第十四章 闇夜をさまよう魂
廃村の納屋の中で、俺は、一晩中、藁の上で、目を、開けていた。
藁の匂いが、レイガリアの幌馬車で嗅いだ匂いと、同じだった。
しかし、隣には、もう、クレヴァスはいなかった。
卓を挟んで、葡萄酒を傾けるイリスも、いなかった。
暗闇の中で、俺は、自分の九年間を、もう一度、最初から、巻き戻していた。
九年前の春、俺は、大学院を退学して、フリーランス翻訳者になった。
最初の三ヶ月は、仕事がなかった。
四ヶ月目に、ようやく、医療機器メーカーの取扱説明書の、簡単な翻訳の依頼が、エージェント経由で、舞い込んだ。
ワード単価、四円。
今でも、その単価を、覚えている。
四円という単価で、徹夜で、二週間、訳した。
納品後、クライアントから、感謝の言葉は、なかった。
ただ、エージェントの担当者から、「次の案件も、よろしく」というメールが、一通、来ただけだった。
その次の案件も、その次の次の案件も、感謝の言葉は、なかった。
半年経った頃、俺は、ようやく、業界の仕組みを、理解した。
翻訳者は、エージェントの中で、グレード付けされている。
グレードA、B、Cの三段階。
Aは、エージェントが信頼する翻訳者。Bは、平均。Cは、新人と、トラブルの多い者。
俺は、最初の半年で、Bに、上がった。
Aに、上がるには、最低、三年は、必要だった。
三年経った頃、俺は、A級翻訳者の資格を、得た。
しかし、A級翻訳者の単価は、ワード単価九円。
四円から、五円しか、上がらなかった。
その間、医療機器の専門用語、特許明細書の請求項の作法、契約書の対訳パターン、何百ギガバイトの分量を、頭と外付けハードディスクに、蓄積した。
それでも、ワード単価は、五円しか、上がらなかった。
五年目に、中里PMが、エージェント業務を、引き継いだ。
中里は、俺のグレードを、見て、最初の会議で、こう言った。
「佐久良さん、こちらは大手の代理店ですから、グレードに関係なく、新規単価交渉、しっかり、やらせてもらいますよ。お前みたいな、替えのきく翻訳者は、いくらでもいるので」。
その瞬間、俺の中の何かが、たぶん、死んだ。
しかし、生活費は、死なない。
俺は、その単価で、訳し続けた。
六年目から九年目までの、四年間。
俺は、人と、まともに、口をきいた記憶が、ほとんど、ない。
徹夜で訳して、納品して、訳して、納品して、訳して、納品した。
恋人もいない。家族も、父はとうに他界し、母は遠い地方で介護施設に入っていて、年に一度、会いに行く程度。
友人は、フリーランス仲間が、数人。でも、彼らとも、業界の愚痴を、メッセージで交わすだけだった。
九年目の春、俺は、自分の人生の総量が、九年分の翻訳メモリのフォルダの中に、すべて、入っていることに、気づいた。
三百八十ギガバイト。
俺は、三百八十ギガバイトの、人間だった。
廃村の納屋の中で、俺は、その三百八十ギガバイトの中身を、もう一度、頭の中で、開いていた。
医療機器マニュアルの、手術前の警告文。
特許明細書の、化学式の請求項。
契約書の、不可抗力条項の対訳。
地味な、地味な、地味な業務記録。
誰も、見たことのない、誰も、褒めたことのない、誰も、覚えていない、記録。
しかし、その記録の一つ一つは、九年間、俺が、ある瞬間に、ある文脈の中で、ある誰かのために、選び抜いた訳語の、結晶だった。
誰かが、それを、使った。
使われた瞬間、その訳は、誰かの何かを、目に見えない場所で、たぶん、繋いだ。
医療機器マニュアルの警告文は、たぶん、ある日、ある病院で、ある看護師に、ある患者の何かを、教えた。
特許明細書の請求項は、たぶん、ある日、ある国の特許庁で、ある研究者の発明を、保護した。
契約書の不可抗力条項は、たぶん、ある日、ある会社の経営者の何かを、守った。
俺は、自分の九年間を、初めて、外側から、見た。
外側から見た九年間は、使い捨ての時間では、なかった。
誰かの、何かを、繋ぐための、糸の蓄積、だった。
糸の一本一本は、細い。
だが、九年分の糸を、すべて、束ねれば、それは、たぶん、神聖言語の文書、一頁を、織ることが、できる。
いや、たぶん、それ以上のことが、できる。
俺は、納屋の藁から、身を、起こした。
起こした体の、手のひらの中に、イリスの弓が、まだ、温まっていた。
たぶん、俺自身の手のひらの体温が、戻ってきたのだ。
弓を、傍に、置いた。
弓の代わりに、俺は、頭の中の翻訳メモリのフォルダを、開いた。
九年分の、三百八十ギガバイトの、記録。
