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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

陽炎

作者: 真黒
掲載日:2026/06/21

切ないラブストーリーを書きたいと思って書きました。

 act:0


 がくっ、と車が大きく揺れ、私は眠りから突然呼び戻された。続いて、立て続けに車ががたがたと揺れ続ける。本当に、ここは田舎にもほどがある。


「ねえ、あとどれくらいでつくの?」


 車体が絶え間なく揺れるせいで、声も震えてる。


「もうすぐ。あと1時間かからないよ~。」


 お父さんが運転しながら同じく震える声で答えてくる。ほら来た。もうすぐとか言っといて、1時間くらいかかるんじゃない。お父さんの言う「1時間かからない」は、1時間をちょっと超えるって意味なんだから。頬杖をついて車窓から代わり映えのしない景色を眺めても、心は満たされない。

 私は、今からお父さんのお父さん、つまりおじいちゃんの家に行くことになっている。おじいちゃんの顔は、見たことがない。お母さんがおじいちゃんを嫌って、というよりもおじいちゃんの家のある場所を嫌っていたから。

 でも、今はもう関係ない。お母さんはもう文句を言わない。だって、お母さんはもう死んでしまったんだから。

 お母さんのお葬式は、夢の中にいるようで不思議な気分だった。あんなに優しくて、怖くて、大好きだったお母さんが棺桶の中で血の気のない顔で眠っている。不思議なことに、涙はこぼれなかった。

 お坊さんがお経を唱えているときも、お母さんが骨になって出てきたときも。あの棺桶から放たれる熱も、箸の先にある骨の感触も。周りの人たちがすすり泣く声すらも、雑音にしか聞こえない。全てがどこか夢のようで、私は泣くことができなかった。

 なんで?私は、お母さんが大好きなのに。大好きだったのに。お母さんと一緒の場所に行けたら、どんなにいいだろう。

 眠くもないし、何かしようとも思わない。ただ、時間だけが過ぎていく。お父さんの言ったとおりだ。1時間なんて、あっという間。もう揺れだって気にならないし、次に大きな揺れに驚いて外を眺めたときには、もうおじいちゃんの家らしき場所にいた。


「ついたぞ、綾。起きて。」


「知ってるし。ずっと起きてたし。」


 何で父親ってこんなにうざいんだろ。お母さんがいないから甘えられないし。ため息をつきながら乱暴に扉を開ける。


「綾ちゃんか!大きくなったねえ!」


 そう言って、見知らぬ白髪の老人が私の方へと歩いてくる。きっと、この人がおじいちゃんなんだ。


「父さん、ただいま。ほら、綾。挨拶しなさい。」


「こんにちは...」


 急に会ったこともない人と話せなんて言われても、無理だよ。お父さんは私をなんだと思ってるの?お母さんだったらもっと私のこと考えてくれるよ。

 そんな思いは押し殺して、頭を下げる。別に、おじいちゃんが嫌いとかじゃない。だって、まだ嫌いになれるほどおじいちゃんのこと知らないもの。

 お父さんの後に続いて、おじいちゃんの家に足を踏み入れた。そのあとのことは、あんまり覚えていない。お父さんとおじいちゃんがいろいろ話しているのを私はただ聞いていた。ずっと正座していたせいで、足がしびれた。


「母さんと父さんはな、ここの花火大会で会ったんだ。母さんは花火が大好きだったんだぞ。」


 そんなことを言っていた気がする。きっと私が元気になるよう、気を使ったのだろう。そのまま成り行きで花火大会に行くことになった。

 別に断る気も起きず、山の中の獣道のような場所をお父さんたちに連れられて懐中電灯一つで歩く。歩きにくい。そもそも私、運動苦手なのに。


「あのしめ縄が見えるかい?」


 突然おじいちゃんに話しかけられ、慌てて顔を上げる。その指の先を見ると、確かに太いしめ縄が見えた。何も言わずに頷く。


「あの縄より先は、禁足地なんだ。絶対に入らないように。」


「はい。」


 小さく返事をして、再び下を向いて歩く。そして...


「あれ、ここ、どこ?」


 気付いたときにはお父さんたちとはぐれていた。ついてない、といいたいけれど。今回ばかりは私の不注意のせいだ。どうしよう。ここで待つのが一番いいのかな。でも、こんな広い山だったら待ってても見つけてもらえるとは限らないよね。

 迷った末に、ひとまず獣道をたどって歩くことにした。しばらく歩いているうちに、ついにその細い道も途絶えてしまった。


「どうしよう…」


 もはや、どこにいるのかわからない。真っ暗で、何も見えない。

 何もできずにしばらくそこに佇んでいると、私の目がほのかな光を捉えた。ふらふらと揺れながら、木々の向こうへ消えていこうとするそれを、必死で追いかける。

 きっとお父さんの懐中電灯だ。


「待って!」


 走って、こけて。痛くて涙が溢れる。必死の思いで走って、少しづつ距離が縮まる。


 気付かなかった。不思議な光を追いかけるのに夢中で、すっかり山奥に来てしまった。

 あの光は、まだ私の前をふらふらと飛んでいる。どうせ家に戻ったって、何も変わらない。だったら、少しは変化のある方を選んだ方がいい。だから、私はまた光を追いかけた。


「ねえ、待ってって、ば!」


 思い切り地面を蹴って、光を両手で包む。手の中で逃げようともがく確かな感触があり、思わず笑みがこぼれた。でも、それと同時に首筋に冷たいものが走った。



 act:1


 慌てて辺りを見回して、思わず後ろに下がってしまう。

 ここ、禁足地だ。

 ものすごい数のお札の貼られた、しめ縄の内側。

 おじいちゃんに、絶対に入るなと強く言われた、禁足地。悪い神様を封印してるなんて、そんな話を信じた訳じゃないけど、やっぱりあまり気分のいいものじゃない。だって、禁足地にはオカルトとか関係なく危険があったりするものなんだから。

 踵を返してここから離れようとしたときだった。私の来た方向から、足音が近づいてきた。お父さんじゃない。お父さんはこんなに速く歩かない。おじいちゃんも同じ。足腰が弱いのに、こんなにしっかり歩けるはずはない。間違いなく知らない人だ。

 心臓がばくばくして、逃げたくても逃げれなかった。膝が笑って、立ってられない。私は砂利の上に音を立てて座り込んで、足音の主を待った。


「...えっ?」


 恐怖で震える口から、間抜けな声が滑り出る。仕方ない。だって、だって、私の前にいたのは、黒い浴衣を着た私と同い年かそれより年下の男の子だったんだから。


「何だ、お前。珍しいな。ここに人が来るなんて。」


 その子の声は、可愛げのある顔からは想像できないくらいに重かった。近づくな、と言わんばかりの鋭い目つき。不満げにへの字を描く口元。

 でも、おかげでちょっと安心できた。震えが止まり、おかげでどうにか立ち上がる。


「あ、あの。あなたはここの人ですか?私、間違えてここに入っちゃったんですけど、ばらしたりしませんか?」


「お前、見ない顔だな。ここには俺しかいない。ばらすもなにも、俺に見られたんだからもうばれてる。」


 なんだろう、この感じ。すごく話しにくい。というか話す気がないのかな。でも、ちょっと嬉しかった。勇気を出してなんとか笑顔を作り、話しかける。


「私、綾っていいます。不思議な光を追いかけてたら道に迷っちゃったんです。あなたは?」


 コミュ障の私にしては、なかなか上手に話せた気がする。相変わらず、心臓はすごくドキドキしているけれど。でも、そんな私の勇気も男の子は冷たい目線で切り捨てた。


「お前、気持ち悪いな。」


「...はい?」


「なんでお前はそんなふうに自分を偽る?俺はそういう奴が一番嫌いだ。」


 勇気を出して話しかけたのに、こんなふうに言われて気分がいいはずがない。私もむっとして言い返す。


「なんでそんなひどいこと言うんですか。」


「お前を信用していないからだな。自分を偽る奴にろくな奴はいない。」


「別に偽ってなんて...」


「嘘だな。お前は今、恐怖を感じているのに笑みを浮かべているだろう。自分を偽る奴に、まともな奴はいない。」


 その言葉に、心の中で凝り固まっているものが音を立てて削れていく気がした。駄目。これがなくなったら、駄目。そう思って急いで耳を塞ぐが、男の子の言葉は関係なく頭に響いてきた。


