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虐げられ令嬢に転生した元魔王

【短編】虐げられ令嬢に転生した元魔王ですが、冷酷と噂の公爵令息を愛でていたら懐かれました ~可愛いものを守っていただけなのに、義姉も婚約者も勝手に破滅していくようです~【連載版、別で始めました】

作者: shiryu
掲載日:2026/07/17


「前世で魔王だったのか、私」


 目を覚まして最初に口から出たのは、そんな言葉だった。


 しばらく天井を見上げたまま、私は瞬きを繰り返す。

 ここは、オーケソン伯爵家にある私の部屋だ。


 けれど今の私は、昨日までの私とは少し違っていた。

 二日ほど続いていた高熱は、ようやく下がったらしい。

 その代わり、妙にはっきりとした記憶があった。


 ここ二日、私は夢を見ていた。

 いや、夢というにはあまりに長く、あまりに鮮明だった。

 黒い城に玉座。


 眼前で、跪く魔族たち。

 そして、玉座に座っていた一人の女。

 それが私だった。


「……魔王、か」


 自分で呟いてみても、不思議と違和感はなかった。

 前世の私は魔王だった。

 この世界と同じ場所なのか、それともまったく違う世界なのかはわからない。


 ただ、性別は今と同じ女だった。

 そして、今とは比べものにならないほど強かった。

 最強の魔王で、魔族を統べる者。


 敵などいなかった。

 少なくとも、私の前に立って勝てる者はいなかった。

 ……なるほど。


 そう思うと、今まで自分の中にあった妙な違和感にも説明がつく気がした。


 私はリシェル・オーケソン。

 十七歳、オーケソン伯爵家の令嬢。


 ただし、あまり大切にされている令嬢ではない。

 私は本妻の子ではなく、父が外に作った妾の子だった。

 その妾である母も、今はもうこの家を出ている。


 つまり、オーケソン伯爵家に私の味方はいない。

 父は私に興味がない。伯爵夫人は私の存在そのものを嫌っている。

 そして義姉のベッラは、私を見下すことで自分の立場を確かめているような人だった。


 今までの私は、それに怯えていた。

 嫌味を言われれば俯き、睨まれれば肩を震わせ、廊下の端を歩くような娘だった。


 その記憶もある。

 けれど今となっては、妙に遠いものに感じられた。


「たかが、家に居場所がないくらいで」


 小さく呟くと、思わず笑みが漏れた。

 何をそんなに怯えていたのだろう。

 たしかに今のリシェルには、この家に居場所がないのかもしれない。


 けれど、だから何だというのだ。

 前世の私は魔族を統べていた。

 追いやられ、恐れられ、逃げ場を失った者たちに、居場所を作っていた側だった。


 ないなら作ればいい。それだけの話だ。

 私はゆっくりと身体を起こした。

 髪が肩から滑り落ちる。長い金の髪は、熱のせいか少し乱れていた。


 指先で軽く梳くと、思っていたよりも細く柔らかい。

 前世の私の髪は、もっと重く、黒く、炎の光を吸い込むような色をしていた気がする。

 この身体は、前世とは違う。


 けれど完全に弱いわけではない。

 この身体には、十分な魔力がある。


 前世の私からすれば小さな火種のようなものだが、学園に通う令嬢としてはかなり強い方だろう。

 少なくとも、同年代の中で大きく劣ることはない。


「悪くはないな」


 私は寝台から足を下ろした。

 私は息を整え、それから立ち上がった。

 鏡台の前へ行く。


 そこには、見慣れているはずなのに少し見慣れない少女が映っていた。

 金髪の長い髪、細身の身体。

 顔立ちは悪くない。むしろ美しい部類だろう。


「ふむ」


 私は少しだけ顎を引き、鏡の中の自分を見る。

 怯えた娘ではない、卑屈な令嬢でもない。

 ただ、少し眠たげな目をした、背の高い女がそこにいる。


「学園に行くか」


 熱は下がった、ならば寝ている理由もない。

 それに、私は今の世界をもう少し見てみたかった。

 私は支度を始めた。


 侍女は来ない。以前なら、それを悲しく思っていたかもしれない。

 けれど今は、むしろ気楽だった。

 誰かに身支度を任せるより、自分でやった方が早い。


 髪を整え、制服へ袖を通し、最低限の荷物を持つ。

 部屋を出ると、廊下は静かだった。

 朝の伯爵家は、使用人たちが忙しく行き来している時間だ。


 けれど私の方へ挨拶をする者はほとんどいない。

 ちらりと見て、すぐに視線を逸らす。

 まあ、そんなものだろう。


 この家では、私に丁寧に接する必要はないと思われている。

 私は廊下を歩いた。

 いつもなら、足音を立てないようにしていた。


 誰かの邪魔にならないよう、壁際を歩いていた。

 けれど今日は、廊下の中央を歩く。

 特に威張るつもりはない。


 ただ、隠れる理由がなくなっただけだ。

 すると角を曲がったところで、見覚えのある金髪が見えた。

 義姉のベッラだった。


 肩ほどの長さに整えられた金の髪。吊り上がった目元。

 整ってはいるが、どこかきつい印象を与える顔立ち。

 彼女は私を見るなり、わざとらしく目を丸くした。


「あら」


 その声には、明らかな嘲りが混じっていた。

 ベッラは口元に笑みを浮かべる。


「生きていたのね。二日も寝込んでいたから、そのまま死ぬのかと思ったわ。残念」


 いつもなら、胸の奥が縮む言葉だった。

 けれど今は、不思議なほど何も感じなかった。

