明日、兄に殺される~死に戻り王女は護衛騎士との真実の愛に溺れない~
喉が焼けるように熱い。腹の中も。激しすぎる痛みは、まるで体内で何かが沸騰しているかのようだ。
息が苦しくて呼吸もままならなくて、思わず咳き込めば、口から大量の血を吐き出した。
這いつくばり、苦しみに悶えるロザリンドを、兄は無表情のまま見下ろしている。その瞳は冷え切っていて、何の感情も読み取れない。
「…………ど、うし……てっ……!」
もがきながらなんとか吐き出した疑問の言葉は、兄の耳にも届いたらしい。
兄はぴくりとも表情を変えずに、口を開いた。
「楽に死ねる毒だという嘘を信じたのか? おまえは本当に、死の間際まで救いようのない愚か者だ。自らの犯した罪も正しく理解できていない。苦しんで己の行いがもたらす未来について思考を巡らせ、その末に死ね。じきにおまえの真実の愛も後を追う」
ロザリンドの真実の愛────。
それは他でもない、護衛騎士レオンのことだ。
ロザリンドが起こした騒動のために、彼も命を奪われるというのか。誰よりも愛した、かけがえのないたった一人を────。
苦しさのあまり喉を掻きむしり、ロザリンドの爪の間は血で真っ赤に染まっている。もう声も出せない。強烈な痛みの中で、目の前も霞んでいく。
のたうち回るロザリンドにはもうすっかり興味を失ったように、兄は背を向けた。
ロザリンドが欲しい答えを一切与えず、その背中が遠ざかっていく。
確かにロザリンドは恋に溺れた。
しかしそれは、死をもって償うほどのことなのか。
どうしてロザリンドは実の兄に毒を飲まされ、こんなにも苦しんで死ななければならないのか───。
わからないまま、ロザリンドは長時間苦しみ抜いた末にその命を落とした。
◆
目覚めると、全身にびっしょりと汗をかいていた。
天蓋付きの巨大なふかふかベッドの上。悪い夢を見たというにはあまりにも鮮明な死を味わった気がするけれど、確かにここはロザリンドの私室である。
まだひりつく痛みが残っているように、酷く喉が渇いている。
枕元のベルを鳴らせば、直ぐさま侍女が現れ望むものを差し出してくれる。
────生きている。
喉を潤し身支度を整えられ、ようやくその実感が湧いてきた。
ミラベリア王国第三王女ロザリンド・アウローラ・ミラベル。
何不自由なく暮らしてきたのだ。それなのにたった一度の過ちで、実の兄に簡単に切り捨てられ殺されるなんてあってなるものか。ただの夢だ。
鏡の中、傷一つない自身の姿を眺め気持ちを落ち着かせていると、侍女の一人が声をかけてきた。
「姫様。国王陛下がお呼びでございます」
◆
嫌な予感がしたのだ。
ミラベリア王国国王、そしてロザリンドの兄でもあるセドリック・ルシアン・ミラベル。兄妹仲がいいとは、とても言えない関係だ。
兄が王位を継いだのは五年前、まだ17歳だった。父王の急死で、若くして王になった。
即位後はとにかく多忙を極めていたようだが、そもそもそれ以前から大した交流もなかった。
だから公式な場で兄が玉座に座っているところは何度も目にしていようが、執務室に呼ばれたことなど、今までただの一度もなかったのだ。
それなのに────。
「おまえとエヴァリス王国第二王子との婚約を、本日の夜会で発表する」
兄の言葉に、息が止まりそうになった。
背中を冷や汗が流れ落ち、心臓がばくばくと音を立てる。
ロザリンドがこのセリフを聞くのは二度目だ。
────そう、一度目はあの夢の中。
ロザリンドは繰り返している。
あの悪夢を。あの地獄を。
兄に殺される前日、はじめて執務室に呼び出され、同じ言葉を耳にした。
その記憶が鮮明に蘇る。つい昨日、見聞きしたように。
呼吸が苦しい。目眩がするし、頭も痛い。
毒を煽ったあの時のように……。いや、違う。あの苦しみにはどんなことも及ばないし、二度と味わいたくもない。
