第四話
ざわざわとした喧噪に近いものが聞こえる。
集まった人々の噂話やざわめきにも近い声が聞こえる。
ここは宿場町ラカハナの長老ドイスムの屋敷で、隣接するように町の集会場があった。見回した限り、30数名近くの住人が集まっているのがわかる。
僕は初めて集会場に入ったが、想像以上に広々としていた。
-ざわざわざわざわ-
-ざわざわざわざわ-
-ざわざわざわざわ-
集まった人々の囁きみたいな喧噪が響いている。
-ざわざわざわざわ-
そんな空間を沈黙させる、凛とした一声が響き、喧噪が止む。
張り詰めた空気。今にも弾けそうな、弾ける一瞬の前の張り詰めた空気。
誰かが、誰かが唾を飲んだ小さな音が聞こえた、その時だ。
「皆、集まったようだな」
長老ドイスムである。腹に響くようでいて、威圧感もありながら、聞くものを魅了するかのような一声だ。
80歳近いと聞いていたが、実際に見るとまだ若く、70歳手前に見えなくもない。白い口髭を蓄えているが、流石に長老、首長である。全身から見えない力のようなものが沸いているような錯覚を覚えた。
「よろしいか、皆の者。皆知っていると思うが、徴兵の件だ。国からは2人の若者を兵として差し出すようにとお達しがあった。規定では、満14歳から22歳までの者から選出し、任期は5年。兵役逃れは、町に重税が課せられるからな。これを看過できぬ。さて、どうしたものかの」
室内は静まり返っていて、誰一人として発言しようという気配すらない。
そもそも、徴兵なんて僕は…
その沈黙をやはり、長老であるドイスムによって破られた。
「そうだな。該当する歳のもので我こそはという者はおらんか?兵役で手柄を立てた者には、騎士として取り立てられた者もいると聞く。どうだ?」
そもそも、徴兵され兵役とするなら、それは己の命を懸けるということだ。友人もいれば家族もおり、5年といえど離れ離れになるのは辛い。しかも、命の保証は無い。
俺は…怖い。何もかもが今では怖い。
ドイスムは半ば諦めたように溜息を吐くと、意を決したように皆を見回し、ある提案をした。
「仕方ない。エトの山神様のお導きを聞くとするか、よいな」
そう言うと、ドイスムは懐から1枚の紙片を取り出し、部屋の上手にある祭壇の火に投じた。紙片は一瞬で燃え尽き、煙がふわふわと漂って行く。二筋の煙はふわふわと漂い、ある2人の頭上で弾けるように消えた。
場の空気が一瞬で凍り付く。ドイスムが宣言するように言った。
「パン屋の倅のライル。それと羊遣いの三男坊のルシット。以上だが、異存はあるまいな?」
凍り付いた場が今では氷点下となったように呼吸をするのも苦しい。
ライルは18歳で来年に宿屋の看板娘と結婚するはずだ。ルシットは16歳で、ルシットの家は、母親が病で臥せっており、看病しているルセットが離れるわけにはいかない。
どういう人選なんだ?誰もが疑問に思ったことだろう。ドイスムは何を考えているんだ?エトの山神様とか言ってるけど、そんな不条理があっていいのか?エトの山神様なんていないし、聞いた事も無い。こんなのただの茶番じゃないのか?
その時、ある人物が挙手をする。
「俺が行くよ」
長老であるドイスムの孫のドライハルである。ドライハルは確か17歳で鋭い眼差しとすらっとした長身の若者だ。町の皆からの評判も良いし、悪い噂話とかも聞いた事が無い。ハッとさせられるような綺麗な赤髪の持ち主。
僕は綺麗な蜂蜜色の髪って言われた事があるけど、ここラカハナで同じような髪は見た事無かったな、そう気が逸れた。
そして、その時激怒したのは、ドイスムで、顔を真っ赤にしている。
「ゆ、許さんぞ。お前が行く理由はあるまい。お前はワシの跡取りで、このギルモンド家の跡取りでもあり、いずれ、この町の長になる身だ。許さんぞ」
「はいはい、でも、俺決めたから。じゃ、そういうことで俺は退出させてもらうよ。何かあれば言ってくれ」
そういうとドライハルは、出て行った。
決まったのか?だが、あと1人?
ドイスムの顔色は真っ赤を通り越し、今や薄紫色に近い。
あと1人か…どうなるんだろう。
誰かが行かなきゃならない。
誰かが行かなきゃならない。僕には家族がいない
誰か守るべき人がいない誰かが行かなきゃならない。僕には守るべき人も家族もいない。
僕じゃない誰かが行けばいいんだ。僕じゃなくてもいい。誰か他の誰かが行けばいいんだ。
誰かが行かなきゃいけない。誰かが行かなきゃいけない。誰かが行かなきゃいけない。
僕じゃなくてもいい。誰かが行かなきゃいけない。僕には守る家族もいない。誰かが行かなきゃいけない。テルザおばさんがいるが本当の家族じゃない。誰かが行かなきゃいけない。僕には守るべきものがない。
誰かが行かなきゃいけない…
誰かが行かなきゃいけない…
誰かが行かなきゃ…
僕が…行けば…
今は僕しか…
今は僕が…
僕が行けばいいんだ。そうだ、僕が行こう…
「僕も行きます。行かせて下さい」
…誰だ?誰が行くのだ?言ったのは誰だ?
テルザおばさんが悲しい目で僕を見つめている。
僕はそう言った自分の言動が信じられなかった。行くと言ったのは僕自身であったからだ。
「アッシュ、正気かい?どこか頭でもぶつけたんじゃないでしょうね?どうしてあなたが行かなければならないんだい?本当にそれでいいのかい?後悔は無いのかい?命を落とすかもしれないんだよ。それに、あなたはこの国の出身じゃないかもしれないのよ」
「テルザおばさん、今の僕には守るものが何もないから。だから、誰かを守るなら、それは僕がやってみたいと思ったんだ」
「そうかい。じゃあ、何も言わないわ。出立までには、まだ時間があるから、準備はしっかりとね。私はあなたが無事に帰るのを信じているよ」
「ありがとう、おばさん。僕は僕の人生を生きたいと思う。だから、怖くても逃げないよ。そして、大切な誰かを助けたい」
「仕方がないが、これで決まりかの」と囁くような声の持ち主は、長老のドイスムであった。
その顔には強い疲労の影が見える。
そして、僕は旅立ちの準備に取り掛かることになる。
自分自身でも知らぬ、ある秘密を抱えて。
夜はいよいよ闇の色を湛える。静まり返った静寂が永遠であるかのように。