 死ねばよかったなどと言われたのに、怒りも恐怖も湧いてこない。


 代わりに気になったのは、別のことだった。

 私はベッラを見下ろす。

 ……この女は、こんなに小さかっただろうか。


 いや、ベッラの背が縮んだわけではない。

 私が背を丸めていないだけか。

 今世の私は女性にしては背が高いほうだ。まあそれは前世でも同じだったが。


 そのことに気づいたのは、どうやらベッラも同じだったらしい。

 彼女は眉をひそめた。


「何よ、あんた」

「何がだ?」


 私が普通に聞き返すと、ベッラは一瞬だけ言葉に詰まった。

 その反応が少し面白い。

 今までの私は、問い返すことすらしなかったのだろう。


「その態度よ。いつもみたいに背中を丸めていなさいよ」

「なぜ?」

「なぜって……!」


 ベッラの頬がわずかに引きつる。


「目障りなのよ。あんたがそんなふうに堂々としていると」

「そうか」


 私は頷いた。

 そして、少しだけ笑った。


「なら、慣れることだな」

「は?」

「これからもこうする」


 そう言って、私はベッラの横を通り過ぎようとした。

 だが、ベッラはすぐに私の前へ回り込んだ。


「待ちなさいよ。病み上がりのくせに、ずいぶん偉そうじゃない」

「偉そうに見えるか?」

「見えるわよ」

「そうか。では、ようやく見る目が出てきたのだな」

「……何ですって?」


 ベッラの目が吊り上がる。

 怒っている。いつもの私なら、ここで謝っただろう。


 けれど今の私は、謝る必要を感じなかった。

 私はベッラを見下ろしたまま、静かに言った。


「私は今まで、ずいぶん小さく見せていたらしい。だが本来は、この程度の高さにいる」

「っ……!」

「お前が小さくなったわけではない。安心していい」


 ベッラの顔が、かっと赤くなった。


「馬鹿にしているの!?」

「馬鹿にはしていないさ」


 私は少し考える。

 そして正直に答えた。


「だが……ふっ、少し可笑しいとは思っている」

「リシェル! あんた、熱でおかしくなったのかしら!?」


 鋭い声が廊下に響いた。

 使用人が何人か、遠巻きにこちらを見ている。

 ベッラはそれにも気づいているようだった。


 だから余計に引けないのだろう。

 負けたと思われたくない。


 見下していた妹に、言い返されたと思われたくない。

 私は軽く息を吐いた。


「はぁ、すみません、ベッラ姉様」


 あえて、いつもと同じように呼ぶ。

 すると彼女は少しだけ勝ち誇ったような顔をした。


 今までの私が戻ってきたと思ったのかもしれない。

 だから私は、にこりと笑って言った。


「ふっ、お可愛いことだな」

「……え?」

「では、私は学園へ行く。熱も下がったのでな」


 それだけ告げて、今度こそ横を通り過ぎる。

 ベッラはしばらく黙っていた。

 けれど私が少し進んだところで、背後から困惑した声が聞こえた。


「な、何なのよ、あいつ……」


 いつものような怒鳴り声ではない。

 本気でわからない、という声だった。


「あんなに堂々としていたかしら……?」


 私は振り返らなかった。

 けれど、少しだけ口元が緩む。

 いい朝だ。高熱明けにしては、悪くない。


 屋敷を出て、馬車に乗る。

 学園まではそれほど遠くない。

 馬車が学園へ到着して門の前で降りると、何人かの生徒がこちらを見たがすぐに視線を逸らす。


 誰も私のことなど気にしないのだろう。まあ、気楽でいいが。

 私は校門をくぐった。

 その時、少し離れた場所から歓声が上がった。


「アルヴィン様よ!」

「今日も素敵……」

「お近づきになれないかしら」

「見て、こちらへ歩いていらっしゃるわ」


 ずいぶん賑やかだ。

 私は何となくそちらを見る。

 人だかりの中心に、一人の男子生徒がいた。


 銀色の髪。澄んだ青い瞳。整った顔立ち。

 制服の着こなしも乱れがなく、歩く姿勢にも隙がない。

 たしかに、見た目はいい。


 周りの令嬢たちが騒ぐのもわからなくはなかった。

 アルヴィン・ルンドホルム。

 公爵家の嫡男で、学園でもっとも人気のある男子生徒の一人。


 リシェルの記憶にも、その名前はあった。

 成績優秀。容姿端麗。家柄も申し分ない。


 ただ、無表情で近寄りがたいことから、冷たい人だとも噂されている。

 今も彼は、周囲に騒がれているのにほとんど表情を変えない。


「あ、あの、アルヴィン様!」


 一人の令嬢が勇気を出して声をかけた。


「お、お昼休み、ご一緒してもよろしいでしょうか?」

「……失礼、一人で行くところがあるので」

「そ、そうですか」


 アルヴィンはその令嬢に微笑むでもなく、かといって邪険にするでもなく、ただ必要最低限の礼だけを返して歩いている。

 なるほど、綺麗に整った人形のようだ。

 令嬢たちはうっとりと彼を見つめている。


「アルヴィン様、本当にかっこいいわ」

「話しかけられたらどうしましょう」

「一度でいいから微笑んでいただきたいわ」


 私はその横を通り過ぎた。

 たしかに顔は整っている。

 背も高い。銀髪も青い瞳も目を引く。


 だが、残念ながら私の好みではない。

 私は前世から、可愛いものが好きだった。

 かっこいいものには、特に心が動かない。


 自分がかっこいいとか美しいとか言われ慣れていた、というのもあったかもしれないが。

 アルヴィンと呼ばれる公爵令息は、確かに美しい。

 だが、遠くから眺めると石像と大差ない。


