第九話
どれほどの時間、そうしていただろうか。
月光が差し込む大食堂の床に座り込み、壁に刻まれた絶望の顔を見上げていた。時間の感覚は、とうの昔に失われていた。身体は石のように冷え切り、感覚が麻痺していく。だが、私の意識だけは、かつてないほどに明瞭に覚醒していた。
壁の顔は、もはや幻ではなかった。それは、この館の真実を物語る、動かぬ証拠。先代の当主が辿った、悲劇的な末路の記録。そして、いずれは私自身が刻み込まれるかもしれない、未来の肖像。
あの悪夢もまた、ただの夢ではない。館に蓄積された先代の記憶が、新たな当主である私の精神に流れ込んできたのだ。彼の苦悩、彼の絶望、そして、彼が最後に至った真実。それら全てを、私は追体験した。私はもはや、何も知らなかった頃の自分には戻れない。この館が、美しく装飾された、魂を喰らうための祭壇であることを、知ってしまったのだから。
やがて、窓の外が、ゆっくりと白み始めた。夜の闇が薄れ、青白い光が、柔らかな灰色の光へと変わっていく。
夜明けだ。
新しい一日が、私が望むと望まざるとにかかわらず、始まろうとしていた。
その容赦のない時間の流れが、今はひどく残酷に感じられた。
私は、軋む身体を半ば無理やり、そして、ゆっくりと立ち上がらせた。一晩中同じ姿勢でいたせいで、関節が固まり、思うように動かない。だが、心の中に、昨日までの無気力さとは異なる、冷たく硬質な何かが芽生えているのを感じていた。
それは、怒りだった。
この館に対する。そして、この悪意ある存在を、何世代にもわたって維持してきた者たちに対する、静かで、底の知れない憤り。先代の当主は、一人で絶望し、打ち砕かれた。だが、私は違う。私の中には、斎藤タカオとしての精神がある。そして何より、先代が残してくれた、この明確な『警告』がある。
私は、彼の二の舞になるつもりはなかった。
このまま、見えない何かに心を蝕まれ、狂気の餌食になるのを、ただ待っているつもりはない。
戦わなければならない。
たとえ、その先に待つのが、同じ結末であったとしても。
そのためには、まず、全ての答えを知る人物と対峙する必要があった。
セバスチャン。
あの執事は、全てを知っている。この館の成り立ちも、その目的も、そして、当主である私に、何を求めているのかも。
彼のあの能面のような仮面を、引き剥がさなければならない。
私は、大食堂を後にした。朝日が差し込み始めた廊下を、確かな足取りで進む。目指すは、一階にあるセバスチャンの執務室。これまでに一度も足を踏み入れたことのない、彼の領域だった。
恐怖はなかった。
いや、恐怖という感情は、あまりに巨大な真実と、それを上回る怒りの前で、感覚として機能しなくなっていたのかもしれない。
私の内面は、嵐が過ぎ去った後のように、不気味なほど静まり返っていた。
◇
セバスチャンの執務室は、一階の西翼廊の最も奥まった場所にあった。当主である私の私室とは、正反対の位置にあった。
扉は、他の部屋のような華美な装飾はなく、質実剛健といった趣の黒檀で作られた重厚なものだった。私は、ノックをすることなく、ドアノブに手をかけ、一気に扉を開け放った。
部屋の中にいたセバスチャンは、私の突然の来訪に、しかし、少しも驚いた様子を見せなかった。彼は、部屋の中央に置かれた大きな執務机に向かい、何か書類にペンを走らせていたところだったらしい。私が部屋に入ってきたことに気づくと、彼はペンを置き、静かに椅子から立ち上がって、私に向かって恭しく一礼した。
「おはようございます、エリアス様。そのようなお早い時間に、いかがなさいましたか」
その声も、表情も、いつもと何ら変わらない。
私の寝間着のままの姿や、憔悴しきった顔色にも、一切動揺を見せない。まるで、私がこの時間に、この姿で、ここへ来ることなど、とうの昔から予期していたとでもいうように。
彼のその変わらなさが、私の心を逆撫でした。
「お前に、聞きたいことがある」
私は、エリアスとしてではなく、剥き出しの私としての声で、そう言った。