「感情を殺しているな。俺に言い寄ろうとするつもりだろうが、そうはいかない。嘘で自分を騙す奴は、どうせろくな死に方をしない。」


 駄目だった。わたしの心の中で、何かが決定的に壊れた。


「じゃあ、じゃあどうしろって言うのよ!」


 自分の声とは思えないくらいに大きい声が出た。


「お母さんが、お母さんが死んじゃったの!どうすればいいっていうの?周りの人はみんな悲しんでるし、泣いてるの!私だけ泣けないの!」


 違う。泣けなかったんじゃない。認めたくなくて、何も感じないようにしてたんだ。自分でもそれに気付かないようにしてただけ...

 あ〜あ、泣いちゃった。恥ずかしい。お母さん以外の人の前では泣かないようにしてたのに。でも、悪いのは間違いなくこの子だ。またなんか言われるんだろうな。

 涙を拭いながら顔を上げ、男の子の顔を見て、私は目を見開いた。

 先ほどまでの表情とは打って変わって、明らかに困ったような顔をしていたのだ。


「その、なんだ、悪い。泣くのやめてくれ。」


「やめてって、ぐすっ、あなたが泣かせたんでしょっ...」


「女に泣かれるとどうしていいかわからん。...どうしたらいい?」


 そう言ってふてくされる彼は、なんだか初めて年相応の少年に見えた。悲しくて泣いていたのに、笑いも一緒にこみ上げてくる。何が「自分を偽るな」よ。自分だって大人ぶって、強がってたくせに。どうせ家の場所はわからないんだ。でも、せっかくならお母さんが好きだって言ってた花火は見たいよね。


「ぐすっ。...じゃあ、私を花火の見れる場所に連れてって。」


「花火、か。わかった。ついてこい。離れるなよ。」


 彼の差し出した手を取ろうとして、まだあの光を握ったままだったことに気付く。


「あの、これ。」


「っ!これ、お前なんで...」


「これを追いかけてきたら、ここについたの。」


 私の差し出したあの光を見て、彼は驚いたように目を見開く。


「それは、人魂だ。行き場を見失い、さまよう死者の魂。俺が探していたものだ。」


 彼が手を出すと、人魂はそこに吸い込まれていった。不思議な気持ちで、それを見守る。


「ねえ、そういえばあなたの名前を聞いてなかったよね。何て名前なの?」


「...カゲロウ。」


「カゲ、ロウ?不思議な響き。...いい名前だね。」


 私が恐る恐る褒めると、カゲロウは不意を突かれたように固まっていた。でも、すぐに明るい子供のような笑みを浮かべた。


「そうか。いい響きか。」


「うん。かっこいい。」


「...お前の名も、いい名だ。花火を見るんだろう?とっておきの場所があるんだ。」


 彼に手を引かれ、走る。カゲロウの手は冷たくて、それでいて心地よかった。久しぶりに、走った。風と木の葉が顔をなでていく。いつの間にか、私は笑っていた。こんな感覚、本当に久しぶり。本当に楽しい。

 よく見ると、カゲロウは木をよけることなく突っ切っていることに気付いた。私もよけたりしていない。でも、木の方がしなって道を空けてくれる。とっても不思議。でも、怖くはなかった。

 ドン、ドンという音が遠くから聞こえてくる。


「花火、始まったみたい。」


「すぐだ。あと少しでつく。」


 彼の言葉通り一瞬の後に木がなくなり、開けた場所に走り出た。そこには、彼岸花が一面に咲いていた。


「わあぁ、すごい...」


「だろ。」


 一面の赤に座り込み、二人で花火を眺める。青、白、赤、緑。次々に現れては、あっという間に消えていく。光が強くて、目が痛いくらい。それでも、何故か心は暖かかった。

 ああ、そうか。私、綺麗だと思ってる。そう自覚した。こんなに心を動かされたのは、久しぶりだった。

 ずっと手をつないでいるのが恥ずかしいので離したかったけど、なんだかそう言うのも馬鹿らしくなるくらいに花火は綺麗だった。お母さんが好きだった理由もわかる気がする。

 時間が経つのは長いようで一瞬だった。カゲロウの方を見ると、彼も丁度こちらを見つめていた。思わず顔が熱くなり、慌てて顔を背ける。

 しばらくして花火が終わるとほとんど真っ暗になり、つないだ手の感覚だけが残る。


「終わっちゃったね...」


「ああ。お前を家まで送らないとな。」


「そっか、ありがとね。また、会えるかな。」


「わからん。見つけたら迎えに行ってやる。」


「約束だよ?」


 彼の目を見て、微笑む。カゲロウの口元にも、一瞬だけほのかな笑みが浮かんだ。

 突然、眠気が襲ってきた。零時を告げる鐘の響く中、私の意識は深く沈んでいった。




 act:2


 私が目を開けると、そこは知らない天井だった。少し距離を置いてうるさいいびきが聞こえてくる。このいびきは間違いなく私のお父さんのものだ。あれ、ってことはさっきまでのは夢ってこと?

 壁の模様から察すると、ここは多分おじいちゃんの家だ。でも、いつの間に?

 握った手のひらに何かを感じ、目をやる。


「これ...!」


 開いた手のひらからは、しなびた彼岸花の花びらがこぼれ落ちた。


「夢じゃ、なかった!」


 次に思い浮かんだのは、「会いたい」という思いだった。また彼に、カゲロウに会いたい。鞄の中からお土産に持ってきたおせんべいを何枚か取り出して、部屋を飛び出す。おじいちゃんも、お父さんも知らない。今はとにかく彼に会いたい。

 来たことのない家。構造もよくわからないせいで玄関がわからない。どうでもいい。早く出たい。いくつも扉を開けているうちに裏口のような場所に出た。履いたことのないボロボロのサンダルに足を突っ込み、森へと走る。

 また会いたい。あの大人びた口調と、子供みたいな微笑みを浮かべる彼に。夜を待ってなんていられない。どうせおじいちゃんやお父さんと一緒にいたって楽しくなんてない。

 記憶をたどり、獣道を歩く。昨日の夜と違って、うっすらと朝日が差し込んでいる。そのおかげでなんとか道を見失わずに歩ける。しめ縄が見えてきて、自然と足が速まる。ここを超えたら、またカゲロウに会える。やがて、お社のような場所の階段に座り込むカゲロウが見えた。走りより、声をかける。


「カゲロウ!私の方から来ちゃった!おせんべいもあるよ!」


 なんだか私じゃないみたい。こんなに明るく、笑顔で心から人に接することができるなんて。これも全部、カゲロウのおかげ。カゲロウの...