 可愛いかと言われると、違う。

 だから私は、特に興味を持たずに歩き続けた。

 令嬢たちの騒ぎ声を背に、私は校舎へ入った。


 私は廊下の窓の外へ目を向けた。

 青い空が見える。学園の庭には木々が揺れている。

 その枝に、小鳥が一羽止まっていた。


 小さくて丸い、実に可愛い。

 やはり、この人生は悪くないかもしれない。

 少なくとも前世より、撫でたいものは多そうだ。


 教室に入ると、ちょうど授業が始まるところだった。

 私は自分の席に座り、教科書を開く。


 今日の授業は、基礎魔法の構築式についてらしい。

 教師が黒板に魔法陣の一部を書きながら説明している。


「魔力を流す際、まず重要なのは安定性です。勢いだけで魔力を流せば、術式は崩れます。特に火属性の初級魔法では――」


 私は頬杖をつきながら、それを聞いていた。

 聞いていた、というより、耳には入っていた。

 内容は理解できる。


 むしろ、理解できすぎる。

 あまりにも初歩だった。

 前世なら、幼い魔族が遊びで火花を散らす時に使っていた程度の理屈だ。


 もちろん、今世の人間にとっては必要な基礎なのだろう。

 それを馬鹿にするつもりはない。

 基礎は大事だ。


 前世の私も、魔族たちには散々そう教えた。

 けれどすでに身体に染みついていることを、改めて一つずつ説明されるのは少し退屈だった。

 私は窓の外を見る。


 庭の木々が風に揺れている。

 その枝に、先ほど見た小鳥とは別の小鳥が止まっていた。

 丸い。非常に丸い。


 羽毛がふくらんでいるのだろうか。

 あれは撫でたら柔らかいのだろうか。

 前世の私が近づけば、きっとあの小鳥は全力で逃げた。


 場合によっては気絶したかもしれない。

 だが今ならどうだろう。

 今世の私は、前世ほどの威圧感はないはずだ。


 上手く近づけば、指先くらいなら触れさせてくれるかもしれない。

 そう考えると、授業よりもそちらの方が重要な気がしてきた。


「オーケソン嬢」


 気づけば、名前を呼ばれていた。

 私は窓の外から視線を戻す。

 教師がこちらを見ていた。


 教室の生徒たちも、こちらを見ている。

 どうやら、ぼんやりしていたのが見つかったらしい。


「授業中に外を見るほど余裕があるのなら、今の説明はすべて理解しているのでしょうね」


 教師の声には、少しだけ嫌味が混じっていた。

 リシェルの記憶にあるこの教師は、特別に悪い人間ではない。

 ただ、成績の悪い生徒には厳しい。


 そして今までのリシェルは、魔法の成績があまりよくなかった。

 正確には、魔力はあるのに制御が下手だった。

 怯えながら魔法を使おうとすれば、魔力が乱れるのも当然だろう。


「理解はしている」


 私が答えると、教室の空気が少し揺れた。

 今までの私なら、ここで小さくなっていただろう。


 けれど今の私は、特に気にならなかった。

 教師は眉を上げる。


「では、前に出て実演してもらいましょう」

「実演?」

「初級火球です。先ほど説明した通り、魔法陣を展開し、小さな火球を作りなさい。もちろん、制御を崩さずに」


 なるほど、小さな火球。

 私は立ち上がった。

 周囲から、抑えきれない笑い声が聞こえる。


「リシェルが?」

「大丈夫なのかしら」

「また失敗するんじゃない?」

「教師も意地が悪いわね」


 まあ、好きに言えばいい。

 黒板の前に立つと、教師が少し横へ避ける。


「では、やってみなさい」

「わかった」


 私は右手を軽く上げる。

 火球を作るだけなら、魔法陣を大きく展開する必要はない。

 魔力を集め、熱へ変換し、形を保つ。


 ただそれだけだ。

 だが、それだけでは少し味気ない。

 せっかく前に出たのだから、今世の魔法がどの程度のものなのか試してみるのも悪くない。


 私は指先に魔力を集めた。

 その瞬間、教室の空気が変わる。

 前世の私なら、呼吸をするのと同じくらい自然に扱っていた力。


 今世の身体では、まだ少しだけ窮屈だ。

 けれど、扱えないほどではない。

 私は魔力を細く編む。


 指先に、小さな赤い光が灯った。

 それはすぐに火球となる。

 掌に乗るほどの大きさ。丸く、明るく、静かな火。


 教室が静まり返った。

 だが、まだ終わりではない。

 私は少しだけ魔力を分ける。


 一つだった火球が、二つになる。

 二つが四つになる。四つが八つになる。


 八つの小さな火球が、私の周囲に浮かんだ。

 どれも同じ大きさで、同じ明るさを保っている。


「……っ」


 教師が息を呑んだようだ。

 私は火球を見上げる。

 少し物足りない。火球だけだと、ただ燃えているだけだ。


 私は指先を軽く動かした。

 八つの火球がゆっくりと動く。

 円を描き、列を作り、また円に戻る。


 最後に火球同士が溶け合い、一つの大きな火の輪になった。

 私は教師を見る。


「これでいいのか?」


 教師はすぐには答えなかった。

 口を少し開いたまま、火の輪を見ている。

 生徒たちも同じだった。


 先ほどまで私を笑っていた者たちが、今は声を失っている。

 その顔を見て、私は少しだけ首を傾げた。

 やりすぎただろうか。


 いや、初級魔法の範囲は出ていない。

 威力も抑えている。


 前世なら、これくらいは子どもの遊びだ。

 だから問題はないはずだ。


「オーケソン嬢……」


 教師がようやく口を開いた。