────予知夢というには、あまりに生々しい夢。あれは現実に起こったことだったのではないか。
ロザリンドは、恐らく死に戻ったのだ。
原因はわからないが、そうとしか考えられない。
だとしたら、返事はただひとつ。
「かしこまりました」
ロザリンドの殊勝な返事に、表情の変化が乏しい兄が僅かに目を見張った。
あまりに想定外な答えだったのだろう。無理もない。
一度目、ロザリンドは兄の言葉に激昂した。
ロザリンドには愛する人がいるのだ。とても受け入れられなかった。
レオン以外の男と婚約などできないと怒り、暴れ、夜会がはじまる直前まで閉じ込められた。
国益のためだと侍女から官僚までかわるがわるに説得され着飾られ、夜会の会場へと連れて行かれた。
そしてとうとう、その晩はじめて顔を合わせた男との婚約発表が迫り……。
ロザリンドは会場の真ん中で、真実の愛を叫んだ。
護衛騎士のレオンを愛していると。レオンもまたロザリンドを愛しているのに、二人の仲を引き裂くのかと。
直後、ロザリンドとレオンは兄の命令で近衛騎士により会場からつまみ出され、別々の牢に入れられてしまった。
訳も分からず夜通し泣き叫び、ようやく解放されたと思えば連れて行かれたのは兄の執務室で。
兄は、ロザリンドに迫った。
「おまえは起こした騒動の責任を取らねばならない。民衆の面前で斬首刑としても良いが、情けをかけてやる。これ以上醜態を晒したくなければ、今すぐこの場で毒杯を飲み干せ。眠るようにあの世へ行ける」
兄の目からは何の感情も読み取れなかった。肉親であるロザリンドを駒のひとつ程度にしか考えていない。その駒が望む動きをしなかったから、片付けるだけ。
ただ愛する人を愛していると言っただけなのに。
ロザリンドとて、全て丸く収まるなど有り得ないとわかっていた。
エヴァリス王国との政略を潰すことになった結果、兄の怒りを買い王宮から追放され、最悪平民としてレオンと共に生きる未来も覚悟していたのだ。
愛する人と離れるくらいなら、全てを捨てようと決心していた。
従者が毒杯を運び入れる。
目の前に置かれたそれを前に、ロザリンドは息を呑んだ。
ロザリンドは最早、死を避けられない。
拘束された身で、王に逆らうことなど不可能だ。
どうせ死ぬのならば。
もう、レオンと共に生きることが出来ないのであれば────。
震える手で掴み取った毒杯を、ロザリンドは一息にあおった。
────あの時と同じ。
兄の鋭利な刃物のような瞳が、ロザリンドを見据えている。
血を吐き床でのたうち回るロザリンドを、まるで虫けらでも見るような目で見ていた。
兄にとっては、人間一人の命など大して重くもないのだろう。それが例え王族であり、血の繋がった妹であっても。赤の他人であるただの騎士なら尚更だ。
一度目、ロザリンドの過ちでレオンが命を落とすことになったのは間違いない。あの時の兄の言葉に嘘はないだろうし、問題の一端となった騎士など躊躇いなく処分したはずだ。
ロザリンドは、愛するレオンを守る。
今度は真実の愛に溺れない。
そのために、胸に激情を秘めながら静かに頭を垂れた。
◆
ロザリンドは幼い頃から我儘だった。
周囲も相当手を焼いたはずだ。
振り返ってみれば、ロザリンドは孤独だったのだ。
国王である父はいつでも王の顔しか見せず、怖い顰め面ばかりで苦手だった。兄は王になるべく厳しく育てられ、父にそっくりである。
母は十代で四人の子を産み体への負担が大きかったのか、ロザリンドの産後すぐに亡くなっている。
二人の姉たちは仲が良かったようだが、ロザリンドとはそうでもなかった。兄と姉たちに比べ、ロザリンドは頭の出来が悪かったので、馬鹿を見るような目で見られていた気がする。
その姉たちも、兄の即位後次々と他国の王家へ嫁いでもういない。
家族愛なるものが希薄な環境で育ち、容姿の他に特段褒めるところもないような末の王女は、我儘を言うことでしか周囲の注目を集められなかったのである。
