第一章 単価半額の朝
九年間、誰の名前も覚えてもらえない仕事をしてきた。
午前五時十二分。会議室のディスプレイから漏れる青白い光が、俺の頬を冷たく染めていた。
徹夜で訳した医療機器マニュアル、十二万ワード。納品先のクライアントは大手で、納品は今朝九時。あと四時間。本来なら、これでようやく解放される。
俺、佐久良朔也、三十歳、フリーランス翻訳者九年目。
目を擦ろうとした指先が、机に置きっぱなしのスマートフォンに触れた。画面が点る。
着信。中里。
胃の底が小さく軋んだ。
「もしもし、佐久良さん? 中里です。朝早くにすみませんねえ」
声に詰まる。出てしまった。
中里は大手翻訳会社のプロジェクトマネージャーだ。三十代後半、人当たりはいい、というか、いいふりだけはうまい。
俺は唇を湿らせた。
「お疲れさまです。今、納品準備を」
「あ、ちょうどよかった。あれね、単価半分で再見積もりお願いします」
頭の中で、何かが止まった。
「……単価、半分」
「クライアントの予算が下がっちゃったんですよ。仕方ないですよねえ。あ、納期は変えないでくださいね。お前みたいな使い捨ての翻訳者、いくらでも替えがいるんで」
使い捨て、と中里は確かに言った。
息を吐く音が、ヘッドホンの内側でかすかに鳴った。
九時間前、契約書を交わした単価が、たった今、半分になった。十二万ワードぶんの労働報酬が、半分。家賃、保険、年金、来月の支払い予定。冷蔵庫の中の納豆。すべてが頭の中で計算しなおされ、赤字に染まる。
俺は静かに答えた。
「……分かりました」
了承するしかない。今、断れば「品質に難あり」と難癖をつけられ、納品後の支払いが踏み倒される。前にもあった。これで三度目だ。
通話を切ると、会議用の長机に額を伏せた。
九年間。徹夜と単価交渉と難癖と、それでも積み上げてきた仕事。誰も名前を覚えていない。クライアントは「翻訳者A」としか書類に書かない。
外付けハードディスクが回る、かすかな唸り。
その中に、俺の九年分の翻訳メモリ、通称TMがある。
翻訳メモリというのは、要するに業務記録の集合だ。プロの翻訳者が訳した一文一文を、原文と訳文のペアで蓄積していくデータベース。新しい依頼の中に過去と似た文が出てくれば、過去の訳が自動的に候補として呼び出される。家計簿のように地味で、ベテランほど分厚く育つ。それは派手な才能ではなく、誰にも見えないところで毎日積み上げた職人の財産だった。
九年分のTMフォルダ。三百八十ギガバイト。
誰も褒めない。誰も気づかない。中里に至っては「お前みたいな」だ。
俺は立ち上がった。
始発でも乗ろう。一度家に帰って、シャワーを浴びて、納品して、それから少し寝る。それから、たぶん、立ち上がれない。
駅へ向かう道、街灯がまだぼんやり点っている。
四月の朝の風が、桜の花びらを連れて顔を撫でた。一枚、頬に張りつく。指で摘もうとして、止まった。
視界が、縦に裂けた。
錯覚ではなかった。空気そのものが、紙のように、ぴり、と縦に裂ける。
裂け目の向こうから、桜色の光があふれた。
強い光ではない。湯気のように柔らかい光。
それが、俺をすっぽりと包んだ。
地面の感覚が消えた。アスファルトの硬さも、靴の重さも、肩の鞄も。すべてが、紙の質感に変わって、ふわりと舞った。
俺は、目を閉じた。
眠っていいのなら、眠ろうと思った。
九年間、ずっと、寝たかった。
目を開けたとき、頬に当たっていたのは、見たことのない草の匂いだった。
風が、長い。
長い、と一瞬感じた自分の感覚に、自分で驚いた。風には長さなどない。だが、確かに、その風は長かった。一筋の長さを持って、頬から首筋へ、首筋から胸元へ、その温度の変化までもがゆっくりと続いている。
目を開ける。
空が広い。
