第一話
意識は匂いの記憶とともに浮上した。
ツンと鼻腔を刺す消毒液の匂い。最期に見た光景は、染みひとつない真っ白な天井。そして、耳障りなほどの静寂。
いや、違う――私の最期はもっと唐突で、暴力的な断絶だったはずだ。
そうだ、あれは普段と変わらない診察室でのことだった。全ての診療が終わった後、電子カルテの内容をぼんやりと眺めていた、まさにその瞬間。前触れもなく、胸の中心を巨大な万力で締め上げられるような凄まじい圧迫感が襲ってきた。息が詰まる。直後、灼けるような痛みが左肩から腕、そして顎へと広がっていく。放散痛。教科書で何度も目にした典型的な急性心筋梗塞の症状だ。間違いない。
精神科医である私の脳が、自らの身体に起きている循環器系の致命的なイベントを皮肉なほど冷静に分析していた。
冷や汗が玉のように噴き出し、ワイシャツが肌に張り付くのが分かった。呼吸は浅く速くなる。
助けを呼ばなければ。しかし、指一本動かせない。
これは、終わりなのだ。
そして、視界が急速に狭まり、すべてが暗転した。
そこまでの記憶はまるで他人事のように鮮明だった。
しかし今、私を包む感覚はその記憶のどれとも一致しない。背中に触れるのは冷たく硬い診察台ではなく、身体が沈み込むほど柔らかな何か。肌を撫でるのは糊のきいたシーツの感触ではなく、滑らかでひんやりとした絹の感触。全身を支配するのは死の間際の絶望ではなく、水底に沈んだ石のような重苦しい倦怠感だった。意識はあるのに瞼をこじ開けることすら億劫で、指一本動かす気力も湧いてこない。
これは夢なのだろうか。あるいは脳が活動を停止する寸前に見せる、走馬灯の続きだろうか。
精神医学の知識がこの不可解な現象に無理やり病名をつけようと試みる。遷延性意識障害。昏睡状態の患者が見る、現実と区別のつかない幻覚。そうだ、きっとそれだ。私の本体は今もあの白い部屋で生命維持装置に繋がれ、ただ呼吸を繰り返しているに違いない。この奇妙な安楽と不快が同居する感覚も、脳機能の低下によるものだと考えれば説明がつく。そう自分に言い聞かせると、少しだけ心が落ち着くのを感じた。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、私は瞼を持ち上げた。
視界に飛び込んできた光景に言葉を失う。
そこは私が知るいかなる場所でもなかった。白い天井の代わりに、天井から吊り下げられた深紅の天蓋が視界を覆っている。繊細な金の刺繍が施されたカーテンがベッドの四方を囲んでいた。視線を巡らせれば、磨き上げられた床、彫刻の施された豪奢な家具、壁に掛けられた、落ち着いた色調の風景画。空気は澄み、消毒液の匂いなど微塵も感じられない。代わりに古い木材と蝋の匂いが微かに鼻孔をくすぐった。
なんだ、これは。
私の知る病室とはあまりにもかけ離れている。だとしたらここはどこだ。私の思考は再び混乱に飲み込まれそうになった。落ち着け。これは幻覚だ。私の脳が知らない記憶の断片を繋ぎ合わせ、作り出した精巧な偽物の世界に過ぎない。そう強く念じる。
身体を起こそうと腹に力を込めた。だが筋肉は鉛のように重く言うことを聞かない。代わりに奇妙な違和感が全身を走った。手足が自分のものとは思えないほど細く、そして軽い。まるでサイズの合わない服を着せられているような、もどかしい感覚。
私は自分の手を見ようと、ゆっくりと腕を持ち上げた。
視界に入ってきたのは日に焼けていない、透けるように白い肌。骨張った私の手とは違う、華奢で小さな手だった。指は長く爪は綺麗に整えられている。
この手は、知らない。私の手ではない。
混乱が恐怖に変わっていく。
これはただの幻覚ではない。何かが根本的におかしい。
その時、静かに扉が開く音がした。
音もなく室内へ入ってきたのは一人の男だった。背が高く痩身。背筋は定規を当てたかのように真っ直ぐに伸びている。一糸乱れぬ黒の執事服に身を包み、その顔には何の感情も浮かんでいなかった。まるで精巧に作られた蝋人形のような男は、ベッドのそばまで歩み寄ると恭しく一礼した。
「お目覚めでございますか、エリアス様」
抑揚のない平坦なテノールの声が、静かな部屋に染み渡る。
エリアス。それは私の名前ではない。私の名前は斎藤タカオだ。人違いだと言おうとしたが、喉が張り付いたように声が出ない。ただ口を小さく開閉させることしかできなかった。
男は私の様子を意に介した風でもなく淡々と続けた。
「長くお休みになられておりましたので、お身体が馴染まないのも無理はございません。何かお望みのものはございますか。お水をお持ちいたしましょうか」
その言葉は疑問の形をとりながらも、有無を言わせぬ響きを持っていた。彼は私が『エリアス様』であることを微塵も疑っていない。そしてその揺るぎない確信が、私の自己認識をぐらつかせる。
私は誰だ?