セバスチャンは、ただ静かに、私の次の言葉を待っている。その目は、磨き上げられた黒曜石のように、何の光も反射せず、ただ私の姿を映しているだけだ。
私は、部屋の中央まで進み出ると、彼の執務机を挟んで、真正面から彼と向き合った。
「昨夜、夢を見た」
私は、ゆっくりと、言葉を区切りながら話し始めた。
「先代の当主の夢だ。彼が、この館で、何を経験し、何に絶望したのか……その全てを、私は見た」
「ほう。それは、興味深い夢でございますね」
セバスチャンは、相槌を打った。その声には、やはり何の感情もこもっていない。
「それだけではない」
私は、続けた。
「大食堂の壁。あの染みが、何なのかも、私は知った。あれは、ただの染みではない。夢の最後に見た、先代の、絶望の顔そのものだ。この館は、人の記憶を、魂を、壁に刻み込む。違うか?」
私は、証拠を突きつける検事のように、鋭く彼に問いかけた。私の言葉の一つ一つが、この静かな部屋の空気を、張り詰めさせていく。
セバスチャンは、私の告発を聞いても、やはり表情を崩さなかった。彼は、僅かに目を伏せると、ほとんど間を置かずに答えた。
「……さすがは、エリアス様。館が、新たにお選びになった当主だけのことはございます。そこまで、お気づきになられましたか」
その言葉は肯定だった。
何の弁明も誤魔化しもない、全面的な肯定。
そのあまりに素直な認め方が、逆に私の気勢を削いだ。私は、彼が何とかはぐらかそうとすることを予想していた。だが、彼は、私が掴んだ真実を、いとも容易く、事実として受け入れたのだ。
彼のその態度は、暗にこう語っていた。
『ええ、その通りです。ですが、それが何か?』
「どういうことだ……」
私の声から、力が抜けていく。
「この館は、一体何なんだ。サナトリウムなどではないことは、もう分かっている。ここは、人の精神を弄び、その狂気を糧とする、化け物か何かか!」
「化け物、でございますか」
セバスチャンは、私の言葉を、まるで珍しい昆虫の標本でも眺めるかのように、反芻した。
「それは、少々、情緒的なご表現かと存じます。この館は、ただ、あるがままに、その役割を果たしているに過ぎません」
「役割だと?」
私は、彼の言葉が理解できず、聞き返した。
「そうだ。リリエンタール家に、代々課せられてきた、役割だ」
その時、セバスチャンの声の調子が僅かに変わった。それは執事として主人に仕える声ではなく、もっと厳かで、何か神聖な儀式を執り行う神官のようなものだった。
「エリアス様。あなた様は、リリエンタール家の『癒し』の伝統について、まだ、本当の意味をご存じない」
彼は、ゆっくりと、私から視線を外し、窓の外に広がる、朝日に照らされた庭園へと目を向けた。
「人は、魂を、器としてこの世に生を受けます。しかし、その器は、あまりに脆く、不完全です。生きていく中で、様々な経験をし、傷つき、歪み、ひび割れていく。多くの者は、そのひび割れを、常識や理性といったもので、必死に塞ぎ、取り繕いながら生きております」
彼の言葉は、まるで、哲学の講義でも聞いているかのように、静かで、観念的だった。だが、その内容は、私の心を、まるで冷たい手で掴むように、ざわつかせた。
「ですが、中には、そのひび割れから、魂が漏れ出してしまう者たちがいる。世の多くの人々は、それを『狂気』と呼び、恐れ、遠ざけ、矯正しようと試みます。元の、歪んだ器の形に、無理やり押し込めようとするのです。それこそが、真の『治療』だと信じて」
彼の視線が、再び、私へと戻った。その黒い瞳の奥で、初めて、感情らしきものが、揺らめいたように見えた。それは、憐憫だろうか。あるいは、絶対的な真理を知る者の、静かな傲慢だろうか。
「しかし、エリアス様。それこそが、最も残酷な行為だとは、お思いになりませんか」
私は、彼の問いに、答えることができなかった。
「魂が、自らの最も美しい形になろうとしているのを力ずくで妨げること。その輝きを、再び、歪んだ器の内へと、封じ込めてしまうこと。それ以上の、魂への冒涜がありましょうか」
