第六話
あの夜、鍵穴から覗き見た光景は、網膜に焼き付いた残像のように、私の思考から消え去ることはなかった。男の恍惚とした表情。規則正しく皮膚を引っ掻く指の動き。
そして、その行為を祝福するかのように部屋を満たしていた、甘く腐敗したような空気。私の善意が、私の知識が、おぞましい毒へと変質したあの瞬間は、繰り返し再生される悪夢となって、私の眠りを浅く、断続的なものに変えていた。医師としての自信は、跡形もなく粉砕されていた。いや、もはやそれは自信の喪失などという生易しいものではない。私という存在そのものが、悪意を助長させてしているという、冷厳な事実の突きつけだった。
あの日以来、私は自室に閉じこもることが多くなった。食事も、セバスチャンに部屋まで運ばせるようになった。療養者たちと顔を合わせることなど、恐ろしいことだった。それは、もはや耐え難い苦痛になっていた。彼らの顔を見るたびに、私の脳裏には、あの男の変貌した姿が重なって見えた。彼らの抱える心の問題は、もはや治療すべき『病』ではなく、いつ『開花』するとも知れない、恐ろしい蕾のようにしか思えなかった。そして、その蕾に水を与え、陽の光を注いでしまうのは、他ならぬ私自身なのだ。
何もしない。それが、今の私にできる唯一の抵抗だった。私が彼らに関わらなければ、少なくとも、私の手によって彼らの狂気が助長されることはないはずだ。それは消極的な、そしておそらくは無意味な抵抗だろう。しかし、私が何もしなくとも、この強大な悪意は、別の方法で彼らの精神を蝕んでいくに違いない。だが、それでも、自らが破滅の触媒となることだけは避けたかった。医師としての最後の、そして最も惨めな倫理観が、私にそう命じていた。
しかし、強大な『悪意』は、私のささやかな抵抗を許すほど寛容ではなかった。
ある日の午後、セバスチャンが、いつものように食事の盆を手に、私の部屋を訪れた。
彼は、私がほとんど手をつけていない皿を静かに片付けながら、抑揚のない声で言った。
「エリアス様。近頃、とあるご婦人のご様子が、少々気にかかります」
その言葉は、私の心の壁を、いとも容易くすり抜けてきた。
私は顔を上げず、窓の外に広がる、生気のない庭園を眺めたまま、低い声で答えた。
「……そうか」
関心がない、という態度を、精一杯装った。これ以上、深入りしてはならない。彼の言葉に耳を貸してはならない。
だが、セバスチャンは私の拒絶を意に介さず、淡々と続けた。
「ええ。ご自分の影に怯え、部屋の隅でただ小さくなっておられる。食事もほとんど喉を通らず、夜もお休みになれていないご様子。このままでは、お身体を損なわれるのも時間の問題かと」
彼の言葉の一つ一つが、私の胸に絡みついてくるかのようだった。患者が苦しんでいる。その事実を前にして、何もしないでいること。それは、医師としての私にとって、自らの存在意義を否定するかのような行為だった。分かっている。これは、セバスチャンの巧妙な罠なのだ。私の良心という名の弱点につけ込み、私を再び『治療』という舞台に引きずり出そうとしている。
「……私に、どうしろと」
声が、自分でも驚くほど、かすれていた。
「滅相もございません。エリアス様のお心を煩わせるつもりは毛頭ございません。ただ、事実をご報告したまででございます」
セバスチャンは、完璧なまでに恭しい態度で、そう言った。彼のその完璧さが、私には何よりもおぞましく感じられた。彼は、私を責めない。命令もしない。ただ、選択肢を提示するだけだ。そして、私がどちらを選ぶか、初めから分かりきっているかのように、静かに待っているのだった。
「……その女性の部屋へ、案内しろ」
私は、そう口にしていた。分かっている。また同じ過ちを繰り返すだけかもしれない。
しかし、このままでは何も解決はしない。
「かしこまりました」
セバスチャンの声には、微かな満足の色が滲んでいるように聞こえた。
◇
その女性の部屋は、患者の例にもれず、東翼廊にあった。扉の前に立つと、中からは何の物音も聞こえてこない。まるで、誰もいないかのような、全てが死んだような静寂があった。私は一度、深く息を吸い込み、自らの心を無理やり落ち着かせた。今度の私は、以前の私とは違う。決して積極的な行動――治療などをしようとしてはならない。ただ、話を聞くだけだ。観察者に徹するのだ。彼女の妄想を肯定も否定もせず、ただ、ありのままを受け止める。それならば、状況が悪化することはないはずだ。そう、自分に強く言い聞かせた。
セバスチャンが扉を開けると、部屋の中は、昼間だというのに薄暗かった。分厚いカーテンが固く閉ざされ、外の光を完全に遮断していた。唯一の光源は、テーブルの上でか細く燃える一本の蝋燭だけだった。その頼りない光が、部屋の隅にうずくまる、小さな人影をぼんやりと浮かび上がらせていた。
