。
彼は視線を逸らしている。
実に猫のようだ。近づくと逃げるくせに、完全には離れない。
撫でると身じろぎするくせに、嫌がりきれない。
その様子が、また愛らしい。
校門の近くで、私はふと振り返った。
少し離れた場所に、ベッラとエドガーがいた。
二人とも、こちらを見ている。
ベッラは唇を噛み、悔しそうに顔を歪めていた。
エドガーもまた、何かを言いたげに拳を握っている。
だが、もう近づいてはこない。
私は二人から視線を外した。
見下されていた。軽んじられていた。邪魔者のように扱われていた。
その記憶はある。
だが、不思議と胸は痛まなかった。
私はもう、彼らの顔色を窺う必要がない。
居場所がないなら作ればいい。
欲しいものがあるなら、自分で手を伸ばせばいい。
今世の私は、猫にも触れられる。
そして、隣には猫のような公爵令息もいる。
私は隣のアルを見る。
「アル」
「今度は何だ」
「また明日も、あの裏庭に行くぞ」
「……俺に拒否権は?」
「嫌ならアルは来なければいい、私は行くぞ」
そう答えると、アルは少し黙った。
それから、小さく息を吐く。
「……勝手にしろ」
「そうか。では勝手にする」
私は頷いた。
アルは呆れたように見えたが、やはり拒まなかった。
私は校門の向こうへ歩き出す。
夕方の風が、少しだけ髪を揺らした。
私は口元を緩める。
やはり、この人生は悪くない。
面白かったら本編の下の方にある☆☆☆☆☆から評価を入れていただけると嬉しいです!
ブックマークもしていただくとさらに嬉しいです!




