第三話
庭園でリゼットと遭遇してから自室に戻るまでの記憶は、ひどく曖昧だった。どこか、深い夢の中の記憶を思い出しているかのように、現実感が希薄だったのだ。ただ、彼女の虚ろな紫色の瞳と、何もない空間を見つめていたその横顔だけが、焼き付いたように脳裏から離れなかった。彼女が見ていたものは何だったのか。その問いが、私の思考の中心深くに沈んでいた。
あの少女は、この狂った世界の謎を解くための重要なピースだ。ただ、その根拠のない確信だけが、この混乱した記憶の中で唯一はっきりとしたモノとしてあった。
自室の窓辺に立ち、再び眼下に広がる完璧な庭園を眺めた。陽光は先ほどと変わらず降り注いでいるというのに、その風景はどこか色褪せて見えた。生命の営みが感じられない、美しいだけの箱庭。そして、その外へは出られない。門の前で経験した、あの不可解な思考の転換がその証拠だ。あれは単なる気の迷いなどではない。もっと巧妙で、抗いがたい精神的な干渉。
馬鹿げた考えだ、と斎藤タカオとしての理性が一蹴した。だが、この夢のような世界に来てからというもの、私の常識はことごとく覆され続けている。科学的な思考の物差しが、ここでは何の役にも立たないのかもしれない。ならば、この世界の法則を理解する必要がある。受動的に状況を受け入れるのではなく、能動的に情報を収集し、分析し、活路を見出さねばならない。医者として患者を診るように、この異常な状況そのものを『診断』しなければならない。
そのためには、客観的な情報が不可欠だった。主観的な記憶や感情は当てにならない。特に、ここが精神に干渉してくるような場所であるとすれば、なおさらだ。必要なのは、記録された文字。過去の事実。幸い、この館の当主という立場は、それを可能にする権限を私に与えているはずだ。エリアスとしての記憶の中に、一つの場所が浮かび上がってきた。二階の西翼廊。当主の私室が並ぶ、館の最もプライベートな空間。その最奥に、鍵のかかった一室があるという。
書庫。
そこには、エリアス、いや、エリアス・リリエンタール家としての歴史、さらには、この館の歴史が眠っている。私は行動を起こすことに決めた。夕食までにはまだ時間がある。セバスチャンの気配が近くにないことを確認し、私は静かに自室の扉を開けた。
◇
二階の廊下は、一階にも増して、深い静かな雰囲気に包まれていた。東翼廊が療養者たちの個室が並ぶ『揺り籠のフロア』であるのに対し、私が今足を踏み入れた西翼廊は、当主とその家族のための『鳥籠のフロア』と呼ばれているらしい。その呼び名が、エリアスとしての記憶から自然に引き出される。鳥籠。言い得て妙だ。ここは外界から守られた聖域であると同時に、決して逃れることのできない閉ざされた空間でもあるのだから。
分厚い絨毯が足音を完全に吸収し、自分の存在そのものが希薄になっていくような錯覚に陥る。壁には歴代当主と思しき人物たちの肖像画が等間隔に掛けられていた。どの人物も一様に銀色の髪と青い瞳を持ち、気品のある顔立ちをしている。そして、彼らの描かれた絵にある瞳が、まるで生きているかのように私の動きを追っている。もちろん、そんなはずはない。錯覚だ。そう自分に言い聞かせても、背中を撫でるような冷たい感覚は消えなかった。
西翼廊の最も奥まった場所に、その扉はあった。他のどの扉よりも重厚で、装飾的な彫刻が施されていない、実用本位といった印象の扉。そして、その中央には鈍い銀色に光る鍵穴がついていた。私はドアノブに手をかけたが、やはりと言うべきか、びくともしない。完全に施錠されている。
鍵はどこにあるのか。セバスチャンに尋ねれば、おそらく彼は恭しく差し出すだろう。だが、それは避けたい。私の行動を彼に知られることは、手の内を明かすことに等しい。きっと、この身体の主であるエリアスなら、鍵の在処を知っているはずだ。
私は一度自室へと引き返した。部屋の中を見渡し、記憶に集中する。机――その美しい木彫りの机。エリアスとしての私が、最も多くの時間を過ごした場所。その引き出しの中に、何か重要なものを保管していたような、そんな漠然とした感覚があった。
机の前に座り、一番上の引き出しをゆっくりと開ける。中には上質な紙や羽ペン、封蝋などが整然と並べられていた。二番目の引き出しは空。そして、三番目、一番奥まった引き出し。それを引いた時、ごとり、と硬いものが転がる音がした。