私は本当に斎藤タカオなのか?
もしこの男の言う通り私がエリアスという人間なのだとしたら、斎藤タカオとしての三十数年間の記憶は一体何だったというのだろう。それこそが長い眠りの間に見ていた、壮大な夢だったとでもいうのか。
思考が分裂していく。二つの自己が互いに相手を偽物だと罵り合っている。精神科医としての私が警鐘を鳴らす。これは危険な兆候だ。自己同一性の崩壊。統合失調症の初期症状に酷似している。だが今の私には、どちらが本当の自分でどちらが病理なのか、判断する術がなかった。
男は私が答えないのを肯定と受け取ったのか、再び一礼すると音もなく部屋を出て行った。残された私は依然として豪奢なベッドの上で、身動き一つ取れずにいた。
しばらくして男が銀の水差しとグラスを盆に乗せて戻ってきた。彼は手際の良い流れるような所作でグラスに水を注ぐと、私に起き上がるよう促した。
「エリアス様、どうぞ」
私はまるで操り人形のようにゆっくりと身体を起こした。先ほどよりは幾分か身体が軽く感じる。男は私の背中にクッションを当て、グラスをそっと手渡した。ひんやりとした硝子の感触が指先に確かな現実感を与える。
促されるままにグラスを口元へ運んだ。水は何の変哲もないただの水だった。しかし乾ききった喉を潤すその冷たさが、全身の細胞に染み渡っていくような感覚があった。数口飲んだところで私はグラスを男に返した。
「セバスチャン、着替えの用意を」
不意に自分の唇から言葉が発せられた。
そのことに私自身が最も驚愕した。
それは私の意志ではなかった。少なくとも『斎藤タカオ』としての私の意志ではない。しかしその声は確かにこの身体の口から発せられたのだ。少し高くまだ声変わりを終えていないかのような少年の声。だがその響きには命令することに慣れた者特有の揺るぎない響きがあった。
この身体に染み付いた習慣が反射的に言葉を紡いでいた。
セバスチャン。
私はこの男の名前を知っていた。いや、知っていたというより、今ごく自然にその名前が口をついて出たのだ。
セバスチャンと呼ばれた男は、その言葉に何の疑問も抱かない様子で再び深く頭を下げた。
「かしこまりました。すぐに準備いたします」
彼は静かに部屋を出て行った。残された私は完全な混乱の海に突き落とされていた。
私は誰だ。
斎藤タカオなのか?それとも、エリアスなのか?
