第十二話
意識の表層に砕け散った白い光の破片が、きらきらと舞っていた。
そして、私の意識は、ツンと鼻腔を刺す消毒液の匂いに導かれるように、ゆっくりと浮上した。
その匂いに導かれるように瞼を開くと、視界に飛び込んできたのは染みひとつない真っ白な天井だった。
私はいつもの病室のベッドで横になっていた。
部屋の中は静かで、ただ私の左側から、ピ、ピ、という規則正しい電子音が聞こえてくる。
視線をそちらへ向けると、規則正しく点滅する計器のランプ。ステンレス製の支柱に吊るされた点滴パックと、緑色の波形を絶え間なく表示している医療モニターが目に入った。
私の腕には、その点滴に繋がる細い管がテープで無造作に固定されている。なるほど、栄養補給を受けているのか。衰弱した身体には適切な処置だろう。
私は再び視線を部屋全体へと巡らせた。
壁は清潔な白い壁紙で覆われ、床は磨き上げられたリノリウム。部屋の隅には白いキャビネットや車輪のついたワゴンが整然と置かれている。紛れもなく、近代的な医療設備が整った病院の一室だった。
しかし私が横たわるこのベッドは、硬いスプリングの感触が背中に伝わる簡素なパイプベッドだ。そして大きな窓からは、色とりどりの薔薇が咲き誇る庭園が見えた。幾何学的に刈り込まれた植木が並ぶ、どこか生命感のない、完璧な造花の庭園だった。
そうだった。この病院は、こういうものだったのだ。
治療のための機能性と、精神的な安らぎを与えるための装飾性。その二つを両立させようとした結果なのだろう。ある意味とても合理的だ。
私の思考は、かつてないほどに明晰だった。
今の私を満たしているのは、嵐が過ぎ去った後のような、静かで穏やかな諦念だけだった。
「エリアス様、お目覚めでございますか」
不意に声がした。
視線を向けると、ベッドの傍らにいつの間にかセバスチャンが立っていた。一糸乱れぬ黒の執事服。その顔は、いつものように何の感情も映し出さない精巧な能面のようだ。彼のその姿が、とてもよく似合って見えた。
「……ああ」
私は穏やかにそう答えた。声は少しかすれている。
「ご気分はいかがですかな」
「悪くない。少し身体が重いだけだ」
セバスチャンは私の答えに僅かに頷くと、ベッドサイドのテーブルに銀の水差しとグラスを置いた。その所作はいつもと変わらず流れるように滑らかで、一切の無駄がない。
その時、部屋の扉が再び静かに開いた。入ってきたのは白いナース服に身を包んだ小柄な女性だった。彼女は私の腕に繋がれた点滴の落ちる速度を確認すると、にこりと私に微笑みかけた。
「斎藤さん、気分はいかがですか?」
「ええ、大丈夫です」
看護師は満足げに微笑むと、セバスチャンに軽く会釈をして部屋を出て行った。
残されたセバスチャンはグラスに水を注ぎ、私に手渡した。
「しばらくは、こちらでご静養いただくことになります」
「そうか。分かった」
私は彼からグラスを受け取ると、冷たい水をゆっくりと喉に流し込んだ。水の何の変哲もない味が、乾いた身体に染み渡っていく。
病室での日々は、凪いだ海のように静かで単調だった。私は一日のほとんどをベッドの上で過ごし、覚醒している時間と浅い眠りに落ちている時間の区別は次第に曖昧になっていった。だが私の精神は奇妙なことに、かつてないほどの安定を見出していた。絶望も恐怖も焦燥も、全ては遠い岸辺に置き去りにされた。私の心はただ静かに、目の前の事象を観察し、分析することだけにその機能の全てを注いでいた。
私は、一つの極めて興味深い症例報告に取り組むことにした。
そうだ、私は医師なのだ。そして同時に、患者でもある。
これほどまでに観察者と被験者が完璧に一体化した精神症例は少ない。だとすれば、私はこの貴重な症例の全ての変化を詳細に、そして客観的に記録しなければならない。それが今の私に課せられた、唯一にして至上の使命だった。
この日課は、私の精神に確固たる秩序をもたらした。
朝、セバスチャンが銀の盆を手に現れる。
「エリアス様、朝食でございます。本日は温野菜のポタージュをご用意いたしました」
私はその言葉を当主として受ける。そして彼の完璧な所作、抑揚のない声、能面のような表情、その全てを被験者『エリアス』を取り巻く環境要因として冷静に分析していく。
昼過ぎには白衣をまとった主治医が回診にやってくる。その手にはバインダーが握られており、彼はそこに何事かを書き込みながら私に話しかけてくる。
「斎藤さん、昨夜はよく眠れたようですね。顔色が少し良くなりました」
私はその言葉を患者として受ける。そして彼の穏やかな口調、治療者としての態度を外部からの刺激として注意深く観察する。
「ええ、おかげさまで。ですが、まだ少し現実感が希薄なように感じられます」