俺が知っている空ではなかった。雲の高さが違う。色の深さが違う。何より、空気が違った。排気ガスの匂いがしない。
俺は牧草地のような場所に、仰向けに倒れていた。
遠くで、誰かが叫んでいる。
女の声。それから、低い男の声。低い男の方は複数。何かを脅している。
俺は身を起こした。
二百メートルほど先、街道らしき細い道の上で、一台の幌馬車が止まっていた。馬は荷台を放り出されて、おびえて足踏みをしている。
幌の脇に、頭髪を逆立てた中年の男が震えて立っている。そのまわりを五人の男が囲んでいる。革鎧、剣。
野盗だと、なぜか俺は理解した。
なぜ理解できたのか、自分でも分からない。
頭の中で、何かが、書類フォルダを高速にめくる音をたてた。
ファイル名「東部辺境野盗団・通商記録・第七巻」。
ファイル名「ラヴェルヌ地方方言集」。
ファイル名「東部商業ギルド紋章図録」。
俺が、訳した、ことのない、書類群。
なのに、目の前の五人の男の発音が、なぜか単語ごとに意味を伴って入ってくる。
「金を出せ、商人。荷馬車も置いていけ」
「ど、どうかお慈悲を、これは妻の薬代のために」
俺は、立ち上がっていた。
走り出していた。
武術の心得などない。今までの人生で、まともに殴り合いをしたことすらない。
なのに、足は止まらなかった。
商人を取り囲んでいた五人が、駆け寄ってくる俺に気づいた。
頭目らしき大男が、刃の欠けた剣を構える。
「なんだ、てめえは」
息が切れる。距離十メートル。
俺は、立ち止まり、両手を上げた。
そして、口を開いた。
自分でも、なぜそんなことを口走ったのか、後になっても分からない。
ただ、頭の中の書類フォルダが勝手に該当文書を呼び出し、訳文を、当時のスタイルガイドに従って自動的に組み立てた。
俺は、淡々と言った。
「貴方達はラヴェルヌ地方の方言を話している。あの紋章は、東部商業ギルド傘下の隊商旗だ。この商人を襲った場合、ギルドの傭兵団は四日以内に貴方達の家族のいるカルナ村まで到達する。撤退を勧める」
頭目の剣が、止まった。
止まったまま、震えた。
空気が、止まった。
風だけが、長く、長く、流れ続けていた。
幌の脇の中年の男が、俺の足元まで這って来た。
そして、震える両手で、俺の靴を握った。
「貴方様、まさか、聖翻訳師様で……」
商人の握り方は、必死だった。
俺の足首の、靴の革の質感を、確かめるように、両手で、押さえている。
俺は、その必死さに、自分の十一文の足の幅を、無意識に、揃えた。
九年間、無意識に、誰かの前で、足の幅を、揃えたことが、なかった気がする。
商人の頭の薄い髪の毛が、夕風に、薄く、揺れた。
その揺れの中で、俺は、ようやく、自分の状況を、整理し始めた。
ここは、俺の知らない世界だ。
しかし、俺の頭の中の九年分の業務記録は、ここで、稼働している。
言語が、訳される。文脈が、降りてくる。地理が、注釈される。
俺は、九年間の業務記録を、ぎゅっと、握り直すように、息を、整えた。
息を整える動作は、九年間、徹夜明けの締切前の、最後の校正のとき、いつも、やっていた動作と、同じだった。
手のひらに、汗が、薄く、滲んだ。
その汗の質感は、九年間で、何度も、握り直してきた、自分自身の汗だった。
俺は、商人の両手の上に、自分の手のひらを、軽く、重ねた。
「お顔を、上げてください」
俺の声は、自分でも、驚くほど、落ち着いていた。
商人は、ゆっくり、顔を、上げた。
その目に、信じられない、というよりも、ようやく、誰かが、現れた、という色が、薄く、灯っていた。
九年間、たぶん、誰一人、俺の前で、こういう色を、灯した人は、いなかった。
その色を、見たくて、たぶん、人は、職人を、続けていく。
俺は、頭の中で、九年間の自分の続けて来た理由を、ようやく、別の角度から、理解した気がした。




