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白亜の館  作者: 速水静香
斎藤タカオ編
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第四話

 書庫から自室へ戻った後、私はしばらくの間、窓の外を眺めながら呆然と立ち尽くしていた。あのインクの染みが、瞼の裏に焼き付いていた。あれはもはや、単なる汚れではなかった。声なき絶叫であり、抹消された真実の墓標だったのだから。先代の当主が何を書き記そうとしたのか、今となっては知る由もない。だが、その行為がセバスチャンの逆鱗に触れたことだけは確かだろう。


 『夢』という都合の良い避難場所は、もはや跡形もなく崩れ去っていた。これは紛れもない現実。そして私は、先代の跡を継ぐように、この巨大な悪意の器の新たな支配者として据えられたのだ。支配者。その言葉の響きは、ひどく空虚だった。私は何一つ支配などしていない。むしろ、この館の狂気に飲み込まれるように仕向けられているに過ぎない。歴代の当主たちがそうであったように。


 これから私はどうすればいい。先代のように抗い、同じ末路を辿るのか。それとも、全てを諦めるのか。どちらの道も、行き着く先は絶望しかないように思えた。だが、このまま無為に時を過ごして、その何かに精神を蝕まれていくことだけは避けたかった。行動しなければならない。たとえそれが、どんなに危険な行為であったとしても。


 ここは、人の精神を狂気に満ち溢れさせている。だとすれば、その『糧』の供給を断てば、あるいはその性質を変質させることができれば、何かが変わるかもしれない。書庫にあった記録は、いずれも患者の妄想を肯定し、助長させるという、常軌を逸した『治療』方針に基づいていた。だとしたら、私がすべきことはその逆だ。


 本当の『治療』を施すのだ。


 前世で培った精神医学の知識と技術。それが、この異様な世界で通用するのかは分からない。だが、今の私に残された武器はそれしかない。もし、私の手で患者を一人でも正気に戻すことができたなら。それはこの狂気に満ちた世界に対する、ささやかな、しかし明確な反逆となるはずだ。それは危険な賭けだと容易に想像がついた。だが、何もしなければ、私はただ緩やかに死んでいくだけだ。


 私は自らの意思を固めて、部屋に備え付けられた呼び出し紐を引いた。しばらくして、音もなくセバスチャンが姿を現した。その表情は、いつもと変わらぬ無感情な能面のようだった。


「お呼びでございますか、エリアス様」


「ああ。少し考えが変わった」


 私は、できるだけ平静を装って言った。


「今日から、療養者たちの診察を始めようと思う。まずは、全員のリストと、それぞれの症状をまとめた資料を用意してくれ」

「……かしこまりました。それは、素晴らしいお考えでございます。皆様も、エリアス様が気にかけてくださることを、きっとお喜びになるでしょう」


 その声には、抑揚こそないものの、どこか満足げなものがあった。私の決断が、彼の、あるいはこの世界の筋書きに沿っているとでもいうのだろうか。そのことが、私の胸に小さな棘のように引っかかった。だが、今は彼の意図を探っている場合ではない。


「すぐに準備いたします。少々お待ちくださいませ」


 セバスチャンは恭しく一礼すると、静かに部屋を退出していった。

 残された私は、これから始まる戦いに向けて、心を整えた。もはやこれは、単なる診療や治療ではない。私の存在意義を賭けた行動なのだ。



 セバスチャンが用意した資料は、極めて簡潔かつ的確にまとめられていた。

 現在この館で療養しているのは、私を除いて五名。それぞれの名前、家柄、そして診断名らしきものが記されている。その記述は、書庫で見たような悪意のある文章とは違い、客観的な事実のみが淡々と並べられていた。おそらく、これはセバスチャン自身が作成したものだろう。


 私はそのリストに、注意深く目を通した。一人目は、自分は既に死んでいて、腐敗しつつある骸だと信じている女性。二人目は、他人の思考が自分の頭の中に流れ込んでくると訴える青年。三人目は、庭園で見かけたリゼット。彼女の欄には、ただ『現実感の喪失』とだけ記されていた。そして四人目、五人目と読み進めていく中で、私の目はある一点に釘付けになった。


