婚約していない王子の婚約破棄
「オルフェ公爵エヴァンジェリンリリエ嬢! 私は! あなたと婚約破棄する!」
広間に響き渡ったその声は、まるで鐘の音のように人々の耳を打ち、ざわめきが一瞬で消えた。
「えっ!?」
声が思わず漏れた。
ダリウス生徒会長!?
いえ、ダリウス殿下!
一体、なぜ婚約破棄をこんな晴れの日に!
「ダ、ダリウス様! な、何をおっしゃっているのかしら! 私、王子妃教育だって受けているわ! カナレ王国語もマスターしたのよ!」
会場にいる全員が言葉を失っていた。
目の前で、エルノヴァ王国第二王子ダリウス・カイレム・エルノヴァ殿下が、公爵令嬢エヴァンジェリンリリエ・オルフェに婚約破棄を告げた。
ところでなぜ、カナレ王国語を?
その国は、大陸にある全国家から嫌われている敵対国でもう友好を築く段階じゃない――って今はそんな場合じゃない。
「いや……違う。婚約はしていない、が、破棄する!」
誰もが、耳を疑った。
「えっ――!?」
今度は私以外の令嬢も言葉が重なる。
二人は婚約していない!?
パリンッ!
会場にいた令嬢たちの数人は、驚きのあまり手からドリンクを落とし、グラスが床に跳ねて割れる音が連鎖するように響く。
あぁ……そうでしょうね。
ダリウス殿下は、入学当初、婚約者はいなかった。
だからこそ、みんな必死に勉強して、礼儀作法を磨き、少しでもお近づきになろうとこの学院に通ったのだ。
親から「婚約者になれ」と命じられた者もいれば、ただ麗しの王子に恋情を抱いた者様々だけど。
しかし、入学して間もない夏前には、公爵令嬢が婚約者となった。
それからというもの、諦めた令嬢たちは親の勧める相手と次々に婚約を結び、夢を現実に置き換えていった。
この学院には、十五歳から十七歳までの年齢層の生徒が通っている。
貴族であれば、十五歳にもなれば婚約者が決まっているのが常識。
そんな経緯を経て諦めたはずのダリウス殿下が、実はフリーだったなんて――信じられるわけがない。
王立エルノヴァ学院卒業式にて先輩を送り出した日。
貴族も平民も分け隔てなく参加できる夜会が、生徒会主催で華やかに開かれていた。
この日のために、生徒会役員として、私は勉学と並行して飾り付けや招待状の手配に奔走していたのに……。
私は、ダリウス殿下に叩かれて落としたドリンクの、床に砕けたグラスを拾おうとしゃがみ込んだ。
「俺が――、リーディアは触るなよ……」
静かな声が背後から届いた。
ダリウス殿下の側近であり、書記を務めるカルディエン公爵子息レイヴンが、丁寧にハンカチを広げ、床のグラスの破片を一つずつ包み込んでいく。
どうして、割れたグラスをそんなに慎重に扱っているのだろう……。
「毒か何かが混ざっているようだ」
「毒!?」
私は思わず声を上げてしまった。
「そうだよ~。長めに触ると手袋も溶ける危ないやつだからね。レイブンも気をつけてよ?」
「溶ける!?」
ストーンハルト伯爵子息ガレスは、こんな時でも飄々とした口調を崩さない。
私は急いで口をつむぎ、息を飲み込む。
これ以上、騒ぎを広げるわけにはいかない。
幸い、私の周囲には人がおらず、一般生徒には聞こえていないようだった。
これ以上、騒ぎになったら……夜会どころではない。
「ダリウス殿下が影から報告をうけた」
影――王家の影。
近衛兵・騎士団と違って姿を見せずに諜報活動をする者を表す。
だからこそ、ダリウス殿下が私が口をつけようとしたグラスと叩いたのだ
叩いた時、あまりにも突然で、しかも力強かったから――私は殿下に嫌われてしまったのかと思った。
胸がひやりと冷え、視線を上げることができなかった。
殿下は私のことを思って、迷いなく走って来てくれたのだ。
「他の人も飲むかも!」
「他のグラスは問題ないようだから安心しろ」
ホッとしたのも束の間――このグラスだけ? それはそれで、余計に怖い。
このグラスは、エヴァンジェリンリリエがわざわざ呼び寄せた配膳係から直接渡されたものだった。
え……?
