王妃のお茶会3 リーディア12歳
思わず口をついて出た言葉は、誰にも聞かれていないと思っていた。
「帰るつもりなのか?」
ダリウス殿下がこちらを見ていて、ほんの少しだけ残念そうな表情を浮かべていた。
アハハ……声が出ちゃってた。
帰れなかったけれど、あの蝶がバラにそっと留まった瞬間、私の人生も少しだけ変わった気がした。
王妃様が優雅に上座へと進まれ、私は静かにダリウス殿下の真正面の席へとエスコートされた。
ダリウス殿下の隣は――オルフェ公爵令嬢エヴァンジェリンリリエだ。
どうやら、正式な招待状がなかったにも関わらず、彼女がこの場にいたのは、特別に王妃様からお茶会への参加を許されたかららしい。
ダリウス殿下は席に着くと、終始穏やかな笑みを浮かべていたが、一言も発しなかった。
「本日はご同席の栄を賜り、誠にありがとうございました」
ようやく解放された。
次々と飛んでくる質問に気を取られ、紅茶の香りも味も、まるで記憶に残っていなかった。
口に運んだはずなのに、何も感じなかった。
目の前に並べられた美味しそうなお菓子も、結局一つも手をつけられなかった。
王妃様と同じ卓に座った令嬢たちは、皆一様に緊張していて、声が震え、言葉を選ぶたびに目を伏せていた。
そんな張り詰めた空気の中でも、エヴァンジェリンリリエだけは別世界にいるかのように、周囲の会話には一切耳を貸さず、ズーッとダリウス殿下に話しかけ続けていた。
殿下は一言も返事はしていなかったが、彼女は満足だったらしい。
「あなたは凄いわね」
王妃様はあきれた顔をしてエヴァンジェリンリリエに言った。
私がわかるほどの顔つきだったので、誉め言葉じゃない。
けれど、エヴァンジェリンリリエ様はその言葉を真に受けたらしく、満足げにニッコリと微笑みながら、私たち令嬢を見渡した。
オルフェ公爵家に目をつけられると、後々何をされるかわからないので、無言で頭をさげた。
もちろん、同席をしていた他の令嬢も。
やがて、形式ばった会話から自由歓談へと移った。
私は紅茶のおかわりを頼むふりをして、メイドにそっと「お手洗いへ」耳打ちした。
そうしてその場を自然に離れ、そのまま両親と合流し、静かに城をあとにした。
これから先、王妃様やダリウス殿下と直接言葉を交わす機会など、きっと二度と訪れないだろう。
伯爵のお父さまでさえ、国王陛下と言葉を交わすのは年に一度あるかないかだと話していた。
タウンハウスに戻る馬車の中「得難い経験をさせてもらったわね」と両親が大喜びした。
明日の昼には、また長い道のりを経て領地へ帰ることになる。
今夜だけは、心置きなく眠れる最後の夜。
だからこそ、荷造りを急いで済ませてしまおうと、私は部屋に戻るとすぐに準備に取り掛かった。
「この櫛とハンカチ。刺繍……そうだ! 魔術師になるための本を買ってもらおう! 水を出す魔術が載っているものを」
ほんの少しでも水を生み出すことができたなら、干ばつに苦しむ領民たちに清らかな飲み水を届けられる。
明日の朝一番に、本屋へ行こう。
魔術師になるための本を買うんだ! 水を操る魔術、領地の役に立つ術!
そんな時だった。
邸内がザワッとしたのを感じた。
誰かが慌ただしく行き交う気配がした。
「夕食ができたのかな? そういえばお腹が空いていたかも……」
けれど、待てど暮らせど夕食の呼び出しはなく、時計の針が一時間を過ぎても、邸内は落ち着かないままだった。
「流石にお腹がすいた……」
コンコンと控えめなノック音が部屋に響いた。
「お嬢様。旦那様がお呼びです」
いつもより少し硬い口調に、胸がきゅっと締まる。
「お父様が? 夕食じゃなくて?」
夕食の時間には、いつも家族全員が全員顔を合わす。
お父さま、お母さま、お兄さまと私。
だからこそ、わざわざ呼ばなくても顔を合わすのに……。
「お客様がいらっしゃっておりますので……急いで身支度しましょう」
その声にはどこか緊張が混じっていた。
「お客様が? 今日は来客の予定はないはずだけど……」
明日には領地へ戻る予定だから、もしかすると親しいお父様の友人が、挨拶に立ち寄ったのかもしれない。
でも、私がそんな場に顔を出してもいいのだろうか?