 『寄生虫妄想。自身の皮膚の下を、無数の虫が這い回っているという確信に取り憑かれている。絶えず身体を掻きむしるため、皮膚には無数の掻き傷と炎症が見られる』


 この症例だ。私は直感的にそう判断した。他の症例に比べて、妄想の内容が具体的で限定的だ。

 そして何より、この種の妄想性障害に対しては、前世で私が得意としていた認知療法を応用した、治療アプローチが有効である可能性が高い。


 認知行動療法。それは患者の妄想を頭ごなしに否定するのではなく、まずはその妄想の世界観を共有し、その上で、その信念の根拠となっている『認知の歪み』を、患者自身が気づけるように導いていく手法だ。

 この患者を、私の最初の試金石としよう。もし彼を救うことができれば、それは大きな一歩となる。私は資料を閉じると、セバスチャンにその男の部屋へ案内するように命じた。


 男の部屋は、東翼廊の二階にあった。扉の前まで来ると、セバスチャンが扉を三度、軽く叩いた。


「エリアス様がお見えです」


 中からの返事はない。

 セバスチャンは私の許可を待つように、静かに待っていた。私は小さく頷いた。彼が扉を静かに開けた。


 部屋の中に、むっとした空気が淀んでいた。

 汗と、消毒薬と、そして微かな血の匂いが入り混じった、不快な臭気。部屋の主は、窓際に置かれた椅子に、胎児のように身を丸めて座っていた。痩せた身体に、着古したシャツをまとっている。年は三十代半ばだろうか。彼は私たちが部屋に入ってきたことに気づくと、怯えた獣のような目でこちらを睨みつけた。その腕は、シャツの袖から覗く限り、無数の掻き傷で赤黒く変色していた。


「……何の用だ」


 か細く、嗄れた声だった。


「邪魔をしないでくれ。こいつらが、また騒ぎ始めたんだ」


 彼はそう言うと、再び自分の腕を、爪で激しく掻きむしり始めた。

 その表情は、苦痛に満ちたもの。

 私はセバスチャンに目配せして部屋から下がらせると、ゆっくりと男に近づいていった。


「こんにちは。私はエリアス。この館の主です」


 できるだけ穏やかな、威圧感を与えない声で語りかける。


「あなたのことを、少し教えていただけませんか」


「教えることなど何もない!」男は叫んだ。


「どうせ、あんたも俺を気違い扱いするんだろう。だが、こいつらは本物だ!この皮膚の下で、俺の血肉を喰らって生きているんだ!」


 典型的な妄想性障害の反応だった。

 自らの異常な信念を他者から攻撃されることに対する、強い警戒心。ここで彼の妄想を否定すれば、彼は心を閉ざし、二度と私と話そうとはしなくなるだろう。

 私は、前世で幾度となく繰り返した手順を、慎重に踏み出した。


「私は、あなたを疑いに来たのではありません」


 私は、彼のすぐそばにある椅子に、ゆっくりと腰を下ろした。


「ただ、知りたいのです。その……あなたの身体の中にいるという『彼ら』について。どんな姿をしているのですか。いつ、最も活発に動くのですか」


 私の言葉に、男は掻きむしる手をぴたりと止めた。そして、信じられないというような目で、私を見つめた。彼の警戒に満ちた瞳に、ほんの僅かな好奇心が浮かんだのを、私は見逃さなかった。


「……信じるのか。俺の言うことを」


「信じる、信じないではありません。私は、あなたが体験していることを、あなたの言葉で理解したい。ただ、それだけです」


 私は懐から、セバスチャンに用意させておいた、カルテの代わりとなるもの――真新しい手帳とペンを取り出した。


「もしよろしければ、これから毎日、少しだけお時間をいただけませんか。そして、『彼ら』の様子を、一緒に観察しましょう。それを記録していくのです。どんな時に騒ぎ、どんな時に静かになるのか。何か、法則性が見つかるかもしれません」


 私の提案は、彼の意表を突いたようだった。彼はしばらくの間、私の顔と、私が手に持っている手帳とを交互に黙って見つめていた。

 彼の瞳の中で、警戒とわずかな希望とがせめぎ合っているのが見て取れた。この得体の知れない少年を信用していいものか。しかし、自分の苦しみを真剣に聞こうとしてくれる人間は、今まで一人もいなかった。

