第十三話
私の世界は、一枚の絵画によく似ていた。それもまだ下塗りしかされていない、ひどく平板で色彩の乏しい絵画だ。描かれているのは壮麗な屋敷と、そこに住まう人々。けれど、そのどれもが遠近感を失い、ただそこに貼り付けられているだけの生気のない図像に過ぎなかった。父も母も、使用人たちでさえも、私にとっては絵の具で塗り固められた人型の染みでしかなかった。彼らは動き、言葉を発する。しかしその動きはあらかじめ定められた軌道をなぞるだけであり、その言葉はただ空間を震わせるだけの意味を伴わない音の羅列に聞こえた。感情の起伏というものが、私には理解できなかった。喜びも悲しみも怒りでさえも、書物で読んだ知識として知っているだけで、それがどのような色や形をしているのか、どのような手触りなのか、私自身の感覚として捉えることはできなかった。
ヴァレンシュタイン公爵家。それが、私の住まう絵画に与えられた題名だった。人々はその家に生まれた私を幸運だと言った。けれど、私にとって幸運とは、不幸とは、一体どのようなものなのだろう。私を満たすのは、常に静かで凪いだ水面のような無感覚だけだった。世界から一枚の薄い膜で隔てられているような感覚。その膜は音も光も匂いも、あらゆる刺激を和らげ減衰させて、私の内側へと届ける。だから、私の内側はいつも静かだった。
その日も、私は自室の窓辺に設えられた椅子に座り、庭を眺めていた。正確には、庭という名の緑と茶と点在する色彩の集合体を、ただ網膜に映していただけだ。私の精神は、まるで風のない部屋に置かれた水差しの中の水のように、少しの波紋も立てずに静止していた。
不意に、部屋の扉が控えめに叩かれた。返事をする前に、侍女が音もなく入室する。彼女の顔もまた、私にとっては見慣れた染みの一つだ。
「お嬢様、旦那様がお呼びでございます。応接室にてお待ちです」
侍女の言葉は、水面に小石を投じられたかのように、私の静寂にわずかな揺らぎをもたらした。父が、私を呼ぶ。それは極めて稀なことだった。この絵画の中で、父という染みは私という染みとほとんど接触することがない。彼は私を避けている。いや、存在しないものとして扱っていると言った方がより正確だろう。
私はゆっくりと立ち上がった。侍女に先導され、長い廊下を歩く。壁に掛けられた歴代当主たちの肖像画が、無感情な瞳で私を見下ろしていた。彼らの顔もまた、絵の具の染みだ。
応接室の扉を、私は自分の手で押し開ける。室内には父と、そして見知らぬ長身痩躯の男性がいた。その男性は黒い衣服を身にまとっていた。顔立ちは、まるで彫刻家が丹念に作り上げた芸術品のように整っていたが、そこには一切の感情が浮かんでいなかった。能面。ふと、そんな言葉が頭をよぎった。彼はただ静かにそこに座っているだけなのに、その存在は異様なほどに際立って見えた。まるで、この平板な絵画の中に一つだけ立体的な彫像が置かれているかのような、場違いな感触。
私が室内に入ったことに気づくと、父が忌々しげに顔を上げた。
「来たか。こちらへ」
父の低い声が部屋の空気を震わせた。私は言われるがまま、父の隣へと歩を進める。その間も、黒服の男性は私から視線を外さなかった。
「紹介しよう。こちらは、リリエンタール家の執事をされているセバスチャン殿だ」
父の言葉を受けて、セバスチャンと名乗った男性は座ったまま、優雅な仕草でわずかに頭を下げた。
「私はセバスチャンと申します。お見知りおきを、リゼットお嬢様」
彼の声は、抑揚のない平坦なテノールだった。けれど、その響きは不思議と私の耳に残った。
「……リゼット・ヴァレンシュタインです」
ようやく絞り出した私の声は、自分でも驚くほどか細く力のないものだった。
父はそんな私を一瞥すると、再びセバスチャンに向き直った。
「ご覧の通りだ。この娘は感情というものが欠落している。笑うことも泣くこともない。まるで魂の抜け殻だ。医者にも見せたが原因は分からずじまい。ヴァレンシュタインの血に、このような出来損ないが生まれるとは……」
父の言葉は棘を含んでいた。出来損ない。魂の抜け殻。そう、その通りだ。私はこの絵画に描かれた、ただの人型の染みに過ぎないのだから。
しかし、セバスチャンは父の言葉にも表情一つ変えなかった。彼はただ静かに私を見つめている。その視線は、まるで私の内側を、あの薄い膜を突き抜けて、魂の在り処を探っているかのようだった。
「……左様でございますか。しかし私には、お嬢様がただ『静か』な方であるようにしかお見受けできませんが」
セバスチャンの落ち着いた声が、父の苛立ちを宥めるように響いた。
