「地味な事務屋は要らない」と婚約破棄された私ですが、会社の生命線を握っていたのは私でした~今更戻ってきてと言われても、もう遅いです~
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「君みたいな地味な事務屋じゃ、俺のキャリアの足手まといなんだよ」
金曜日の夕刻、帝都物産本社ビル一階のロビー。退勤ラッシュで人が行き交う中、高梨翔太の声は驚くほどよく通った。
私——桐生凛子は、婚約者だった男の顔を静かに見上げた。
(ああ、やっと、この日が来た)
不思議と心は凪いでいた。予感はあったのだ。最近の彼の態度、社長令嬢・白河美玲との親しげな様子、そして私への関心の薄れ。点と点は、とうに線で繋がっていた。
「翔太さん、これ、どういうこと……?」
形だけの問いかけをする。周囲の視線が集まっているのを感じる。同期の女性社員たちがひそひそと囁き合い、後輩の山本早紀がばつが悪そうに目を逸らすのが見えた。
「どういうも何も、そのままの意味だよ」
高梨は整った顔に薄い笑みを浮かべた。自信に満ちた、営業部エースの顔。この五年間、私が何度も見てきた顔だ。
「俺は白河会長のご令嬢と婚約することになった。悪いけど、君との婚約は解消させてもらう」
(悪いとは思っていないくせに)
「五年も付き合って、いきなり……」
「いきなりじゃないだろ。正直、前から思ってたんだ。君は俺の隣に立つには——」
高梨は私を頭からつま先まで眺め回した。黒縁眼鏡、控えめなポニーテール、地味なオフィスカジュアル。資材部の、目立たない事務員。
「——華がなさすぎる」
周囲から小さな笑い声が漏れた。
私は唇を噛むふりをして、実際には何も感じていない自分に少し驚いていた。五年という歳月が、こんなにも軽く扱われている。彼のために作った資料の山、彼の営業を成功させるために夜遅くまで行った根回し、休日返上で対応した海外取引先との調整——そのすべてが、なかったことにされようとしている。
(いいえ、違う。なかったことにされるのではなく、最初から見えていなかっただけ)
高梨翔太という男は、私が何をしてきたか、一度も理解していなかったのだ。
「……分かりました」
私は静かに答えた。
「え?」
高梨が面食らったように眉を上げた。もっと取り乱すと思っていたのだろう。泣いて縋りつくとでも期待していたのか。
「分かりました、と言ったんです。婚約解消の件、承知しました」
左手の薬指から、安物の婚約指輪を外す。彼が選んだのではなく、私が自分で買ったものだ。『忙しいから任せる』と言われて。
「これ、お返しします」
高梨の手のひらに指輪を落とす。彼は困惑した顔でそれを見つめた。
「……それだけ?」
「他に何か?」
「いや、普通もっと……」
「未練がましく縋ると思いました?」
初めて、私は本音を口にした。高梨の目が僅かに見開かれる。
「残念ですが、私にもプライドがあります。必要とされていない場所に、しがみつく趣味はありませんので」
踵を返す。背後で高梨が何か言っているが、もう聞く必要はない。
エレベーターホールに向かいながら、私は心の中で静かに決意を固めていた。
(これ以上、私の時間を無駄にする気はない)
五年間、この会社で、この男のために費やした時間。それはもう取り戻せない。
でも、これからの時間は——私のものだ。
月曜日、私は人事部に辞表を提出した。
◇◇◇
辞表を提出した翌日、資材部の田所部長に呼び出された。
「本気かね、桐生君」
五十八歳、白髪交じりの温厚な上司は、私の辞表を手に深い溜息をついた。
「本気です」
「……そうか」
田所部長は辞表をデスクに置き、窓の外を見た。
「止める権利は私にはない。だが、惜しいよ。本当に惜しい」
(この人だけだった)
私の仕事を、本当の意味で理解してくれていたのは。
思えば、この五年間は奇妙な日々だった。
私は資材部という、社内では「地味な管理部門」と見なされる部署で働いてきた。華やかな営業部とは違い、表舞台に立つことはない。伝票処理、在庫管理、調達業務——そんな「雑務」の集積が、私の仕事だと思われていた。
実態は、まったく違ったのだけれど。