しかし幼さと身分故に目溢しされ続けたロザリンドにも、転機が訪れる。
八歳の誕生日を迎えてすぐのこと。
ロザリンドのために歳の近い貴族子女が集められ、ガーデンパーティーが開かれた。友人をあてがうのが目的であるものの、お目付け役という意味合いが強かった。
そしてその日も当然、我儘放題だった。
見守る大人たちも、いつものことだと慣れたもの。
そんな中たった一人、ロザリンドを諌めたのがレオンである。伯爵家の次男で、ロザリンドと歳は同じ。
レオンは王女相手に忖度も遠慮もなしに、まっすぐ叱りつけてきた。
無礼者!と怒り狂いながらもロザリンドがレオンの言葉には従ったことにより、結局レオンは正式にお目付け役に任命された。
それからというもの、いつだって王女としてではなくロザリンド自身と正面から向き合ってくれるレオンに、あっという間に恋に落ちた。
やがてレオンは成長して騎士の道を選び、お目付け役の任は解かれた。
しかしロザリンドはレオンを手放す気など毛頭ない。すぐに権力を行使し、自身の護衛騎士に据えた。そうしてずっと彼をそばに置いている。
レオンがいなければ生きていけない。
何があってもレオンのことを離さない。
────そう、決めていた。
「私の嫁ぎ先が決まったわ。エヴァリス王国の王子との婚約が、今夜発表されるそうよ」
「…………聞き及んでおります」
神妙な顔で、レオンが頷いた。
王宮内に数多くあるティールームの一室で、ロザリンドとレオンは向かい合っている。
飾りのように手をつけられないまま放置された沢山の茶菓子の横で、立ち上る紅茶の湯気が徐々に薄くなっていく。
ロザリンドが死んだ一度目の今日は、ずっと閉じ込められていただけだった。
今回は婚約を大人しく受け入れたので、レオンと話す時間をつくることができたのだ。
「ご婚約、誠におめでとうございます」
ロザリンドの気持ちを知っていながら、泣きそうな顔でレオンが絞り出した言葉。何がおめでたいというのか。酷い男だ。
「ちっとも嬉しくないわ。わかっているくせに」
情けないほどにレオンの眉尻が下がる。
苦悩と悲哀に満ちた表情で、ロザリンドを見詰めている。
「……ねぇ。そんな顔をするなら、私を連れてどこかへ逃げてくれない? あなた以外を愛することはできないわ」
「………………申し訳、ございません」
「つまらない男」
そう言い捨てれば、レオンは深く頭を下げてその姿勢を保ったまま。
本気で言った訳ではない。
今度はレオンを巻き込まないと決めている。
けれど同時に確かめてみたかったのだ。
レオンにも、ロザリンドと同じように全てを捨てる覚悟があるのか。
────その答えがこれだ。
レオンはいつだってこうだ。
ロザリンドを明確に突き放さず、しかし線を引いている。
熱っぽい視線を寄越すくせに、決して体に触れない。どんなにロザリンドが愛を伝えても、言葉を返してくれない。せめて名前を呼んでと懇願しても、叶えてくれない。
理由は、婚約関係でないから。
馬鹿みたいに真面目で実直で、誠実な男。
ロザリンドを壊れ物のように大切に扱う。
そんな人間はレオンだけで、だからロザリンドはレオンを愛している。
「もういいわ。ちょうどあなたにも飽きてきたところだったし、今この時をもって護衛騎士を解任するわ。あなたよりもずっと地位の高い男と結婚して、きっと私は幸せになる。あなたも適当な女と結婚すればいいわ」
はじめから用意していたセリフを投げると、レオンははっとしたように顔を上げた。
レオンがロザリンドの下手な嘘に気づかないはずがない。
それでもエヴァリス王国王子との婚約を受け入れたのだから、レオンとの関係は断ち切らなければならない。
それは胸を裂かれるほどの痛みを伴うけれど、レオン自身を失うよりも余程マシだ。何に代えても守ると決めたのだから。