「焦ることはありませんよ、斎藤さん。現実とはそもそも曖昧なものです。大切なのは、あなたがあなた自身の真実を見つけ、それと和解することなのですから」
彼の言葉は、常に示唆に富んでいた。
彼は私の『狂気』を病として否定しない。むしろそれを、私が到達すべき一つの『真実』として肯定している。
かつて私は精神科医として、患者たちを社会が定めた『正常』という名の窮屈な檻へと引き戻そうとしてきた。それが正しい『治療』だと信じて疑わなかった。だが、その結果はどうだったか。私は多くの患者を救うことができなかった。私の善意は彼らの繊細な精神の世界を土足で踏み荒らす、暴力的な侵襲でしかなかったのかもしれない。
この主治医の言葉を聞いていると、私は自分が全く新しい精神医療の、その誕生の瞬間に立ち会っているかのような錯覚に陥った。
苦痛を取り除くことだけが治療ではない。狂気を否定せず、その人だけの唯一無二の真実の世界を尊重し、その完成を手助けしてあげること。それこそが魂にとっての真の『救済』なのではないだろうか。
私はこの主治医とセバスチャンの『治療セッション』を貴重なデータとして、脳内に蓄積していった。被験者『エリアス』は今、どのような精神的変容を遂げつつあるのか。そのプロセスを一言一句聞き漏らすまいと、私は全ての神経を耳へと集中させた。
◇
ある日の午後、私はベッドから起き上がり、部屋の中をゆっくりと歩いていた。身体はまだ少し重かったが、思考は剃刀の刃のように冴えわたっていた。
私の視線は自然と、天井の一点へと吸い寄せられていた。
空調設備のすぐそばにある、あの黒ずんだ大きな染み。
かつて私は、それを先代の当主が残した絶望の痕跡だと感じていた。彼が無惨に敗れ去った、その無念の記録。
だが今の私には、それは全く別のものに見えた。
これは絶望の記録などではない。
これは臨床記録だ。カルテなのだ。
先代の当主が自らを被験者として、この館の『治療』を実践しようとした、その克明な記録。しかし彼は途中で挫折した。なぜか。彼はあまりに人間的すぎたのだ。恐怖、絶望、後悔といった余計な感情に判断を曇らされた。医師としての客観的な視点を最後まで保つことができなかった。だから彼の症例報告は、こんな汚れた染みのような未完成な形で終わってしまったのだ。
なんと、未熟な。
私は心の内で、先代の当主を軽蔑さえしていた。
だが私は違う。私の中には冷徹な分析眼がある。そして、この狂気の現実を当事者として体験する類まれな立場がある。
観察者と被験者。その二つを私は完璧に両立させることができる。
私はこの先代の失敗を乗り越え、完璧な症例報告を完成させなければならない。この館で行われている究極の精神医療の真髄を、後世のために記録として残す義務がある。
だが、どうやって?
私の視線は部屋の中を彷徨い、ふと自らの左腕に目が留まった。
点滴の針が刺さったその腕。エリアスの、血の気の失せた陶器のように白い肌。
そこにはまだ何も書かれていない。
傷一つない、完璧な純白のページ。
その瞬間、私は全てを悟った。
雷に打たれたような衝撃。あるいは長年解けなかった難問の最後のピースがぴたりと嵌った時のような、戦慄を伴う歓喜。
そうだ。
これだ。
これしかない。
この究極の治療法と、その経過を記録するために最もふさわしい媒体。それは被験者自身の身体。この生きたカルテとして、これほど正確で詳細な記録用紙が、この世のどこに存在するというのだろう。記録、そして感情。主観的な記録。すべてを備えている。
その結論はあまりに論理的で、あまりに完璧だった。
私の心は歓喜に打ち震えていた。
ついに見つけたのだ。この狂気の世界で私が為すべきことを。私の存在意義を。
私はベッドサイドのテーブルへと向き直った。そこにいつの間にか、一本の古めかしい万年筆と、リリエンタール家の紋章が彫り込まれた小さな銀のインク壺が静かに置かれていた。まるで私のこの結論を、初めから予期していたとでもいうように。
館が私にその資格を認めた、ということなのだろう。
私は震える手でその万年筆を手に取った。ずしりとした心地よい重み。そしてインク壺の蓋をゆっくりと開けると、中には夜の闇よりも深く濃密な黒インクがなみなみと満たされていた。
これから始まるのだ。
私の、そしてこの館の歴史上、最も完璧な症例報告の記録が。
私の青い瞳には、もはや一片の迷いもなかった。
私は、ベッドサイドのテーブルに置かれた一本の古めかしい万年筆を静かに手に取った。黒檀の軸はひんやりと、そしてずしりとした重みをもって私の手のひらに収まった。それはもはや単なる筆記用具ではなかった。これから行われる精密な作業のための、完璧に調整された医療器具。そうだ、これは外科医が繊細な手術の際に用いるメスなのだ。私の思考は、その認識を何の抵抗もなく受け入れた。