痩せた身体を、黒いショールで固く覆っていた。顔は俯いていて見えない。
セバスチャンは、私を部屋に招き入れると、音もなく扉を閉め、廊下で待機するという意思表示をして、その場を去った。密室に、私とその女性、そして揺らめく蝋燭の炎だけが残される。空気は重たい。
私は、以前の男の時と同じように、ゆっくりと彼女に近づき、数歩離れた場所にある椅子に静かに腰を下ろした。
「こんにちは。エリアスです」
私の声に、彼女の身体がびくりと跳ねた。しかし、顔を上げることはない。
「少し、お話を伺ってもよろしいですか」
返事はなかった。ただ、ショールを握りしめる彼女の指先に、一層強く力が込められたのが分かった。私は、焦らずに、ただ沈黙が部屋を支配するに任せた。彼女が自ら口を開くまで、待つしかない。
どれほどの時間が過ぎただろうか。蝋燭の蝋が、一滴、また一滴と、静かに受け皿へと落ちていく。その単調な時間が、彼女の警戒心を少しずつ解きほぐしていったのかもしれない。やがて、ショールの下から、くぐもった、囁くような声が聞こえてきた。
「……見てはいけない」
「何を見てはいけないのですか」
私は、同じように声を潜めて尋ねた。
「……あれを」
彼女のおぼつかない指先が、床の一点を捉えた。私が腰かけている椅子、そのすぐ足元。そこに伸びる、私の影だ。蝋燭の光によって、壁にまで届くほど長く、濃く引き伸ばされていた。
「あれが、私を殺そうとするのです」
彼女の声には、狂信的なまでの確信が込められていた。
「私が眠っている間に、首を絞めようとする。食事に、毒を入れようとする。いつも、いつも、私を狙っている……」
分裂した自己。自らの内にある攻撃性や破壊衝動を、外部の存在として投影する。精神医学的には、典型的な妄想の一形態だ。だが、この館においては、その常識が通用しないことを、私は嫌というほど思い知らされている。
私は、慎重に言葉を選んだ。
「それは、とても恐ろしいですね。ずっと、そんな思いをされていたのですか」
私は、彼女の妄想の内容には一切触れず、ただ、彼女が感じている『恐怖』という感情にだけ、焦点を当てた。共感。寄り添い。これが、今の私にできる、唯一にして最大限の介入だった。
私の言葉が、意外だったのだろうか。彼女は、ほんの少しだけ、顔を上げた。長い前髪の間から、怯えに満ちた瞳が、私を窺っている。
「……あなたも、そう思うのですか。誰も、信じてはくれなかった。皆、私の気のせいだと言って、笑うだけだったのに」
「私は、笑いません。あなたが怖いと感じているのなら、それは、あなたにとって紛れもない真実なのでしょう」
その言葉を口にした瞬間、私は、自分が危険な綱渡りをしていることに気づいた。これは、妄想の肯定ではないのか。以前の男の時と、本質的に何が違うというのだ。だが、もう後戻りはできない。
彼女は、私の言葉に、少しだけ心を開いたようだった。うつむいていた顔を、完全ではないが、少し持ち上げた。その顔色は、病的に青白かった。
「どうして……どうして、あれは、私を殺したいのでしょう」
彼女は、自分自身に問いかけるように、そう呟いた。
「私、何か、悪いことをしたのでしょうか……」
その問いに、私は答えることができなかった。彼女の妄想の核心に触れることは、あまりにも危険すぎる。私は、ただ黙って、彼女の次の言葉を待った。
その、時だった。
ふっ、と。
部屋の空気が、急に冷たくなった。まるで、真冬の夜に、窓を全開にしたかのような、肌を刺すような冷気を感じた。私は、思わず身震いした。
おかしい。この部屋は、完全に閉め切られているはずだ。廊下に通じる扉も、窓も、固く閉ざされている。隙間風が入ってくるような場所は、どこにもない。
そして、次の瞬間。
テーブルの上で燃えていた蝋燭の炎が、何の前触れもなく、激しく揺らめいた。
ぼうっ、と音を立てて、炎が一度、天井に届くほど高く燃え上がる。そして、すぐさま、まるで巨大な何かに吹き消されそうになるかのように、左右に、上下に、狂ったように踊り始めた。
部屋の中の陰影が、目まぐるしくその形を変える。私の影が、女性の影が、家具の影が、まるで生き物のように、壁や床の上を伸び縮みし、のたうち回る。それは、まるで、影たちによる、狂乱の舞踏会のようだった。
女性が、ひっ、と短い悲鳴を上げた。彼女は、自分の足元で踊り狂う影から逃れるように、さらに部屋の隅へと身を寄せ、頭を抱えてしまった。
私は、椅子から立ち上がることもできず、ただ、目の前の異常な光景に釘付けになっていた。
風だ。