私を毒殺しようとした?
なぜ?
そこまで恨まれること……といえばダリウス殿下の側近であることくらい。
うん……エヴァンジェリンリリエなら、恨むかもしれない。
あの執着と誇りの高さなら、側近というだけでも許せないのかも。
「なぜ、私があなたの婚約者となっているのだ!」
ダリウス殿下は、真正面からエヴァンジェリンリリエを見据え、まるで裁くような眼差しで問いかけた。
殿下は、静かに上着の内胸のポケットに手を伸ばし、一通の手紙を取り出した。
「これは、夜会場の前でお前の従者が配っていたな」
会場にいた学生たちがざわめきながら、次々と手元から同じ手紙を取り出す。
何それ?
私だけ、貰ってない……。
「そうですわ! それは、私とダリウス様の婚約式の招待状ですわ! 王家と公爵家ですもの! 婚姻式は盛大にしませんと! なかなか動かないから私がサプライズで計画したのですのよ!」
ああ、だからか。
エヴァンジェリンリリエのドレスは、まるで婚礼を意識したかのような純白のドレス。
そして、頭には王族しか着用を許されないティアラが輝いていた。
「この夜会でか?」
殿下の声が低く響き、手紙はグシャッと握りしめられている。
その一言に、場の空気がさらに冷え込んだ。
ん? 夜会?
「招待状を入口で配って、生徒会に断りもなしに婚約式を行う予定だったのですか!?」
夜会進行が狂ってしまうじゃないですか!
エヴァンジェリンリリエが、突然こちらをバッと振り向き、鋭い視線を私に投げかけてきた。
「ヒィッ!」
「危ないので下がりましょう」
フェアモント侯爵子息エリオットは、私を庇うように一歩前に出て、後方に下がらせる。
ウィンダース侯爵子息ディオンが、無言で私の前に立った。
そして、私の隣にはロセリウス侯爵令嬢ヴァネッサがそっと立ち、私の横に寄り添うように並んだ。
「リーディアっ!」
親友のカメリアと、グラスを手にしたアルスが小走りでこちらに来る。
「リーディア、水だよ」
「あ、ありがとう」
会場の視線が一気に集まる中、私はその中心の一角に立っていたので緊張で喉がからからになっていた。
でもなぜなんだろう?
私も、他の令嬢も不思議で仕方がなかった。
私たちはなぜ勘違いしてしまったのだろうか?
困惑している私たちに向かって、ダリウス殿下はふっと口元を緩め、クスッと笑った。
その笑顔をみた令嬢は、思わず「きゃぁぁぁ♡」と叫ぶ。
場の空気が一瞬に恋の熱に塗り替えられた。
「私の婚約者は、三年前に決まっている」
今度は「あぁぁぁ……」、令嬢たちの落胆の声があちこちから漏れた。
学院に入る三年前――。
その年、王妃様主催でダリウス殿下の婚約者を決めるためのお茶会が開かれた。
そして、私の運命が静かに動き始めた日でもある。
でも、そんな告示が公表されたかな?
王国第二王子の婚約が整えば、王国民はもちろん、同盟国にも告示されるのが通例。
あれ……?
だとしたら、エヴァンジェリンリリエとの婚約も、告示はなかったはず。
何が正しいのか?
ダリウス殿下の言い分が正しければ――いや、ダリウス生徒会長が正しいはず。
私は入学してから生徒会の一員として、ダリウス殿下の人柄を嫌というほど見てきた。
最近は、忙しすぎて……もしかして、混乱しているのかもしれない?