「静かだと? これは静かなのではない、空っぽなのだ!」
「お嬢様は、ご自身の内なる世界を深くお持ちなのかもしれません。外界の出来事がその静謐を乱すに至らないほどに、豊かで広大な世界を」
父はセバスチャンの言葉を鼻で笑った。
「戯言を。まあ良い。話を進めよう。貴殿の主君、リリエンタール家の当主殿は、このような娘でも構わないと、そうおっしゃるのかね」
「はい。我が主は、近代的な知見に基づき、心を閉ざされた方々が魂の安らぎを取り戻すための療養施設を運営されておられます。お嬢様のような繊細な感性をお持ちの方こそ、あの『館』の静謐な環境がふさわしいと、そうお考えです」
館。療養施設。
その言葉が私の意識の底に、小さな石を投げ込んだ。それは今まで感じたことのない、微かな疼きのような感覚だった。
やがて話はまとまったようだった。父は満足げな、それでいてどこか安堵したような表情で立ち上がった。
「では、そういうことで。準備ができ次第、使いを出す。せいぜい、リリエンタール殿の慰み物になるがいい」
最後の言葉は、私に向けられた紛れもない悪意だった。けれど、やはり私の心は動かない。
セバスチャンもまた静かに立ち上がった。そして彼は父にではなく、私に向かって再び深く、優雅な一礼をした。
「それではリゼットお嬢様。館にて、お待ち申し上げております」
その言葉を残し、彼は音もなく応接室を退出していった。一人残された応接室で、私はしばらくの間立ち尽くしていた。私の染みは、このヴァレンシュタインという絵画から剥がされ、別の絵画に貼り付けられるのだ。けれど不思議と恐怖はなかった。ただ、ほんのわずかだけ、私の凪いだ心に期待のようなものが生まれたのを感じていた。
数日後、屋敷の玄関ホールには一台の黒い馬車が停まっていた。百合の紋章が描かれている。その傍らにはあの男、セバスチャンが数日前と寸分違わぬ姿で立っていた。彼は私を見ると、恭しく馬車の扉を開けた。
「お待ちしておりました、リゼットお嬢様」
私は誰に別れを告げるでもなく、その馬車に乗り込んだ。屋敷の誰も、私を見送りに来てはくれなかった。
どれくらいの時間が経ったのだろう。不意に馬車が止まった。その振動で、私は微睡みから覚醒する。
「お着きになりました、お嬢様」
セバスチャンの背後には、信じられないほどに白く美しい館がそびえ立っていた。白亜の館。その言葉が自然と私の頭に浮かんだ。館の周囲には広大な庭園が広がっている。そこには色とりどりの花が咲き乱れていたが、不思議なことに、そのどれもがまるで造花のように完璧に整いすぎていた。時間が止められたかのように、静止した美しさだけがそこにあった。
セバスチャンに導かれ、館の正面玄関へと向かう。彼がその扉に手をかけると、それは軋む音一つ立てずに滑らかに内側へと開かれた。
館の中は、外観以上に白で満たされていた。床も壁も天井も、全てが磨き上げられた大理石でできており、その純白さが目に痛いほどだった。
「ようこそ、リリエンタールへ」
不意に声がした。見ると、大階段の上から一人の男性がこちらを見下ろしていた。歳の頃は三十代半ばだろうか。リリエンタール家特有のものと見える銀色の髪を整え、物事の本質を見抜くような青い瞳で穏やかに微笑んでいる。その表情には、芸術家としての繊細な感性と貴族としての気品が同居していた。
「私がこの館の主、アルブレヒト・リリエンタールだ。長旅ご苦労だった。ここは外界の喧騒から離れた安息の地。君のような静謐な魂が、心穏やかにその形を保てるよう、我々が全力で支えよう」
アルブレヒト・リリエンタール。彼がこの館の主。そして、これから私の魂を見出す相手なのだ。
彼はゆっくりと階段を下りてくると、私の手を取り、その甲に紳士の礼としてそっと唇を寄せた。
「さあ、部屋へ案内しよう。疲れているだろう」
彼に導かれ、私は大階段を上り始めた。セバスチャンはいつの間にか姿を消していた。
案内されたのは、天蓋付きの大きなベッドが置かれた広々とした白い部屋だった。
「必要なものがあれば、何でもセバスチャンに言うといい。彼は君の望みを全て叶えてくれるだろう」
当主のアルブレヒトはそう言うと、物静かな微笑みを浮かべて部屋を出て行った。
一人部屋に残された私は、ゆっくりと室内を見渡した。どこまでも白い、静かな部屋。この館では私は『見出されて』いる。一つの魂の形として。私の内側と同じように、どこまでも静かで穏やかな世界。私の求めていた場所は、あるいはここだったのかもしれない。
私の、空っぽだったはずの内側に、好奇心という名のこれまで知らなかった感情が、静かに芽生え始めていた。