ロザリンドの強い意志が伝わったのか、レオンが表情を引き締め、騎士の礼を執る。
「国のための決断をされた姫様に、心より敬意を抱いております。例え離れていようと、誓った忠誠は永遠に。ミラベリア王国を背負い、御身を捧げて守られようとする姫様の幸運を、心よりお祈り申し上げます」
「大袈裟だわ。ただのよくある政略結婚よ。もしこの先うまくいかなかったとしても、どちらかが賠償金を払って終わりでしょう? あなたが言う程大した役目でもないわ」
「いいえ。姫様がエヴァリス王国に嫁ぐことによって、現在の緊張状態を緩和し、戦争に発展することを食い止められるのですから」
「…………戦争…………」
────そうだ。
確かにエヴァリス王国と我が国の関係はあまり良くない。その二国間を繋ぐ大切な政略結婚であると、暴れた一度目のロザリンドは言い聞かされた。
ロザリンドは決して聡明ではないが、人の話を聞かぬほど愚かではない。
あの時臣下があまりに切実に言い募るので、渋々ドレスを着たのだ。
では何故ロザリンドは、婚約を台無しにしても賠償金で片がつくと考えるに至ったのか。
あの時、ロザリンドがそんな勘違いをするように誘導したのは────。
柔らかな笑顔の男が頭に浮かび、ロザリンドは慌てて立ち上がった。
「大事な用があるから、私はもう行くわ。長年私の我儘に付き合わせたわね。これからは自由に生きるがいいわ。さようなら、レオン」
レオンはその顔を隠すように、ロザリンドが立ち去るまでずっと頭を下げたままだった。
◆
ティールームを出ると、氷刃のような瞳と目が合った。
兄の鋭い視線に不意打ちで射抜かれるなんて、薮から突然弓を放たれたと同等の恐怖である。
どうやら開け放たれた扉の向こうから、ロザリンドたちの様子を窺っていたらしい。それも兄直々に。さすがにご遠慮願いたい。寿命が縮まった気がする。
兄とはほとんど交流がなかったのに、ロザリンドの性格は正しく把握しているようだ。
明らかに態度のおかしいロザリンドが、何かやらかさないか見張っていたのだろう。
背筋の凍る思いがした。
夜会で騒動を起こさなければ、兄に殺されることはない。
そう思っていたが、本当に?
兄はロザリンドを信用していないし、そればかりかとうに見限っている。
ロザリンドは賢くない。
今日の夜会を乗り切っても、また間違えるかもしれない。そしてその時、国益のためと判断すれば兄はロザリンドを平気で殺す。
ロザリンドが生き残るための方法はふたつ。
ひとつは兄の望み通りに振る舞い、一度も失敗せず、婚約期間を乗り切ってエヴァリス王国に嫁ぐこと。
もうひとつは、ロザリンドを殺すのは惜しい、価値があると兄に認めさせること。
どちらもロザリンドにとっては困難で、果たして実現可能かどうかわからない。
兄の虫を見るような目を前に、毒を飲んだ苦しみが蘇ってくる。自然と身体が震えた。
あの毒薬は駄目だ。
まかり間違って再び死を迎えることになっても、あの毒だけは飲みたくない。
何も言わずに踵を返して去っていった兄を見送って、ロザリンドもまた、周囲を確認すると素早くその場を立ち去った。
ロザリンドなりの方法で、二度と味わいたくもないあの地獄を回避するために────。
◆
「第三王女ロザリンド・アウローラ・ミラベル殿下並びに、エヴァリス王国第二王子マティアス・フォン・ローゼンタール殿下ご入場!」
ファンファーレが響き渡る広間に、マティアスのエスコートを受けながらロザリンドは足を踏み入れた。
シャンデリアの眩い光の下には、煌びやかな衣装に身を包んだ大勢の貴族たち。
そんな彼らよりも一際豪奢なドレスを来ているのがロザリンドだ。隣に立つ未来の夫は、穏やかな笑みを浮かべている。
広間の中心で、高みに置かれた玉座に座する兄がこちらを見下ろしている。
役者が揃ったことを確認し、兄はゆるりと立ち上がった。