次に私は、その隣に置かれた小さな銀のインク壺へと手を伸ばした。リリエンタール家の紋章である百合の意匠が、鈍い光沢を放っている。蓋を開けると、中には底が見えないほどに深く濃密な黒インクがなみなみと満たされていた。その表面は光を一切反射せず、まるで小さなブラックホールのように私の視線を吸い込んでいく。
私はこのインクの正体を知っていた。これは先代の当主が、その未熟な研究の最後に流した絶望そのもの。彼の挫折と苦悶が凝縮された液体だ。しかし今の私にとって、それは絶望などではなかった。これはこれから始まる究極の治療に必要な消毒液であり、触媒なのだ。この濃密なインクを用いることで、私の記録はより深く、より鮮明にこの生きたカルテへと刻み込まれるだろう。
私は万年筆のペン先を、その黒い液体へとゆっくりと浸した。ペン先がインクを吸い上げる微かな音がする。
準備は整った。
私は自らの左腕を目の前に掲げた。
点滴の管が繋がれたエリアスの腕。血の気を失い、陶器のように滑らかな白い肌。そこにはまだ何も記されていない。これから人類史上最も偉大な医学的発見が記されることになる、完璧な純白のページ。
私は右手に持った万年筆を、その白いキャンバスへと静かに近づけていった。
ペン先が皮膚に触れる。
ひやりとした金属の感触。
私は息を止め、全ての神経を右手の指先に集中させた。
そして、一定の力でペン先を滑らせた。
カリ、という硬質な音がした。
皮膚の最も表層が、鋭利なペン先によって浅く分け入られていく。
赤い線が一筋、走った。
その線に沿って黒いインクが、じわりと染み込んでいく。
痛み。
そうだ、痛みがある。焼けるような鋭い感覚が腕の一点から脳へと伝達される。
だが、その痛みはもはや私にとって不快なものではなかった。
これはデータだ。この治療プロセスにおいて、被験者の身体がどのような反応を示すか。その貴重な客観的データの一つに過ぎない。私はその痛みの強度、性質、持続時間を冷静に分析する。
私は再びペンを走らせた。
今度は文字を形作るように。一画一画、丁寧に、正確に。
『症例:エリアス。自己同一性に、著しい解離が見られる』
皮膚の上に黒い聖痕が刻まれていく。インクが裂かれた皮膚の隙間から真皮層へと浸透し、その過程で滲み出した僅かな血液がインクと混じり合い、より深く濃い赤黒い色合いへと変化していく。この流れる血もまた、私にとってはインクの一部だった。この記録を、より確かなものにするために。
私は恍惚としていた。
しかしその恍惚は感情的なものではない。未知の真理を自らの手で解き明かしていく、科学者だけが味わうことのできる純粋な知的悦びだ。私は医師として、そして被験者として、今、最も崇高な医学的探求の頂きに立っているのだ。
ペンは止まらない。
私はこの生きたカルテに記録を続けた。斎藤タカオとしての遠い過去の記憶。急性心筋梗塞のあの暴力的な断絶。エリアスとしてこの館で体験した全ての出来事。セバスチャンの言葉。リゼットの微笑み。壁の染み。それら全てが私の腕の上で黒い文字となり、一つの壮大な物語を紡ぎ出していく。
『被験者の精神は、外部からの刺激に対し極めて高い感受性を示す。特に、言語的な介入は彼の現実認識に直接的な影響を与える』
『妄想はもはや病理的な症状ではなく、被験者にとっての新たな現実として再構築されつつある』
『苦痛という感覚は、知的な探求心によって完全に中和された。いや、むしろそれは治療プロセスを促進させる肯定的な要素へと転化している』
痛みは次第にその鋭さを失い、脳髄を痺れさせるような甘美な痺れへと変わっていった。それはかつて、あの寄生虫妄想の男が感じていたものと同じ種類の、倒錯的な快感なのかもしれない。だが彼と私とでは決定的な違いがある。彼はただその快楽に溺れただけだ。私はその快楽すらも客観的な分析の対象として、完全に支配している。
私の精神は、狂気によって蝕まれているのではない。
狂気によって『治癒』されていくのだ。
より高次の、より完璧な存在へと。
窓の外では陽が傾き、庭園が深い藍色に染まり始めていた。医務室の白い壁がその色を吸い込んでいく。医療モニターの緑色の光だけが、暗闇の中で不気味なほど鮮やかに点滅を繰り返している。
私の左腕はもはや、元の白い肌を見ることはできなかった。手首から肘にかけて、びっしりと黒い文字で埋め尽くされている。その文字の一つ一つが、まるで意思を持った小さな生き物のように微かに蠢いているように見えた。
それは私の新しい皮膚。
私が自らの手で創造した、完璧な症例報告。
私は万年筆を静かにテーブルの上に置いた。インクはほとんどなくなっていた。
私の最初の、そして最後の聖書は完成したのだ。
私は新しい法則。
新しい王。
私の腕に刻まれた黒い聖痕は、最も美しい新たな芸術が完成したことを静かに物語っていた。