帝都物産の主力事業はレアメタルの調達・販売だ。そして希少資源の調達先は、中東やアフリカの資源国。政情が不安定で、文化も言語も異なる国々との取引は、一筋縄ではいかない。
私は六カ国語を操る。英語、フランス語、アラビア語、スワヒリ語、中国語、スペイン語。学生時代から語学だけは得意だった。商社に入ったのも、その能力を活かせると思ったからだ。
そして実際、活かしてきた。
中東某国の資源開発公社総裁、アブドゥル・ラーマン氏。彼との関係を構築するのに、三年かかった。最初は門前払い同然だった。日本企業への不信感が強く、「また金儲けだけが目当てか」と冷たくあしらわれた。
私は諦めなかった。彼の国の歴史を学び、文化を理解し、言葉を磨いた。訪問のたびに、彼の家族の安否を尋ね、彼の国の詩人の言葉を引用し、イスラムの祝祭日には必ず祝電を送った。
三年目の春、ラーマン氏は初めて私を自宅に招いてくれた。
『リンコ、君は他の日本人とは違う。君は我々を、金を生む道具ではなく、人間として見てくれる』
その日から、彼は私を「家族のようなもの」と呼ぶようになった。
帝都物産のレアメタル調達ルートの七割は、私が独自に開拓したものだ。ラーマン氏だけではない。アフリカの鉱山会社CEO、南米の資源大臣、東南アジアの王族——彼らとの信頼関係は、すべて私個人に紐づいている。
田所部長だけが、その事実を知っていた。
「君を表舞台に出さなかったのは、守るためでもあったんだ」
以前、部長はそう言った。
「社内政治に巻き込まれれば、君の仕事は邪魔される。黙って成果だけを出し続けるのが、一番安全な道だと思った」
優しさだったのだろう。でも、その優しさが、私を「地味な事務屋」として固定することにもなった。
高梨翔太が営業部で「エース」と呼ばれるようになった大型案件がある。三年前、アフリカ某国とのレアメタル独占契約。帝都物産の歴史に残る快挙と称され、高梨はその功績で課長に昇進した。
誰も知らない。
あの契約が成立したのは、私が一年かけて現地の部族長との関係を構築し、政府高官への根回しを行い、契約書のすべてを三カ国語で準備したからだということを。
高梨がやったことは、最後の調印式に出席して、握手をして、写真に収まっただけだ。
『さすが高梨課長!』『やっぱり営業はあなたがいないと!』
周囲の賞賛を浴びる彼の隣で、私は黙って立っていた。婚約者として同行を許されただけの、「地味な彼女」として。
(あなたは何も分かっていない)
何度そう思っただろう。でも、愛していると思っていたから、黙って支え続けた。
馬鹿だったのは、私の方だ。
「桐生君」
田所部長の声で、回想から引き戻された。
「君はもっと広い世界で評価されるべきだ。この会社には、君の価値を理解できる人間が少なすぎた。私の力不足でもある」
「部長のせいではありません」
「……次の職場は決まっているのかね」
「いくつか、お話をいただいています」
実際、ヘッドハンターからの連絡はすでにあった。私の「見えない実績」は、業界内では一部に知られていたらしい。
「そうか。それなら安心だ」
部長は立ち上がり、私に深々と頭を下げた。
「五年間、本当にありがとう。君がいなくなった後、この会社がどうなるか……正直、私には想像がつかない」
「大丈夫ですよ。私の代わりはいくらでもいます」
私は微笑んでそう言った。
本心ではなかった。でも、それを証明するのは、私の役目ではない。
彼らは自分たちで思い知ることになる。
私がいなくなった後で。
◇◇◇
——一ヶ月後。
帝都物産本社ビルの会議室には、重苦しい空気が漂っていた。
「どういうことだ、これは!」
専務の怒号が響く。長テーブルに散らばった資料には、赤字の数字が並んでいた。
「ラーマン総裁との契約が、突然キャンセルされました」
「アフリカのムバンガ鉱山からも、取引停止の通告が」
「南米のロドリゲス大臣が、会談を拒否しています」
報告が続くたびに、室内の空気は凍りついていく。
高梨翔太は、自分の席で青ざめていた。
彼が進めていた新規プロジェクト——東アフリカのコバルト鉱山開発——が、完全に暗礁に乗り上げていたのだ。現地パートナーとの交渉は決裂し、政府からの認可も取り消された。数十億円規模の損失が見込まれていた。