「誰だ、お前。何故ここにいる?それに、何故俺の名を知っている?」


「きゃっ...」


 思わず悲鳴を上げてしまったけれど、それも仕方がない。だって、私に向けられた目線は正真正銘、敵意と警戒に満ちたものだったのだから。昨日会ったときよりも険しい表情で、カゲロウはさらに詰め寄ってきた。


「お前、ひょっとして俺の力を利用しに来たのか?答えろ。」


 明らかな殺気を向けられて、体の震えが止まらなくなる。なんで?昨日はあんなに優しかったのに...


「私、綾。昨日言ったでしょ?あなたが花火を見せてくれて、それで約束したじゃない。『見つけたら迎えに行ってやる』って言ってくれたの、忘れたの?」


「黙れ。俺の質問に答えろ。何故俺の名を知っている。」


「あなたが昨日教えてくれたんだけど...」


「俺はお前のような女、知らん。何が狙いかは知らんが帰れ。」


 眼光が鋭くなる。何で彼がこんなに怒っているのかはわからないけど、嫌われているのが嫌で、慌てて口を開く。


「私、お母さんがいなくなってひとりぼっちで、生きていても何の意味もないと思ってたの。」


 カゲロウの眉が、一瞬だけ動いた。


「でもね、あなたと出会って私は変われた。死にたいと思ってたけど、もう少し頑張って生きようと思えたの!」


 そう。これが私の本音。お母さんが死んで何も感じないようにしてたけど、それだけじゃない。こうやっていればそのうち周りからも見られなくなって、私が消えても気付かれないんじゃないか。そんな思いもあったんだ。

 彼の沈黙をいいことに、一歩近づく。


「ねえ、だから...」


「黙れ!」


 唐突にカゲロウは表情を歪め、右手を振るった。その手が黒く大きく膨らみ、私を地面に押さえつける。


「死の苦しさも知らずによくもまあ、のうのうと死にたいだなんて言えるものだな。」


 肥大化した腕が私の体を強く握りしめ、骨が悲鳴を上げ始める。


「いた、い!やめてっ...!」


「俺がどれだけ生きたいと思っていたかも知らずに...!お前も死の苦しみを味わえ。」


 カゲロウの体中から、影でできた無数の影のようなものが湧き出してきた。次の瞬間、それが手足を食い荒らし始める。私は、もう何も抵抗できなかった。体がじわじわと冷えていき、どんどん血が流れ出てていくのをなんとなく感じる。痛すぎて、もはや痛いと感じることすらできない。すぐ近くで聞こえていた絶叫が自分のものだと気付く頃には、叫ぶ力すらなくなっていて...

 私は多分、死んだ。




 act:3


 目を開けると、そこは少し前に飛び出したはずの、おじいちゃんの家の寝室だった。


「夢...?」


 指が動かせる。手足は無事なの?だったら、やっぱりさっきのは悪夢?

 自分の腕に目をやって、私は血の気が引いていくのを感じた。

 体が震えて、寒気もしてくる。吐き気が襲ってきて、何もない胃の中身を吐き出す。

 私の両手両足には、無数の黒い痣のような模様が浮かび上がっていた。まるで生きているかのように蠢く痣は、次第に薄れていった。


「夢じゃ...ない。」


 お父さんが跳ね起きて私のところに駆け寄ってきているのをなんとなく感じながら、私は気を失った。


 目を覚ますと、おじいちゃんとお父さんが心配そうにのぞき込んできていた。私が起き上がると二人は心配そうに話しかけてきたが、ほとんど雑音にしか聞こえない。

 なんで?なんでカゲロウは私を殺したの?なんで私は生きてるの?カゲロウは何に怒ったの?そもそもカゲロウって何?人間じゃないの?化け物なの?

 頭の中で謎が渦巻いて、一向に消えてくれない。そうだ、おじいちゃんなら何か知ってるかも。

 そう考えて、私はさっきあった出来事を悪夢を見たという体で語った。

 おじいちゃんはしばらく考え込んでいたけど、少ししてから一つの伝承を語ってくれた。



「禁足地は元々、邪悪な神の巣くう地だったらしい。百年ほど昔にその神を封印するために一人の少年を生け贄とし、その体に神を封じ込め、時の結界で辺りを囲ったそうだ。

 その後、少年は自信の内側の神の力で死に、自分を生け贄にした人々を恨む怨霊となってずっと存在しているんだとか。」


「ねえ、おじいちゃん。時の結界って、どんなの?」


 何故か嫌な予感がして、でも好奇心には勝てなくて、私は聞いてしまった。


「その結界の中は少年の封じられた日、8月15日を永遠に繰り返すんだ。少年は一日の始まりに記憶が消されて、自分がずっと同じ日を生きていることには気付かないらしい。」


 わかった。大体全部。カゲロウがあんなに怒ってたのは、自分は死ぬことを強要されたのに私が死にたいとか言ったせいだ。本当は見た目通りの男の子なんだ。

 花火を見て目を輝かせていた彼の顔が脳裏に浮かぶ。ずっと、ずっと同じ花火を見て、同じように感動して、でもそれを自分では知らないんだ。それに、毎回私のことも忘れる。

 そう思った瞬間、いても立ってもいられなくなった。二人の制止を振り切って、外に走り出る。

 怖いけど、会いたい。謝りたいし、泣いていいんだって言ってあげたい。寄り添ってあげたい。だって、一人でずっと恨み続けるなんて、あまりにもかわいそうだから。

 森を走り、禁足地に飛び込む。なんで私が生きてるのかはわからないけど、今はいい。

 さっきも来たお社に着くと、さっきと同じようにカゲロウが座っていた。鋭い眼光が、私を見つめる。


「誰だ。何故人間がここにいる。」


 ここまで走ってくる途中で、何を言うかはなんとなく決めていた。

 振り向いて欲しいという思いで、彼に微笑みを向ける。


「あの、カゲロウくん、だよね?私、綾って言うの。」


「...お前はなんで俺の名前を知っている?」


「私、あなたを救いに来たの。伝承を聞いて、あなたがここに閉じ込められてることを知ったから。名前もそこで知ったの。」


 前会ったときに知っただけだから、ちょっとだけ嘘も言ってるけど。


「あなたのことを教えて欲しいの。」


 怖くて手が震えたけど、無視して彼の冷たい手を取る。

 カゲロウは驚いたように目を見開いた。


「ねえ、いっしょに遊ばない?」


 カゲロウは黙り込んでいたけど、やがてその顔に少年らしい表情を浮かべて頬を赤くした。


「少しだけだぞ。」


「...うん!」


 カゲロウに手を引かれて、森の奥へと歩いて行く。虫取りをしたり、川の冷たい流れに足を浸したり。いつもなら嫌いなはずの山も、彼と一緒ならとても楽しい。虫なんて到底さわれないのに、今だけは普通に見れたし、さわれた。何故かは知らないけど、いくら遊んでもお腹も減らないし、疲れも感じなかった。

