第五話
寄生虫妄想に苦しんでいた男が快方に向かってから、数日が過ぎた。あの日の彼の涙と嗚咽は、この館に澱む重苦しい空気を洗い流す、浄化の雨のようにも感じられた。私の心にも、確かな手応えと、一筋の光明が差し込んでいた。この世界に来て以来、ずっと感じていた得体の知れない無力感と疎外感が薄れ、私は再び『医師』としての自分を取り戻しつつあったのだ。
私の治療が功を奏したという事実は、ささやかな、しかし明確な変化を私の心にもたらした。
一人の人間が快復したという事実が、私にとっては支えとなっていた。この閉鎖された世界にも、明るい変化は起こりうるのだと。
当の本人である男は、驚くほど穏やかな日々を送っていた。あれほど絶え間なく続いていた自傷行為は完全に止み、赤黒く腫れ上がっていた腕の傷も、少しずつ癒え始めている。彼は日中、自室で静かに読書をしたり、庭園を散策したりして過ごすようになった。食事の席で会えば、以前の怯えたような態度は影を潜め、私に向かって感謝の言葉とともに、はにかんだような笑みを見せる。その変化は、私の治療が正しかったことの何よりの証明だった。私は、この館の歪んだ法則に、確かに一矢報いることができたのだ。その達成感が、私の胸を温かく満たしていた。
セバスチャンは、私のこの新たな試みについて、表立って何かを言うことはなかった。ただ、毎朝の挨拶の際に、療養者たちの様子を報告する彼の口調が、心なしか以前よりもより丁寧になったように感じられるだけだ。彼は私の行動を静観している。評価している。その視線は変わらないが、少なくとも今のところ、私の『反逆』を妨害しようとする素振りは見せなかった。あるいは、彼もまた、これまでの在り方に疑問を抱いていたのかもしれない。だとすれば、私の行動に、何かしらの期待を寄せているのかもしれない。そんな淡い考えが、私の頭をよぎることさえあった。
その夜も、私は満ち足りた気分で夕食を終えた。大食堂を出て、自室へと続く長い廊下を歩く。暖炉の柔らかな光が、壁の肖像画に暖かな陰影を与えていた。このまま、少しずつでも良い。この館を、狂気の農場から、本来あるべき癒しの庭へと変えていくのだ。その決意を新たにしながら、東翼廊に差し掛かった時だった。
あの男の部屋の前を、通り過ぎようとした、まさにその瞬間。
瞬きをした、次の瞬間だった。目の前の景色が、音もなく切り替わっていた。
私は、私ではなかった。
―――ああ、何という心地よさだろう。
かつて私を苛んでいた『彼ら』は、もはや恐怖の対象ではない。私の皮膚の下で蠢くこの無数の小さな命は、今や私の一部であり、私の痛み、孤独、そして痒みを分かち合う、かけがえのない同居人だった。
『彼ら』が騒ぐ。皮膚のすぐ下で、無数の熱源がざわめき、疼くような痒みを生む。これは今の私が持ち得る、歓喜の表現だった。私の血肉を揺り籠に、生命を謳歌している。その愛おしい振動に応えるように、私は指先を立て、自らの皮膚を力強く掻きむしる。
カリ、カリ、カリ……。
爪が薄い皮膚を削り、鋭い痛みが走る。その直後、脳髄を痺れさせるような解放感が奔流のように押し寄せる。痛みと痒みが熱く同居し、一つの快感となって全身を駆け巡る。
この爪弾きは、『彼ら』を鎮めるための鎮魂歌であり、同時に、『彼ら』との交歓を祝う。このリズムだけが、私と『彼ら』を繋ぐ唯一の表現だ。この音を奏でている間だけ、私は、完全な調和と、至上の悦びに満たされる。エリアス様は、私から『苦痛』を取り除いてくださった。そして、その空虚になった場所に、こんなにも甘美な真実が流れ込んできたのだ。そうだ、これこそが本当の治癒。本当の救済。 私の身体は、今や、私一人のものではない。無数の命が共生する、豊かな楽園となったのだ。
カリ……カリ……。この痛みこそが愛。この痒みこそが絆。この感覚よ、永遠に続け……。
はっ、と我に返った時、私は男の部屋の扉の前に、立ち尽くしていた。
今の感覚は何だ。白昼夢か。あまりに生々しく、そして倒錯的な多幸感。患者の視点が、まるで私自身の体験であるかのように、脳内に流れ込んできたのだ。
ぞわり、と悪寒が背筋を走る。
もしかして、この幻覚は本物か?