「高梨、お前が担当だろう。説明しろ」
専務の視線が突き刺さる。
「そ、それは……後任の担当者が、うまく引き継げなかったようで……」
「引き継ぎ? 何の話だ」
「桐生が……いえ、前任の資材部員が退職しまして……」
「資材部? あの地味な部署に、何の関係がある」
高梨は言葉に詰まった。
実際、彼には分からないのだ。自分の「成功」がどのように成り立っていたのか、その構造が。
会議の後、田所部長が証言台に立つことになった。
「桐生凛子という社員が、どのような業務を担当していたか、詳しく説明してもらえるかね」
役員会議での質問に、田所部長は淡々と答えた。
「桐生は六カ国語に堪能で、当社の海外調達ルートの大半を単独で構築しておりました。中東のラーマン総裁、アフリカのムバンガ氏、南米のロドリゲス大臣——彼らとの信頼関係は、すべて桐生個人に紐づいていたのです」
「そんな……聞いていない」
「報告書には毎月記載しておりました。お読みになっていなかったのでしょう」
田所部長の言葉に、役員たちは顔を見合わせた。
「高梨君が三年前に成功させたアフリカ案件も、実際の交渉と根回しを行ったのは桐生です。高梨君は調印式に出席しただけでした」
「な……っ」
高梨が立ち上がった。
「でたらめだ! あれは俺が——」
「証拠ならあります。当時のメール記録、現地との通話履歴、契約書の原案——すべて桐生の名前で残っています」
高梨の顔から、血の気が引いていく。
「どうして……今まで黙っていた……」
「桐生が望まなかったからです。そして彼女は、もうこの会社にはいない」
田所部長は静かに言った。
「だから今、私が証言しているのです。手遅れですが」
───
その頃、中東某国。
ラーマン総裁のオフィスに、帝都物産の新任担当者が訪問していた。
「総裁、どうかもう一度ご検討を——」
「お断りする」
ラーマンは冷たく言い放った。
「ミス・キリュウはどこへ行った。なぜ彼女をよこさない」
「桐生は……退職しまして……」
「退職?」
ラーマンの目が鋭くなった。
「あのように優秀な人材を、退職させた?」
「いえ、あの、自己都合で……」
「嘘をつくな」
ラーマンは立ち上がった。威厳ある長身が、担当者を見下ろす。
「私は長年ビジネスをしてきた。人を見る目はある。リンコがあなたの会社を自ら去るとすれば、それは会社が彼女を不当に扱ったからだ」
担当者は何も言えなかった。
「帝都物産との取引は、これで終わりだ。私はビジネスを、会社とではなく、信頼できる人間とするものだと考えている」
ラーマンは窓の外を見た。
「彼女の新しい連絡先が分かれば、私に教えてくれ。取引先を変更する」
◇◇◇
帝都物産の株価は、一ヶ月で一五%下落した。
業界紙は「帝都物産、主力事業に暗雲」と報じ、「人材流出が原因か」と分析記事を載せた。
高梨翔太は、すべての責任を負わされようとしていた。
彼が築いたと思っていた「実績」は、砂上の楼閣だった。土台を作っていたのは別の人間で、その人間がいなくなった今、楼閣は音を立てて崩れていく。
「こんなはずじゃ……」
高梨は自席で頭を抱えた。
白河美玲からの連絡は、三日前から途絶えていた。
「無能な男は要らないのよ」
最後に届いたメッセージは、それだけだった。婚約は、一方的に破棄された。かつて彼が凛子にしたように。
(桐生……)
今になって、婚約者だった女の顔が頭に浮かぶ。黒縁眼鏡の奥の、静かな瞳。あの目は、いつも自分を見ていた。何を考えていたのだろう。
(なんで、何も言わなかったんだ)
逆恨みだと、分かっていた。言っても聞く耳を持たなかったのは自分だ。見ようとしなかったのは自分だ。
後悔は、常に遅れてやってくる。
◇◇◇
丸紅総研本社ビル、四十二階。
床から天井まで広がるガラス窓から、東京の街並みが一望できる。私は新しいオフィスの椅子に座り、その景色を眺めていた。
眼鏡は外した。コンタクトレンズに変えたのだ。髪もポニーテールをやめ、軽くウェーブをかけてダウンスタイルにした。服装も、以前の控えめなオフィスカジュアルではなく、仕立ての良いスーツを身につけている。
見た目を変えたかったわけではない。ただ、もう隠す必要がなくなっただけだ。