 夕暮れ時の茜色の光が景色を染め始め、夜の帷が迫り始めた頃。私たちの周りを光が舞い始めた。


「ねえ、これも全部人魂なの?」


 少し怖くなって、彼の腕にしがみつく。するとカゲロウはいたずらっぽく笑って私の頭に手を置いた。


「まさか。これは全部、蛍だ。水がきれいな証拠だな。...お前、案外怖がりなんだな。」


「お前、じゃなくて綾。あと一言多い。」


「お前を見てるとついからかいたくなるんだ。あんまり無防備すぎるものでな。」


「怖がりなんかじゃないもん。だって、幽霊のあなたとこうやって手をつないでるんだもん。」


 カゲロウとつないだ手をぶんぶん振り回す。

 と、その時突然ひときわ強い光が見えて、それを追いかける。


「馬鹿!そっちは...!」


 カゲロウが叫んだ直後、足下の地面がなくなった。蛍に夢中になっているうちに、いつの間にか崖まで来ていたらしい。どうやら気付かずに走ったせいで、その崖から転落しているようだった。

 どうしよう。このままじゃ死んじゃうよ。

 地面が迫ってきて、私は目を閉じた。


「はあ、やっぱりお前はほっとけない。」


 カゲロウの声が響き、急速に落下していた私の体が優しく受け止められた。目を開けると、目の前に彼の顔があった。

 整った顔立ち。ツンとしてるけど、優しい光を湛えた目。その冷たい頬に手を添えて、彼の目を正面から見つめる。


「なんだ。つんつんしてても、やっぱりあなたは優しいじゃない。」


 カゲロウはその暗い瞳をそっとそらし、呟いた。


「でも、俺は化け物だ。こんな姿になって、人を怖がらせて、恨んで、呪って。そんな奴が優しい訳ねえよ。」


 彼の背中からは無数の影の触手が伸び、木々に絡みついて落下を止めている。


「そんなことない。こうして私を助けてくれてるもの。あなたはきっと、すごく優しい男の子だったの。」


 私の腰に添えられた腕に、少しだけ力がこもった。彼の表情が苦しそうに歪む。


「でも、俺は全部を恨んでる。恨みは何も生まない。もともと殺すための感情なんだから。」


 影が私達を引き上げ、崖の上に送り届けてくれた。


「そろそろ家に帰ったほうがいいんじゃないか?俺のことはいいから帰れよ。」


 そういう彼の顔はとても寂しそうで、とても大丈夫そうには見えなかった。口で語るほど、彼は大人ではない。


「嘘つき。私に嘘をつくなって言ったのに、あなたは嘘をつくんだ。」


 強く握りしめられたその手を取り、言葉を発する。


「寂しいなら、寂しいって言えばいいのに。」


 カゲロウは息を呑み、目を大きく見開いた。


「そう、か。俺は寂しかったんだな。」


 その口元がふっと緩み、きつい印象だった顔に笑みが浮かぶ。


「ありがとう。俺に、自分を気づかせてくれて。」


 そう言ってカゲロウは私の髪に何かを挿した。


「俺に自分を見させてくれたのは、お前が初めてだ。」


 ああ、やっぱりカゲロウは、普通の優しい男の子だ。だって、そうじゃなかったらこんなに優しく、こんなに美しい笑みを浮かべるはずがないもの。

 零時を告げる鐘が、遠くで鳴っていた。

 カゲロウと私は互いを強く抱きしめ…

 そして、またしても空間が暗転した。






 act:4


 意識が再び暗闇から引き上げられる。目を開けると、そこにはやはり天井が見えた。また戻ってきた。ループの条件は、私が死んだときかあるいは一日の終わりが来たときらしい。

 ループしたということは、彼の記憶もまた消えたということ。さっきまであんなに仲良く話していたのに、彼にとって私はもう名も知らない人間になってしまったのだ。

 布団に手をついて起き上がろうとして、髪から何かが落ちた。

 それは、名前も知らない一輪の花だった。

 さっきまであんなに普通の笑みを浮かべていた彼は、きっとまた恨みの念に囚われてしまった。そのことがただ悲しくて、虚しかった。

 なんとかして、彼を救う方法はないの?何か、このループに抜け道はないの?

 そこで、手に触れた花に改めて気づく。

 あれ、この花、前のループのときにもらったやつだよね?そういえば一回目の時も、花びらは持ってこれた。もしかして、私が持ってたものってループを貫通するの?それなら、なんとか利用できないかな?

 だめだ、いい考えが思い浮かばない。

 悩んで、悩んで、悩んで。気づくと、私はまた禁足地に足を踏み入れてしまっていた。やってはいけないことだ。だって、入ってはいけない場所だから、禁足地になっているのに。

 でも、私の心はもう決まっていた。また、彼と一緒にあの花火を見たい。あの感情を押し殺した顔に、もう一度笑顔を浮かべさせてあげたい。だから、私は一見無駄にも見える行動を繰り返してしまうの。

 予想していたとおり、前と同じようにカゲロウはお社の階段でうずくまっていた。


「誰だ。何しに来た。」


 相変わらずの、敵意に満ちた鋭い目。でも、私は知ってるもの。彼が誰よりも優しくて、困ってる女の子をほっとけない、不器用で可愛い男の子だってこと。

 だから、彼の心を動かせるかはどうかはわからないけど、またとびきりの笑顔で言うの。


「あなたを助けに来たの。」


「…何をおかしなことを。俺を救える奴がいるはずがない。俺は、恨みに縋る亡霊。ただの人間に、何ができる。」


 暗く沈んだ声でそう呟く彼に歩み寄る。その背中から無数の影が湧き出し、いつでも私を殺せるように構える。でも、気にしない。素早く彼を抱きしめて、耳元で言う。


「でも、私はあなたのことを知ってる。あなたは、泣いている女の子を見捨てられない、優しい男の子。寂しくても寂しいと言えない、不器用な男の子なの。」


「何を、馬鹿なことを…」


 そう言って私を突き放そうとする彼の体は、小刻みに震えていた。強く抱きしめて、頭をぽんぽんと撫でる。

 影の攻撃が顔に傷をつける。痛みで顔はしかめるけど、足は止めない。


「私に全部話してほしいな。ずっと、ここにいてあげるから。」


「…っ!」


 カゲロウは、膝から崩れ落ちた。体を震わせ、涙を流す彼の体を、私はずっと抱いていた。

 さっきまでの冷たくて、自分を強く見せようと必死に背伸びする悪霊の姿は、もうなかった。私の腕の中にいるのは、一人の等身大の少年だった。


「今だけは恨みを忘れて。泣いてもいいの。あなたの思いを、全部教えて?」


「俺は…寂しいんだ…」


 涙をこぼしながら、彼は絞り出すように言った。


「俺は…僕はもう、恨みたくないよ…なんで人を憎まないといけないんだよ…!」


 初めて聞いた。カゲロウが自分のことを「僕」という瞬間を。


「嫌だ嫌だ嫌だ!なんで僕が!助けたかっただけなのにっ!」


 彼の体から、次々に影が溢れ出す。その影に体を食い荒らされる。痛くない、なんて嘘。すごく痛い。涙が止まらない。

 それでも、涙で滲む視界の中心に彼を捉えて、穴の空いた肺から息を絞り出す。やっと彼の本音を聞けた気がして、少しだけ嬉しかった。


「私ね…あなたの事が、好き。」


 だから、私は自分でも驚きながら、隠れていた本音を吐き出した。


「待っててね。…絶対に、あなたを助けてみせるから…!」


 眼の前が真っ暗になり、私はまた死んだ。




 act:5


 目を開けると、おじいちゃんの家の天井があった。またここに、戻ってきた。なれない感覚。動悸もすごい。袖をまくって体を確認すると、そこにはまたしても蠢く痣があった。しかし、その大きさは前回よりも何倍も大きくて、なかなか消えようとしなかった。

 急いで服で隠し、吐き気をなんとか抑え込んで、息を大きく吸う。

 まずは計画を立てないと。殺されてばっかりじゃ駄目だ。

 物はループを超えて持ち込めることがわかってる。でも、多分私が持ってるものじゃないと持ち込めない。だから、あんまり大きいものは持ち込めない。

 それと、カゲロウの記憶はリセットされてしまう。だから、持って行く物は良く考えないと。

 そうだ。次のループで彼に会ったときに、今回の出来事を教えればいいんじゃないかな。写真?ビデオ?幽霊ってカメラに映るの?