「あなたは、いつの間にそれほどの制御を……?」

「……高熱で寝ている間に、少し思い出した」

「思い出した?」

「魔力は、力任せに流すものではない、ということを」


 私はそう言って、火の輪を消した。

 炎は音もなくほどけ、空気に溶けるように消えていく。


 煙も残らない。

 教室はしばらく静かだったが、ざわめきが広がった。


「今の、見た?」

「本当にリシェルなの?」

「ありえない……」


 その中に、義姉のベッラの姿もあった。

 彼女は信じられないものを見るように、私を見ている。

 顔色が少し悪い。


 朝はあれだけ元気に私を罵っていたのに、今は随分と静かだった。

 私は彼女に軽く視線を向ける。

 ベッラはびくりと肩を揺らした。


 別に取って食うつもりはないのだが。

 私は席へ戻ろうとした。

 すると教師が、はっとしたように咳払いをする。


「……見事でした。オーケソン嬢、席へ戻ってかまいません」

「そうか」


 私は頷き、自分の席へ戻る。

 周囲の視線が刺さる。

 先ほどまでの嘲りとは違う。


 驚き。戸惑い。そして、少しの恐れ。

 どれも前世ではよく向けられたものだった。

 懐かしいと言えば、懐かしい。


 けれど、今はあまり望んでいない。

 できれば恐れられるより、小鳥に逃げられない方がいい。

 そう思いながら席に座ると、授業が再開された。


 私が窓の外を見ると、小鳥はまだ枝にいた。

 まだ逃げていない。それだけで、少し気分がよくなった。

 授業が終わると、教室はすぐに騒がしくなった。


 生徒たちがこちらを見ながら、小声で話している。

 直接話しかけてくる者はいない。

 今まで落ちこぼれだと思っていた相手が、突然目の前で見事な魔法を見せたのだから。


 私は教科書を閉じる。

 昼休みまで、まだ少し時間がある。

 次の授業までに、庭へ出られるだろうか。


 あの小鳥がまだいるなら、少し近づいてみたい。

 そう考えていると、私の机の前に影が落ちた。


「リシェル」


 聞き覚えのある声だった。

 顔を上げるとそこには、一人の男子生徒が立っていた。

 茶色の髪に、多少は整った顔立ち。


 制服はきちんと着ているが、どこか軽薄な印象がある。

 エドガー・ナルティス。子爵家の嫡男で、私の婚約者。

 そして、ベッラと隠れて親しくしている男だ。


 リシェルの記憶に、その事実ははっきり残っていた。

 校舎裏で二人が寄り添っていたこと。

 ベッラがエドガーの腕に触れて笑っていたこと。


 エドガーが「リシェルなんてどうでもいい」と言っていたこと。

 以前のリシェルは、それに傷ついた。

 胸を痛め、何日も眠れなかった。


 けれど今の私は、驚くほど何も感じなかった。

 好意がない相手に裏切られても、怒る理由がない。

 せいぜい、婚約者という立場が面倒だと思うくらいだ。


「何だ?」


 私が尋ねると、エドガーは少しだけ眉を動かした。

 今までの私なら、彼に話しかけられただけで緊張していたのだろう。

 だが彼はすぐに笑みを作った。


「いや、さっきの魔法を見て驚いたんだ。すごいじゃないか、リシェル。いつの間にそんなに勉強していたんだい?」


 声は明るい。けれど、どこか上からだった。

 褒めてやっている。そんな響きがある。


「別に」

「照れなくてもいい。さすが僕の婚約者だ」


 教室の何人かがこちらを見る。

 エドガーはそれを意識しているようだった。


 私が突然目立ったから、自分もその隣に立とうとしている。

 わかりやすい男だ。


「そうだ。ちょうどよかった」


 エドガーは机に手をつく。


「次の課題で、少し難しい術式が出ているんだ。君が手伝ってくれるなら、僕も助かる」

「手伝う?」

「ああ。いや、君がやってくれてもいい。その代わり、今度デートしてあげるよ」


 教室が少しざわついた。

 私はエドガーを見上げる。


 なるほど、これが婚約者か。

 前世の戦いに何度も挑んできた魔族たちの方が、まだ礼儀を知っていた気がする。


「興味がない」

「……え?」

「デートにも、お前の課題にも興味がない」


 エドガーの笑みが固まった。

 周囲のざわめきが大きくなる。

 私は続ける。


「課題など自分でやれ」

「リシェル、何を言っているんだ。僕たちは婚約者だろう?」

「ああ、そうだったな。忘れていた」

「忘れていたって……」

「ベッラ姉様と逢瀬を重ねる時間があるなら、課題くらいできるだろう」


 その瞬間、教室が静まり返った。

 エドガーの顔から血の気が引く。

 少し離れた席にいたベッラも、こちらを振り向いた。


 目が大きく見開かれている。

 私は彼らを交互に見た。


「何だ。違うのか?」

「な、何を言っているんだ、君は」


 エドガーは慌てて笑おうとした。

 だが、声が少し震えている。


「変な冗談はやめてくれ。ベッラ嬢とは、ただ親しく話していただけで――」

「校舎裏で身を寄せ合い腕を組み、婚約者の私のことをどうでもいい女だ、と言うのが親しく話すという意味なら、そうなのだろうな」


 今度こそ、誰かが吹き出した。

 それをきっかけに、教室のあちこちから小さな笑い声が漏れる。


 エドガーの顔が赤くなった。

 怒りと羞恥が混ざった色だ。


「リシェル、君は何か誤解している……!」

「そうか」

「ああ、そうだ。だいたい、君は僕の婚約者なんだ。僕にそんな態度を取っていいと思っているのか?」


 私は少し考えた。