「ミラベリア王国第三王女ロザリンドと、エヴァリス王国第二王子マティアスの婚約をここに発表する」
大きなざわめきが広がった。
一度目ロザリンドは、ここで激情のままに真実の愛を叫んだ。
しかし今回は違う。
広間を見渡し、笑顔で淑女の礼を執る。
どこからか拍手が起こって、やがてそれは大歓声と共に広間を包み込んだ。
壁際に控える騎士たちの中にレオンの姿も見付けたけれど、遠すぎて表情まではわからない。
やがて歓声がおさまると、祝いの酒が配られていく。祝い事の際には、そうやって皆で乾杯をしてからパーティーを始めるのが慣例だ。
一番にこの場で最も地位の高い兄のもとに酒が届き、続いてロザリンドとマティアスにも手渡された。
マティアスは他国の要人なので、彼の侍従が先に毒見を行う。
乾杯に先立ち、侍従がグラスに口をつけようとした────その時だった。
「お待ちください! それを飲んではいけません」
響いたのはロザリンドの声。
場違いな鋭い声音に、空気が一気にぴりっと張り詰めた。
「マティアス殿下のグラスの中身は毒酒です。口をつけてはいけませんわ!」
ロザリンドの言葉に侍従は動きを止め、マティアスの笑顔が一瞬凍りつく。
貴族たちの目が一斉にロザリンドに注がれる。
そして誰よりも強烈な威圧感を与える、刺すような兄の視線。首元に刃物を突きつけられているような恐怖を感じる。
────ここで間違えたら殺される。
足が震えそうになるのを堪えながら、ロザリンドは言葉を続けた。
「王宮内の薬品庫から毒薬を盗み出し、マティアス殿下のグラスに毒を混入させた者がおります」
ロザリンドがそれを知ったのは偶然だった。
二度と同じ死を遂げないよう、兄がロザリンドに飲ませた毒薬をこっそり処分してやろう──。
そんなロザリンドらしい単純かつ無鉄砲な思考の末に、大胆にもパーティーの準備で慌ただしい警備の隙をついて、薬品庫に忍び込んだ。
しかし当然のことながら、薬品棚には鍵がかかっていた。
そこへ誰かの足音が近付いてきたものだから、急いで物陰に身を隠し……。
現れた一人の侍女が薬品棚の鍵を開け、小瓶をひとつ持ち去った。
ロザリンドはその後を追ったのだ。毒薬が兄の部屋に届けられるなら、それを飲むことになるのは自分しかいないと確信していた。
しかし実際に侍女が向かったのは、王宮滞在中のマティアスのためにしつられられた部屋。
幸運なことにその部屋の壁は異常なほどに薄い造りとなっていて、隣室からマティアスたちの会話を伺い聞くことができた。
そしてロザリンドは知ってしまったのだ。
マティアスの企みを────。
「マティアス殿下も、毒の混入をご存知でしたわね? 首謀者はあなたなのですから。あなたの目的は、何かしら騒動を起こして私たちの婚約をふいにすること」
「酷い言い掛かりだよ。どうして僕が自分の身を危険に晒してまで毒を入れると言うんだい?」
「毒見する者がおりますもの、あなたに危険は及ばないでしょう」
「だとしても。そうまでしてせっかく成された婚約を潰す理由が僕にはない。証拠もない」
「証拠ならそちらのグラスの中に。そして理由は、こちらに」
ロザリンドが取り出したのは、大変希少な魔道具だ。そうそう手に入るものではないが、面白そうだという理由で、去年誕生日プレゼントとして兄に要求して手に入れていた。
小さな四角い箱状のそれを、ロザリンドは頭上にかざす。軽く振ってみせると淡い光を放ち、その中から誰かの声が広間中へと響き渡った。
『ロザリンド姫。君には、愛する人がいるんだろう? 僕との婚約をどう思ってる?』
それはマティアスの声だった。
夜会の直前、控えの間でのロザリンドとのやり取りである。
『よくご存知ですわね。正直に申し上げて、望んで結ばれる婚約ではございません』