 それなら、字だったらどうだろう。私が、カゲロウとの思い出を日記に書いて…

 いや、それじゃ駄目だ。私が嘘をついていると思われたら、それまで。

 …だったら、彼に書いてもらえばいいんじゃない?自分で書いた字は普通わかるもの。日記みたいな感じで、私との会話とか、あったことを書いてもらえばいいんだ。それを持って私がループすれば、私が何回もカゲロウと会ったことがあることを証明できる!

 思いついてからは、すぐだった。宿題用に持ってきていたノートを一冊とシャーペンを急いで取り出し、禁足地に走る。

 当然、前と同じように彼は階段にうずくまっていた。


「カゲロウ、来たよ。」


「…誰だ。何しに来た。」


 相変わらずな彼の反応に、思わず吹き出してしまう。もう、何もわかってないんだから。私が苦労してきたことも、あんなに優しく私に微笑んだことも、全部忘れてるなんて。


「私、綾。あなたのことが大好きな女の子だよ。」


「こんな怪しい場所に、女が一人か?」


「うん。あなたに会うために来たの。」


 疑いの色の抜けない彼に微笑みかける。


「信じてくれなくてもいい。騙されたと思って、一回聞いて。」


 カゲロウはいつでも私を殺せるようにするためか、姿勢を低くして構えた。


「あなたは、8月15日をずっとループしてるの。そして、一日が終わるたびにあなたの記憶は消されてしまう。私は、もう何回もあなたに会ったことがあるの。」


 一歩だけ足を踏み出す。彼の背中から影が湧き出し、こちらを狙う。


「大好きだよ。だから、あなたのことをもっと知りたいの。」


 影は少しだけ勢いを失い、カゲロウの敵意も少し薄れた。すかさずノートとペンを差し出す。


「これ、あなたが書いて?私と話した内容とか、思ったことでもいいから。私が次のループに持っていくから。」


「…お前の話が嘘でないという証拠は?」


「ないよ。今はまだ。今あなたが書いた日記が、次のあなたと話すときの証明になるの。」


「証拠がないなら…」


「なら、今は私の目を見て。それでも嘘だと思うんだったら殺してくれてもいいよ。」


 カゲロウの底なしの闇を抱えた瞳が、私の目を正面から見つめた。短くも長くも感じられる時間が過ぎ、やがて、彼は目を背けた。


「駄目だ。証拠がないなら、やはり…」


「『助けたかっただけ』なんでしょ?」


 彼の動きが、ピタリと止まった。信じられない、とでも言うようにその目が見開かれる。


「どこで、誰にそれを…いや、俺しか知らないはずだ、それは。」


「知ってるよ。あなたは本当は人を恨みたくなんてなくて、一人で泣いている優しい男の子だってこと。」


 カゲロウは黙ったまま立ちすくんでいた。やがて、その頬を涙がつたう。彼は驚いた顔でそれを拭い、ゆっくりと首を振って影を収めた。


「今だけだ。今だけはお前を信じる。」


「うん、今だけでいいの。」


 思いが通じたことが嬉しくて、いつの間にか私の目からも涙がこぼれていた。


「泣くのは、やめろ。どうしていいかわからん。」


 初めて会ったときと同じ言葉が、彼の口からこぼれ出る。


「じゃあ、一緒に遊ぼうよ。夜になったら、花火の見える場所につれてって?」


 カゲロウは、不器用に口の端を歪めて少しだけ微笑んだ。


「わかった。そんなことでいいなら、いくらでも付き合ってやる。」


 一日目と違って、あっという間に時間は過ぎていった。前にカゲロウと一緒に遊んだ河原を通り、ホタルを見つけて追いかける。一度経験したことなのに、すべてが新鮮で楽しい。そんな私の行動を、彼は事細かに記していた。

 やがて、あたりはすっかり闇に包まれた。


「約束だ。花火の見える場所に連れて行ってやる。」


 遠くで打ち上げの音が轟き始め、カゲロウは私の手を引いて走り出した。最初に出会ったときと同じ、不思議な現象が起きる。木々を突っ切って走り、地面にほとんど触れることなく駆け抜ける。

 橙色の閃光とともに、視界がひらけた。あの時一緒に花火を見た、彼岸花の広がる野原。そこに横になって、あの時と同じように花火を眺める。

 なぜかはわからないけれど、ここはとても空に近いように感じた。目と鼻の先で光が弾けて、音が迫ってくる。

 少しだけ怖くて、カゲロウの体温の感じられない手を握りしめる。握り返してくる確かな感触があり、そっと顔を横に向ける。すぐ近くの、息の当たる距離に彼の顔がある。

 必死で口角を下げようとしているその顔がおかしくて、思わず笑いがこぼれる。


「笑うな。不快だ。」


 そういう彼の表情は、全く不快そうではなかった。


「嘘。嬉しいくせに。」


 零時を告げる鐘が、いつの間にか鳴り始めている。カゲロウの手からノートとペンを受け取り、そっと囁く。


「じゃあ、また今日の朝、会おうね。」


「まだお前が本当のことを言っているという明確な証拠はないが…」


「それでも、あなたは私を信じた。…でしょ?」


「…ああ、そうだな。また、朝。」


 最後の鐘が鳴り、私の意識は闇に飲み込まれた。




 act:6


 目を開けると、見慣れた木の天井が見えた。また戻ってきた。

 手にはノートとペンが握られている。戻ってきた。私の持っていたものは、予想通りループを貫通するようだ。

 一刻も早くこの日記を、このループのカゲロウに見せないと。

 もうすっかり慣れた道を通って、禁足地のしめ縄をくぐり抜ける。当然、彼は階段にうずくまっている。

 うるさく音を立てる心臓を無視して、彼のもとに駆け寄る。


「誰だ、何しに…」


「私、綾。今日の夜のあなたから、あなたに渡すものを預かってるの。」


 すっかりおなじみの台詞を遮り、要件だけを伝える。彼と話す時間が、今は一秒でも早く来てほしかった。


「…お前は、何を言っている?」


「そうだよね、わからないよね。だから、とりあえずこれを読んで。私は、これを渡すためにここに来たの。」


 カゲロウは疑いの色の抜けない目線でノートを受け取り、開いた。次第にその顔が驚きで塗り替えられていく。


「これは…俺の字だ。どういうことだ?お前は何を知っている?」


 すっかり感情を隠すことを忘れ、年相応の驚いた表情を浮かべる彼に、好きだという想いがとどまることなく湧き出してくる。自分でもおかしいと思うけれど、胸の高鳴りが止められない。