 そして、納得する。


「たしかに、それは問題かもしれないな」


 エドガーの表情が少し緩む。

 私が折れると思ったのだろう。

 だから私は、穏やかに言った。


「では、近いうちに婚約解消を申し出ておこう」

「……は?」

「その方がお前も都合がいいだろう。ベッラ姉様の方が好みのようだしな」


 また笑い声が広がった。

 今度は隠しきれていない。

 エドガーは周囲を見回し、さらに顔を赤くした。


「ふざけるな。君のような女が、僕から婚約解消を言い出されるならともかく、君から――」

「どちらからでも同じだろう」


 私は立ち上がった。

 エドガーは私より少し背が低い、こいつは男性の中では身長が低いからだ。


 それもあって私よりもベッラを選んだのだろうが。

 正面から見ると、自然と見下ろす形になった。


「私は、お前に興味がない」

「っ……!」

「だから近づいてこなくていい。課題も自分でやれ。できないなら教師に聞け」


 エドガーは言葉を失っていた。

 その顔には、怒りよりも困惑が強い。

 今まで見下していた相手が、自分を見ていない。


 その事実が、よほど理解できないのだろう。

 私は教科書を持ち上げる。

 そして、ふと思い出したように言った。


「ああ、それから」

「な、何だよ」

「次に女性を褒める時は、もう少し上手くやれ。下心が見えすぎている」


 教室の笑い声が、一段大きくなった。

 エドガーは唇を震わせる。

 ベッラも顔を青くしたまま、何も言えずにいた。


 私は興味を失ったので、二人から視線を外した。

 エドガーは耐えられなくなったのか教室を出ていき、続いてベッラも出て行った。

 時間は過ぎて、昼休みになった。


 教室の中は、まだ少し騒がしかった。

 私の魔法のこと。エドガーとベッラのこと。

 その二つが、ちょうどいい話題になっているのだろう。


 生徒たちはちらちらとこちらを見ながら、小声で何かを話している。

 だが、直接近づいてくる者はいない。

 まあ、それでいい。


 今は誰かと話すよりも、もっと大事なことがある。

 小鳥だ。いや、小鳥でなくてもいい。

 できれば何か、柔らかくて、丸くて、温かい動物に触れたい。


 私は教科書を机の中へしまい、席を立った。

 教室を出ると、廊下には昼休みらしい賑わいがあった。

 私は人混みを避けるように歩き、校舎の端へ向かった。


 リシェルの記憶によると、校舎の裏手にはあまり人の来ない庭がある。

 整えられた中庭と違い、少し木々が多く、昼休みでも静かな場所らしい。

 今までのリシェルは、誰かに見つからないようにそこへ行っていた。


 ただ一人になりたかったのだろう。

 今の私も、目的は少し違うが、静かな場所へ行きたい。

 裏庭へ出ると、空気が少し変わった。


 表の中庭よりも木陰が多く、風が涼しい。

 人の声も遠い。木々の葉が揺れる音だけが、耳に心地よく届く。


「ここか」


 私はゆっくりと歩いた。

 小鳥の姿は見えない。

 だが、どこかで小さな鳴き声がした。


 警戒させないように足音を抑える。

 前世の私なら、足音を消したところで無駄だった。


 存在そのものが強すぎて、近づいただけで小さな生き物たちは逃げてしまった。

 けれど今世なら……そう思った時だった。


「……ん?」


 茂みの向こうで、何かが動いた。

 草の間から、ふわりと尻尾が見える。


 細く、しなやかで、先が少し丸い。

 そして、ひょいと顔が出た。


「にゃぁ」


 猫だった。灰色の毛並みをした、小さな猫。

 丸い目で、こちらを見ている。

 私は息を止めた。


 猫、猫だ。前世の私に、最も近づいてこなかった生き物の一つだ。

 逃げる前に、必ず全身の毛を逆立てた。

 背を丸め、尻尾を太くし、まるで私が世界を滅ぼしに来たような顔をする。


 可愛いと思って近づいただけなのに、なぜあそこまで敵意を向けられたのか。

 あれは、今思い出しても少し悲しい。

 私はその場にしゃがみ込んだ。


 できるだけ小さく見せる。

 背が高いのは悪いことではないが、猫を相手にする時は別だ。

 私は右手を少しだけ伸ばす。


「こ、怖くないぞ」


 声を低く、静かにする。若干震えてしまうのは緊張しているからだ。

 猫はじっと私を見ていた。

 逃げない。まだ逃げない。


 それだけで、胸の奥が妙に熱くなる。

 猫は少し首を傾げた。

 そして、一歩こちらへ近づく。


 私は動かない。

 さらに一歩近づき、猫は私の指先の匂いを嗅いだ。

 くすぐったい……それから、猫は私の指に頬を擦りつけた。


「……っ」


 私は思わず息を呑んだ。

 逃げない。この猫、逃げない。

 それどころか、触れている。


 私に、自分から触れている。

 私は震えそうになる指先を必死に抑えながら、猫の頬をそっと撫でた。

 柔らかい。想像していたよりも、ずっと柔らかい。


 毛が細く、温かく、指の腹にふわりと沈む。

 猫は目を細めた。

 喉の奥で、小さく鳴るような音がする。


 これは、嫌がっていないということだろうか。

 むしろ、気持ちよさそうにしているのではないか。


「……生まれ変わってよかった」


 思わず本音が漏れた。

 前世で玉座に座っていた時よりも、今の方がよほど満たされている気がする。


「そうか。お前は逃げないのか」


 私は猫の頭を撫でる。

 猫はまた目を細めた。

 愛らしい。あまりにも愛らしい。


