第二話
セバスチャンが用意した衣服は、私が眠っていた時に着ていたものよりも精巧で、動きにくいものだった。上質な生地で作られた白いシャツは、胸元や袖口に幾重にもフリルがあしらわれている。それに黒のベストを重ね、揃いの半ズボンを履く。最後に渡されたのは、膝下まである黒い靴下と、銀のバックルがついた革靴だった。それらの慣れない着替えを終えるのに、どれほどの時間を要しただろうか。前世では数分で済ませていた身支度が、ここでは一つの儀式のように感じられた。
全ての支度が終わり、私が部屋から出ると、セバスチャンが表情一つ変えずに待っていた。
彼は私を一瞥すると、一階にある大食堂へと案内した。長い廊下を歩きながら、私はこの館の異常なまでの静けさに改めて気づかされた。磨き上げられた床には、私とセバスチャンの革靴の音だけが規則正しく響き、壁に掛けられた絵画の中の人物たちが、その音に耳を澄ませているかのように思えた。埃一つ落ちていない。窓ガラスは曇り一つなく磨かれ、外の光を完璧に室内に取り込んでいる。まるで誰も住んでいないモデルルームのようだ。いや、それ以上に生活の痕跡が希薄だった。使用人がいるはずなのに、セバスチャン以外の誰ともすれ違わない。彼らの気配すら感じられないのだ。
この状況を、私は依然として『夢』だと解釈していた。斎藤タカオとしての意識が作り出した、精巧で長大な夢。この銀髪の少年『エリアス』の身体も、この非現実的な館も、すべては私の深層心理が映し出した幻に過ぎない。そう考えなければ、正気を保てそうになかった。精神科医が自らの精神の平衡を保つために、非科学的な現象を『夢』という都合の良い箱に押し込めている。我ながら皮肉なことだと、心のどこかで冷静に分析している自分がいた。この客観性が、今の私を支える最後の砦だった。
大食堂は、天井が高く広々とした空間だった。長いテーブルの中央には豪勢な食事が並べられていたが、それを囲む者は誰もいない。用意されている席は二つだけ。一つはテーブルの上座である私の席。そしてもう一つは、その向かい側。誰のための席なのか尋ねようとしたが、その前にセバスチャンが私の椅子を引いて着席を促した。私は無言でそれに従う。
「本日の朝食は、温野菜のポタージュと焼きたてのパンでございます。お口に合いますでしょうか」
セバスチャンはそう言うと、音もなくスープを皿に注いだ。湯気とともに、野菜の優しい香りが立ち上る。
私はスプーンを手に取り、一口飲んだ。温かい液体が食道を通り、胃に収まっていく。その感覚はあまりに生々しく、これが幻覚であるという私の仮説を根底から揺さぶる。夢の中で味覚や温度を感じることはある。しかし、これほどまでに鮮明な身体感覚を伴うものだろうか。食べ物が体内に入り、身体の一部となっていくこのプロセスは、紛れもない『現実』の証左ではないのか。
混乱する思考を振り払うように、私は黙々とパンをちぎり、口に運んだ。外はさっくりと、中はふんわりと柔らかい。素朴ながらも小麦の豊かな風味が口の中に広がる。美味しい。そう感じている自分がいた。
食事を終えるまでの間、セバスチャンは彫像のように私の背後に佇んでいた。その間、私たちは一言も言葉を交わさない。静寂がまるで分厚い壁のように、私と彼との間にそびえ立っている。この館では、沈黙こそが常態であるかのようだった。
私がナプキンで口元を拭うのを見計らって、セバスチャンが口を開いた。
「エリアス様、本日のご予定は。もしお疲れでなければ、療養されている方々へご挨拶に回られてはいかがでしょう」
その提案は、私の心をざわつかせた。療養者。つまり、この館には私や使用人以外にも人がいるということだ。そして『療養』している――つまり、彼らは何らかの精神的な問題を抱えている。前世の職業を思い出させるその言葉に、私は無意識に身構えていた。
「……いや、今日はやめておこう。少し一人で考えたいことがある」
エリアスとしての習慣が染みついている身体が、私の内なる躊躇を汲み取って、穏やかながらもきっぱりとした拒絶の言葉を紡いだ。
