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白亜の館  作者: 速水静香
斎藤タカオ編

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第七話

 自室の扉は、私と世界を隔てる唯一の場所として縋り付いていた。だから、私はほとんどの時間をこの部屋で過ごしていた。かつては鳥籠だと感じたこの空間が、今では唯一の避難場所のように思えた。もちろん、それが幻想に過ぎないことは分かっていた。見えざる聴衆の視線は、この厚い樫の扉も、石壁すらも、容易く透過して私の内側を覗き込んでいる。それでも、物理的な隔絶は、かろうじて正気を保つための、か細い防波堤の役割を果たしていた。


 食事は、一日一度、セバスチャンが運んでくる盆の上で済ませた。あるいは、済ませたふりをした、と言う方が正確だろうか。喉を通るのは、水と、スープの上澄みくらいのものだった。固形物を口に含むと、胃が受け付けない。私のその様子を見ても、セバスチャンは何も言わなかった。ただ、毎日同じ時間に現れ、ほとんど手つかずの食事を下げ、そして新しい食事を置いていくだけだ。その無言の、機械的な繰り返しが、私という存在がこの悪意に満ちた世界の中で、いかに無力であるかを静かに物語っているようだった。


 私は、何もしなかった。療養者たちの様子を尋ねることも、新たな治療を試みることも、書庫で得た知識を整理することさえも。全ての意欲は、あの恍惚とした表情で自らを傷つける男の姿と、密室を吹き荒れた不可視の風によって、根こそぎ奪い去られていた。私が動けば動くほど、彼らは喜ぶことだろう。私の善意は、最悪の形で利用される。ならば、沈黙し、石のように動かずにいること。それが、今の私にできる、唯一の、そして、最も消極的な抵抗だった。


 窓の外では、陽が昇り、そして沈んでいく。完璧に手入れされた庭園は、毎日同じ美しさを保ち続けていた。その変わらなさが、私の神経を鈍らせ、時間の感覚を麻痺させていく。一日が、一週間にも、一ヶ月にも感じられた。斎藤タカオとしての記憶も、エリアスとしてのこの現実も、等しく色褪せて、ただの背景になっていく。このまま、思考することをやめ、感情を失い、この部屋の調度品の一つになってしまえたなら、どれほど楽だろうか。そんな考えが、甘い毒のように、私の意識の底にゆっくりと広がっていった。



 その日、私は、久しぶりに自室の扉を開けた。明確な理由があったわけではない。ただ、このまま部屋に閉じこもっていても、緩やかに精神が腐敗していくだけだという、漠然とした焦燥感に背中を押されたのだ。あるいは、セバスチャンが盆を運んできた際に、ふと口にした言葉が、私の心に小さな波紋を広げたのかもしれない。


「今宵は、厨房長が腕によりをかけて、特別な夕食を用意しております。よろしければ、皆様とご一緒に、大食堂にてお召し上がりになってはいかがでしょう」


 その提案には、もちろん何の強制力もない。だが、その言葉の裏に、『当主としての役割を果たせ』という、無言の圧力を感じ取ったのは、私の被害妄想だけではなかったはずだ。どちらにせよ、私はその強制された巨大な意思に従って、その重い腰を上げた。着替えを済ませ、鏡に映った自分の姿を見る。銀色の髪、青い瞳。血の気を失った白い肌。この見慣れない少年の姿が、もはや私自身のものとして、何の違和感もなく馴染んでいることに、改めて気づかされた。


 大食堂へと続く長い廊下を、ゆっくりと歩く。壁の肖像画の瞳が、私の一挙手一投足を見守っている。以前はそれに気味の悪さを感じていたが、今はもう、何も感じなかった。監視されているのが、ここでは当たり前なのだ。


 重厚な扉を開けると、大食堂の光景が目に飛び込んできた。天井から吊り下げられたシャンデリアが、無数のガラス片をきらめかせながら、テーブルの上を明るく照らしている。長いテーブルには、白いクロスがかけられ、磨き上げられた銀食器が整然と並べられていた。そして、そこには、私以外の療養者たちが、すでに全員席に着いていた。


