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白亜の館  作者: 速水静香
斎藤タカオ編
8/15

第八話

 あの夕食会から、再び、私の時間は止まった。

 自室に戻り、扉に鍵をかけた瞬間から、私はまるで琥珀の中に閉じ込められた虫のように、身動き一つ取れなくなった。食堂の壁に浮かび上がった、あの苦悶の表情。それは、網膜の裏側に焼き付いた光のように、目を閉じても、開いても、私の視界から消えることはなかった。


 幻覚だ。


 そう断定するには、その形相はあまりにも生々しく、具体的すぎた。青年の錯乱した叫びが、私の疲弊した精神に影響を与えた結果なのだと、精神科医としての知識が必死に合理的な説明を組み立てようとする。だが、その論理の壁は、一度見てしまった『あれ』の圧倒的な現実感の前では、砂の城のように脆く、崩れ去っていくばかりだった。

 私の知覚と、患者の妄想。その境界線は、もはや存在しないのかもしれない。この館では、正気でいることの方が、むしろ異常なのだ。誰もがそれぞれの悪夢に囚われ、その悪夢こそが、この場所における唯一の現実なのだとしたら。

 私は、ベッドに倒れ込むように身を横たえた。だが、眠りは訪れない。意識は妙に冴えわたり、思考だけが、出口のない迷路を延々と彷徨い続けていた。壁の顔。恍惚として自らを傷つける男。影に怯える女。そして、全てを見透かすようなセバスチャンの無機質な瞳。それらの断片的なイメージが、私の頭の中で、万華鏡のように組み合わさっては、また別の不気味な模様を描き出す。

 疲労は、すでに限界を超えていた。身体は自らのものではないかのように重く、指一本動かすことすら億劫だった。しかし、脳だけが、強制的に覚醒させられているかのように、休みなく活動を続けている。このままでは、精神が焼き切れてしまう。そんな、漠然とした恐怖があった。


 いつしか、意識が混濁し始めた。

 そして、私の意識は、水底に沈んでいくように、抗いがたい眠りの引力とともに落ちていった。



 意識が浮上した時、私は見知らぬ場所に立っていた。

 いや、場所は見知っていた。この館の、療養者の一室だ。だが、何かが違う。部屋の空気、光の差し込み方、そして何より、私自身の身体の感覚が、まるで他人のもののように感じられた。手足が、エリアスとして慣れ親しんだものよりも、少しだけ大きく、そして重い。着ている服も、フリルの多いシャツではなく、もっと実用的な、簡素なデザインのものだった。

 混乱する間もなく、私の口が、私の意志とは無関係に、言葉を発した。


「大丈夫。あなたの苦しみは、必ず私が取り除いてみせます。信じてください」


 その声は、エリアスのものよりも、少し低く、そして、確固たる自信に満ちていた。目の前には、ベッドに横たわる一人の女性がいる。彼女は、虚ろな目で天井の一点を見つめ、時折、意味のない言葉を呟いていた。

 私は、自分が誰なのかを、理解していた。いや、思い出した、という方が正しい。私は、この館の主。そして、その前に一人の医師だ。心を病んだ人々を救うために、この場所にいる。その使命感が、揺るぎない確信となって、私の全身を満たしていた。


 これは、夢だ。そして、私は、この夢の中で、先代の当主になっているのだ。


 その認識は、何の恐怖も伴わずに、すとんと胸に落ちた。私は、彼の視点を通して、彼の過去を追体験しているのだ。


 場面が、飛んだ。


 私は、書庫にいた。エリアスとして、あの絶望的な記録を見つけた、あの場所だ。しかし、私の手元にある記録は、まだ白紙に近い。私は、ペンを手に、目の前の患者の症状を、医学的な見地から冷静に分析し、記録していた。


 『彼の妄想は、過去のトラウマに起因する、防衛機制の一種と考えられる。ならば、そのトラウマの核心に触れ、カタルシスを与えることで、症状は寛解するはずだ』


 その筆跡には、一点の迷いもなかった。私は、自分の知識と技術を信じていた。現代的な科学的手法を踏まえたアプローチこそが、いかなる精神の病も克服する唯一の道だと、固く信じていた。


 また、場面が変わる。


 今度は、あの影に怯える女性の部屋だった。私は、彼女の話を、真摯に、そして根気よく聞いていた。彼女の妄想を、分裂した自己の投影として捉え、その影と和解できるように、対話を促していた。


 『あなたの影は、あなたを傷つけようとしているのではありません。あなたに、何かを伝えようとしているのです。その声に、耳を傾けてみませんか』


 私は、希望に満ちていた。私の治療は、順調に進んでいるように思えた。患者たちの表情には、少しずつ生気が戻り、館には、穏やかな空気が流れ始めていた。私は、この館を、真の癒しの庭に変えることができると、本気で信じていたのだ。