「かしこまりました。では、ごゆっくりお過ごしください。何か御用がございましたら、いつでもお呼びつけを」
セバスチャンは私の決定に何の異議も唱えず、深く一礼した。彼の態度は常に完璧だ。完璧すぎて、逆に不気味だった。彼は私の意志を尊重しているように見せながら、その実、私の行動すべてを観察し、記録している。そんな夢の中で感じる特有の――しかし確信にも似た――感覚があった。
食堂を出て、私は本格的にこの館の探索を始めることにした。まずは一階からだ。自分の足で歩き、この世界の物理法則を確かめた。それが、この幻の性質を見極めるための第一歩だと思えたからだ。
エントランスホール、サロン、応接室。どの部屋も調度品は一級品で、完璧に整えられている。
しかし、どの部屋にも人の営みの温かみが欠けていた。まるで、博物館の展示物を眺めているような気分だった。
そんな中、廊下を歩いていると、ふと壁に掛けられた一枚の風景画に目が留まった。深い森の中にある、一軒の家を描いた油絵だった。
それは、どこにでもあるような平凡な絵のはずなのに、なぜか目が離せない。
しばらく見つめていると、絵の中の家の窓に、一瞬だけ誰かの顔が映ったような気がした。慌てて目を凝らすが、そこにはただ暗い窓があるだけだった。
疲れているのだろう。私はそう結論付け、再び歩き出した。だが、背中に突き刺さるような視線を感じて、思わず振り返る。もちろん、そこには誰もいない。ただ静まり返った廊下が続いているだけだ。この館では、壁も、絵画も、家具も、すべてが私を監視している。そんな妄想じみた考えが頭をよぎった。
一階をあらかた見て回った後、私は屋外へ出ることにした。外の空気を吸えば、この息が詰まるような感覚も少しは和らぐかもしれない。
重厚な樫の扉に手をかける。ひんやりとした金属の取っ手の感触。その現実的な感触に驚きながらも、力を込めて扉を押す。すると、ぎい、と低い音を立ててゆっくりと開いた。
外の光が目に眩しかった。私は思わず目を細めた。流れ込んできた空気は、館の中とは違い、湿った土と植物の匂いがした。
私は一歩、外へと足を踏み出した。
目の前に広がっていたのは、昨日窓から見たのと同じ、完璧すぎる庭園だった。幾何学的な模様を描くように植えられた木々。寸分の狂いもなく刈り込まれた芝生。そして、色とりどりの花々が咲き乱れる花壇。特に目を引いたのは、庭園の中央を占める広大な薔薇園だった。赤、白、黄色、様々な種類の薔薇が、これ以上ないほど見事な花を咲かせている。
私はゆっくりと薔薇園へ近づいていった。甘く濃厚な香りが鼻腔を満たす。しかし、その完璧な美しさの中に、私はある違和感を見出した。
どの花にも、虫一匹ついていないのだ。
葉には病気の痕跡も、虫に食われた跡も一切ない。蜜を求めて飛び回る蜂や蝶の姿も見えない。鳥のさえずりすら聞こえてこなかった。私の足が砂利を踏む音だけが、この広大な庭園に響いている。まるで精巧に作られたジオラマの中を歩いているようだ。生命の営みが感じられない、造花で作られた、造り物の自然。それに気が付いたとき、違和感という感情が、私の神経を浸食していく。
私はこの異常な空間から一刻も早く抜け出したかった。
そうだ、外へ出よう。この館の敷地の外へ。そうすれば、この悪夢から覚めるきっかけが見つかるかもしれない。
私は庭園を抜け、敷地の境界へと続く小道を進んだ。道の先には、蔦の絡まった古風な鉄格子のがっしりとした門が見えた。
あれを抜ければ、外の世界だ。私は早足で門へと向かった。
門まであと五十メートル。私の足取りは確かだった。
あと三十メートル。早く、ここから出なければ。焦りが募る。
あと十メートル。鉄格子の錆びた模様まではっきりと見える。
あと数歩。手を伸ばせば、冷たい鉄の感触に触れられるだろう。
その瞬間だった。
プツン、という音が聞こえたかのように、外へ出たいという切迫した欲求が忽然と消え失せた。
なぜ私はこんな場所にいるのだろう。門の外に出たところで、一体何があるというのか?