目には見えないが、確かに、強い風がこの密室の中を吹き荒れている。私の髪が、服の裾が、その見えない力によって、微かに揺れているのが分かった。
どこから?この風は、一体どこから吹いてくるというのだ。
私の理性は、必死に、この現象に対する合理的な説明を探し求めていた。気圧の急激な変化。室内の温度差が生み出す、小規模な空気の対流。だが、そんなもので、これほど激しい炎の揺らぎが説明できるはずがない。
そして、私は感じていた。
ただの風ではない。
これは、誰かの『視線』だ。
冷たく、無機質で、探るような、第三者の視線。
私と、この女性とのやり取りを、一言一句聞き漏らすまいと、すぐそばで耳を澄ませている、見えざる誰かの存在。
このカウンセリングは、二人きりではなかったのだ。初めから、ずっと。
私たちには、見えざる『聴衆』がいたのだ。
その存在が、今、自らの存在を誇示するかのように、物理的な現象を引き起こしている。私の治療を、私の試みを、すぐ間近で観察して、それを評価している。
その事実に気づいた瞬間、私の背筋を、恐怖とは異なる、もっと根源的な戦慄が走り抜けた。
狂ったように踊り続けていた炎は、やがて、何事もなかったかのように、元の静かな灯火に戻った。密室を吹き荒れていたはずの風も、嘘のように止んでいる。部屋には、再び、重苦しい静寂が戻ってきた。ただ、先ほどよりも、空気の温度が、数度、下がっているような気がした。そして、鼻腔をくすぐる、蝋が焦げたような、微かな匂い。
女性は、隅で小さく嗚咽している。私の存在など、もはや彼女の意識にはないようだった。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
「……今日は、もう、休まれた方がいい」
そう言うのが、精一杯だった。
私は、逃げるように、その部屋を後にした。
◇
廊下に出ると、セバスチャンが、壁に寄りかかるようにして、静かに立っていた。私が部屋から出てきたことに気づくと、彼は姿勢を正し、無表情のまま、私に尋ねた。
「いかがでしたか」
私は、彼の顔をまともに見ることができなかった。動揺を悟られてはならない。だが、私の動揺は収まらなかった。それを証明するかのように、心臓がまだ激しく波打っていた。
「……あまり、良くない。しばらくは、そっとしておいた方がいいだろう」
私は、早口にそう言うと、彼を追い越して、自分の部屋へと向かおうとした。だが、セバスチャンは、私の行く手を遮るように、一歩、前に出た。
「エリアス様。お顔の色が優れませんが」
その声は、あくまでも私を心配しているかのようなもの。ただ、彼の本性を踏まえて解釈をすれば、むしろ、私の反応を試しているかのようにも受けとれた。
私は、足を止めた。そして、彼に問いかけた。
「セバスチャン。お前は、ずっと、この廊下にいたのか」
「はい。エリアス様のお言いつけ通りに」
「そうだな……何か、おかしなことはなかったか。例えば、急に風が吹くような音とか」
私の問いに、セバスチャンは、僅かに首を傾げた。その仕草は、純粋な疑問を表しているようにしかみえない。
「風、でございますか。いいえ、何も。この東翼廊は、いつもと変わらず、静かでございましたが」
彼のその揺るぎない態度から、この男が嘘を言っていないことを私は直感した。ということは、あの現象は、あの部屋の中だけで起こった、局所的な異常事態だということになる。そして、それを引き起こせる存在がいるとすれば。
私の疑念は、もはや、確信へと変わっていた。
この執事は、ただの人間ではない。あるいは、人間でありながら、この悪意ある意志と同義なのだ、と。彼は、私の行動のすべてを把握している。私の思考すら、見透かしているのかもしれない。
「……そうか。私の、気のせいだったようだ」
私は、それだけ言うと、今度こそ、彼を無視して自室へと向かった。背中に突き刺さる、彼の忠誠という名で擬態された視線を感じながら。
部屋に戻り、私は鍵をかけると、そのまま扉に背中を預けて、ずるずるとその場に座り込んだ。
もう、逃げ場はない。
この館では、密室すら、安全な場所ではないのだ。
見えざる聴衆は、常に、すぐそばにいる。私の治療という名の滑稽な一人芝居を特等席で鑑賞している。そして、時折、舞台に介入し、その存在を、私にだけ分かるように知らしめるのだ。
お前は、我々の掌の上で踊っているに過ぎないのだ、と。
あの女性の妄想が、もはや、他人事とは思えなかった。
自分の影に殺されると怯える彼女。
見えない聴衆に監視される、私。
ここでは狂気と正気の境界線など、何の意味も持たないのかもしれない。
そう、きっとここでは、誰もが、巨大な悪意の器の中で、それぞれの悪夢を生きているのだ。