「桐生室長、お時間よろしいですか」
秘書の声に、私は振り返った。
「氷室専務がお呼びです」
氷室蓮司。三十五歳、丸紅総研の専務取締役。
初めて会ったのは、二週間前の面接だった。
銀縁眼鏡の奥の切れ長の目は、冷徹そのものに見えた。だが、その目は私を値踏みするのではなく、真っ直ぐに見つめていた。
『経歴書は拝見しました。しかし、私が知りたいのは紙に書かれたことではありません』
彼は言った。
『あなたが何を成し遂げ、何を考え、何を目指しているのか。それをあなた自身の言葉で聞かせてください』
私は話した。これまでの仕事のこと、構築した人脈のこと、そして——正当に評価されなかったこと。
氷室専務は、最後まで黙って聞いていた。そして、一言だけ言った。
『君のような人材を手放すとは、帝都物産は愚かだ』
それは、私が五年間、一度も聞くことのなかった言葉だった。
専務室に入ると、氷室は窓際に立っていた。
「座ってくれ」
促されるまま、ソファに腰を下ろす。氷室も向かいに座った。
「ラーマン総裁から連絡があった」
「ラーマンさんから……?」
「君がうちに移ったと知って、すぐに取引先変更の申し入れがあった。『リンコがいる会社と仕事をしたい』とのことだ」
氷室の口元に、僅かな笑みが浮かんだ。珍しいことだった。
「ムバンガ氏からも、ロドリゲス大臣からも、同様の連絡が来ている。君が入社してわずか二週間で、うちの海外調達ルートは一気に広がった」
「彼らは私を信頼してくれているだけです。会社ではなく、私個人を」
「分かっている。だからこそ、君を国際戦略室長に据えた」
氷室は真っ直ぐに私を見た。
「君の実力は本物だ。この会社では、それを正当に評価する。君の功績は君のものとして扱い、君の判断を尊重する。——約束しよう」
私は黙って頷いた。目頭が熱くなるのを、必死で堪えた。
こんな言葉を、ずっと待っていたのかもしれない。誰かに認められること、正しく評価されること。それがどれほど人を支えるか、今になって思い知る。
「……ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらだ。君を採用できたことは、うちにとって僥倖だ」
氷室は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。
「来月、中東出張を予定している。ラーマン総裁との会談だ。君に同行してほしい」
「もちろんです」
「私も君の仕事を見てみたい。報告書の数字だけでは分からないことがある」
振り返った氷室の目は、穏やかだった。冷徹な仮面の下に、誠実さと温かさが潜んでいる。この人は、人を正しく見ようとする人だ。
(高梨とは、正反対だ)
そう思った瞬間、もう過去の男の名前は、何の感情も呼び起こさなかった。
───
——三ヶ月後。
業界紙『週刊ダイヤモンド』に、私の特集記事が掲載された。
『商社の革命児——桐生凛子、丸紅総研を躍進させる女傑』
記事には、私がこの三ヶ月で獲得した契約の数々が列挙されていた。その多くは、かつて帝都物産が持っていたものだ。
帝都物産の関係者たちは、その記事をどんな思いで読んだだろう。
同日、私のスマートフォンに一通のメッセージが届いた。
送信者は、山本早紀。かつて高梨の後輩として、私を「地味な婚約者」と見下していた女性だ。
『桐生さん、お久しぶりです。記事を拝見しました。
私たちは何も見えていませんでした。
あなたがどれだけ会社を支えていたか、いなくなって初めて分かりました。
今更ですが、本当に申し訳ありませんでした』
私は少し考えてから、短く返信した。
『過去のことは気にしていません。あなたも、お元気で』
恨みはなかった。彼女は見えなかっただけだ。見ようとしなかっただけだ。それは罪だが、今の私には関係のないことだった。
返信を送り終えた時、オフィスのドアがノックされた。
「桐生室長、お客様です」
秘書の声に、嫌な予感がした。
ドアが開き、入ってきたのは——高梨翔太だった。
◇◇◇
三ヶ月ぶりに見る高梨翔太は、別人のようだった。
かつての自信に満ちた顔は青白く、目の下には隈ができている。スーツは皺だらけで、整えていた髪も乱れていた。