「ねえ、あなたのことをもっと教えてほしいの。あなたが一人で抱えている悩みを。誰を助けたかったのかを。」


 彼はしばらく日記に目を通していたが、やがて目を閉じて呟いた。


「どうやら、ここに書かれているとおりなら、そうしなくてはならないようだな。」


「あれ、思ったよりもあっさり信じてくれた。」


「お前の質問に答えることが契約らしい。そう書いてある。その時の俺がどういうつもりで書いたのかは知らないが、面倒なことをしてくれる。」


 そう言う彼の顔からは、面倒くさい、といった感情は感じられなかった。むしろ少しだけ嬉しそうに見える。

 だって、彼はずっと一人きりでこの一日を繰り返しているのだから。気の遠くなるような日数を、たった一人で、すべての記憶を消されながら。


「じゃあ、となりに座ってもいい?」


「…ああ。」


 彼の隣に腰を下ろし、お社の柱にもたれかかる。カゲロウは、ゆっくりと話し始めた。



「俺は、ここからすぐ下にある村で生まれた。父も母も優しく、毎日なんの不自由もなく過ごしていた。あとは、そうだな。俺には親友がいた。俺とそいつはいつも一緒にいて、血の繋がりはなくとも兄弟のような関係だった。村には俺達の他に、子供は赤子しかいなかった。だから、遊ぶときは二人一緒だった。

 楽しい時間だったんだと思う。俺の記憶の殆どは、そいつと遊んだ思い出ばかりだからな。」



 目を閉じて穏やかに語っていた彼の口調に、不意にノイズが入った。


「それなのに…俺は死んだ。」


 泣くわけでもなく、怒るわけでもない。ただ、虚ろな声で彼は呟いた。


「本当は、俺は死ななくても良かったんだ。あいつが選ばれただけ。あいつが死ぬくらいなら、俺が、僕が、そのかわりになってやればいいと思ったんだ。」


 声のトーンが変わり、年相応の声に変わっていく。強く握りしめられた彼の両手が、小刻みに震えていた。


「僕はもう、恨みたくなんてないよ…僕が望んでやったことだから、誰も悪くない。悪いのは、ここに巣食った悪神様だけ。」


 いつの間にか、隣りに座っている彼は涙を流し、震えていた。そんなカゲロウの体を、思い切り抱きしめる。温かい、生きている感触はしない。ひんやりとしていて、むしろ少し心地いい。

 彼のそばにいてあげたい。その想いが心を支配する。


「ずっと一緒にいよう。私が、ずっと、いつまでもあなたの話し相手になってあげるから。あなたが私を忘れたとしても、私はあなたを忘れないから...!」


 涙を流し、体を震わせたまま、カゲロウは何度も頷いた。


「綾、置いていかないで...ずっとここにいて...!」


 幼子のように泣く彼は、日が昇って辺りがすっかり蒸し暑くなるまでずっと、私の腕の中にいた。

 涙がおさまってから、彼は私に話をするようにせがんだ。その様子がなんだか幼い弟のようで、愛おしかった。

 だから、私もたくさん話をした。お母さんが死んでしまったこと。花火を見るためにここに来たこと。カゲロウと出会って、今は心がふわふわして、どきどきしていること。

 それから、カゲロウのループの話。話しているうちに感情が抑えられなくなって、私は何度も泣いた。そのせいで、なかなか話は終わらなかった。

 カゲロウはただ黙って聞いていた。

 話し終える頃には、日が沈もうとしていた。時の流れなんて、本当に一瞬だった。二人で黙って座り込んでいると、彼は不意に口を開いた。


「綾、ごめん。」


「どうしたの、急に。」


「僕のせいで、綾をこんな呪いに巻き込んでしまった。綾はなんの罪もない、優しい女の子なのに。」


 夕日に照らされて長く伸びた木々の影が、風に煽られて不規則に揺れる。その重なりが、カゲロウの顔に深い闇を作り出していた。

 違う。謝る必要なんてない。私は、あなたに笑ってほしいの。だったら、どうすればいいの?

 枝葉の間から差し込んだ夕日が、網膜に鋭く突き刺さる。その驚きで、私はある考えを思いついた。


「謝らなくていいよ!だって、ここから抜け出したらいいじゃない!」


 勢いよく立ち上がり、彼の手を取る。


「見つけようよ。このループから脱出する方法を。」


 彼は私に手を引かれ、ゆっくりと立ち上がった。

 まず最初に試してみたのが、禁足地のしめ縄の向こうへと行くことだった。でも、駄目だった。私はなんの問題もなく出られても、カゲロウは何かに弾き飛ばされ、結界に近づくことすらできない。

 しめ縄をちぎろうにも、私の力では無理だった。もし仮に力の強い人がいても、無理そうな気がした。引っ張った拍子に袖がめくれた。私の腕には大きな痣があり、体を喰らい尽くそうとするかのように蠢いていた。

 込み上げる吐き気を抑え、心配そうにこちらを覗き込むカゲロウになんとか微笑みかける。


「多分、私に残された時間は少ないみたい。」


 こんな場所に、なんの代償もなく居続けられるはずもない。きっと、ここにいられる時間には制限がある。それ自体はずっと前からなんとなく察していた。それでも、目を背けていた。一緒にいられるという事実を、覆したくなかったから。

 でも、もう馬鹿な私でもわかる。この痣は、私の体を蝕んでいる。きっとこれが広がりきったら、無事ではいられない。

 だからこそ、早くここから抜け出す方法を見つけなくてはいけないの。

 けれど、こんなときに限って時は早く流れていくもの。禁足地から出ようと走り回るうちに、完全に日が沈んでしまった。

 この一日は、もうすぐ終わってしまう。そうすれば、せっかくこんなに心を許してくれたカゲロウの心も元に戻ってしまう。


「ねえ、カゲロウ。今日あったことを、できるだけ詳しくこのノートに書いて。」


 今、このカゲロウが次に合うカゲロウにメッセージを残してくれれば、きっと次のループでもうまくいく。

 彼は黙って頷くと、一心不乱に書き始めた。本当は何を書いているのか知りたいけれど、それはなんだかやってはいけない気がして、できずにいた。

 彼が私を信じて渡してくれているのに、それを裏切るのはなんだか嫌だった。

 零時を告げる鐘が、鳴り始める。急いで彼の手から日記を受け取る。


「綾、行っちゃうの?」


 カゲロウが私の袖を掴んで、引き止めた。とっても、寂しそう。


「ううん、今日が終わるまで、あとちょっとだけどずっと一緒にいることにする。」


 彼を抱きしめて目を閉じる。暗闇に飲み込まれていくような感覚とともに、私の意識は途切れた。




 act:7


 目を開けると、おじいちゃんの家の天井があった。手元にあるノートを確認して、急いで階段を駆け下りる。ぶかぶかのサンダルをつっかけて、止まることなく走る。

 息が苦しい。走ったことだけが原因じゃない。もう時間がないことがわかっているから。見ないようにしていても、あの痣がどんどん広がってきていることがわかっているから、こんなに焦っているんだ。

