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白亜の館  作者: 速水静香
斎藤タカオ編

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第十話

 セバスチャンの執務室を後にしてから、私の足がどこへ向かったのか記憶は定かではない。ただ気づいた時には自室の冷たい床に膝をつき、窓の外を流れていく雲を何の感情もなく眺めていた。ただ、彼の言葉が呪いのように頭蓋の内側にこびり付いて離れなかった。


『真の癒しとは、魂が最も輝く形へと、あるがままに、解放してさしあげること』


その言葉はこの館の全ての異常性を、たった一つの論理で貫いていた。そしてその論理の前では、全てが砂上の楼閣のようにあっけなく崩れ去った。


 理解してしまったのだ。ここはサナトリウムではない。狂気を収穫しその魂を喰らうための、おぞましい農場なのだ。

 私はこの狂気の農場の新たな管理人に過ぎない。最高の収穫物を得るための道具。斎藤タカオとしての知識と経験は、そのための最も優れた肥料でしかなかった。


 絶望。その一言ではもはや表現しきれないほどの、完全な無力感が私を支配していた。抗う術はない。逃れる道もない。このまま私もまた先代の当主のように、この館に心を喰われ壁の染みの一つになるのを待つだけなのか。


 いや。

 まだだ。

 まだ全てが終わったわけではない。


 私の脳裏に一人の少女の姿が浮かび上がった。


 リゼット・ヴァレンシュタイン。


 黒いドレスに身を包み、虚ろな紫色の瞳で庭園の噴水を眺めていたあの少女。彼女はまだ『開花』していない。そして、彼女の狂気は他の誰のものとも違う、静かで深い水底に沈んでいるようなものだった。だからこそ館も彼女を特別扱いし、その時が来るのを静かに待っているのではないか。


 もしかしたら、彼女だけは救えるかもしれない。


 それは何の根拠もない、溺れる者が掴む藁のようなか細い希望だった。だが今の私にとっては、それが唯一私をこの絶望の淵から引き上げてくれる光のように思えた。

 この館の真実を彼女に伝えるのだ。そして共にここから逃げ出す方法を探す。

 彼女が私の唯一の協力者になってくれるのなら。二人ならばこの狂気の迷宮から抜け出せるかもしれない。


 それは危険な賭けだった。彼女が私の言葉を信じるとは限らない。錯乱しかえって彼女の精神を危険に晒す可能性すらある。だが何もしなければ彼女も『開花』し、この館の生贄となるのだ。それだけは絶対に阻止しなければならない。


 私は最後の希望をその儚い可能性に託すことに決めた。

 ゆっくりと床から立ち上がる。膝が笑っていた。しかし、もはや今の私には、選択を選ぶ余地はなかった。

 私はリゼットの部屋へと向かった。


 リゼットの部屋は、他の療養者たちの部屋から少しだけ離れた場所にあった。扉の前に立つと中からは何の物音も聞こえてこない。彼女の存在そのものがこの館の喧騒から切り離されているかのように、その一角だけが特別な静寂に包まれていた。

 私は扉を叩く指を一度ためらった。これから私がやろうとしていることは、彼女の心の最もデリケートな部分に土足で踏み込むような行為だ。医師として決して許されることではないのかもしれない。だが今はそんな倫理を語っている場合ではなかった。


 小さく三度扉を叩く。


「どうぞ」


 中から囁くようなか細い声が聞こえた。私はゆっくりとドアノブを回した。


 部屋の中は彼女の印象そのままに、静謐な空気に満たされていた。豪奢ではあるが華美な装飾はほとんどなく、黒と深い紫を基調とした落ち着いた調度品で統一されている。窓は大きく開け放たれ、そこから午後の柔らかな光と庭園の薔薇の香りが微かに流れ込んでいた。

 リゼットは窓辺に置かれたビロード張りの安楽椅子に深く腰掛けていた。彼女は本を読んでいたようだった。私が部屋に入ってきたことに気づくと、彼女は読んでいた本を膝の上に静かに閉じ、その紫色の瞳を私に向けた。

 その瞳はいつもと同じように何の感情も映し出していなかった。ただ深い湖の底のように静かに私の姿を映しているだけだ。


「こんにちはエリアス様。何か御用でしょうか」


 彼女の声は風に揺れる絹のように滑らかで、そしてどこかこの世のものとは思えない響きを持っていた。


 私は何から話すべきか言葉を探した。用意してきたはずの言葉は彼女のその非現実的なまでの美しさと、静けさの前で全て意味を失ってしまったように思えた。


「少しお話がしたくて」


 やっとのことで私はそう絞り出した。


「ええ、構いませんわ」


 リゼットは僅かに微笑むと、彼女の向かい側に置かれた椅子を指で示した。私はまるで何かに導かれるようにその椅子へと歩み寄り、ゆっくりと腰を下ろした。


 テーブルの上には一輪の白い薔薇がガラスの花瓶に生けられている。その完璧な形の花びらには一滴の露が宝石のように輝いていた。

 私はその薔薇から目を離すことができなかった。


「リゼット、君はこの館がどんな場所か知っているか」


 私は単刀直入に切り出した。もはや遠回しな言い方で彼女の心を探っている時間はない。


 私の唐突な問いにリゼットはしかし少しも驚いた様子を見せなかった。彼女はただ静かに私を見つめ返すと、小さく首を傾げた。


「ここは心を休めるための静かで美しい場所では、ないのですか?」


 その答えはあまりにも無垢で私の胸を鋭い痛みで締め付けた。ああ彼女は何も知らないのだ。この美しい鳥籠の中で自分がただの生贄として、その『開花』の時を待っていることも。