「桐生……いや、凛子」
高梨は私の前に立ち、すがるような目で見つめてきた。
「変わったな。見違えた」
「何のご用ですか、高梨さん」
私は冷静に答えた。席を勧める気はなかった。
「……頼みがあるんだ」
高梨は頭を下げた。深々と、床に額がつきそうなほど。
「戻ってきてくれ。帝都物産に」
「お断りします」
即答だった。
「話も聞かずに——」
「聞く必要がありますか?」
私は立ち上がり、高梨を見下ろした。
三ヶ月前とは、立場が逆転していた。あの日、帝都物産のロビーで私を見下していた男が、今は私に懇願している。
「会社がどれだけ大変な状況か、分かっているだろう。君がいなくなって、すべてが崩れた。俺も——俺も責任を問われて、降格になった」
「存じています」
業界紙で読んだ。高梨翔太、営業課長から平社員に降格。白河令嬢との婚約も破談。かつてのエースは、今や社内で腫れ物扱いだという。
因果応報、という言葉が頭に浮かんだ。口には出さなかったけれど。
「俺が悪かった」
高梨は顔を上げた。目が潤んでいた。
「君の価値を、俺は何も分かっていなかった。君が陰でどれだけ支えてくれていたか、いなくなって初めて分かった。——本当に、申し訳なかった」
「そうですか」
「だから、やり直させてくれ。仕事も、それから——」
高梨は私の手を取ろうとした。
「俺たちの関係も」
私は一歩下がって、その手を避けた。
「申し訳ありませんが、もう遅いです」
「凛子——」
「私は今、仕事でもプライベートでも、最高に充実しています」
静かに、だが明確に告げた。
「五年間、あなたのために費やした時間は取り戻せません。でも、これからの時間は私のものです。あなたと共有する気はありません」
高梨の顔が歪んだ。
「そんな……俺は本気で反省して——」
「反省したことは認めます。でも、反省と許しは別物です」
私はドアを指し示した。
「お引き取りください。これ以上、お話しすることはありません」
高梨は立ち尽くしていた。何か言おうと口を開きかけ、また閉じる。その目に、絶望の色が浮かんでいた。
かつて私が感じた絶望を、今度は彼が味わっている。
同情はなかった。彼は自分の選択の結果を受け取っているだけだ。
「……分かった」
ようやく高梨は頷いた。
「邪魔をしたな」
ドアに向かう背中は、小さく見えた。かつて大きく見えた背中が。
ドアが開いた瞬間、高梨は凍りついた。
そこには、氷室専務が立っていた。
「帝都物産の方ですか」
氷室の声は、氷のように冷たかった。
「用件は済んだようですね。お帰りはこちらです」
高梨は氷室を見上げ、それから私を見た。
「その人は……」
「丸紅総研の氷室専務です。私の上司であり——」
私は少し間を置いた。
「——大切な人です」
高梨の目が見開かれた。氷室は表情を変えなかったが、その目に僅かな温かさが宿った。
「……そうか」
高梨は力なく笑った。
「そうか、そうだよな。俺には、もう何もないもんな」
彼は肩を落とし、氷室の脇を通り過ぎて去っていった。
ドアが閉まる音を聞きながら、私は静かに息を吐いた。
「大丈夫か」
氷室が近づいてきた。
「ええ、大丈夫です」
「無理はするな。嫌な相手だったろう」
「いいえ」
私は首を横に振った。
「もう、何も感じません。終わったことですから」
氷室は私を見つめ、そして——珍しく、微笑んだ。
「強い人だな、君は」
「そうでもありません。ただ——」
私も微笑み返した。
「もう、過去に囚われる気はないだけです」
窓の外に目を向けた。東京の街が、夕日に染まっていた。
五年間、私は日陰で生きてきた。誰にも見られず、評価されず、当然のように利用されて。
でも、もう違う。
今、私は陽の当たる場所にいる。自分の実力で勝ち取った場所に。
「氷室専務」
「何だ」
「中東出張の準備、始めましょう。ラーマン総裁に会えるのが楽しみです」
氷室は頷いた。
「ああ。私も、君の仕事を見るのが楽しみだ」
彼の手が、自然に私の肩に置かれた。温かな重みが、心地よかった。
私は自分の選択が正しかったと、確信していた。
◇◇◇
——一年後。
中東某国、ラーマン総裁の邸宅。
夕暮れ時の庭園で、私は総裁と並んで歩いていた。
「リンコ、君を見ていると、私は希望を感じる」