だとすれば、私の治療が、彼をあのような状態へ変えてしまったというのか。
確かめなければならない。この目で。
衝動に駆られ、私は音を立てないように、扉にそっと近づいた。中からは何の物音も聞こえない。だが、扉の隙間から、微かに、甘ったるい匂いが漏れ出してくる。鉄錆と、腐った果実が混じったような、不快で、しかしどこか人を惹きつける香り。
私は呼吸を殺し、扉の中央にある古い鍵穴に、そっと片目を当てた。
鍵穴から覗く視界は、ひどく狭かった。部屋の中は、テーブルの上に置かれたランプの灯りだけで、ぼんやりと照らされている。その薄暗い光の中に、男の姿があった。
彼は椅子に座り、こちらに背を向けていた。そして、彼の指は、先ほどの悪夢の中で感じたのと同じ、正確で、単調で、そしてどこまでも穏やかなリズムで、自らの腕を奏でていた。
男は、ゆっくりと顔の向きを変えた。その横顔が、ランプの光に照らし出される。
私は、息を呑んだ。
彼の表情。
そこに浮かんでいたのは、苦痛ではなかった。恐怖でも、絶望でもない。
恍惚。
とろけるような、甘美な悦びに満ちた表情だった。目はうっすらと閉じられ、口元は僅かに緩み、陶然とした笑みさえ浮かべている。彼は、自分の腕を掻きむしるという行為そのものに、この上ない快楽を見出しているかのようだった。
その動きは、もはや自傷行為ではなかった。
それは、愛撫だった。
まるで、恋人の肌を慈しむかのように。あるいは、熟練の音楽家が、愛用の楽器を奏でるかのように。彼の指先は、自らの皮膚の上を、優雅に、そして官能的に滑っていく。カリ、カリ、という爪の音は、苦しみの悲鳴ではなく、悦びの囁きのように、私の鼓膜を震わせた。
何だ、これは。
一体、何が起きている。
私の頭は、目の前の光景を理解することを拒絶した。これは悪夢だ。疲労が見せている幻覚に違いない。だが、鍵穴から流れ込んでくる、あの甘ったるい血の匂いと、規則正しく繰り返される乾いた音は、これが紛れもない現実であることを、残酷なまでに突きつけていた。
私の脳裏で、忘れかけていた前世の知識が、警報のように鳴り響いた。
倒錯。
マゾヒズム。
アルゴラグニア。
痛みを感じることで、性的な興奮や快感を得る精神疾患。それは、決して珍しい症例ではない。しかし、彼のケースは、それとは根本的に何かが違う。彼は、痛みそのものを求めているのではない。
彼は、自らの妄想を、愛しているのだ。
皮膚の下を蠢く、無数の虫たち。かつて彼を恐怖のどん底に突き落としたその存在は、今や、彼にとってかけがえのない、快楽の源泉へと変貌していた。虫たちが騒げば騒ぐほど、彼はより深い悦びを感じる。掻きむしるという行為は、その虫たちとの甘美な交歓の儀式なのだ。
そして、その引き金を引いたのは、誰だ。
私だ。
私の『治療』が、彼をこんな姿に変えてしまったのだ。
全身の血が、急速に冷えていくような感覚があった。立っているのがやっとで、背中の壁に寄りかからなければ、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。
私は、彼の妄想を消し去ったのではなかった。
私は、彼の妄想から、『苦痛』という感情だけを、綺麗に切り離してしまったのだ。そして、その空席に、館が用意した『快楽』という名の甘美な毒を流し込んだのだ。
彼は治ったのではない。ただ、苦しむことをやめただけだ。そして、自らの狂気の中に、安住の地を見つけてしまったのだ。より深く、より救いようのない、底なしの沼へ。
書庫で見た、あの記録が頭をよぎる。
『彼は、陽光を浴びて七色に輝く自身の指先を、恍惚とした表情で一日中眺めている。その姿は、さながら人間シャンデリアのようだ。なんと美しい光景だろうか』
これだ。これこそが、この館が求める『治療』、そして、『癒し』の本当の姿なのだ。
狂気を根絶するのではない。狂気を、より純粋で、洗練された、美しい『芸術』へと昇華させること。そして、その魂の輝きを、糧とすること。
私の善意は、私の知識は、私の医師としての矜持は、この館のシステムにとって、最高の『触媒』でしかなかった。私は彼を救おうとすることで、結果的に、館が最も喜ぶ極上の餌を、自らの手で作り上げてしまったのだ。
反逆の狼煙などではなかった。あれは、新たな生贄を捧げるための儀式の開始を告げる鐘の音だったのだ。
鍵穴から目を離し、私はその場にへたり込んだ。廊下の冷たい石の床の感触が、現実感を鈍らせていく。部屋の中から聞こえてくる、規則正しい爪の音。それはもはや、私を祝福する凱歌のように、あるいは、私の愚かさを嘲笑う鎮魂歌のように、響き続けていた。
医師としての私の根幹が、音を立てて崩れていく。人を救うはずの知識が、人をさらに深い闇に突き落とす毒になる。そんなことが、あっていいはずがない。だが、現にそれは起きた。この私の手によって。
暗い廊下の向こうから、セバスチャンが、あの能面のような顔でこちらを見ているような気がした。彼の口元には、満足げな笑みが浮かんでいるように見えた。
『すべては、当主様のお心のままに』
いつか彼が言った言葉が、脳内で再生される。そうだ、すべては私の思い通りになったのだ。患者は苦しみから解放され、穏やかな表情を取り戻した。これ以上ない、完璧な『治療』の結果ではないか。
込み上げてくる吐き気を、私は必死でこらえた。
私は、とんでもない過ちを犯した。
そして、この過ちの代償は、これから、私自身が支払わなければならないのだ。
甘美な毒は、すでに館中に満ちている。そして、その毒を生み出してしまったのは、この私なのだから。
絶望という名の闇が、私の足元から、音もなく這い上がってきていた。