 私は意を決して全てを話すことにした。


「違うんだリゼット。ここはそんな場所じゃない。ここは人を人ではなくしてしまう場所なんだ」


 私は言葉を選びながら必死に説明した。この館が人の精神を糧として生きていること。療養者たちの『治療』が実際には彼らの狂気を助長させるための儀式であること。

 そして彼らの魂が『開花』という名の最も美しい形で、この館に吸収されてしまうこと。

 私は寄生虫妄想の男が恍惚として自らを傷つけるようになったことも、影に怯える女性が狂気に沈んでいったことも、包み隠さず話した。それはもはや説明というよりは、私の絶望的な心の叫び、告白に近いものだった。


「だから君もここにいては駄目だ。君もいずれは彼女たちのようになってしまう。そうなる前にここから逃げなければならないんだ。僕が必ず君をここから連れ出す。だから僕を信じて協力してほしい」


 私は懇願するようにそう言った。私の声は自分でも分かるほど震えていた。


 私はリゼットの顔を窺うように見つめた。彼女は私の告白をどんな表情で聞いているだろうか。恐怖のあまり、顔を歪めてしまったのだろうか。それとも信じられないというように、私を狂人を見るような目で見ているだろうか。

 しかしリゼットの表情は変わらなかった。

 彼女は私の話を最後までただ静かに聞いていた。その紫色の瞳は僅かにも揺らぐことなく、真っ直ぐに私を見つめ続けている。

 私が話し終えても彼女はしばらくの間何も言わなかった。部屋には沈黙が落ちた。窓の外から聞こえてくる風の音と遠くで鳴く鳥の声だけが、この世の音であるかのようにやけに大きく響いていた。

 やがてリゼットはゆっくりとその薄い唇を開いた。


「エリアス様」


 その声はこれまで聞いたどの声よりも穏やかで、そして澄み切っていた。


「あなたはとてもお優しい方なのですね」


 その言葉は私の予想とは全く違うものだった。

 彼女は私の言葉を信じたのでも疑ったのでもなかった。ただ私のその行為の根底にある『優しさ』を、慈しむようにそう言ったのだ。

 私は返すべき言葉を見失ってしまった。


 リゼットは椅子から静かに立ち上がった。そして窓辺へと歩み寄ると庭園に咲き誇る色とりどりの花々へと、その視線を向けた。彼女の黒いドレスの裾が床の上を音もなく滑っていく。


「私も知っておりましたわ」


 彼女は庭園を見つめたままそう囁いた。


「この館がどのような場所なのか。そしてここで何が行われているのかも」


 その告白はあまりにも静かだった。

 私の心臓が大きく脈打った。

 知っていた?彼女は全てを知っていたというのか。


 リゼットはゆっくりとこちらに振り返った。その顔には初めて明確な感情が浮かんでいた。

 それは微笑みだった。

 聖母のような全てを包み込むような、慈愛に満ちた微笑み。


「私もあの方のようになりたいのです」


 彼女はそう言った。

 その視線は私を通り越し食堂の方向、あの影の女性が最期の輝きを放った場所へと向けられていた。その瞳には恐怖も絶望も微塵もなかった。

 そこに宿っていたのはただ純粋な、そして狂おしいほどの『憧れ』の色だった。


「あの方の最期のなんと、お美しかったことか。魂の全てを燃やし尽くし一篇の詩となってこの館と一つになる。それ以上の至福がこの世にありましょうか」


 私の頭の中で何かが音を立てて砕け散った。

 彼女は全てを知った上でここにいたのだ。

 自らその『開花』の時を望んで。

 私の『治療』も私の『救済』の試みも、彼女にとっては何も意味を持たなかった。いや違う。意味はあったのだ。

 彼女にとって私の存在は自らの狂気をより純粋な、より美しい形へと完成させるための、最後の『試練』に過ぎなかったのだ。私の優しさが私の絶望が、彼女の魂を最後の高みへと押し上げるためのスパイスだったのだ。


「エリアス様。あなたのその苦しみもその絶望も、きっと私をより美しく輝かせてくださるでしょう」


 リゼットはうっとりとした表情でそう言った。

 彼女は私に向かってゆっくりと両手を差し伸べた。

 それは助けを求める手ではなかった。

 私という最後の生贄を、自らの祭壇へと招き入れるための慈悲に満ちた誘いの手だった。


 私の最後の希望は完全に絶たれた。

 いや希望など初めからどこにも存在しなかったのだ。

 私が救おうと手を伸ばしたその最後の相手こそが、この狂気の館の最も忠実なそして最も美しい信奉者だったのだから。

 私は差し伸べられた彼女の手をただ見つめることしかできなかった。

 部屋に流れ込む薔薇の甘い香りが今は死の匂いのように、私の鼻腔を満たしていた。


 完全な孤独。

 完全な絶望。

 私の世界から全ての音が消え去った。


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