 彼らは、私が姿を現したことに気づくと、一斉にこちらに視線を向けた。その視線には、好奇、警戒、そして期待のような、様々な感情がそこにはあった。私は、彼ら一人一人の顔を見ないように、自分の席である上座へと向かった。私が着席するのを待って、セバスチャンが静かに料理の開始を告げる。


 音もなく、使用人たちが最初の皿を運んできた。魚介のテリーヌ。見た目も美しく、繊細な味わいがするのだろう。だが、私の目には、それがただの色彩の集合体にしか見えなかった。

 食事の間、誰も口を開かなかった。聞こえるのは、ナイフとフォークが皿に触れる、かすかな金属音だけ。それは、葬儀の席のような、重苦しい静寂だった。誰もが、貴族としての体面を保つための仮面をつけ、ただ黙々と、目の前の食事を口に運んでいる。


 私は、ほとんど料理に手をつけることなく、ワイングラスを傾けていた。赤い液体が、グラスの中でゆっくりと揺れる。その表面に映る、シャンデリアの光が、まるで血の色のようだった。

 あの男は、今頃、自室で何をしているだろうか。恍惚の表情で、自らの皮膚を掻いているのだろうか。影に怯える女性は、部屋の隅で、今も恐怖に怯えているのだろうか。私の思考は、目の前の食事から離れ、この瀟洒な洋館にある、救いようのない狂気へと沈んでいった。この静かな食卓も、仮面の下では、誰もがそれぞれの地獄を抱えているのだ。そして、私はその地獄の番人。そう思うと、込み上げてくる吐き気で、胃が痙攣した。


 その時だった。

 張り詰めた静寂を、甲高い音が引き裂いた。


「―――ッ!」


 それは、言葉にならない、獣の叫びのような声だった。

 全員の視線が、音の発生源へと集中する。テーブルの隅に座っていた一人の青年が、椅子を激しく後ろに蹴り倒し、立ち上がっていた。彼は、顔を真っ赤にし、肩で大きく息をしながら、何もないはずの壁の一点を、わななく指で指し示していた。


「壁が……壁が、泣いている!」


 彼の金切り声が、高い天井に反響する。


「聞こえないのか!あの人が、泣いているんだ!あんなに苦しんでいるのに、どうして誰も助けないんだ!」


 錯乱。彼の瞳孔は大きく開かれ、焦点が合っていない。その視線は、私たちを見ているのではなく、彼にしか見えない、何か恐ろしいものに釘付けになっている。

 食堂の空気は、一瞬で凍りついた。他の療養者たちは、目の前の突然の出来事に、フォークを持ったまま硬直し、青ざめている。

 しかし、その混乱の中で、冷静な者たちがいた。セバスチャンと、壁際に控えていた二人の屈強な使用人だ。彼らの動きには、一切の無駄がなかった。まるで、何度も繰り返されてきた手順を確認するかのように、彼らは青年を取り囲む。


「お下がりください。少し、お疲れなのですよ」


 セバスチャンは、他の療養者たちをなだめるように、穏やかな、しかし有無を言わせぬ口調で言った。その間にも、二人の使用人は、暴れる青年の両腕を、巧みに、しかし力強く押さえつけている。


「離せ!僕は気違いじゃない!本当に、壁が泣いているんだ!あの人のために……!」


 青年の悲痛な叫びは、使用人によって口を塞がれ、くぐもった呻き声に変わった。彼は、抵抗も虚しく、まるで壊れた人形のように、食堂から引きずり出されていく。その一連の流れは、驚くほど手際が良く、そして暴力的だった。異常事態を、日常業務として処理する、その冷徹な手際に、私は背筋が寒くなるのを感じた。


 青年が連れ出されると、食堂には、再び静寂が戻った。しかし、その静寂は、先ほどまでの儀礼的なものとは、全く質が異なっていた。それは、暴力によって無理やりもたらされた、死んだような沈黙だった。