 しめ縄の下をくぐって、お社の中で座り込むカゲロウの前に向かう。突然の出来事に唖然として動きを止めている彼に、日記を差し出す。


「私、綾。あなたに話したいことがあるの。でも、その前にこれを読んで。全部わかるはずだから。」


 私の焦りを感じたのか、彼は恐る恐るといった感じで日記を開き、読み始めた。読み進めるに連れ、その表情に戸惑いが浮かび始める。


「お前、これを読んだか?」


 何故かとても緊張した面持ちで、彼は訪ねてきた。


「えっ、読んでない。読んだほうがいいの?」


「いや、いい!読まなくていい!」


 その整った顔を赤くして、彼は叫んだ。なんだか急に幼くなったように感じられて、とても可笑しかった。私がこらえきれずに笑うと、彼はいじけてそっぽを向いていた。

 そんなカゲロウの手を取って、できるだけ明るく話しかける。


「行こう!ここから出る方法を探しに!」


 彼は口の端を不器用に歪めて、笑った。


「ああ、行こう。」


 閉じた彼の心に、少しだけ、私の思いが通じた気がした。


「カゲロウ、あのね、信じられないかもしれないけど、そこに書いてある通りなの。私たちはループしてて…」


 私の説明を、彼は遮ることなく聞いていた。



 act:7/2



「…で、どうする?」


 少しして、私たちはしめ縄の前に立っていた。これのせいでカゲロウは禁足地から出ることができない。だから、なんとかしてこれを破壊する方法を見つけないと。


「一応、綾はこの結界から出られるんだな?」


「うん。痛みとかもなく、普通に出られるよ。」


 手を結界の外に出して見せながら、カゲロウを見つめる。彼はぶつぶつと呟きながらあたりを歩き始めた。


「綾は自由に出られる。だが、出たところでこの輪廻は終わらない。この循環は結界の縄を断ち切っただけで止まるのか?止まらないとすれば、仮に俺がこの結界から出たところで循環から脱出できるとは思えない…そもそも、外にいる綾の家族もおそらく虚構だ。」


「ちょっと、カゲロウ?もっと前向きに考えない?」


「ああ、悪い。いつでも最悪の事態を想定するようにしてるんだ。」


 そう言って苦笑いする彼の顔には、やっぱり拭いきれない暗い影があった。

 少しの沈黙の後、彼は顔を上げ、きっぱりとした表情で言った。


「一度、全力でやってみる。俺が力に呑まれたら、その時はすぐに逃げてくれ。」


 その言葉と同時に、木々がざわめき始めた。その影がうねり、カゲロウへと殺到する。彼自身の身体も次第に影へと変わっていく。

 そして、巨大な影の化身へと変貌した彼はその拳を思い切り結界へと叩きつけた。

 轟音と共に地面が大きく揺れ、私は尻餅をついて結末を見守った。風が鋭い悲鳴を上げて、木々の枝が軋む。

 しばらくして、収まっていく土煙の中から姿を表したのは、大の字に倒れたカゲロウだった。


「大丈夫っ?怪我、してない?」


 慌てて駆け寄ってから、大きく息をつく。土まみれになっているけど目立った外傷はないし、大丈夫そうだ。


「ああ、問題ない。ただ、俺の全力でもこれの破壊は無理そうだな。」


 さっき目の前で起きた出来事が信じられなくて、体の震えが止まらない。わかってはいたけれど、カゲロウは人間じゃない。怨霊だ。しかも、制御できるとまでは行かなくとも、悪神の力を使えるのだから、相当強いことは間違いない。

 そんな彼に好意を抱いてしまったことが、不思議と嬉しかった。

 体は恐怖で震えていても、心は喜びで満たされている。不思議な感覚だった。


「どうすればいい…?もう、お前に残された時間は少ないんだろ?」


「そう、だね。…でも、暗いことばっかり考えててもしょうがないよ。ちょっと気分転換しない?ひょっとしたら、いい考えが浮かぶかもしれないし。」


「…ああ、そうだな。お前がそう言うなら、そうしよう。」


 カゲロウは表情を緩め、頷いた。

 しめ縄から離れ、他愛もない話をしながら、森の中を歩く。さっきまで悩んでいたのが嘘みたいに、心が晴れやかになっていく。

 しばらくして、何かを考えていたのか、黙り込んでいたカゲロウが唐突に口を開いた。


「今夜、花火を見ないか。」


「えっ?」


 まさか彼の方から誘ってくるとは思わなかった。鼓動が急に速くなって、慌てて胸を抑える。


「うん、もちろんいいけど。」


「…持ってるか?」


「何?聞こえなかった。」


「着物、持ってるか?お前の着物姿を見てみたい。」


「…うん?多分探せばあると思うけど…」


 あまりに突然すぎて、思考が追いつかない。

 緊張した様子の彼を見ているうちにどんどん顔が熱くなってきて、誤魔化すように走り出す。


「着替えてくるから、待ってて!」


「…ああ。彼岸花の丘で、待ってる。」


 短く呟いた彼は、何かを決心したような顔をしていた。少しだけ気になったけど、今はそんなことで足を止めようとは思えなかった。

 森を抜け出して、おじいちゃんの家に駆け込む。居間にはおじいちゃんがいた。カゲロウの話によれば、この世界にいるお父さんとおじいちゃんは私の理想や妄想から作られていて、本物じゃないらしい。

 だから、ちょっとくらいの我儘なら許してもらえるよね。

 心配そうな表情を浮かべるおじいちゃんに、なんの脈絡もなく話しかける。


「おじいちゃん、この家に浴衣とか、ある?」



 act:7/3



 袖を枝に引っ掛けないように気をつけて森を抜ける。おじいちゃんは、この浴衣はお母さんのものだと言って渡してくれた。きっとこれは、私の妄想から作られた設定だ。それでも、嬉しかった。お母さんが一緒にいるような気がしたから。お母さんがおとうさんといっしょに花火大会に行った時の気持ちが、少しだけわかる気がしたから。

 視界が突然ひらけ、目もくらむような赤い彼岸花が広がる。藍色がかった黒い空との対比が、とてもこの世のものとは思えなかった。そもそも、ここはこの世ではないのかもしれないけれど。


「お待たせ。...来たよ。」


 私がそう言うと、彼は慌てたように何かを隠すと立ち上がり、振り向いた。そして、優しく微笑んだ。


「思ったとおりだ。似合ってる。」


「ありがと...」


 なんだか照れくさくて、顔が赤くなっているのがわかってしまって、下を向く。日記を読んだせいか、彼の言葉遣いが柔らかくなっている。


「この牢獄から、抜け出す方法が見つかった。」


 しかし、彼のその言葉に慌てて顔を上げる。心臓が早鐘のようにうるさく暴れ始める。


「見つかったって...本当に?じゃあ、わたしたちは外に出て、ずっと一緒にいられるの?」


「...この時の牢獄の、本来の目的はわかるだろ。」


 彼は私の質問に答えず、そう切り出した。もちろん、知っている。だって、私がカゲロウに教えた情報だもの。


「カゲロウを、外に出さないため。」


「そう。この牢獄は、悪神の傀儡となった俺が人に危害を加えることを防ぐために作られた、死者のための牢獄。綾が記憶を失わずにいられたのは、おそらく想定されていない存在、生者だからだろう。...先に言っておくと、この牢獄からの脱出は不可能だ。」


「えっ?でも、さっきは抜け出す方法があるって...」


 カゲロウはうつむき、言いにくそうに唇を噛んでいたが、やがて心を決めたように顔を上げ、私の目を正面から見て言った。


「脱出は不可能でも、破壊は可能だ。」


 それを聞いてまず心に浮かんだのは、抑えきれない喜びだった。同時に彼が何故言いにくそうな顔をしたのか、という疑問も首をもたげるが、体はそれを無視して勝手に動いていた。

