誰もいない校庭
祐太は、昔から足が遅かった。
運動会のリレーでは、いつもビリだった。
転んだこともある。
バトンを落としたこともある。
クラスメイトに笑われたこともあった。
だから母は、毎年少しだけ寂しそうな顔をしていた。
「来年は頑張ろうね」
それが口癖だった。
今年の運動会の日。
朝から母は妙に機嫌が良かった。
「今日は絶対見に行くからね」
祐太は、小さく頷いた。
校庭には白線が引かれ、テントが並び、スピーカーから音楽が流れていた。
空は青く、風が強かった。
リレーが始まる。
祐太はアンカーだった。
どうせまた最後だと思っていた。
前の走者からバトンを受け取る。
その瞬間だった。
急に体が軽くなった。
足が地面を蹴るたび、景色が後ろへ飛んでいく。
前を走っていた子たちを、一人、また一人と抜いていく。
歓声が聞こえた。
「祐太ーっ!」
母の叫ぶ声が聞こえた。
気づけば、祐太は一番でゴールしていた。
母は泣いていた。
「すごいじゃない……! 祐太、一等だよ……!」
先生も拍手していた。
クラスメイトたちも笑っていた。
母はスマホで何枚も写真を撮った。
その日の夜。
母は夕飯のあとも、嬉しそうに写真を見返していた。
「初めて一等だったねぇ」
祐太は黙ったまま座っていた。
母は何度も画面を指でなぞった。
だが、突然、その手が止まった。
「あれ……?」
母の顔から笑顔が消えた。
写真には、祐太しか写っていなかった。
本当なら周りにいるはずの子どもたちがいない。
先生もいない。
観客席もない。
白線も、テントもない。
ただ、灰色の校庭を、祐太だけが走っていた。
母は震える指で、写真の日付を見た。
十年前だった。
今日の日付ではない。
「そんな……」
母の呼吸が浅くなる。
その時だった。
「お母さん」
後ろから声がした。
母はゆっくり振り返った。
祐太が立っていた。
運動会の体操服のまま、静かに立っていた。
母の目から涙が溢れた。
「祐太……」
祐太は少しだけ笑った。
「今年は、一等だったよ」
机の上には、小さな遺影が置かれていた。(終)