 このまま胸元に入れて持ち帰りたい。

 いや、勝手に持ち帰るのはよくないか。


 だが、抱き上げるくらいなら許されるのではないか。

 そう考えた瞬間、猫はふいと身を翻した。


「あ……」


 猫は軽やかに歩き出す。

 逃げるというより、どこかへ案内するような足取りだった。

 私は立ち上がり、後を追う。


 猫は裏庭の奥へ進んでいく。

 木々が深くなり、校舎からさらに離れる。

 猫は時々こちらを振り返る。


「にゃあ」


 ついてこい、と言われている気がした。


「待て。私はお前ほどこの木々を潜り抜けるのが上手くないんだ」


 小声で言いながら追いかける。

 しばらく進むと、大きな木が見えた。

 その木陰に、誰かがいた。


 私は足を止める。

 人だ。男子生徒が、木にもたれるようにして眠っている。

 銀色の髪に整った顔立ち。澄んだ青い瞳は、今は閉じられている。


 朝、令嬢たちに囲まれていた公爵令息。

 アルヴィン・ルンドホルムだった。

 だが、問題はそこではない。


 問題は、彼の周囲だ。

 猫がいる。

 一匹ではない。二匹、三匹、四匹。


 いや、もっといる。

 彼の膝の上に丸まっている猫。

 肩の近くで眠っている猫。


 足元で尻尾を揺らしている猫。

 先ほどの灰色の猫も、当然のように彼の近くへ行き、膝のあたりに身を寄せた。

 私はしばらく、その光景を見つめた。


「……羨ましいぞ、こいつ」


 思わず呟いた。

 猫に囲まれている。

 あれほど多くの猫に囲まれている。


 しかも、逃げられていない。

 それどころか、完全に安心されている。

 猫たちは彼のそばで、無防備に身体を預けていた。


 何ということだ。

 公爵令息という身分よりも、整った顔立ちよりも、その状況の方がよほど羨ましい。

 猫がいる場所で眠れる。それはきっと、とても贅沢なことだ。


 私は近づいた。

 猫たちはこちらを見る。

 少し警戒されるかと思ったが、逃げなかった。


 灰色の猫が小さく鳴くと、他の猫たちも興味を失ったように目を細める。

 どうやら、入ってもいいらしい。

 猫の許可が出た。


 私は静かにアルヴィンの前にしゃがみ込む。

 彼は眠っていた。

 朝見た時は、綺麗に整った人形のようだと思った。


 表情が動かず、近寄りがたく、冷たい印象があった。

 けれど今は違う。

 眠っているアルヴィンは、少しだけ眉の力が抜けていた。


 長い睫毛が頬に影を落としている。

 呼吸は静かで、猫に囲まれているせいか、どこか安心しきっているようにも見えた。


「寝顔は意外と愛らしいな」


 声に出してから、私は自分の言葉に少し納得した。

 そうだ、これは愛らしい。

 朝の石像のような姿より、今の方がずっといい。


 猫に囲まれ、木陰で眠っている公爵令息。

 私はつい、手を伸ばした。

 銀色の髪に触れる。


 柔らかい。猫の毛とは違うが、これはこれで悪くない。

 指先でそっと撫でると、アルヴィンのまぶたがわずかに動いた。


 起こしてしまうかと思ったが、彼は目を覚まさない。

 むしろ、気持ちよさそうに少し頭を傾けた。


「……む」


 私はもう一度撫でる。

 髪はさらさらとしていて、指通りがいい。

 猫とは違う。だが、猫にも負けていないかもしれない。


「やるな、アルヴィン・ルンドホルム」


 何に対してやるな、なのか自分でもよくわからないが。

 すると、アルヴィンが小さく息を漏らした。

 ゆっくりと目が開く。澄んだ青い瞳が、ぼんやりと私を映した。


 まだ完全には目覚めていないらしい。

 朝の冷たい印象はどこにもない。

 どこか幼く、無防備な目だった。


「……ん」


 アルヴィンは私を見る。

 それから、なぜか私の手に頬を寄せた。

 擦り寄るように。


 猫のように。

 私は固まった。

 猫たちも何事もないように眠っている。


 アルヴィンは眠たげな顔のまま、さらに私の手に頬を預ける。

 銀色の髪が、彼の頬が、指に触れた。

 温かい。柔らかい。


 そして、ひどく無防備だ。

(これは……愛らしすぎる)

 胸の奥で、何かが弾けた気がした。


 私は猫が好きだ。

 小さくて、柔らかくて、可愛いものが好きだ。

 だが、これは何だ。


 人間なのに、猫のようなことをしている。

 しかも、朝はあれほど冷たい顔をしていた男が、寝ぼけて頬を擦り寄せている。

 この落差はずるい。


 私はもう一度、そっと頭を撫でた。

 アルヴィンは目を細める。

 完全に猫だった。


「……夢?」


 アルヴィンが小さく呟いた。

 声が眠い。


「夢ではないと思うぞ」

「……いつもの夢じゃ……」

「いつもの夢?」


 私が聞き返すと、アルヴィンの目が少しずつはっきりしてきた。

 そして、自分が何をしているのか理解したらしい。

 彼は勢いよく身を起こした。


「にゃっ」


 膝の上で眠っていた猫が、不満そうに鳴く。


「えっ」


 アルヴィンは私を見た。

 次に、自分の周囲の猫を見る。


 そしてもう一度、私を見る。

 見る見るうちに、その顔が赤くなった。


「ゆ、夢じゃない……?」

「ああ」

「いつもの夢で、撫でられているんじゃ……」


 そこまで言って、アルヴィンは口を閉じた。

 私はまじまじと彼を見る。

 こいつ……いつも撫でられている夢を見ているのか。


 だから今のも夢だと思って、私に擦り寄ってきたのか。

(愛らしすぎないか?)