 つらそうに顔を歪める彼に思い切り抱きつく。


「嬉しい!カゲロウに、色々見せてあげられるんだね!」


 彼の目から、こらえきれない涙が零れ落ちた。


「いや、俺は行けない。」


 自分の耳に届いた内容が理解できなくて、理解したくなくて、ただただ彼の顔を見つめる。カゲロウは少し首を傾け、下手な笑顔を作って呟いた。


「この牢獄は、俺を封じるためのもの。俺がいなくなれば、これが存在する理由もなくなって、消えるはずだ。」


 言われたことを言葉として認識するのに、しばらくかかった。理解した瞬間、大きく首を振る。


「嘘、だよね。そんな事、あるはずないもん…!」


 必死で彼の目を見つめても、否定の言葉は帰ってこない。


「駄目。駄目だよそんなの!一緒じゃないと嫌だよ!」


 それを聞いて、彼は嬉しそうに、それでいて哀しそうに笑った。今度は作り笑いではなかった。


「俺は怨霊だ。この世に未練がある限り、消えることはできない。そして、今現在、一つだけ未練が残されている。」


 喜んではいけないことだと、わかっていた。それでも、喜ばずにはいられない。だって、彼自身も少しだけ嬉しそうだったから。

 花火の音が轟き、閃光が私たちを激しく照らし出す。その音に負けないよう、彼は声を張り上げて言った。


「俺の日記、全て読み終えた。それで、確信したんだ。」


「なんのこと?」


 カゲロウは大きく息を吸って、戸惑うような表情とともに言葉を吐き出した。


「ずっと、わかっていたんだ。君のことが、好きだって。わかっていて、見ないふりをした。」


「っ......!」


 声が喉に詰まったようで、出てきてくれなかった。ずっと一方通行だと思っていた想いが、ついに彼にも通じたのだという喜びと、得体のしれない不吉な予感で、鳥肌が止まらなかった。

 お腹に響く重い音が、上空でいくつも破裂する。色とりどりの光が、カゲロウの顔にたくさんの影を作り、表情を止まることなく変えさせる。


「記憶がなくても、流石にわかる。他でもない俺の、いや、僕の書いた文章だから。君への想いが、あれには幾重にも記されていた。」


 私が喋れないのをいいことに、彼は話し続けた。ずっと、こうしていられたらいい。そう思ったから、私は口を開かなかった。


「僕は怨霊だ。この世に未練がある限り、霊としてさまよい続ける。でも、その未練も今消えた。君に、想いを伝えられたから。」


 声を出そうとして、まず最初に私の口から飛び出したのは、泣き声のような叫びだった。


「嫌だよ、そんなの。カゲロウがいなかったら、私、どうしたら…」


 せっかくの晴れ姿なのに、涙で顔はぐしゃぐしゃだ。本当に最悪な気分。泣きじゃくり、みっともない姿を見せる私は決して可愛くなんてないはずなのに、彼は頬を赤らめて私の手を握り、笑った。

 なんでそんなに笑うのか理解できなくて、何度も瞬きを繰り返す。


「なんでっ、そんなに笑うの...?私、あなたと一緒じゃないと生きていけない…!」


 カゲロウは微笑んだまま、私の唇にそっと指を押し当てた。

 思わず息を呑んでしまう。カゲロウは、命を軽視することを何よりも嫌う。言ってはいけないことを、言ってしまった。何度かそのせいで殺されておきながら、本当に学ばない人間だ、私は。


「綾、それは駄目だよ。僕は君に生きてほしい。生者として、ずっと僕を覚えていてほしいんだ。」


 私の失言に気を悪くする様子もなく、彼は言った。


「君はまだ若い。これからの時間は、今までの君の世界よりもずっと広いんだ。それに…」


 死者は一瞬だけ苦しそうに表情を歪め、吐き出すように言った。


「君はまだ、生きてる。生きていれば、なんだってできる。」


 ますます密度を増していく花火の下で、彼の体は少しずつ光の粒子となって解け始めた。

 きつく抱きしめていたその体に実体がなくなり、私の手は空を切った。同時に、彼が手に持っていた日記が乾いた音とともに地面に落ちる。


「待って、待って!行かないで!」


 いくら叫んでも、いくら嘆いても彼の体はどんどん消えていく。涙でにじみ、花火の鮮やかな色に塗りつぶされていく世界の中心で、カゲロウの顔だけが最後まで鮮明に映っていた。


【僕の分まで生きて。】


 痛いほどに鳴り響く花火の音の中で、彼の口がそう動いた。声はもう、聞こえなかった。

 そして、あっけないほどに一瞬で、その存在の余韻すらも残さず、瞬き一つの間にその姿は消え失せた。

 しばらくして、零時を告げる鐘が鳴り響いた。慌てて日記を拾い上げ、抱きしめる。もうすっかり慣れ親しんだ眠気が襲ってきて、私は泣き腫らして重くなった瞼を閉じた。




 act:end


 目を開けると、そこは禁足地の入口だった。私は、初めて足を踏み入れたあの体制でうずくまっていた。握られた手には、人魂の代わりにノートがある。

 ページを捲り、そこにびっしりと書かれた文字を目で追ううちに彼と二人で過ごした思い出が蘇ってきて、涙が止まらなくなる。

 私がホタルを見つけてはしゃいでいたこと。河原で魚を捕まえたこと。私を抱きかかえて、走ったこと。一緒に手を繋いで、花火を見たこと。どんな言葉で気持ちを伝えるか、必死で考えたこと。

 カゲロウの視点から見た私が、そこにはいた。本当の私よりもずっときらきらしていて、眩しい。彼にとって私はそんなにも輝いて見えていたということが照れくさいと同時に、どうしようもなく嬉しかった。

 丁寧な字で書かれていた日記が、最後の一行で突然、慌てて書いたかのように乱れていた。


『僕がいなくなってからも、僕の分まで生きてほしい。』


 あの時彼が慌てて隠したのは、このメッセージだったのだと、すぐに分かった。これを書いているところを私が見たら、絶対に止めようとするから。

 胸が痛くて、声にならない叫びを何度も上げて、泣いた。それでも、どれだけの涙を流しても、心にぽっかりと空いた穴は塞がってくれない。

 でも、涙は次第に引いていってしまう。嫌だった。泣くのをやめたら、彼の消滅を受け入れてしまったことになるような気がしたから。

 そんな心の内とは裏腹に、涙はやがて完全に乾いてしまった。同時に、高ぶっていた感情が静まり始める。そんな自分に言い聞かせるように、私は一人、誰もいないお社に向けて言った。


「ねえ、カゲロウ。私、あなたの分まで生きるよ。あなたのことを思い出して、何回も泣くよ。私があなたにしてあげられることは、もうそれだけだから。」


 かすれた声はどこにも響かず、木々の間に吸い込まれていった。

 遠くから、お父さんの声が聞こえてきた。続いて、懐中電灯の光が私を照らす。

 改めて考えてみれば、目覚めの場所がいつもと違う。最初に禁足地に踏み入れた場所だ。

 通常の世界でのわたしの時間は、ほとんど経過していなかったのだろうか。

 お父さんの呼ぶ声に、はっと我に返る。


「大丈夫、ここにいるよ!今行くから!」


 カゲロウのことを忘れることは、絶対にない。だけど、今は前を向かないと。それが、彼の望むことでもあるだろうから。

 花火が、音を立てて空に咲いた。こちらの世界でも変わることのない、綺麗な色。真っ暗だったお社が、色とりどりに照らし出される。

 空気は蒸し暑く、彼のひんやりとした手が恋しい。でも、もう彼はいない。あるのは、思い出だけ。

 日記をしっかりと抱きしめて、私は光の方へと踏み出した。


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