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白亜の館  作者: 速水静香
リゼット・ヴァレンシュタイン編

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第十四話

 私の新しい部屋は、静寂そのものだった。ヴァレンシュタインの屋敷にも静かな部屋はあったけれど、それとは性質がまるで違っていた。あの屋敷の静けさは常に緊張をはらんでいた。床を軋ませる音、遠くで交わされる囁き声、壁の向こうで燻る苛立ち。それら無数の気配が音のない音として空間を満たし、私の神経を常に薄く逆撫でしていた。まるで嵐の前の凪のように、偽りの静けさだった。しかし、この館の静寂はもっと純粋で絶対的なものに感じられた。世界の始まりか、あるいは終わりの後のような、何ものにも乱されることのない安らかな沈黙。私はその沈黙に、ゆっくりと自分の意識を溶け込ませていく。それは生まれて初めて感じる、満ち足りた感覚だった。


 窓の外に広がる庭園は、私が到着した時から少しも姿を変えていない。花々は色鮮やかに咲いているが、一枚の花びらたりとも散る気配はなく、葉は緑の色彩を保ったまま微動だにしない。まるで時が停止した絵画の一部のようだ。この館ではあらゆるものがその最も美しい瞬間を保ったまま、永遠に存在し続けるのかもしれない。朽ちることも衰えることもなく。その不変性は、変化を強いられ常に何者かであれと求められてきた私にとって、抗いがたい魅力を持っていた。ここでは、私はただ私であればいい。そう、この館の主は言った。『ここが君の安息の地だ』と。家という言葉が、これほどまでに甘美な響きを持つものだとは知らなかった。


 やがて部屋の扉が控えめに叩かれた。私が返事をする間もなく扉が静かに開かれ、アルブレヒトが姿を現した。彼は昼間と同じ、仕立ての良い落ち着いた衣服を身に着けていたが、その表情には昼間の穏やかな微笑みとは違う、芸術家が新たな創作の主題を見つけた時のような、静かな探究心と熱がその瞳に宿っていた。


「夕食の用意ができた。一緒に行こう」


 彼の声は昼間と同じように穏やかなものだった。私は黙って頷き、立ち上がった。彼が差し出した手に、自分の手を重ねる。その手は、長くしなやかな指を持つ彫刻家や音楽家を思わせる手だった。


 彼に導かれるまま長い廊下を歩く。どこまでも続く白い大理石の床に、私と彼の足音だけが小さく反響していた。壁には等間隔に燭台が設けられていたが、そこに灯る炎は不思議と揺らめかず、ただ静かに空間を照らしているだけだった。この館の全てが、生命の持つ不規則な動きを拒絶しているかのようだった。


「この館は、静かだろう」


 不意に、前を歩くアルブレヒトが口を開いた。


「ええ」


 私は短く答える。


「静かすぎる、とは思わないかね」


「……いいえ。私は好きです。この静けさが」


 私の答えに当主は何も言わなかった。ただ、彼の青い瞳が興味深げに細められたのを私は感じた。


 やがて私たちは巨大な両開きの扉の前にたどり着いた。当主がその扉を押し開けると、目の前に信じられないほど広大な空間が広がる。食堂なのだろう。天井は教会の聖堂のように高く、壁には壮麗なタペストリーが掛けられている。しかし、その広大すぎる空間の中央にぽつんと一つだけ小さなテーブルが置かれていた。そして、そこに用意されている席は二つだけ。その光景はあまりにも不自然で、どこか物悲しい印象を私に与えた。


 アルブレヒトは私を席へとエスコートし、自らも向かいの席に腰を下ろした。すぐにセバスチャンが音もなく現れ、私たちの前に料理を並べ始める。皿の上には彩り豊かで、芸術品のように美しい料理が盛り付けられていた。


「さあ、遠慮なく召し上がってくれ。ここの厨房長は、味覚をもって芸術を創造する。ぜひ、その君の感性で味わってみてほしい」


 アルブレヒトは穏やかな笑みでそう言った。私は言われるがままに銀のナイフとフォークを手に取る。口に運ぶと、豊かな風味が舌の上に広がった。美味しい。それは間違いなく美味だった。けれどその味は、どこか記憶の中の味を再生しているかのような、現実感の伴わないものだった。温かいはずの料理に、本来あるべき温度が感じられない。


 私たちが食事を進める間、当主は頻りに私に話しかけてきた。ヴァレンシュタイン家での生活について、私の好きなものや嫌いなものについて。その質問の一つ一つが、私の魂の形を確かめようとする芸術家のデッサンのように感じられた。私は幼い頃から教え込まれてきた淑女としての作法に従い、当たり障りのない模範的な答えを繰り返した。


「読書が好きです。特に古い歴史書を」


「嫌いなものは、特にございません」


 私の答えは全て嘘ではなかったが、真実でもなかった。好きも嫌いも、私にとっては書物の中の言葉でしかなかったからだ。しかし彼は私の言葉そのものよりも、その言葉を発する私の様子をじっと観察しているようだった。私の表情が動かないこと、声の抑揚が変わらないこと、その全てを確かめるように。


 私もまた、彼を観察していた。この館の主であり、私の魂を導こうとしているこの審美眼に満ちた芸術家を。彼は完璧な審美家であり、理想の美を追求する芸術家だ。けれどその完成された佇まいの裏側に、時折、創作の苦しみから来る深い疲労と、そして至高の瞬間に至らないことへの焦りのようなものが顔を覗かせるのを、私は見逃さなかった。彼はこの館の静寂に、私と同じようには馴染めていない。彼はこの止まった時間の中で、ただ一人必死に何かを生み出そうと戦っているように見えた。


