出没
【ニュース速報】
本日未明、市街地近くの山中で熊の目撃情報が相次ぎ、危険性を考慮し、警察はやむを得ず駆除を行いました。
「――いやああああっ!!」
老婦人の叫び声が、夜の山道を切り裂いた。
振り返った老婦人の顔は、恐怖で歪み、口を大きく開けたまま声を上げている。
その顔を見た瞬間――
熊の中で、何かが唐突に弾けた。
(……人だ)
理由も、説明もない。
ただ反射的に、そう理解してしまった。
(俺は、人間だ)
思考より先に、確信だけが立ち上がる。
熊は、その場で動けなくなった。
老婦人は転び、叫びながら必死に起き上がり、闇の奥へ逃げていった。
森には、熊だけが残った。
熊は、自分の身体を見下ろす。
毛に覆われた腕。異様に長い爪。
地面に落ちる、人間ではありえない影。
(……違う)
(こんな形じゃない)
胸の奥に、強い違和感が突き刺さる。
生まれたときから熊だった――
そんな感覚は、どこにもない。
最近まで人間として暮らしていた感覚はあった。
なぜ自分が熊なのかは分からない。
だが、最後に残っている記憶がある。
夜。街。酒の匂い。
笑い声。グラスの音。
楽しかった。
嫌な気分ではなかった。
むしろ、気分よく歩いていた。
(……帰ってた)
どこへ向かっていたのかは、思い出せない。
それでも、山ではないことだけは確かだった。
熊は、街の灯りが見える方向へ歩き出した。
山を下りるにつれ、記憶が少しずつ形を持ち始める。
居酒屋。空になったグラス。
くだらない話。酔った笑い声。
夜風が心地よく、足取りは軽かった。
(……酔ってたな)
何かを失った感覚は、まだない。
街に入る。
アスファルトの感触。自動販売機の光。
(知ってる)
胸の奥が、ざわつく。
この道を、歩いたことがある。
この時間に。酔っていたと思う。
一本の路地に足を踏み入れた瞬間、記憶が爆発した。
――女性の腕。
白く、細い。
掴んだ感触。
――地面。
――自分の重さ。
獣のように、覆い被さっている自分。
下で、恐怖に歪む顔。
(……あ)
熊の喉から、低い声が漏れる。
その顔が、森で見た老婦人の顔と、完全に重なった。
同じ目。同じ恐怖。
(……俺が)
自分が何者だったのかを、完全に理解した瞬間。
視界の先に、見覚えのある顔があった。
あの夜、最後に見た顔。
乾いた音が響く。
衝撃が、背中を撃ち抜く。
一発。続けて、もう一発。
熊の身体が大きく揺れ、前のめりに崩れ落ちる。
意識が遠のく中、別の記憶が浮かび上がる。
白い天井。消毒液の匂い。
刑務所の医務室。
ベッドに固定され、腕に注射を打たれる感触。
「すぐ終わります」
淡々とした声。
そこで、記憶は途切れた。
熊の呼吸が止まる。
足音が近づく。
黒いスーツの男たちが、無言で熊を囲む。
「回収」
熊の死体は、シートで覆われ、静かに運び出されていく。
路地は洗浄され、痕跡は残らない。
翌朝。
ニュースは、何事もなかったように繰り返される。
「市街地付近で、危険な熊が出没し、駆除されました」
それだけだ。
思い出した瞬間、人間としては終わっていた。