 私は真剣にそう思った。


 朝の令嬢たちは、彼の微笑みが見たいと言っていた。

 だが違う、本当に見るべきはこれだ。


 猫に囲まれ、寝ぼけて撫でられる夢を見ている公爵令息。

 これを知らずに、ただ綺麗だか格好いいだか言っているのは浅い。


「す、すまない……!」


 アルヴィンは慌てて私から距離を取ろうとした。

 だが周囲に猫がいるせいで、大きくは動けない。

 猫たちは迷惑そうに尻尾を揺らしている。


「今のことは忘れてくれ」

「断る」

「……なぜ即答するんだ」

「実に愛らしかったからだ」

「あ、愛らしかっただと?」


 アルヴィンの顔がさらに赤くなる。

 朝の無表情な公爵令息はどこへ行ったのだろう。


 目の前にいるのは、ただ照れている少年だった。

 なるほど、これはいい。


「ああ、もう一度撫でたいからそこに横になれ」

「なっ……そ、そんなことはしない!」

「そうか? 夢に見るほどに撫でられたいんじゃないのか?」

「くっ……!」


 アルヴィンは言葉に詰まった。

 否定したいのに、先ほど自分で口走ってしまったため、否定しきれないらしい。

 実にわかりやすい。


「安心しろ。別に馬鹿にはしていない」

「……本当か?」

「ああ。ただ、かなり可愛いとは思っている」

「それは馬鹿にしているのと何が違うんだ……」

「大きく違う。可愛いは褒め言葉だ」


 アルヴィンは片手で顔を覆った。

 耳まで赤い。

 猫の一匹が、そんな彼の膝に前足を乗せる。


 アルヴィンは反射的にその猫を撫でた。

 指先が優しい。

 慣れている手つきだった。


 猫は満足そうに目を細める。

 私はその光景を見て、さらに感心した。


 猫に好かれるだけではなく、扱いも上手い。

 これは本当に持ち帰りたいな、猫ごと、こいつも。


「……ところで、お前は」


 アルヴィンが少しだけ落ち着いた声で言った。


「名前は?」

「リシェル・オーケソンだ」

「オーケソン……」

「ああ。そういうお前は、アルヴィン・ルンドホルムだな」


 朝に見たから知っている。

 周囲の令嬢たちが名前を呼んでいたので、覚える気がなくても覚えた。

 私は彼を見ながら、少し考えた。


「長いな」

「何がだ?」

「名前が」

「普通だと思うが」

「今日からアルと呼ぶ」


 アルヴィンは目を瞬かせた。

 そして、また少し赤くなった。


「っ、その呼び方は家族しか……」

「そうか」


 私は頷いた。そして、笑みを浮かべる。


「では私も呼ぶぞ」

「どうしてそうなる」

「呼びやすいからだ」

「理由が強引すぎると思うが……お前、年下だし伯爵令嬢だよな? 俺は公爵令息だぞ」

「それが? 嫌ならやめるが」


 私がそう言うと、アルヴィンは少し言葉に詰まった。

 視線を逸らす。


 膝の上の猫を撫でながら、しばらく黙る。

 そして、小さく息を吐いた。


「……勝手にしろ」

「そうか。では、アル」

「すぐ呼ぶな」

「慣れたほうがいい」

「君は本当に勝手だな」

「よく言われた」


 前世でだが。

 アルは呆れたようにこちらを見た。

 けれど、その目に強い拒絶はない。


 むしろ、困っているだけに見える。

 何とも素直ではない。

 言葉では嫌がるくせに、完全には離れようとしない。


 まるで猫のようだ。

 そう思ったら、また手が伸びていた。

 私はアルの頭を撫でる。


「なっ……」


 アルは少し身じろぎした。

 拒むかと思った。

 だが、彼は何も言わなかった。


 ただ耳まで赤くしたまま、目をつぶる。

 灰色の猫が、どこか満足そうに「にゃ」と鳴いた。

 猫たちの間で、銀色の髪が指に触れる。


 柔らかい。温かい。実に愛らしい。

 私は静かに確信した。

 アルヴィン・ルンドホルム。


 いや、アル。この男は、かなり可愛い。

 少なくとも、猫に次ぐくらいには。

 午後の授業も終わり、放課後になった。


 生徒たちは相変わらず、ちらちらとこちらを見ている。

 どうやら今日一日で、私はずいぶん目立つ存在になってしまったらしい。

 別に目立ちたかったわけではないのだが。


 まあ、どうでもいい。

 私は鞄に教科書を入れ、席を立ち教室を出た。

 廊下には帰ろうとする生徒たちが多くいた。


 その中で、少し先に見覚えのある銀色の髪が見えた。

 アルヴィン・ルンドホルム。

 朝は周囲に令嬢たちが群がっていたが、今は一人で歩いている。


 相変わらず背筋が伸びていて、制服の着こなしにも乱れがない。

 人前では、やはり綺麗に整った人形のようだ。

 昼休みに猫に囲まれて眠っていた男と同一人物とは思えない。


 だが、私はもう知っている。

 あの無表情の下には、撫でられる夢を見る、なかなか愛らしいものが隠れている。


「アル」


 私が声をかけると、周囲の空気が一瞬止まった。

 近くにいた生徒たちが、一斉にこちらを見る。

 何だ、そんなに変なことを言っただろうか。


 アルは足を止めて振り返る。

 最初は少し驚いた顔をしていたが、すぐに私だと気づいたらしい。

 彼はわずかに眉を寄せた。


「……リシェルか」


 その瞬間、周囲のざわめきが一段大きくなった。


「今、アルヴィン様を愛称で……?」

「しかも、アルヴィン様も普通に返事をしたわ」

「リシェル・オーケソンって、今日魔法や婚約者で騒ぎになっていた子よね?」


 聞こえている。だが、いちいち反応するほどのことではない。

 私はアルの方へ歩いていく。


「帰るのか?」

「ああ」

「そうか。なら途中まで一緒に行くか」

「……決定事項なのか?」

「嫌なのか?」


 私が聞くと、アルは一瞬だけ言葉に詰まった。

 それから視線を逸らす。


「嫌とは言っていない」

「では問題ないな」

「君は本当に勝手だな」

「よく言われた」


 前世でだが。

 アルは小さくため息をついた。

 だが、私が隣に並ぶことを拒みはしなかった。


 私たちは並んで歩き出す。

 すると廊下の視線が、一気にこちらへ集まった。

 アルはやはり目立つ。


 歩いているだけで、周囲の令嬢たちが息を呑む。

 そして今日は、その隣に私がいる。

 つい先日まで、誰にも気にされていなかったリシェル・オーケソン。


 落ちこぼれで、地味で、婚約者にも見下されていた令嬢。

 その私が、学園でもっとも人気のある公爵令息と並んで歩いている。

 なるほど、騒がれる理由はわからなくもない。


 昇降口へ向かう途中、廊下の端にベッラの姿が見えた。

 彼女は友人らしき令嬢たちと一緒にいた。

 だが、私とアルを見た瞬間、表情が固まった。


「……なんで」


 小さな声だったが、聞こえた。


「なんで公爵令息のアルヴィン様が、あんな女と……」


 ベッラの顔は、悔しさで歪んでいた。