『君の気持ちは痛いほどよくわかる。実は僕にも愛する人がいる。君と結婚したとしても、彼女と別れるつもりはない。愛しているんだ、心から』
『まぁ……。婚約発表前から愛人を囲うと宣言されるのですか? 随分と侮られたものですわね』
『君も同じだろう? 愛する人と離れるなんてできないはずだ。この婚約は、互いに望むものではない。僕たちは同じ気持ちだ。協力して、なんとか婚約を阻止するんだ』
『ここまで来てそんなことは無理ですわ。政略結婚の意味をご存知?』
『もちろん、結婚してからでは遅い。だが今ならまだ間に合う。婚約が正式に発表される前に、真実の愛の存在を公にしてしまおう。そうすれば、僕と君との婚約の話は立ち消えになる』
『国同士の約束は既に済んでいるのに、そんなことをして大丈夫なのですか?』
『多少は揉めるだろうね。だが、それも賠償金を支払えば済む話さ。君が真実の愛を叫んだら、僕も続くよ。二人が同じことをするんだから、どちらが悪いということにもならない。いい案だろう?』
マティアスの提案は、一度目ロザリンドが死んだ時と全く同じだった。
事前にわかっていたからこそ、準備をして魔道具に音声を残しておくことができたのだ。
そして前回、ロザリンドはマティアスの口車に乗せられ、騒動を起こした。あの時マティアスは知らぬ顔で眺めていただけだ。
でも、今度は。
『お断りしますわ。ミラベリア王国のため、私はあなたと婚約し、王女としての責任を果たします!』
ロザリンドの声が響き、ぷつりと魔道具の音声は途切れた。
「私があなたの提案を断ったから……。マティアス殿下、あなたは真実の愛のために毒を混入し、我が国にその責任を押し付けた上で、この婚約を潰そうと考えたのではなくて!?」
マティアスがさっと顔色を悪くした。
はっきりと音声が残っている。言い逃れはできないだろう。
その横で彼の従者は、顔を真っ赤にして怒りを露わにした。
「ぶっ……侮辱だ! これはエヴァリス王国ならびにマティアス殿下への侮辱に他ならない!!」
従者が震えながら手を振り上げた。
「姫様!」
叫び声と共に、騎士の一人が貴族たちを押しのけて駆けてくる。
レオンだ。
巻き込まないと決めていたのに。護衛騎士を解任したのに。そんな遠くからでは、どんなに走ってもとても間に合わないのに。
本当に、呆れるほど馬鹿でまっすぐな男。
従者の振り上げた手には、グラスが握られている。
怒りのままに投げ捨てたと見せかけて、毒酒をぶちまけて証拠を隠滅する気だ。
咄嗟に、ロザリンドは手を伸ばした。
従者の持つグラスを奪い取る。そして迷わず口をつけた。奪い返される前に。
毒を飲むのは二度とごめんだ。
けれど自分のせいで愛する人が死ぬことは、何よりも耐え難い。
マティアスの従者もわかっていて毒酒を口にするつもりだったのだから、どうせ大した毒ではないだろう。少なくとも兄がロザリンドに飲ませた、あの強烈な毒よりは。
あれを知っているから。
レオンが視界の端で誰彼構わずなぎ倒して駆けてくるから。
だからロザリンドは、一思いに毒酒を飲み干した。
痛みや苦しみの前に意識が遠のいて、ロザリンドはその場に倒れたけれど。
体が何かに包み込まれた感覚がしたから、きっと誰かが抱きとめてくれたのだろう。
耳元で、愛する人の泣き叫ぶ声を聞いた気がする。
◆
目を開けると、柔らかな陽射しが差し込む自室のベッドサイドに兄の姿があった。
最悪の寝覚めである。
毒を飲んだにも関わらず今度は全く苦しむことなく意識を手放し、こうして目覚めることができたというのに、さっぱり生きている心地がしない。
目が合うなり跳ね起き、シーツにくるまって震えるロザリンドに、兄は透明な液体の入ったグラスを差し出した。
「飲め」
「ひぃぃっ……!!」
悲鳴が漏れた。
兄に殺される運命からは、どう足掻いても逃れられないらしい。
「水だ」
「……………………水?」