セバスチャンは、一歩、私の方へと近づいた。彼の背後から差し込む朝日が、彼の輪郭を、神々しいほどに縁取っている。
「我々リリエンタール家の使命は、その逆でございます」
そして、彼は、言った。
穏やかな、しかし、有無を言わせぬ、絶対的な宣告として。
「真の癒しとは、魂を、元の不完全な器の形に、押し戻すことではございません。その魂が、最も輝く形へと、あるがままに解放してさしあげること。それこそが、リリエンタール家に代々受け継がれてきた、伝統であり、至上の芸術なのでございます」
解放。
輝く形。
芸術。
それらは、美しい言葉で、巧みに装飾されてはいるが、その本質は、私が最も恐れていた、おぞましい結論そのものだった。
圧倒されていた私の身体――その唇が僅かに自由を取り戻して、少しだけ動いた。
「……解放、だと?あれが、そう呼べるというのか。自らを傷つけ、悦びを感じる男の姿が。影に怯え、自己を失っていく女の姿が。あんたの言う、魂の輝きだというのか」
「その通りでございます」
セバスチャンは、間髪入れずに、断言した。
「彼らは、社会が押し付ける『正常』という名の窮屈な檻から、解き放たれたのです。そして、自らの魂の内にのみ存在する、真実の世界に安らぎを見出した。それこそが、彼らにとっての、唯一無二の救済。我々は、その手助けを、ほんの少しだけ、させていただいただけのこと」
彼の言葉は、もはや、私の理解の範疇を超えていた。彼の語る倫理は、私の知る、人間の倫理とは、全く異なるようだった。
「……生贄だ」
私の口からは、か弱くもだが、声が漏れた。
「結局、彼らは、生贄にされているだけじゃないか。この館という、得体の知れない祭壇に捧げられるための!」
「生贄、という言葉も、また、情緒的ですな」
セバスチャンは、初めて、その唇の端に、微かな笑みの形を浮かべた。
「彼らは、捧げられるのではありません。自ら、この館と、一つになるのです。彼らの魂の輝きは、この館の壁に、床に、柱に、永遠に刻み込まれ、その一部となる。それは、生や死などという、ちっぽけな断絶ではありません。永遠の生命を得ることと、同義なのです。そして、我々当主の役割は、その神聖な儀式を、滞りなく執り行うこと。最高の素材を見出し、最高の技術で磨き上げ、最高の形で、この館に奉納すること。それこそが、リリエンタール家の当主たる者の、誇りであり、存在意義なのでございます」
誇り。存在意義。
その言葉が、私の頭を鈍器で殴られたかのように、痺れさせた。
もう議論の余地はなかった。
彼とは、決して、分かり合うことはできない。
彼は、完全に狂っているのだ。
いや、違う。
狂っているのは、彼ではない。
この館、そして、リリエンタール家の数百年にわたって受け継がれてきた、この『伝統』そのものが、狂っているのだ。
そして、私は、その狂気の新たな継承者として、この場所に連れてこられた。
斎藤タカオ、その精神科医としての私の知識と技術こそが、最高の『奉納品』を作り上げるための、最高の道具になると、この館に判断されたのだ。
全身から、力が抜けていく。
怒りも、恐怖も、今はもう、感じなかった。
ただ、圧倒的な、どうしようもない、無力感だけが、私を支配していた。
目の前にいるのは、一人の執事ではない。
数百年の時を超えて、連綿と受け継がれてきた、巨大な狂気の代弁者なのだ。
それに、たった一人で、どう抗えというのか。
「……ご理解、いただけましたでしょうか」
セバスチャンの静かな声が、私を現実へと引き戻した。
私は、答えることができなかった。
彼の黒曜石のような瞳を見つめ返すことしか、できなかった。
ただ、セバスチャンの仮面は、もはや、ただの能面ではなかった。
それは、この館の意志そのものを映し出す、静謐な意思そのものだった。
そして、その巨大な意思は、今や私に選択を迫っていた。
従うのか?
それとも、抗うのか?
私は、ゆっくりと、彼に背を向けた。
そして、一言も言葉を発することなく、その部屋を後にした。
背後で、セバスチャンが、再び、深く一礼する気配を感じながら。