 だが、その希望は、ある日を境に、音を立てて崩れ始めた。

 私が治療していた、あの虚ろな目の女性が、自ら命を絶ったのだ。私が、彼女の心の最も深い傷に触れようとした、まさにその翌日のことだった。彼女は、私の善意を、耐え難い侵襲と受け取ったのだ。私の治療は、彼女を救うどころか、最後の逃げ場さえも奪い、絶望の淵へと突き落としてしまった。

 私は、彼女の冷たくなった亡骸の前で、ただ立ち尽くすことしかできなかった。私の自信は、粉々に砕け散った。私の知識は、無力だった。いや、無力どころか、有害でさえあった。


 それからだった。全てが、狂い始めたのは。


 私の治療は、ことごとく裏目に出た。良かれと思って行った介入が、患者たちの狂気を、より奇妙で、より根深いものへと変質させていった。妄想から解放されたはずの男は、痛みの中に快楽を見出し、自らを傷つけることに悦びを感じるようになった。影との対話を試みた女性は、その影と完全に一体化し、現実の人間とのコミュニケーションを一切拒絶するようになった。

 私は、自分が何をしているのか、分からなくなっていた。救おうとすればするほど、彼らは、人間ではない何かへと、変貌していく。そして、彼らの狂気が深まると同時に、この館そのものが、まるで生命力を得たかのように、生き生きと輝きを増していくことに、私は気づいてしまった。

 壁の染みは、より濃く、床の木目は、より深く。館全体が、歓喜に打ち震えているかのようだった。


 私は、悟った。

 ここは――いや、この館は、サナトリウムなどではない。


 人の精神を、特に、その絶望や狂気を糧として生きる、巨大な生命体なのだ。

 そして、私は、その最も効率的な給仕係として、選ばれたに過ぎない。私の医師としての知識と技術は、極上の餌を育てるための『触媒』でしかなかったのだ。


 絶望が、私の心を黒く塗りつぶしていく。

 私は、書庫に閉じこもった。歴代の当主たちが残した記録を、貪るように読んだ。そこに記されていたのは、狂気を賛美する、おぞましい文章の数々だった。彼らは、初めから、この館の正体を知っていたのだ。そして、そのルールに、従順に従っていたのだ。


 私だけが、愚かにも、それに抗おうとしていた。


 私は、ペンを手に取った。この恐ろしい真実を、後世の誰かのために、書き残さなければならない。だが、何を書けばいいのか、分からなかった。言葉が見つからない。私の絶望は、あまりにも深く、巨大で人間の言葉で表現できる範囲を遥かに超えていた。

 私は、ただ、インクの瓶を倒し、書きかけのページを黒い染みで塗りつぶした。それが、私の唯一の抵抗だった。


 夢の最後。


 私は、あの夕食会で青年が錯乱した、大食堂にいた。

 一人だった。がらんとした広い空間に、私だけが、ぽつんと立っている。私の視線は、暖炉の上の壁に釘付けになっていた。


 壁が泣いている。

 青年が叫んだ言葉が、私の口から呻き声となって漏れた。


 壁の染みは、もはや、ただの染みではなかった。そこには、私が救えなかった者たちの顔が、次々と浮かび上がっては、消えていく。自ら命を絶った女性。痛みの中に悦びを見出した男。影と一体化した女。彼らは皆、私を、恨めしそうな、あるいは、嘲るような目で見つめていた。


 やめろ。やめてくれ。


 私は、その場にうずくまった。


 しかし、もはや彼らの顔が脳裏から離れることはない。

 私は、ふらふらと、まるで何かに引き寄せられるように、その壁へと近づいていった。そして、冷たい石の壁に、額を強く押し付けた。

 ひんやりとした硬い感触が、燃えるように熱い私の額を、少しだけ冷ましてくれる。


 ああ、ああ……。


 嗚咽が、喉の奥から込み上げてきた。涙が後から後から、溢れ出してくる。止まらない。それは、悲しみや悔しさといった、特定の感情からくる涙ではなかった。魂そのものが、その存在の根底から崩壊していく音だった。


 私は、壁に額を押し付けたまま、子供のように、声を上げて泣き続けた。

 絶望に歪んだ、私の顔。

 それこそが、あの夕食の席で、私が垣間見た、壁の染みの正体だった。



 はっ、と。


 私は、自分の寝台の上で、勢いよく身体を跳ね起こした。

 心臓が、破裂しそうなほど激しく脈打っている。全身は、冷たい汗で、ぐっしょりと濡れていた。シーツが、肌に気味悪く張り付いている。


 夢だ。


 だが、それは、ただの夢ではなかった。

 先代の絶望が、彼の流した涙の熱さが、まるで自分自身の体験であるかのように、生々しく、私の身体に残っていた。


 あの無力感。あの孤独。

 あの魂が引き裂かれるような痛みが、まだ、私の胸の奥で、鈍く疼いている。


 私は、混乱していた。


 私は誰だ?


