第二十二話
緊張に包まれる。恐怖で全身の毛が逆立ったような気もする。
山主は全身が灰色の毛で覆われた獣で、その姿は大きく、平屋の建物近くの大きさだった。口臭だけではなく、全身からは湯気のようなものまで見えた。二つの目からは、狂気の色が見える。
「逃げ込め。振り返らずに北の国を目指せ!」
カクイの鋭い、緊張した声が飛んで来た。そのカクイは既に背中の弓を山主に向けていた。
「アッシュ、逃げるぞ」
ドライハルは臆する様子はないけど、その緊張は伝わって来た。
「わかった」
ツシールの手綱を握り直し、振り返らずにディザワイスに向かった。まだまだ距離がある。その時、カクイの放った弓が「ヒュン」という音とともに山主に当たった…かに見えたが、弓矢は山主には刺さらず、弾き返された。
「山主よ、正気を取り戻せ。我は山民のカクイ。エトの山神様を守護せんとするものぞ。気を収めよ」
山主は、カクイ目指して突進して来る。我をを忘れ、狂気の形相でカクイに突進する。
…かと思った時に、山主はその方向を変えた。
向かって来る…僕の方へ向かって来る。山主が咆哮を上げ、狂気の形相で怒り狂いながら、突進してくる。
逃げないと。このままでは…追いつかれる…ツシール、頑張って。速度を落とさずに、山主が突進して来る。
距離が詰まる。
…山主の呼吸が間近に感じられた…もう…だめ…なのか…
殺られる…このままでは、山主は右の鋭い爪を僕の背中に立てようとしていた。
腐った肉のような口臭。
ここ…までか…
そう思った時に、ツシールが後ろ足で立ち上がった。
振り落とされる…そう思った時に、僕はツシールの2本の角を握っていた。ドライハルは、そう言っていた。
『本当に危険な時には握ってくれ』
僕は無意識の内に、ツシールの2本の角を握っていた。
ツシールは片足だったままで、体を反転し、飛び跳ねる…ように見えた時には、跳び上がっていた。
山主は目前だ。
跳ぶ、舞い上がるように跳んだ。
そして、山主の頭上を越えて、後ろに回り込みながら、後ろ足で山主の頭を蹴った。
ひと蹴りだった。たったのひと蹴りだった。
鈍い音がした。
頭骨の砕ける音。
そして、静かに着地した。
音が消え、静寂が訪れた。
次の瞬間に。
山主が大きく体を揺らす。
そして、ずしんという音を立てて崩れ落ちた。
倒れた。
倒したんだ、ツシールが。
僕は…僕達は…生きている。
助かった。
無事だ。
生きているんだ。
そう実感にふけていると、近寄って来た、カクイが言った。
「これが操魔の血か。恐ろしくもあるな。アッシュよ、その力の使い方を間違えるでないぞ。どれ、山主の死骸はラキ族で片付けておく。心配するな。北の国は目前だ。今度こそ、お別れだ」
カクイはそう言い残すと、死骸となった山主の下へ近寄り、何やら唱えているようだ。ここはカクイに任せるしかないか。僕に何か特別な事が出来るわけでもない。山主との戦闘の余韻がまだ残っている。
そんな僕の心配をしてくれたのか、ドライハルは「世話になったな、カクイ。アッシュ、行くぞ、ディザワイスへ」
「カクイ、ありがとう、またね。ドライハル、行こう」
短く別れを告げた。
今度こそ本当のお別れだ。
城砦国家ディザワイスは目前だ。ラキの通り道に山主との戦い。それに操魔とかわけのわかんない僕の事について。カクイは全てを知っているのだろうか。この先には何があるんだろう。
僕達は改めて、目前のディザワイスを目指した。
緊張、不安、恐怖、それに、幾ばくかの希望を乗せて、ツシールの手綱を握った。