私は侍女に髪を整えてもらい、急ぎ身支度を済ませると、客間へ急いだ。
「本当にすぐに帰ったんだね」
客間に足を踏み入れると、重厚な空気に包まれていた。
護衛たちが壁際に控え、中央のソファには、見慣れた紫の瞳の少年――ダリウス殿下が静かに座っていた。
「ダリウス殿下……」
私は慌てて一歩前に出て、深々と会釈をした。
どうして殿下は、ここにいるのだろう?
「リーディア、こちらに来なさい。殿下はリーディアにある提案を持ってきてくださったんだよ」
テーブルの上には、王家の紋章が刻まれた書状が置かれていた。
金で縁取られた豪華な封筒は、王家からの正式な文書であることを物語っていた。
「提案……ですか?」
「ああ、リーディア。魔術師になりたいと言っていたね。王都に残って、本格的に魔術の勉強をしてみる気はないかな?」
「え……」
声にならない声を漏らした。
魔術師になりたいと思った瞬間に、夢が現実になるなんて。
「才能があるとエルウィン卿がおっしゃってね。直々に師事くださるそうなんだ」
「そうなんですね。でも、お父様たちは……」
「私たちは予定通り領地に戻るが、二年後にはまた王都に来られるはずだよ。今回、国王陛下とダリウス殿下のおかげで支援物資も頂けたし、魔術師様を派遣してくださるそうだ。水がめに水を満たしてくださるとのことだよ」
一人でタウンハウスに残るんだ……。
そんな支援を頂いたなら、私は断ることはできない。
現に、お父様は何度もハンカチで額の汗を拭っていた。
緊張と責任の重さが、その仕草に滲んでいて、私の胸にも重くのしかかる。
これは、きっと断ってはいけない話なのだろう。
「どうだ? 私と一緒に学ばないか?」
「ダリウス殿下と……」
「ああ、王宮で」
「王宮で!?」
「エルウィン卿は王宮にいるからな」
「そうですよね」
エルウィン卿は、王家に仕える宮廷魔術師の長官。
「リーディア。私たちは明日には領地へ戻るから、このタウンハウスは警備が手薄になってしまうんだ。それで、国王陛下から直々に、王宮の一室で暮らすようご厚意を頂いている」
「王宮で暮らす!?」
あのテーブルに置かれていた金の封筒――王家の書状には、きっとそのことが記されていたのだろう。
とはいえ、『警備が手薄になる』とはどういう意味なのだろう?
王都の中心にあるタウンハウスで、何の危険があるの?
「本当に……ここから通うのはだめなんですか?」
「ああ、伯爵家でできる警備では、万が一何かあったときに守り切れなくてな……」
確かに、領地に戻る際にはタウンハウスの警備は最低限にすると言っていた。
それでも、王宮で暮らすなんて、息が詰まりそうだ……。
「こちらからのお願いでもあるから、王宮にいても勉強以外は好きにしてもらっていい」
「ありがとうございます……」
「では行こうか」
ダリウス殿下が静かに立ち上がった。
殿下がお帰りになるのだと思い、私も礼を尽くそうと立ち上がると、彼はゆっくりと私の横まで歩み寄ってきた。
そして、殿下は静かに手を差し出した。
「……?」
私は戸惑いながら、差し出された手を見つめた。
「ダリウス殿下! 本日のところはどうかお許しください。もしかしたら、これが家族で過ごす最後の夜になるかもしれませんので……」
「今から……王宮に住むってことですか? え?」
「ああ、そうだ」
急な展開過ぎる!
また、王宮にとんぼ返りだなんて。
「ダリウス殿下……明日、家族が領地に向かうのでその時ではだめでしょうか?」
お母さまが、初めて口を開いた。
「そうです。もし一緒に戻られるところを誰かに見られたら、それこそ危険だと思います」
危険?
その言葉が、また出てきた。
さっきから警護だの、危険だのなんなのだろう?
そんなに、私の魔術が凄かったってことなんだろうか?
思い当たるのは、それしかない。
ダリウス殿下は逡巡したあと、「では明日使いをよこす」と言い残し、護衛たちに囲まれて邸を後にした。
「魔術って……学ぶの、大変なんだな……」
ダリウス殿下が去った後、私はタウンハウスの自室で、窓から見える星空を眺めていた。
心臓がまだドキドキと鳴り響いている。
あの蝶とバラの瞬間、そしてダリウス殿下の笑顔が頭から離れない。
なぜ、私のような田舎育ちの伯爵令嬢が、王宮に招かれるなんてことが起きたのだろう。
魔術師になる夢を得たと同時に魔術師になれるチャンスが訪れたのだ。 領地の民を救うため、水を生み出す魔術を学びたい。
そしていつか、宮廷魔術師として魔術で解決できることで国に貢献する目標ができた。