その記録を、神聖言語の文法と、もう一度、組み合わせた。
頭の中で、何かが、組み変わる音が、した。
医療機器マニュアルの「警告」の頁の訳が、神聖言語の「警告」の文字と、結びつく。
特許明細書の「請求項」の訳が、神聖言語の「請求」の文字と、結びつく。
契約書の「合意」の訳が、神聖言語の「合意」の文字と、結びつく。
九年分の地味な業務記録が、神聖言語の文法の鋳型の中に、ぴたり、ぴたり、と、嵌っていく。
神聖言語というのは、要するに、複数の文脈に対応する、超巨大な、翻訳メモリだった。
神々が、世界を創るときに、複数の意味を許容するために、用意した、原初の翻訳メモリ。
その鋳型に、俺の九年分の業務記録が、対応する。
俺は、自分の翻訳メモリを、神聖言語の鋳型に、流し込む方法を、たった今、理解した。
ヴァルティウス老師が、納屋の入り口に、立っていた。
俺は、彼に、目で、頷いた。
老師も、頷きを、返した。
老師の目には、新たな光があった。
「サクヤ殿、お顔が、変わられました」
「ヴァルティウス老師」
「はい」
「九年間、誰も見なかった私の仕事は、たぶん、世界の意味を、守る道具に、なります」
老師は、震える指で、納屋の柱を、撫でた。
その柱の、節の上を、撫でながら、低く、頷いた。
「サクヤ殿。儀式まで、あと、五日にござります」
「分かりました。今日中に、各種族の古老の、現存する最古の文書を、すべて、私の前に、運んでください。一晩で、すべてを、神聖言語の鋳型に、整理いたします」
「一晩で、ですか」
「九年分の業務記録の、最終、整理整頓です。九年で出来たのなら、一晩で、出来ます。たぶん」
俺は、立ち上がった。
立ち上がった瞬間、足元の藁が、ぱきり、と、音をたてた。
その音は、九年前、徹夜明けの会議室で、コーヒーカップを置いたときの音と、似ていた。
しかし、今度の音は、徹夜の終わりの音ではなかった。
たぶん、本物の仕事の、始まりの音、だった。
夜明け前の藁の上で、俺は、もう一度、九年分の翻訳メモリの中の、最も忘れがたい一件を、思い出した。
あれは、五年目の冬だった。
ある日、エージェント経由で、医療機器マニュアルの、緊急の差し替え依頼が、来た。
差し替え箇所は、わずか、三行。
ところが、その三行は、心臓手術用の電気メスの、出力設定の警告文だった。
以前の訳の中で、出力単位の表記が、わずかに、誤っていた。
誤っていた、と言っても、十進数の表記が、英語と日本語で、桁区切りが違うだけの、微細な差だった。
しかし、その微細な差を、現場の医師が、見逃せば、手術中の患者の心臓に、過剰な電力が、流れる可能性が、あった。
俺は、徹夜で、三行を、何度も、訳し直した。
最終的な訳の表記は、英語と日本語の両方の桁区切りを、併記する形に、した。
納品後、エージェントは、修正料金を、最初は、払わない、と言ってきた。
しかし、現場の医師の側から、エージェントに、感謝の意が、間接的に、伝わってきた。
医師の感謝の言葉の正確な引用は、エージェントは、教えてくれなかった。
でも、その医師は、その後、別件の翻訳でも、こちらの訳を、指定してくれるようになった。
俺は、その医師の名前を、五年間、知らなかった。
医師も、たぶん、俺の名前を、五年間、知らなかった。
しかし、二人の間に、目に見えない橋が、薄く、架かっていた。
その橋は、たぶん、患者の命を、五年間、何回か、支えていた。
藁の上で、俺は、目を、開けた。
頭の中の翻訳メモリの中の、その三行の対訳に、新しい注釈を、加えた。
注釈の文言は、こうだった。
「翻訳者と、現場の医師の間に架かる、目に見えない橋は、患者の命を、支える。橋は、両者の名前を、必要としない。橋は、訳された言葉そのものである」。
その注釈が、神聖言語の鋳型を介して、世界中の十二言語の医療文脈に、無数の派生として、流れ込む準備が、できた。
翻訳という業界の、業務記録の本質は、たぶん、こういうところに、ある。
翻訳者は、訳すたびに、目に見えない橋を、架ける。
その橋を、誰が、渡るか、翻訳者は、知らない。
誰が、いつ、渡るか、翻訳者は、追跡しない。
しかし、橋は、確かに、架かる。
橋は、訳された瞬間から、独立して、存在し続ける。
九年分の業務記録は、要するに、九年分の、無数の、目に見えない橋の集合だった。
俺は、藁の上で、息を、ゆっくり、吐いた。
その息の中で、九年分の無数の橋が、頭の中で、薄く、薄く、灯っていく。
灯った無数の橋が、世界の十二言語の地形図の上に、ぴたり、ぴたり、と、整列していった。