サイドテーブルにことりと置かれたそれを、ロザリンドはまじまじと見つめながらも手を伸ばすことはしなかった。
何しろ兄は、顔色ひとつ変えず悪質な嘘をつく残忍な化け物である。
ロザリンドの警戒心たっぷりの視線を受け流し、兄は口を開いた。
「おまえとマティアス王子の婚約は白紙となった」
「……そうでしょうとも。あの男は、毒を仕込むなどという姑息な手段を選んだのですから……! この身をもって、証明してやりましたわ!」
「おまえが飲んだのは睡眠薬だ」
兄の言葉を理解するのに数秒要した。
が、言葉の意味はわかっても状況がさっぱり飲み込めない。
「どっ、どういうことですの? 私はこの目で毒薬が盗み出されるところを見て、パーティーで騒ぎを起こす計画も、この耳で聞いたのです!」
「知っている。だから薬品庫の毒薬を、全て強力な睡眠薬とすり替えたのだ」
兄が全て、知っていた────。
そこでようやくロザリンドは思い至った。
マティアスの部屋を準備させたのは兄である。そこに異常なほど壁の薄い部屋があてがわれるなど、偶然なはずがない。
「エヴァリス王国とは、長年緊張状態にあった。武力ではこちらが僅かに劣る。数年に渡る交渉の最中、突然おまえとあの王子との結婚の話が持ち上がった。裏があるのはわかるな?」
「さっぱりわかりませんわ!」
「……。大方おまえのその無能さが、あちらの国にも伝わっていたのだろう。おまえが問題を起こせば、エヴァリス王国はそれが開戦の大義になる。それを狙ってのものだ。最早戦争を避けられぬのならば、こちらとしては婚約期間を引き延ばしてその間に出来うる限りの準備をするつもりだった。だからあの王子が騒ぎを起こすとわかっていて、穏便に事を済ますように睡眠薬とすり替えたのだ。強い酒で眠っただけだと誤魔化すために」
兄の話を聞きながら、頭から冷水を浴びせられたように体が冷えていく。
ロザリンドなりに、必死で考えて動いたつもりだった。国のため、自身の命のため、たった半日という限られた時間の中で懸命に。できることは全てやり遂げたつもりだったのに。
「ここまで丁寧に説明すれば、おまえの足りない頭でも理解できただろう。エヴァリス王国より、拘束中のマティアス王子の身柄の解放要求があった。公の場であれだけの騒ぎになりながらそんな要求を飲めば、我が国の威信に関わる故に当然拒否をした。間もなく宣戦布告があるだろう。おまえの行動が、このミラベリアの地を戦場にするのだ」
ロザリンドの喉がひゅっと鳴った。
一度目の今日、なぜロザリンドが兄に殺されたのか、ようやく理解する。
ロザリンドのせいで、戦争がはじまるのだ。
一度目も、そして今回も。
ロザリンドはまた間違えた。
きっと殺される、今回も。
あまりの事の重大さにガタガタと震え出したロザリンドに兄が問うたのは、全く脈略のない内容だった。
「建国の魔女を知っているか」
────建国の魔女。
ミラベリア王国の国民ならば、幼い平民の子どもでも知っている。かつて建国の際に、恐るべき魔の力をもって兵を率いた魔女。
圧倒的不利な戦況で敵の数と戦法を正しく予言し、勝利へと導いた。
しかし、それは……。
「存じ上げておりますが、お伽話……ですわよね?」
「語り継がれている通り建国の魔女は実在した。その力が実際に行使されたが故に、ミラベリア王国は独立を果たした。そして私たち王族は、その血を継いでいる」
寝物語として語られてきた幻のような存在の魔女が、王族の始祖である、なんて。
とても信じられる話ではないが、冗談を言うような状況でも兄でもない。
真意が理解できず混乱するロザリンドに、兄が放ったのは。
「おまえ、死に戻ったのは一度きりか?」
「! ……っど、うして、それを!」
「やはりそうか。ごく稀に、王族には建国の魔女と同じ能力を持って生まれる者がいる。おまえがそうなのだろう。このことは、王位継承者にしか伝えられていない。魔女の能力である死に戻りは三度までだ。おまえはあと、二度死ねる」