 やがて、彼は諦めたように、ぽつりと言った。


「……好きにすればいい」


 それは、か細いながらも、明確な同意の言葉だった。



 それからの私は、毎日同じ時間に彼の部屋を訪れた。私たちの『共同観察』は、静かに、そして根気よく続けられた。

 初め、彼はほとんど口を開かなかった。ただ、私が尋ねる質問に、短くぶっきらぼうに答えるだけだった。


 ただ、根気よく、彼とともにいると、その症状について徐々に語ってくれるようになった。


 『彼ら』は、黒くて、小さくて、無数にいる。『彼ら』は、夜になると特に活発になる。私は彼の言葉を、ただ黙々と手帳に書き留めていった。彼の妄想を否定も肯定もせず、ただ客観的なデータとして記録していく。その行為そのものが、彼に「自分の妄想を否定していない」というメッセージを、無言のうちに伝えていることを心掛けた。


 徐々に彼は、『彼ら』のことを話すときだけ饒舌になっていった。『彼ら』が、時々、皮膚の下で一斉に同じ方向に動き出すことがある、と彼は言った。それはまるで、何かの命令に従っているかのようだ、と。私はその言葉も、淡々と記録した。そして、彼に尋ねた。


「その命令は、どこから来ていると、あなたは思いますか」


 彼は答えられなかった。

 初めて、自分の妄想の体系に論理的な問いを投げかけられた彼は、どう答えていいものかと、考えてしまっていた。


 そして、彼は自ら、私に話しかけてくるようになった。


「昨夜は、少し静かだった」


 彼は、どこか誇らしげにそう言った。


「なぜでしょうね」と私は返した。


「何か、昨日と違うことをしましたか」


「……あんたが来る前に、部屋の掃除をした。それだけだ」


「なるほど。清潔な環境は、『彼ら』の活動を抑制するのかもしれませんね。これも記録しておきましょう」


 私は、彼の自発的な行動を、さりげなく肯定した。小さな成功体験を積み重ねさせ、自己効力感を高めていく。認知行動療法の、基本的なアプローチだ。


 そして、ある日のことだった。

 その日、私が部屋を訪れると、彼は椅子に座って、静かに窓の外を眺めていた。あれほど絶え間なく続いていた、身体を掻きむしる行為が見られなかった。


「こんにちは」


 私が声をかけると、彼はゆっくりとこちらを振り返った。その顔には、ここ数日見られなかった、穏やかな表情が浮かんでいた。


「エリアス様」


 彼は、初めて私の名前を呼んだ。


「……昨夜、夢を見ました」


 彼は、ぽつりぽつりと語り始めた。


「夢の中で、私は広い野原に立っていました。足元には、数えきれないほどの小さな虫が、うごめいている。いつもの『彼ら』です。私は、またあの痒みに襲われるのかと、身構えました。しかし、虫たちは、私には目もくれず、ただ一斉に、地平線の彼方へと行進していくのです。まるで、長い旅を終えて、故郷に帰るかのように」


 彼はそこで言葉を切り、自分の両腕に視線を落とした。その腕は、まだ無数の傷跡で痛々しい姿をしていたが、新たな傷は見当たらなかった。


「目が覚めたら……いなくなっていたんです」


 彼の声は、涙で潤んでいた。


「あれほど私を苦しめていた、あの痒みが、あの蠢く感覚が……嘘のように、消えていたんです」


 そう言った瞬間、彼の目から、大粒の涙が、堰を切ったように溢れ出した。それは、恐怖や絶望の涙ではなかった。長い苦しみから解放された、歓喜の涙だった。


「ああ……ああ……!」


 彼は、子供のように声を上げて泣きじゃくった。その嗚咽は、彼の魂の奥底から絞り出された、浄化の叫びのように聞こえた。

 私は、ただ黙って、彼のそばに座っていた。かけるべき言葉は見つからなかった。いや、どんな言葉も、この瞬間には不要だった。

 私は、彼を救えたのだ。

 前世の知識が、私のアイデンティティが、この異世界で、確かに一人の人間を絶望の淵から救い上げたのだ。

 その事実が、温かい光のように、私の胸を満たしていく。書庫で見つけた絶望的な記録。先代の無念。この館に渦巻く悪意。それら全てに、私は打ち勝つことができるかもしれない。

 これは、反逆の狼煙だ。

 私の手で、この狂気の農場を、本来あるべき癒しの庭へと変えてみせる。

 涙にくれる男の姿を前にして、私は、医師としての使命感を、そして、この世界で生きていくための、確かな希望を取り戻していた。


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