引き出しの奥に、黒いビロードの小袋が一つだけ入っていた。手に取ると、ずしりとした重みがある。袋の口を開け、中身を手のひらに滑り落とした。
現れたのは、一本の古めかしい鍵だった。使い込まれて黒ずんだ真鍮製で、持ち手の部分にはリリエンタール家の紋章である百合の意匠が精巧に彫り込まれている。これだ。間違いない。この鍵が、私を過去へと導く扉を開けてくれる。
私はその冷たい金属の感触を確かめるように、強く握りしめた。指先に伝わる硬さと重さが、この非現実的な世界における確かな手応えのように感じられた。
再び書庫の扉の前に立った私は、深呼吸を一つして、鍵穴に鍵を差し込んだ。金属同士が擦れる乾いた音が、静寂の中でやけに大きく聞こえた。
ゆっくりと鍵を回す。
がちゃり、という音とともに、錠が開く感触が手に伝わった。
ドアノブに手をかけて、その扉を押した。長い間開けられていなかったのだろう、扉は軋むような低い音を立てながら、内側へと開いていった。
途端に、澱んだ空気が流れ出してきた。カビと古紙、そして長い時間そのものが腐敗したかのような、濃密な匂いがする。それは、常に清潔に保たれている館の他のどの場所とも違った。ここは、忘れられた空間なのだ。時の流れから取り残された場所。
私は一瞬躊躇したが、意を決して中へと足を踏み入れた。
書庫の中は、想像していたよりも広かった。壁という壁が、床から天井まで届く巨大な本棚で埋め尽くされている。窓はなく、壁に取り付けられたランプの薄暗い光だけが、室内の様子をぼんやりと照らし出していた。本棚には、同じ装丁の革張りの書物が隙間なくぎっしりと並べられている。その背表紙には、金文字で年号らしき数字が箔押しされていた。ここは娯楽のための図書室ではない。何らかの記録を保管するための純粋な資料室。
私は足音を忍ばせるようにゆっくりと本棚の間を進んだ。指先で背表紙をなぞると、うっすらと積もった埃が指についた。セバスチャンの完璧な管理も、この部屋だけは及んでいないらしい。あるいは、意図的に放置されているのか。
一番手近な棚から、一冊の書物を抜き取ってみた。ずしりと重い。表紙を開くと、黄ばんだ羊皮紙に、インクで書かれた流麗な筆記体がびっしりと並んでいた。
私はその内容を読み解こうと、目を凝らした。
それは、一人の患者に関する記録のようだった。名前、年齢、家柄といった基本的な情報に続き、彼の症状が記述されている。
『男爵は、自らの身体が硝子でできていると信じ込んでいる。常に何かにぶつかって砕け散ることを恐れ、一日のほとんどをベッドの上で過ごす。僅かな物音にも怯え、食事もままならない』
なるほど、臨床記録として理解できる文章だ。だが、続く文章は、その様相をがらりと変えていた。
『我々は、彼のその繊細な感覚を尊重することにした。彼の世界では、彼は確かに硝子なのだ。我々は彼の部屋から硬いものを全て取り除き、食事は流動食のみとした。そして、彼がいかに美しく、儚い存在であるかを語り聞かせ続けた』
治療方針とは到底呼べない。これは、患者の妄想を肯定し、むしろ助長させる行為ではないか。精神科医としての私の倫理観が、警鐘を鳴らしていた。
私はページをめくった。日付が変わり、記録は続く。
『数週間後、男爵の表情から恐怖の色が消えた。彼は自らの硝子の身体を、呪いではなく、神から与えられた特別な徴だと認識し始めた。彼は、陽光を浴びて七色に輝く自身の指先を、恍惚とした表情で一日中眺めている。その姿は、さながら人間シャンデリアのようだ。なんと美しい光景だろうか』
これは治療記録ではない。人の精神が悪化し、手が付けられなくなっていく過程を、冷徹な観察眼で綴った鑑賞記録だ。私はたまらずその書物を閉じ、別の棚からもう一冊抜き取った。別の当主によって書かれた、別の時代の記録のようだった。
『公爵令嬢は、自分以外の人間は全て、精巧にできた自動人形だと主張する。彼女は、その人形たちのネジを巻き、正しい動きをさせるのが自分の役目だと信じている。時折、彼女は侍女の背中を指で押し、ゼンマイを巻く仕草をする。侍女がそれに合わせてぎこちなく動くと、彼女は満足げに微笑むのだ』