────死ねる。
兄の言葉選びが恐ろしい。
ロザリンドはもう死にたくはない。それなのにまた兄に殺され、夜会をやり直せとでも言うのだろうか。
すっかり顔色も言葉も失ったロザリンドを一瞥し、兄はロザリンドの枕元のベルを鳴らした。なぜか、このタイミングで。
そして勢いよく部屋に飛び込んできたのは、レオンだった。
「姫様! お加減はいかがですか? ああ、こんなに顔色が悪く……。お守りできず、申し訳ございません」
そこにいるだけで恐ろしい威圧感を与える兄には目もくれず、レオンはロザリンドの座るベッドのそばに膝をつき、頭を下げた。
ロザリンドを覗き込むその瞳が、心労を物語っている。
ロザリンドのことをこんなにも心配し、心から想ってくれるのはレオンだけ。
ずっと張り詰めていた緊張の糸が、少しだけ緩むのを感じる。
レオンの顔を見ただけで、ロザリンドは安心できる。彼だけはロザリンドの味方で、決して裏切ることはないと信じられる。
ロザリンドとレオンの間に流れる淡く柔らかな空気を容赦なく切り裂いたのは、もちろん兄である。
「おまえたちの結婚を認めてやってもいい」
唐突なその言葉に、ロザリンドとレオンは揃って兄を振り向いた。
温情ともとれるセリフとは裏腹に、兄は相変わらず一切温度を感じない冷ややかな目をしている。
「ただし今のままでは難しい。レオン・モンフォール。妹を娶りたければ、功績を上げてみせよ。おまえたち二人の力で、私を納得させるだけの結果を出せ」
ロザリンドの顔が引き攣る。
対照的に、レオンは感極まった様子で騎士の礼をとった。
「陛下……このような機会を賜り、恐悦至極に存じます。国のために尽くし、陛下に納得いただける結果をお持ち帰り致します。与えられた機会を決して無駄には致しません。命を賭して、必ず成し遂げると誓います」
レオンには、兄が寛大な妹思いの王にでも見えているのだろうか。
しかしロザリンドにはわかる。
先程までの話の流れを考えれば、人間の皮を被りながら人の心を持たない化け物である兄に、とんでもない無茶振りをされているということが。
騎士であるレオンが功績を上げるなんて、戦の最中でないと難しいのだ。そして今、まさに開戦待ったなしである。
兄はロザリンドに建国の魔女と同じ働きを求めているのだ。要するに、何度か死んででも敵国についての情報を得て、勝利をもたらせということだ。
兄はロザリンドとレオンを、確実に戦の最前線へ送り込むだろう。二人の愛を利用して、互いを守るために戦うように仕向けようとしている。
ロザリンドは利口とは言い難い我儘な王女であるし、レオンは騎士といえどもまともな戦闘経験は一切ない。
二人とも一度も死なずに王国の勝利を勝ち取るなど不可能だろう。
ロザリンドは死ぬ。また、間接的に兄に殺される。
────それでも。
「姫様。俺はどんな困難も恐れません。必ずや成果を上げ、あなた様の隣に堂々と立てる男になります。ですから……どうか、この命尽きるその日まで、俺をそばに置いてください」
レオンの瞳には、確かな覚悟と希望の光が見える。彼のこの馬鹿みたいにまっすぐなところが、ロザリンドは好きだ。巻き込みたくなかったけれど、こうなった以上ロザリンドが守るしかない。
どうせ兄の命令からは逃げられない。逃げようとすれば、たぶん直接殺される。
それに上手くいけば、レオンと結婚できるのだ。本当に全て上手くいけば、だが。
「私も……精一杯、力を尽くしますわ」
兄が頷いた。
その目は虫けらを見るよりは少しだけ優しい。実験動物を観察するようなそれである。
────ロザリンドが死に戻るのはあと二回。
真実の愛を守りながら、決してそれに溺れてはならない。
今日、兄に殺されなかった。
しかし明日ロザリンドが立つ場所は、戦場かもしれない。