 エリアスか、それとも、あの名も知らぬ先代の当主なのか。その二つの人格が、どちらも私の内側で、自らを見失っているかのようだった。

 だが、その混乱の中でも、一つの抗いがたい衝動だけが、今の私を突き動かしていた。


 行かなければ。

 確かめなければ。

 あの場所へ。


 私は、もつれる足を叱咤し、寝台から転がり落ちるようにして床に降り立った。寝間着のままであることも、髪が乱れていることも、気にならなかった。

 ただ、何かに憑かれたように、私は部屋の扉へと向かった。


 自室の扉を開けて、廊下へと飛び出す。

 夜の館は、静寂に支配されていた。窓から差し込んでいる、青白い月明かりだけが、冷たく長い廊下を照らし出していた。


 走った。


 分厚い絨毯が、私の足音を、不気味なほどに吸収する。まるで、音のない世界を疾走しているかのようだった。壁の肖像画が、その冷たい瞳で、私の狂奔を黙って見送っていた。

 階段を駆け下り、一階へ。

 目指す場所は、ただ一つ。


 大食堂だ。


 食堂の扉を、乱暴に押し開ける。

 中は、がらんとしていた。月光が、大きな窓から銀色の光の帯となって、床にまで差し込んでいる。その光に照らされて、長いテーブルと、そこに並ぶ椅子たちが巨大な獣の骸骨のように、黒々とした影を落としていた。

 私は、呼吸を整えるのも忘れて、一直線に、あの壁へと向かった。


 暖炉の上の石壁。


 夢の中で、先代の当主が額を押し付けて嗚咽していた、あの場所。

 そして、あの苦悶の表情を見た、あの場所だ。

 壁の前に立った。それで私は、食い入るように、その表面を見つめた。


 月明かりの下で、壁は、ただの石の集合体にしか見えなかった。いくつかの染みが、濃淡の異なる模様を描いているだけだ。あの時見た、恐ろしい顔の面影は、どこにもなかった。

 やはり、幻覚だったのか。

 私の、そして、あの青年の疲弊した精神が見せた、ただの幻。


 安堵と、そして、それと同じくらいの失望が私の胸をよぎった。安堵は、自分の正気が、まだ完全には失われていなかったことに対して。失望は、この館の謎を解く手がかりが、また一つ、失われたことに対して。


 私は、壁に手を伸ばし、その表面に、そっと触れてみた。


 ひやり、と。


 石の無機質な冷たさが、指先から伝わってくる。どこにでもある、ただの石だった。何の変哲もない。

 私は、諦めて、その場を去ろうとした。


 その、時だった。


 夢の中の光景が、脳裏に焼き付くように、鮮やかに蘇った。

 先代の当主が、壁に額を押し付けていた、その角度。彼の瞳が、壁のどの部分を見つめていたか。

 私は、まるで、何かに導かれるように身体を屈めた。そして、壁を見上げる視線の高さを夢の中の彼と同じ位置に合わせた。

 

 見た。

 そこにあった。


 それは、もう幻覚などではなかった。


 染み。


 それは、光の当たる角度と見る者の視点の高さが、完璧に一致した時にのみ、その本当の姿を現す、立体的な彫刻のようなものだった。石の表面の僅かな凹凸。長年の煤や汚れが、その溝に溜まることで描かれた、だまし絵のようなもの。


 そして、その姿は。


 夢の最後に見た、先代の当主の絶望に歪んだ顔、そのものだった。


 見開かれた目。

 助けを求めて開かれた口。

 苦痛に引きつる頬の筋肉。


 その細部に至るまで、寸分違わぬ、完璧な一致。


 あれは、妄想などではなかった。


 この壁は、覚えていた。

 ここで絶望し、朽ちていった人間の最後の表情を。その魂の叫びを石の肌理の一つ一つに、記憶として刻み込んでいるのだ。

 青年が言った通りだった。


 壁が泣いている。

 先代の当主の決して癒えることのない悲しみを、永遠に刻みつけながら。


 私は、その場にへたり込んだ。

 足の力が完全に抜けてしまっていた。

 もう疑う余地はない。


 この館は生きている。

 住人たちの記憶と感情を、喰らい、記録し、自らの一部としていく。

 書庫の記録。壁の染み。これらは全て、この館という、巨大な生命体の記憶の断片なのだ。

 そして、私の見たあの悪夢もまた。

 それは、この館に蓄積された、先代の記憶そのものが、私の精神に流れ込んできた、ということなのだろう。

 月明かりに照らされた大食堂で、私は、ただ一人、身動きもできずにいた。

 壁に刻まれた、先代の絶望の顔が、静かに、私を見下ろしていた。


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