私は自分の両手を見つめた。この小さな手。この細い腕。そして今しがた発した知らない声。
混乱はもはや限界に達していた。私はこの異常な状況を理解するためにもっと情報が必要だと判断した。何よりもまず確かめなければならないことがある。
私は一体、何者になってしまったのか。
セバスチャンが部屋から退出したのを見計らって、私はゆっくりとベッドから抜け出した。足が床に触れた瞬間、ふわりとした絨毯の感触が伝わってくる。一歩また一歩と、おぼつかない足取りで部屋の中を歩いた。身体の重心が以前とは全く違う場所にあるような感覚に戸惑う。
部屋は驚くほど広かった。ベッドの他に豪奢なソファセット、美しい木彫りの机、そして壁一面を埋め尽くす本棚。どの調度品も一級の職人が手掛けたであろう芸術品のような雰囲気をまとっている。こんな部屋に住む人間など現代の日本では考えられない。ここは日本ではないのかもしれない。時代すら違うのかもしれない。
私は窓辺へ向かった。
重厚なカーテンの隙間から外の光が差し込んでいる。そのカーテンをそっと開いた。
窓の外には完璧に手入れされた広大な庭園が広がっていた。幾何学的に刈り込まれた植木、色とりどりの花が咲き誇る花壇、そしてその向こうには深い森がどこまでも続いている。建物はおろか人の気配すらない。まるで世界にこの館と庭園しか存在しないかのような、隔絶された空間だった。
そして私は窓ガラスに映る自分の姿を見た。
そこにいたのは、斎藤タカオではなかった。
色素の薄い銀色の髪。陽光を浴びて白く輝いている。肌は陶器のように滑らかで血の気がない。そしてその瞳は澄み切った空のような鮮やかな青色をしていた。整ってはいるがどこか中性的な顔立ち。まだ少年と呼ぶべき年齢だろう。十五歳といったところか。フリルのついた白いシャツと黒いベスト。貴族の少年とでも形容すべきその姿は、紛れもなく今この部屋に立っている私自身だった。
これが私。
これがエリアス。
その事実が何の感情も伴わずにすとんと胸に落ちた。あまりに現実離れした光景に脳が理解を拒絶しているのかもしれない。あるいは精神科医としての職業病か。極度のストレスに晒された患者が解離性障害を引き起こして現実感を喪失するように、私の心もまたこの異常事態から身を守るために感情に蓋をしているのかもしれなかった。
そうだ。これはやはり幻覚なのだ。遷延性意識障害の見せる極めて精巧で現実的な幻覚。私は突然死を迎え、今も病院のベッドの上で、あるいはもうその先の世界でこの夢を見ている。
この銀髪の少年も執事もこの豪奢な館も、すべては私の脳が作り出した幻に過ぎない。そう結論付けると先ほどまでの恐怖が嘘のように薄れていった。そうだ、これは壮大な夢なのだ。ならば覚めるまでの間、この夢を楽しんでやろうじゃないか。
私はどこか芝居がかった気分で、窓に映る自分に向かってにこりと微笑んでみせた。銀髪の少年もまた同じように微笑み返す。
その笑顔はひどくぎこちなく、引きつっているように見えた。
この幻覚がいつまで続くのかは分からない。だがいずれは覚めるはずだ。それまではこの『エリアス』という役を演じきってやろう。そう心に決めた。私はこの世界の理不尽さを、この身体の違和感を、すべてを『夢』の一言で片付け受け入れることにしたのだ。それがこの狂った状況の中で正気を保つための、唯一の方法であるように思えた。
私はもう一度、窓の外に広がる静まり返った美しい庭園に目を向けた。
これから何が始まるのだろうか。
この長い白昼夢の果てに、何が待っているのだろうか。
答えの出ない問いを胸に抱きながら、私はただそこに立ち尽くしていた。
ふと何かを確かめるように、私は自分の喉に手を当てた。そしてゆっくりと、はっきりとした意志を持って声を発した。
「あ……」
喉が微かに震えた。唇が確かに音を形作った。その生々しい身体感覚が、私の組み立てた脆い論理の壁に小さな亀裂を入れる。
これは本当に、ただの夢なのだろうか。
その問いが再び頭をもたげる。しかし私はその問いから逃れるようにかぶりを振った。今は考えるのをやめよう。今はただこの与えられた役を演じるだけだ。
銀髪の少年エリアスとしての、私の最初の一日がこうして静かに幕を開けた。