『我々は彼女の王国を尊重し、使用人たちに、彼女の前では人形として振る舞うよう命じた。館は、彼女一人のための巨大なドールハウスとなった。彼女の孤独は深まったが、その瞳には、世界の真理を独り占めする者だけが持つ、神々しいまでの輝きが灯り始めた』
吐き気を催すような記述。彼らは患者を救おうとしていない。彼らの狂気を、より純粋な、より美しい形へと『完成』させようとしているのだ。この館はサナトリウムなどではないのだろう。
ここは、患者の狂気を鑑賞し、それを育むための劇場、あるいは農場のような場所だと思われた。
私は書物を棚に戻した。そして、この書庫の最も重要な記録を探し始めた。先代の当主。私の直前に、この館を支配していた人物の記録だ。
書庫の最も奥まった一角に、その棚はあった。しかし、私の予想に反して、その棚はほとんど空っぽだった。他の棚が何世代にもわたる分厚い記録で埋め尽くされているのに対し、そこには、たった一冊、他と比べて明らかに薄い書物がぽつんと置かれているだけだった。
なぜだ。先代は、記録を残さなかったのか。それとも、残せなかったのか。
私はその唯一の書物を手に取った。
表紙には、一つ前の年号が記されている。間違いない。
ページをめくった。そこに記されていた文章は、これまでの記録とは全く異なっていた。流麗な筆致ではなく、インクが飛び散った、乱れた文字。
『駄目だ。救えない。何をしても、彼女の心は闇に沈んでいくばかりだ』
『壁が、壁が泣いている。あの染みは、ただの染みではない。あれは、ここで朽ちていった者たちの叫びだ』
『この館は、我々を喰らっている。我々の絶望を、苦しみを、蜜のように吸い上げているのだ』
そこには、狂気を賛美するような冷静さは微塵もなかった。ただ、それは、もはや記録ではなかった。助けを求める悲鳴であり、絶望の告白だった。
先代は、この館という狂気そのものを書き記そうとしたのか。あるいは、既に自らの狂気に飲み込まれていたのか。いずれにせよ、彼はそれに抗い、そして敗れたのだ。
私は最後のページを開いた。
そのページは、ほとんどが空白だった。
ただ中央に、一言だけ、何か言葉が書かれようとした痕跡があった。しかし、それはインクが乾く前に、何かで激しく擦り消されていた。紙の繊維がささくれ立ち、黒いインクが染みとなって、元の言葉を完全に覆い隠してしまっている。
それは、事故で汚れたようには見えなかった。強い意志を持って、そこに記された言葉を抹消しようとした、そんな暴力的な痕跡だった。
私はその黒い染みを、食い入るように見つめた。何か、読み取れないか。目を凝らす。光にかざしてみる。だが、分かるはずもなかった。完全に潰されたインクの塊があるだけだった。
しかし、その染みを見つめているうちに、私の脳裏に、ありえないはずの光景が浮かび上がってきた。
先代の当主が、この書庫で、このページを前にして、羽ペンを握りしめている。彼の顔は絶望によって、苦悶の表情を浮かべている。その彼は、最後の力を振り絞るように、この空白のページに、たった一言の真実を書き記そうとする。
だが、その言葉が完成する直前、彼は何かに気づいたように顔を上げる。彼の背後に、音もなく、誰かが立っていた。
セバスチャンだ。
その能面のような顔で、彼はただ静かに、主人の行為を見ていた。
先代当主は、全てを悟ったように、持っていたペンを投げ出し、自らの手で書きかけた言葉をインクの海に沈めた。
それは突如として湧き上がってきた、妄想だった。何の根拠もない、この場所の雰囲気に当てられて作り出した幻覚に過ぎない。
だが、その光景は、恐ろしいほどの現実感をもって、私の心を支配した。
このインクの染みは、単なる謎ではない。
これは、声なき者の遺言だ。
この館の真実を暴こうとして、封じられた者、その抵抗の痕跡。
私は、その黒い染みから目が離せなかった。静まり返った書庫の中で、その染みだけが、圧倒的な迫力を持っているように思えた。
『夢』だという私の自己防衛的な解釈は、この暴力的なまでに具体的な物証の前で、もはや何の効力も持たなかった。
これは現実だったのだ。
そして私は、この恐ろしい現実の新たな当事者になってしまったのだ。
書庫のかび臭い空気が、肺の奥にまで侵入していた。