 セバスチャンは、何事もなかったかのように、テーブルの中央に戻ると、深く一礼した。


「お騒がせいたしました。どうぞ、お食事をお続けください」


 その言葉を合図に、他の療養者たちは、おそるおそる、再びナイフとフォークを手に取った。だが、誰一人として、食事を口に運ぶ者はいない。誰もが、青年の最後の叫びが残した余韻に、心を縛られている。


 私の視線は、テーブルの上を滑り、青年が指差していた壁の一点に、吸い寄せられていた。

 そこは、暖炉の上の、少し煤けた壁だった。古い石造りの壁には、長年の間にできたであろう、いくつかの染みが点在している。何の変哲もない、ただの壁だ。青年は、この壁の何を見て、錯乱したというのだろうか。

 私は、目を凝らした。

 染みは、様々な形をしていた。雲のようにも、動物のようにも見える。パレイドリア現象。人は、無意味な形の中に、意味のあるパターンを見出してしまう傾向がある。きっと、彼の錯乱も、その一種に過ぎないのだろう。精神が不安定な状態では、そうした錯覚は容易に起こりうる。精神科医としての私の知識が、そう結論付けようとしていた。


 その瞬間だった。


 シャンデリアの蝋燭の炎が、ふ、と揺らめいた。おそらくは、誰かが動いたことによる、僅かな空気の流れのせいだろう。その一瞬の光の変化が、壁に落ちる影の形を、ほんの僅かに変えた。

 私の呼吸が、止まった。


 見えた。


 染み。それは、ただの染みではなかった。

 光と影が織りなす、偶然の悪戯。その刹那、壁の染みは、明確な『顔』の輪郭を結んだのだ。

 それは、人の顔だった。

 性別も、年齢も分からない。だが、その表情だけは、恐ろしいほどにはっきりと読み取れた。

 苦悶。

 絶望。

 声にならない叫びを上げながら、奈落の底へと落ちていく人間の、断末魔の表情。目は見開かれ、口は助けを求めて大きく開かれている。その顔全体が、耐え難い苦痛によって、醜く引きつっていた。

 それは、一瞬の幻だった。

 次の瞬間には、炎は元の静かな光を取り戻し、壁は、再び、何の変哲もないただの石壁に戻っていた。あの恐ろしい形相は、跡形もなく消え去っている。


 幻覚だ。


 私の脳が、この館の異常な雰囲気に当てられて、作り出した幻に違いない。青年の叫びに、無意識のうちに影響されたのだ。疲労と、精神的なストレスが、私の知覚を狂わせている。

 私は、必死で、そう自分に言い聞かせた。だが、一度見てしまった光景は、瞼の裏に、熱い鉄印のように焼き付いて、消すことができない。あの苦悶の表情の、生々しいまでの現実感。あれが、ただの染みに見えるだろうか。


 もし、あれが幻ではなかったとしたら?

 もし、青年が見ていたものと、私が見たものが、同じものだったとしたら?


 その考えが、冷たい楔のように、私の脳天に打ち込まれた。

 患者の妄想と、私の知覚。その二つを隔てていたはずの、確固たる境界線が、音を立てて崩れ始めていた。どちらが現実で、どちらが幻なのか。その判断基準が、ここでは、もはや何の意味も持たないのではないか。


 壁が、泣いている。


 青年の言葉が、頭の中で木霊する。

 あれは、ただの染みではない。この館に吸収され、壁の一部と化した、無数の魂の、断末魔の叫びなのだとしたら。

 私は、手に持っていたナイフを、カチャン、と音を立てて皿の上に取り落とした。指先が、氷のように冷たくなっている。

 セバスチャンが、その音に気づいたのか、私の方に視線を向けた。その能面のような顔には、何の感情も浮かんでいない。だが、その瞳の奥で、微かな満足の色が揺らめいたのを、私は見逃さなかった。


 彼は、知っているのだ。全てを、そして、私が今、何を見たのかも。

 食堂の重苦しい沈黙の中で、私は、ただ一人、新たな恐怖の淵に立たされていることを、はっきりと自覚していた。


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