 朝、私を見下していた時の余裕はない。

 私が魔法を使ったこと。エドガーのことを人前で暴いたこと。


 それだけでも気に入らなかったのだろう。

 そこに、アルまで加わった。

 彼女にとっては、ずいぶん面白くない一日だったに違いない。


 まあ、私には関係ないが。

 私はそのまま通り過ぎようとした、その時だった。


「待て、リシェル」


 今度は別の声がした。

 振り返ると、エドガーがこちらへ歩いてきていた。

 顔にはまだ少し怒りが残っている。


 けれどそれ以上に、焦りの方が強く見えた。

 彼の視線は、私とアルを交互に見ている。


「何だ?」


 私が尋ねると、エドガーは一瞬だけアルを見た。

 公爵令息を前にして、強くは出にくいのだろう。

 それでも、彼は私に向かって言った。


「君、何をしているんだ。僕たちは婚約者だろう?」


 周囲がまたざわついた。実にわかりやすい男だ。

 昼には、自分が出された課題に私を利用しようとした。

 今度はアルの隣にいる私を見て、急に婚約者という立場を思い出したらしい。


「ああ、そうだったな」


 私は頷いた。


「だが、お前はベッラ姉様の方がお気に入りだったはずだ」


 エドガーの顔が引きつった。

 ベッラも、少し離れた場所で肩を揺らした。


「だから、それは誤解だと――」

「校舎裏で身を寄せ合うのが誤解なら、私には真実との違いがよくわからないな」


 くす、と誰かが笑った。

 エドガーは顔を赤くする。


「リシェル、いい加減にしろ。婚約者をこんなふうに扱って――」

「私はもう帰る」


 私は彼の言葉を遮った。


「話があるなら、婚約解消の場で聞く」

「婚約解消って……本気で言っているのか?」

「冗談で言うほど面白い話でもないだろう」


 エドガーは言葉を失った。

 私は彼から視線を外す。もう興味がなかった。


「行くか、アル」

「……ああ」


 アルは少しだけこちらを見た。

 何か言いたげだったが、結局何も言わなかった。

 私たちはそのまま歩き出した。


 背後から、エドガーの悔しそうな声が聞こえた。

 ベッラも何か言いたそうにしていたが、周囲の視線があるせいか、口を開けないようだった。

 昇降口を出ても、注目は続いた。


 アルと私が並んでいるだけで、これほど騒がれるものなのか。

 私は隣を歩くアルを見た。


「アル、お前も大変だな」

「何がだ」

「ずっと見られている」

「それは……今日は君のせいでもあると思うが」

「そうか?」

「そうだ」


 アルは少し疲れたように言った。

 だが、私から離れようとはしない。

 私は周囲を見る。


 好奇心。驚き。嫉妬。困惑。

 いろいろな視線が混ざっている。

 だが前世では、もっと重い視線を浴びていた。


 畏怖。崇拝。敵意。殺意。

 それらに比べれば、今の視線などずいぶん軽い。


 だから、特に気にならない。

 アルはそんな私を横目で見た。


「なぜお前は、この注目度で堂々と歩いていられるんだ?」

「ん? まあ、慣れているからな」

「慣れている?」

「ああ」


 前世でだが。そう付け加える必要はないだろう。

 言っても信じるかどうかわからない。

 アルは不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞いてこなかった。


 少しの間、二人で並んで歩く。

 校門が近づいてきた。


 このまま出れば、それぞれの馬車が待っている場所へ向かうことになる。

 私はふと思い出し、隣のアルに小さな声で話しかけた。


「アル」

「……なんだ」

「また放課後、動物が多い場所へ案内してくれ」


 アルは少しだけ目を伏せた。

 昼休みのことを思い出したのだろう。

 耳がほんのり赤くなる。実にわかりやすい。


「……わかった」

「そうか」


 私は満足して頷いた。

 やはりアルは役に立つ。

 猫に好かれ、動物のいる場所を知っている。


 それだけでも、この学園でかなり価値のある存在だ。

 私は少し笑った。


「ふっ、お前のことも撫でてやるから嫉妬するな」

「っ、嫉妬なんてするはずないだろ!」


 アルが声を上げた。

 そのせいで、また周囲の生徒たちがこちらを見る。


 アルはそれに気づき、さらに顔を赤くした。

 私は思わず口元を緩める。


「そうか。なら、猫だけ撫でる」

「……それはそれで、何か違う気がする」

「何だ。やはり撫でられたいのか?」

「違う!」


 即答だった。だが、否定が早すぎる気もする。

 私はアルを見上げる。

 彼は視線を逸らしている。


 実に猫のようだ。近づくと逃げるくせに、完全には離れない。

 撫でると身じろぎするくせに、嫌がりきれない。

 その様子が、また愛らしい。


 校門の近くで、私はふと振り返った。

 少し離れた場所に、ベッラとエドガーがいた。

 二人とも、こちらを見ている。


 ベッラは唇を噛み、悔しそうに顔を歪めていた。

 エドガーもまた、何かを言いたげに拳を握っている。

 だが、もう近づいてはこない。


 私は二人から視線を外した。

 見下されていた。軽んじられていた。邪魔者のように扱われていた。

 その記憶はある。


 だが、不思議と胸は痛まなかった。

 私はもう、彼らの顔色を窺う必要がない。

 居場所がないなら作ればいい。


 欲しいものがあるなら、自分で手を伸ばせばいい。

 今世の私は、猫にも触れられる。


 そして、隣には猫のような公爵令息もいる。

 私は隣のアルを見る。


「アル」

「今度は何だ」

「また明日も、あの裏庭に行くぞ」

「……俺に拒否権は?」

「嫌ならアルは来なければいい、私は行くぞ」


 そう答えると、アルは少し黙った。

 それから、小さく息を吐く。


「……勝手にしろ」

「そうか。では勝手にする」


 私は頷いた。

 アルは呆れたように見えたが、やはり拒まなかった。

 私は校門の向こうへ歩き出す。


 夕方の風が、少しだけ髪を揺らした。

 私は口元を緩める。


 やはり、この人生は悪くない。



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― 新着の感想 ―
短編とわかってて読みはじめたのに、「あれ? 続きは?」と探してしまいました(笑)
うーん、これは(色々と)波乱の予感。 まぁ、この魔王様なら難なくこなしそうですけど、どうなるのか気になるところです。
リシェルの変貌ぶりに振り回される周囲と家族がどうなるのか知りたいし面白かったので これ、連載にしてほしいです。 前中後編の短いものでも構わないのでお願いします<(_ _)>
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