外の世界など、きっと退屈で汚れているに違いない。むしろ、この完璧に管理された美しい庭園の方が、よほど快適ではないか。
思考が百八十度転換していた。
その変化はあまりに唐突で、まるで外部から別の意志を注入されたかのような、不連続性が感じられた。しかし、その思考に逆らおうという気は起きなかった。むしろ、外へ出ることを諦めた瞬間、安堵にも似た感情が胸に広がった。
私は踵を返して、館へ戻ることにした。
精神医学的に説明するなら、これは一種の抵抗だろうか。
夢から覚めることに対する、無意識の抵抗。あるいは、この『エリアス』という少年の身体に元々備わっていた、この土地への強い執着心のようなものが、私の意志を上回ったのかもしれない。
いや、違う。もっと直接的で、悪意のある何かが働いたような気がする。
この館そのものが、私を外へ行かせまいとしている。そんな馬鹿げた考えが、否定しようのない実感となって私の中に根を下ろし始めていた。
物理的な障壁はない。しかし、ここには心を縛る、見えない檻が存在するのだ、と。
そのまま、私が庭園をさまよっているとき、不意に人の気配を感じた。視線を向けると、庭園の隅にある噴水の縁に、一人の少女が座っているのが見えた。
黒いドレスに身を包んだ、人形のように美しい少女だった。艶のある黒髪が背中までまっすぐに伸び、白い肌との対比が鮮やかだった。その彼女はただじっと、噴水から流れ落ちる水を、何の感情も浮かばない瞳で見つめていた。その姿は周囲の風景から切り離された一枚の絵画のようで、どこかこの世のものとは思えない儚さがあった。
彼女は、療養者の一人なのだろうか。
私は彼女の静寂を破ることを躊躇いながらも、ゆっくりと近づいていった。
私の足音に気づいたのか、少女はゆっくりと顔を上げた。
その瞳は、深い紫色をしていた。吸い込まれそうなほど深く、そして底が見えない。彼女の視線が私を捉えた。しかし、その瞳には何の感情も映らない。驚きも、警戒も、好奇心もない。ただ、そこにある物体を認識しているだけ、といった風だった。
私はどう声をかけるべきか迷い、数メートルの距離を置いたまま立ち尽くしてしまった。
少女は私を一瞥すると、すぐに興味を失ったように再び噴水へと視線を戻した。しかし、今度は水を眺めているのではない。彼女の視線は、水の向こう側、何もないはずの空間の一点をじっと見つめている。まるで、私には見えない誰かと対話でもしているかのように。
その姿を見た瞬間、私の背筋を冷たいものが走り抜けた。
彼女が見ているものは何だ?
この完璧で、静かで、そしてどこまでも不気味な館で、彼女は一体、何と向き合っているのだろうか。
私はその少女から目が離せなくなった。彼女の存在そのものが、この館が抱える深い闇を象徴しているように思えた。
彼女の名前は、リゼット。
なぜか、その名前を私は知っていた。エリアスとしての記憶が、またしても私の意識の隙間から顔を覗かせたのだ。
リゼット・ヴァレンシュタイン。
彼女こそが、この狂った世界の中心にいる。
何の根拠もない、直感。しかし、その確信は私の心を強く捉えて離さなかった。
私は、この少女について知らなければならない。それが、この長い白昼夢の謎を解く鍵になる。そう、強く感じていた。
風が吹き、彼女の黒髪を優しく揺らした。それでも彼女は微動だにせず、ただ虚空を見つめ続けている。その姿は、まるで美しい石像のようだった。