でも、あの殿下がそんなことで判断を誤るだろうか。
生徒会長である彼と、会計である私は、日々勉学と魔術の研鑽、生徒会業務に追われ、特別寮に戻るのはいつも夜の二十二時を過ぎていた。
ダリウス殿下は、それに加えて王族としての公務までこなしていた。
休む暇など、ほとんどなかったはずだ。
「ダリウス様! 嘘ですわ! お母様からは――それに王妃様に認められたのは私だけですのよ!」
「今まで、あなたは学生だったが――卒業したのであれば、もう私の名を勝手に呼ぶのはやめていただこう」
「でも、ダリウス様! 家格がつりあうのは私しかいないでしょう!? まさか! 王国外でお見合いを!?」
エヴァンジェリンリリエは必死に食い下がる。
誇りと焦りが混ざった声だった。
彼女は「国外からなんて! そんな行動はしていなかったはず……お父様も言っていなかったわ」と、誰に向けるでもなく、爪をガリガリと噛みブツブツと呟き始めた。
エヴァンジェリンリリエは公爵令嬢。
貴族の序列で言えば、彼女の家は堂々の一位。
三家ある公爵家の中では…………これ以上言うまい。
王族を除けば、誰もその上には立てない。
ダリウス殿下と年齢が近く、なおかつ婚約者がまだ決まっていない学院在籍の女性となると――伯爵家の私、そして子爵・男爵家の令嬢しか残っていない。
王国全体で見渡しても、公爵・侯爵・私以外の伯爵令嬢たちは、すでに婚約者が決まっているか、領地に引きこもっていて社交界には姿を見せていない。
そうだ。
だから、彼女が婚約者なんだろうと思っていたのだ。
入学前、勉学の一環として王国貴族録を頭に叩き込んだ。
入学後に一気に婚約が増えて、貴族録の追加情報が届いたときは、正直、泣きそうになった。
そういえば、エヴァンジェリンリリエの婚約情報はきてなかった。
思い込みって怖い!
私は、結婚する気がなかった。
魔力が強く、魔術師としての資質を認められていた私は、宮廷魔術師になるべく日々勉強に打ち込んでいた。
それが私の目標だった。
時に、自分の境遇に寂しさを感じることはある。
でも、国から宮廷魔術師になるよう保護されてきた以上、その恩に報いるためにも、私は立派な魔術師になると決めている。
両親からも、「学生である間はしっかり学ぶこと」を条件に、宮廷魔術師もしくは魔術師になることを許された。
「ん?」
突然、ダリウス殿下がこちらを向いた。
「リーディア」
視界が広がった。
前に立っていたディオンが、一歩横にずれたのだ。
「はい、ダリウス生徒会長。今からダンスの時間に切り替えであれば、まだ、つつがなく夜会を終えることができます」
この夜会は生徒会主催だ。
三学年・二学年に進級する生徒会役員にとって、この夜会の運営は最も重要な仕事だ。
十八時に会場が開き、
十九時に歓談・軽食が設けられ、
今の時刻、二十時からダンスタイム。
二十一時に終わりの歓談を楽しみ、
二十二時には終了。
時刻通り終わらせるには、今すぐにダンスタイムを始めないと!
「でも、流石にこの雰囲気は……無理ですかね……?」
誰も今からダンスが始まると思っていそうもない。
しかし、卒業する三年生の夜会。
身分に関わらず、楽しめる最後の機会なのだ。
私は、楽団に開始の合図を出すためにその場を離れようと足を踏み出した。
その瞬間、予想外の力が私を止めた。
「いや……君はこちらへ」
手首をガシッと捕まれる。
予想外の強さに驚いて、私は反射的に顔を上げた。
ダリウス殿下が、余裕はなさそうな顔をしている。
何か緊急な事案が!?
いや、王子の婚約していない婚約破棄は、それだけでも十分に緊急事案なんですけどね!
「リーディア嬢、あとの仕事は我々が行っておきます」
いつものレイブンのぶっきらぼう口調が陰り、彼が私の傍を離れた。
「え……? レイブン? 遅れているので、二、二曲目のワルツスタートからでぇ!?」
ダリウス・カイレム・エルノヴァ殿下が片膝をついた瞬間、会場はまるで時が止まったかのように静まり返った。
ダリウス殿下のその深い紫の瞳は、夜会の喧騒をすべて遮るように、まっすぐに私だけを見ていた。
「私の婚約者は、リーディア」
ええええええええぇ!?
ダリウス殿下が手を差し出す。
私は反射的にその手へと手を伸ばしていた。
「リーディア・ヴォルシア伯爵令嬢だ」
手の甲にキスを落とした殿下は、晴れやかな笑みを浮かべていた。
それとは反対に、私の頭の中は真っ白になっていた。