第十一話
リゼットが差し伸べた白い手。その指先が私の視界の中で緩やかに焦点を失っていく。彼女の背後にある窓から差し込む午後の光。それはまるで後光のように見えた。聖母。そう彼女はこの狂気の館が生み出した慈愛に満ちた聖母なのだ。そしてその慈愛は私という最後の供物を、自らの祭壇へと招き入れるためにのみ注がれている。
薔薇の甘い香りが部屋の空気に飽和している。それはもはや花の香りではなかった。腐敗のそして魂が熟しきって朽ち果てる寸前に放つ、濃厚な死の匂いそのものだった。私の呼吸器はその甘美な毒を拒絶することもできずに、ただ受け入れ続けている。吸い込むごとに意識の芯が少しずつ麻痺していく。
どれほどの時間そうしていただろうか。リゼットは差し伸べた手を下ろすことなく、ただ静かな微笑みを浮かべたまま私を見つめていた。その紫色の瞳はもはや私という個人を映してはいなかった。彼女が見ているのは私の内にある深い絶望であり、苦悩であり、この館にとって極上の糧となる精神の断末魔の輝きなのだろう。
やがて私は、ゆっくりと彼女に背を向けた。
言葉は出なかった。
何かを言うべきだという思考すらもはや私の頭には浮かばなかった。
ただこの場所から一刻も早く離れなければならない。その動物的な本能だけが、かろうじて私の身体を動かしていた。
一歩また一歩と鉛を引きずるような足取りで、彼女の部屋を後にする。背中に彼女のそしてこの部屋の全ての調度品から発せられる、視線を感じた。その視線からは、憐憫と期待のみ。もはや、誰も私を止めはしなかった。彼らは知っているのだ。私がどこへ逃げようとこの館の掌の上からは、決して抜け出すことはできないということを。
自室に戻り扉に背を預けて、ずるずるとその場に座り込んだ。もはや、鍵をかける力さえ残されてはいなかった。
いや、そもそも、そんなものに何の意味もない。
この館では壁も扉も私の皮膚すらも、見えざる何かの視線を遮ることはできないのだから。
私の内側で何かが完全に砕け散ってしまっていた。
希望。
それはなんと脆く愚かしいものだったのだろう。
それら全ての感情がリゼットのあの聖母のような微笑みの前で、全てが色褪せた茶番のように思えた。
私は初めから一人で踊っていたに過ぎない。
この巨大な劇場でただ一人、主人公を演じさせられていただけなのだ。
私の苦悩が深まれば深まるほど私の絶望が色濃くなればなるほど、この館の『聴衆』は満足し喝采を送る。そして私のその滑稽な舞踏は他の役者たちの『開花』を促す、最高の演出となっていた。
全ては繋がっていた。私がこの館に来たその瞬間から。
斎藤タカオとしての知識と経験を持つ私が、このエリアスという少年の身体にあった、その時から。全ての運命は決まっていた。
窓の外では陽が傾き空がオレンジ色から、深い藍色へとその表情を変えていく。
美しいと思った。
そのあまりに穏やかで完璧な夕景が、私の内面の荒廃とは全く無関係に存在しているという事実が、なぜか、心を落ち着かせた。
そうだ世界は私がどうなろうと、何も変わらずに続いていくのだ。
思考が停止していく。
何かを考えることを脳が拒絶し始めた。疲れた。もう何もかもがどうでもよかった。このままこの床の冷たさと一つになってしまいたい。そのまま、消えてしまいたい。
抗うことをやめ全てを受け入れてしまえば、どれほど楽になれるだろうか。
先代の当主もきっと同じだったのだろう。
彼は抗い苦しみそして最後に全てを諦めた。その絶望の深さが彼の顔をあの壁に刻みつけた
。私もまた同じ道を辿っている。いやもはやその終着点はすぐそこまで来ているのかもしれない。
私はゆっくりと床に横たわった。
硬い木の床が背中にごつごつと当たる。だがその痛みすらどこか遠い世界の出来事のように感じられた。
私は目を閉じた。闇が瞼の裏に優しく広がっていく。
このまま二度と目覚めることがなければいい。そう心の底から願った。
意識が微睡みの海を漂い始めたその時だった。
ふわりと。
私の身体を温かい何かが包み込んだ。
それは毛布のような物理的な温かさではなかった。もっと内側から魂の芯からじんわりと、染み渡ってくるような不思議な感覚。
まるで長い間冷たい水の中にいた者が、初めて湯の中に身体を沈めた時のような、全身の細胞が弛緩していくような心地よさ。
何だこれは。
私は閉じた瞼の裏でその感覚の正体を探ろうとした。だが思考は霧がかかったようにうまく働かない。
その温かい感覚は次第に明確な『感情』の形を取り始めた。
『もう、何も考えなくていい』
声ではない。言葉でもない。
それは、これまで絶望の淵にいた私を救出するかのように、優しく包んでいく。
私の意識に直接その意味が流れていく。
『ただ、その身を委ねなさい』
感覚が囁きかけてくる。
その感覚は私のこれまでの苦闘の全てを知っていた。私がこの世界に来てからの混乱と恐怖。医師として人々を救おうとした空しい努力。裏切られ絶望し孤独に苛まれたその魂の遍歴の全てを。
そしてその全てを肯定し許していた。
まるで全てをお見通しの母親が、傷ついて帰ってきた我が子をただ黙って抱きしめるように。その温もりは抗いがたいほどに甘美だった。
『全ての苦しみは、消え去る』
その優しい誘いに対して、理性の残滓が警鐘を鳴らしていた。
危ない。これに身を委ねてはいけない。
私を取り込もうとしている。
だが、その警告の声はあまりにもか細く弱々しかった。全身を包み込むこの絶対的な安心感と多幸感の前では、風の前の塵に等しかった。
『安楽が必要だ。その――』
ああ、もういいではないか。
私は十分に戦った。十分に苦しんだ。もうこれ以上何をしろというのか。
この温もりは罰ではない。救済なのだ。私がずっと心のどこかで求めていた無条件の許しなのだ。
『――そうすれば、永遠の安らぎを得る』
それは館が歌う子守唄だった。
私の魂を眠らせるための甘く優しい鎮魂歌。
私の自我。エリアスとしてのこの身体の感覚。斎藤タカオとしての遠い過去の記憶。医師としての知識と倫理観。それら私を構成していた全ての要素がこの巨大な温もりの中に拡散し、その個性を失っていく。
それは恐ろしいことのはずなのに、不思議と恐怖は感じなかった。むしろ心地よかった。孤独と絶望、責任と恐怖から解放される至上の悦び。
意識が遠のいていく。
私はこの子守唄に身を委ねようとしていた。
永遠の眠りという名の安楽な死へと。