 デザートの皿が運ばれてくる頃には、私たちの間の会話は途絶えていた。重たい沈黙が広すぎる食堂を支配する。その沈黙を破ったのは当主の方だった。


「君は、どうしてここに来たか聞いているか?」


 その問いは、今までのどんな質問よりも直接的で核心に触れるものだった。


「父から聞きました。ここは安らぎを求める魂のための、療養施設であると」


「療養施設か。そうだ、その通りだ」


 当主は自らの言葉を確かめるように頷いた。


「リゼット。世間一般で言うところの『心を病んだ』人間が集まる場所だ。感情の起伏が激しすぎる者、逆に君のように感情というものが全くない者。現実と幻想の区別がつかなくなった者。外界ではまともに生きていくことのできない魂が、最後の拠り所としてこの館に流れ着く。そして私は、そんな彼らの魂をあるべき最も美しい形へと『導いて』いる」


 導く。その言葉に、私は何の反応も示さなかった。


「君もその一人だ。君は療養者として、ここに迎えられたのだよ」


 当主の言葉は宣告だった。お前は異常なのだ、と。

 しかし不思議なことに、その言葉は私の心を少しも傷つけなかった。

 むしろ私は、生まれて初めて自分がいるべき場所にたどり着いたのだと、そう感じていた。


 心を病んだ人間が集まる場所。

 感情のない、私のような人間がいてもいい場所。

 ここでは私は出来損ないではない。ただ、療養者の一人なのだ。

 その事実は私の内で固く閉ざされていた扉の錠を一つ外したかのようだった。肩から、ずっと私を押し潰していた重圧がふっと軽くなるのを感じた。


 私の沈黙を肯定と受け取ったのだろうか。当主の表情から先ほどまでの探るような険しさは消え、代わりに芸術家としての純粋な創造意欲と、そしてまだ磨かれていない原石に対する慈しみのようなものが浮かんでいるように見えた。あるいは彼は、私のこの静謐な様を自らの手で完成させるべき、最高の素材だと捉えたのかもしれない。


 夕食の後、私は当主に送られて自室へと戻った。部屋の扉の前で彼は立ち止まり、私の手を取った。


「おやすみ、リゼット。何か困ったことがあったら、いつでも私かセバスチャンを呼ぶといい。我々は君の味方だ」


 そう言うと、彼は私の手の甲に再び軽く唇を寄せた。紳士としての儀礼的な仕草。その唇から伝わる温もりに、彼の善意が滲んでいるのを感じた。

 彼が去っていく足音を、私は扉の向こう側で静かに聞いていた。


 一人になった部屋で、私は今日の出来事を一つ一つ反芻していた。アルブレヒト。当主。療養者。治療。そして安息の地。様々な言葉が私の頭の中を巡っていく。ヴァレンシュタインの屋敷ではただ平板な絵画だった私の世界が、この館に来てから少しずつ奥行きと複雑さを持ち始めているようだった。


 しばらくして、部屋の扉が再び控えめに叩かれた。


「リゼットお嬢様。セバスチャンでございます。少々よろしいでしょうか」


 私は扉を開けるように促した。音もなく入ってきた彼は私の前に立つと、恭しく一礼した。その能面のような表情はいつ見ても変わらない。


「お食事は、お気に召しましたでしょうか」


「はい。とても美味しゅうございました」


「それはようございました。さて、今宵お伺いいたしましたのは、お嬢様にこの館での過ごし方について、いくつかご説明申し上げるためでございます」


 セバスチャンは抑揚のない声で淡々と語り始めた。食事の時間、入浴について、そしてこの館の基本的な決まりごと。その内容は貴族の屋敷での生活と大差のないものだった。

 しかし、彼の最後の言葉は私の心を強く捉えた。


「お嬢様。この館において最も重要な決まりが、一つだけございます。それは、『望むものを、望むがままになさって構わない』ということでございます」


 私は思わず彼の顔を見上げた。


「ここではお嬢様を縛るものは何もございません。何かを強制されることも、ましてや矯正されることも。お嬢様がただお嬢様らしく、心安らかにお過ごしいただくこと。それこそが、この館の真の目的なのでございます」


 望むものを、望むがままに。

 その言葉は、当主が語った『治療』という概念とは明らかに矛盾していた。治療とは変化を促すこと。矯正すること。しかしセバスチャンの言葉は、ありのままでいることを肯定している。

 その言葉が私の内で大きな反響を呼んだ。

 私は今まで、何かを『望んだ』ことなどあっただろうか。私の人生は常に他者によって決められてきた。


 私は自分の内側を、深く、深く見つめた。

 私の望みとは、一体何だろう。

 答えはすぐに見つかった。それはこの館に来てから私の内に芽生え始めた、新しい感情だった。


「……セバスチャン」


 私はゆっくりと口を開いた。自分の声がわずかに熱を帯びているのを感じる。


「私はこの館のことをもっと知りたい。当主様のことも。そして、ここにいるという他の療養者の方々のことも」


 それは私の口から発せられた、生まれて初めての純粋な『願い』だった。世界に対する自発的な関心。

 私の言葉を聞いたセバスチャンの、能面のような表情がほんのわずかに和らいだように見えた。彼の口元に満足とでも言うべき微かな笑みが浮かんだ。


「かしこまりました。そのお言葉を、お待ちしておりました」


 彼は深く、深く一礼した。


「それでは明日にでも、私がこの館をご案内いたしましょう。お嬢様の知りたいこと、その全てをお見せいたします」


 セバスチャンが退出した後も、私はしばらくの間その場に立ち尽くしていた。

 胸の奥が温かい。

 ヴァレンシュタインの屋敷では感じたことのない、穏やかで満たされた感覚。


 明日。


 生まれて初めて、私は明日が来ることを待ち遠しいと、そう思った。

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