ラーマンは穏やかに言った。
「若い頃の私は、日本人に不信感を持っていた。金のことしか考えない連中だと。しかし君は違った。君は我々を人間として尊重してくれた」
「総裁に教えていただいたことが多いです」
「そうかね」
ラーマンは笑った。
「君が来てから、丸紅総研との取引は年々拡大している。先日、帝都物産から再び取引の申し入れがあったが、断ったよ」
「申し訳ありません。ご迷惑を——」
「迷惑? とんでもない。ビジネスは、信頼できる人間とするものだ。君がいない会社と組む理由はない」
庭園の向こうに、氷室の姿が見えた。現地パートナーと談笑している。この一年で、彼も中東出張に慣れてきた。
「あの男性は、君のパートナーかね」
「ええ」
「良い男だ。冷たく見えるが、目が誠実だ。君を大切にしているのがよく分かる」
「そうですね」
私は微笑んだ。
氷室蓮司は、私の上司であり、パートナーであり、そして——夫になる人だ。来月、私たちは婚約を発表する予定だった。
彼は私を、対等な人間として扱ってくれる。功績を横取りせず、失敗を責めず、常に正面から向き合ってくれる。
(こんな人と出会えるなら、あの婚約破棄も無駄ではなかったのかもしれない)
そう思えるようになるまで、少し時間がかかった。でも今は、心からそう感じている。
───
夜、ホテルの部屋で、氷室と二人で食事をしていた。
「今日のニュースを見たか」
氷室がタブレットを差し出した。日本の経済ニュースが映っている。
『帝都物産、業績悪化で大規模リストラ発表』
『元エース社員・高梨翔太氏、地方支社へ異動』
記事を読み終えて、私はタブレットを返した。
「そう」
「何も感じないか」
「感じますよ。少しだけ」
氷室は静かに私を見つめた。
「何を?」
「……安堵、でしょうか。もう、あの世界とは関係がないのだという安堵」
かつて私を「地味な事務屋」と呼んだ男は、今や会社の隅に追いやられている。私を見下していた元同僚たちは、リストラに怯えながら働いている。
因果応報。自業自得。ざまあみろ。
そんな言葉が、頭をよぎった。
でも、思ったほど気分は高揚しなかった。
彼らの不幸を喜ぶよりも、自分の幸福を味わうことの方が、ずっと大切だと気づいたからだ。
「私は今、幸せです」
氷室を見て、そう言った。
「あなたと出会えて、正当に評価される場所で働けて、世界を舞台に活躍できて。五年前の私には想像もできなかった未来です」
「俺も同じだ」
氷室は珍しく、柔らかな表情を見せた。
「君と出会えたことが、俺の人生で最良の出来事だ」
窓の外に、中東の星空が広がっていた。
かつて私は、陰で支えることしかできなかった。功績は他人のものとなり、存在は軽んじられ、最後には捨てられた。
でも今は違う。
私は自分の名前で、自分の実力で、世界を相手に仕事をしている。そして隣には、私を対等なパートナーとして尊重してくれる人がいる。
過去の冷遇は、本当の居場所を見つけるための通過点だった。
そう思えることが、何より幸せだった。
───
翌朝、空港に向かう車の中で、スマートフォンに一通のメールが届いた。
送信者は、田所元部長。定年退職後も、たまに連絡をくれる。
『桐生君、記事を見たよ。「商社の革命児」、大活躍だね。
君を送り出した判断は正しかったと、改めて確信している。
帝都物産はあれから大変なことになっているが、もう君には関係のない話だ。
どうか、新しい場所で幸せに過ごしてほしい。
君の活躍を、遠くから応援している』
私は微笑んで、短く返信した。
『田所部長、お元気ですか。
五年間、私を守ってくださってありがとうございました。
今、私はとても幸せです。
いつか日本でお会いできることを楽しみにしています』
送信ボタンを押し、窓の外に目を向けた。
朝日が砂漠を照らしていた。どこまでも続く広大な大地が、金色に輝いている。
「何を見ている」
隣の氷室が尋ねた。
「未来を」
私は答えた。
「これからの、私たちの未来を」
氷室は黙って、私の手を取った。温かな手のひらが、指を絡めてくる。
飛行機は、東京へ向けて飛び立った。
私の新しい人生は、陽の当たる場所で、これからも続いていく。
——完——




