第五章:記憶のかけら
雪が降り続いた冬の日々は、少しずつやわらぎ、
白い街の中にも、光が差し込むようになっていた。
病室の窓から見える景色は相変わらず白い。
けれど、その白の中に、かすかな“冬の終わり”の気配を感じる。
体調もようやく落ち着いてきた。
もう一度、あの屋上に行ってみたい――そう思った。
扉を押し開けると、冷たい風が頬をなでた。
懐かしい空気のにおいに、胸の奥が少しだけきゅっとなる。
そこには、やっぱり黎がいた。
彼は手すりにもたれ、静かに空を見上げていた。
白い息が、光の中に淡く溶けていく。
「……久しぶりだね。」
声をかけると、黎はゆっくりとこちらを振り向き、
少し照れたように笑った。
黎「無理しないでって言ったのに。息、上がってるよ。」
「大丈夫。……どうしても、来たかったの。」
ふたりの間を、風が通り抜ける。
少し冷たいのに、どこかやさしい風だった。
「この前、黎言ってたよね。“白星花は心を映す花”だって。」
私がそう言うと、黎は少しだけ表情を曇らせた。
黎「……覚えてたんだ。」
「うん。なんか、その言葉だけは忘れられなくて。どう意味なのかなって…」
彼は俯き、小さく息をつく。
黎「雪の中には、まだたくさんの“記憶のかけら”が眠ってる。
それは、痛い記憶かもしれない。
でも、その痛みをちゃんと見つけられたとき――白星花は今までの雪の思いを全部合わせて咲くんだ。」
胸の奥が、じんと熱くなった。
「黎……もしかして、私のこと、知ってるの?」
黎の目がわずかに揺れた。
黎「どうして、そう思うの?」
「わからない。でも……黎を見ると胸が苦しくなる。
懐かしいの。ずっと前から、黎は私のことを全部知ってる気がするの。」
その瞬間、頭の奥がチカッと光った。
――雪が舞う道。
――赤く光るブレーキランプ。車のクラクションの音。
――“雪、危ない!”という叫び声。
「うっ……!」
私は思わず頭を押さえた。視界が揺れる。
黎がすぐに駆け寄り、私の肩を抱えた。
黎「雪、大丈夫!?」
「だいじょうぶ……ちょっと、視界が……」
彼の手の温もりが、現実に引き戻してくれる。
その温かさが、なぜか涙を誘った。
「……今、一瞬だけ、何かが浮かんだの。
車の音と、誰かの声。“雪、危ない!”って。」
黎の指がかすかに震えた。
けれど彼は、ただ優しく微笑んだ。
黎「雪…それ以上、無理しなくていい。」
「わかってる。わかってるけど…どうしても知りたいの。
あの事故の日私に何があったのか、どう過ごしていたのか、
どうして黎のことがこんなに懐かしいのか。」
黎はしばらく黙っていた。
風がふたりの間を通り抜け、雪の音だけが世界を包む。
黎「……人の記憶ってね。優しすぎて残酷なんだ。
痛いことやつらいことを守ろうとして、
いちばん大切な記憶まで閉じ込めてしまう。」
その声は静かに震えていた。
私は彼の横顔を見つめた。
悲しくて、切なくて、今にも泣きそうな表情。
それが、なぜだかとても懐かしかった。
「黎……黎も、痛い思いをしたの?」
彼は首を横に振る。けれど、その瞳の奥には「はい」と書いてあった。
その沈黙が、すべてを語っているように思えた。
降り続く雪の音が、胸の奥に静かにしみていく。
黎「……雪は優しいよ。
誰かを守ろうとしたことがあるんじゃないかな。
それが雪の“かけら”のひとつかもしれない。」
その言葉の意味はまだわからなかった。
「どういうこと…?」
私は思わず聞いてしまった。
黎が慌てて口を開く。
黎「ごめん。なんでもないよ。気にしないで。」
そういう黎の悲しそうな顔を見上げると胸の中に暖かい痛みが広がった。
「黎……私、思い出したい。全部。」
黎「怖くない?」
「……怖いよ。
思い出そうとするたびに頭が痛くなる。
でも、このままじゃ前に進めない気がするの。大事なものも忘れちゃった気がするし、
黎がなんで懐かしいって思うのかも知りたい。」
黎は少しだけ笑った。
けれど、その笑顔は泣きそうなほどやさしかった。
黎「……もうすぐだよ。
白星花が、きっと雪を導いてくれる。」
その言葉を聞いた瞬間、
空からひとひらの雪が落ち、黎の肩にそっと降りた。
光を受けてきらりと輝くそれは、まるで“白星花のかけら”のようだった。
私はそっと目を閉じ、胸の奥で小さく呟く。
――たとえ痛くても、悲しくても、
それが“私が生きてきた証”なら、受け止めたい。思い出したい。―
夜、私は夢を見た。
夢の中で私はかすかに誰かの名前を呼んでいた。
黎――。
涙が頬を伝い落ちる。
その瞬間、閉ざされた扉の奥で光が差し込んだ気がした。
朝起きると、頬が少ししめっていた。
体も思うように動かず、動かそうとすると涙が出るほど痛みが強くなる。
昨日の夜、夢をみていた記憶はあるが、なんで頬が少ししめっているのか。
どういう夢をみていたのか。
それはわからなかった。
――まだ全部は思い出せない。
でも確かに、少しずつ、“記憶のかけら”があつまってきている気がする。
まるで、白い雪のひとつひとつが、失くした時間を集めているみたいに。
これ以上、体調が悪化する前に思い出せますように――




